ばーか。謙也のばーか。
そう呪文のように繰り返し言う心の住民に激しく同意する。だって本当に、まったくもって呆れてしまうほど、私の目の前でうな垂れている忍足謙也はばかなのだ。いつも身体を張って笑いを取ろうとするくせに高確率で見事に滑るし、スピードと名の付くものには目を光らせて誰彼構わず勝負しようとするし、テニス馬鹿だし、とにかくばかであほでヘタレで、どうしようもないのだ。だけどそんなことを重々承知しているのに彼のことがすきな私はもっともっとばかだった。溜息をつきたいほどに。
「はーあ…」
いや、溜息をつきたいのは私のほうだし。と言いたいのに口を閉じたまま何も言わないのは、私より先に深く失望した息を吐いた謙也があまりに落ち込んだ素振りを見せていたからだった。それを見て私はまた思う。謙也のばーか。何柄にもなく落ち込んでんの。…彼は朝からずっとこの調子だった。
「謙也なあ…ずーっとすきやった先輩に、振られてしもてん」
昼休み、事情を知る白石くんがそうこっそり教えてくれた。なるほど彼は失恋したらしいと認識するよりも、てっきりテニス一筋だとばかり思っていた彼に好きな人がいたことに私はショックを受け、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。全然、知らなかった。笑い方すら忘れて、「あ、そうなんだ」とぎこちなく返すことしか出来ない。
だけどそれと同時に、チャンスだ。と思った。だって、謙也は振られてしまったのだから。謙也のその先輩とやらへの道が一方通行から通行止めになったのだから、その道を私のところに繋げることも出来るようになったはず。女心と秋の空とはよく言ったものだなあと、その言葉を生み出した昔の人を尊敬する。だってまさにそのとおりの状態の女が、ここにいるのだから。
「へー、謙也が」
そう言って、相変わらず机に突っ伏しているクラスメイトをちらりと見てみる。人の不幸は蜜の味。好きな人が振られる展開は、もっともっと蜜の味。喜びが隠し切れなくてにやにやと口元が緩む私に、白石くんは「なんや嬉しそうやなあ」と苦笑気味に突っ込んだ。彼は私が謙也に密かに恋心を抱いていることを知っている。白石くんは更に詳細を語った。
「昨日マクドでばったり彼氏とおるとこ鉢合わせしてしもて、この状態や。昨日なんて酷かったんで。放心状態になっとる思たらやけ食いするし、永遠愚痴聞かされるし、開放されたの何時やと思う」
人当たりの良く面倒見の良い白石くんがここまで言うのだから、きっと本当に荒れていたんだろうなと想像して、ちょっと同情した。だけどここまで言えるのは謙也と白石くんが本当に仲が良いからで、それが無性に羨ましい。そして今、彼はその友人を心底心配している。そんな視線を謙也に向けているから、私も何気なくそれを習って失恋したばかりのクラスメイトを眺めてみる。ちょうど同じクラスの男子が謙也に話し掛けているところだった。それによってずっと突っ伏していた謙也の顔を久しぶりに見ることが出来たけれど、その姿は明らかに普段と違っていた。
「謙也―。今日どないしてん」
「あー…。……んー、まあ…」
受け答えをするのすら面倒、と言わんばかりの力なき謙也の返答に、声を掛けた男子生徒は首を傾げてる。どうやら彼も、いつもと様子がおかしいということを十二分に察したようだ、謙也のことをひどく心配している。それはそうだ、いつも明るくクラスの中心にいるような人物が、影を落とし、しかも昼休みになった今も話の輪に加わることなく、かといってグラウンドで友人達とサッカーを楽しむでもなく、ただただやる気なく1人でぼうっとしているだけなのだから。
──いつもの謙也じゃない。
ようやく事の重大さを把握した私は、急に胸の奥がぎゅううっと締め付けられるような錯覚に陥ってしまった。…どうして喜んだりしたんだろう。こんなにも謙也は落ち込んでいると言うのに。ついさっきまで、先輩とやら、よくぞ謙也を振ってくれたとばかりに喜んでいたというのに、それが嘘のように今度はその相手を恨めしく思っている私。今ではどうして彼を振ったんだと、ぐるぐる渦巻く黒い感情は絡み合ってなかなかほどけない状態だ。なんだかもうここまで手の平の返し方がすごいと、我ながら笑ってしまう。むしろ笑ってほしかった。共に廊下から謙也を見守っている白石くんに頼めば、そうしてくれるだろうか。
女心と秋の空。人の不幸は砂の味。決して蜜の味はしなかった。急に自分がみすぼらしく思えた私は無性に恥ずかしくなって、虚しくなって、悲しくなる。いつもの謙也に戻ってほしかった。ばかで、あほで、ヘタレで、だけどいつも周りを楽しませてくれる、私がだいすきな謙也に。ただただ、それだけだった。
「…あ。おい、?」
突然きびを返して一直線に謙也の元へ向かう私に、白石くんの声はどうしたと言わんばかりに後ろから投げかけてきた。だけど彼がそれ以上言わなかったのは、とりあえず展開を見守ろうと思ったからなのだろうか。そうこうしているうちに、私はぼうっと魂が抜けて人形と化しているクラスメイトの真ん前に立つ。謙也は力なく窓の外を眺めていた。
「謙也」
名を呼ぶと、彼はゆっくりと私に目をやった。なんやねん話掛けんなやと言わんばかりのその視線に、また胸がぎゅうっと痛くなる。やっぱり彼は傷付いて、悲しくて、ぽっかり穴が空いてしまったようだった。こんな謙也を見るのは初めてで戸惑う。うろたえる私の心を落ち着かせ、それを表に出さないように必死になりながら言った。今日1日付き合って・学校が終わったら遊びに行こう、と。
元気出しなよらしくないだとか、きっと他に素敵な人がいるよだとか、とっとと切り替えて新しい恋でもしなよ例えば私なんてどうだとか、ありきたりで無責任な言葉はいくらだって思い浮かんだけれど、それを口にするのは違うと思った。だって、いくらそんな綺麗ごとを並べたところで謙也の心に響くはずが無い。そもそも彼は、別に恋人がほしかったわけではないのだ。その人だからすきだったのだ。その人だからほしかったのだ。つまりその代わりなんて、いないのだ。代わりがほしいわけではないのだ。
傷付いた彼の心を穴埋めするパーツは、一体どこにあるのだろう。彼がこんなにも落ち込んでいるのにうまく励ます一言が思い浮かばないなんて、何も出来ない自分が悔しい。思わず泣きたくなった。
★
めちゃくちゃ好きやっちゅうねん、月曜日も火曜日もー
数年前流行ったJポップ、しかも恋愛曲をひたすら入れまくる浪速のスピードスターは、ひたすら熱唱していた。しかも立って。どんだけ全力なの・とドン引きながら、カラオケに入ったときカウンターで注文したメロンソーダを飲みつつ謙也を観察することに徹する私。…カラオケに入って早1時間が経過しようとしている。そして曲の予約履歴を見てみれば、見事に謙也セレクトかつシングバイ謙也の曲で溢れかえっていた。つまり私は1曲も歌ってはいない。まあ別にいいんだけど。今日は。しょうがないし。
ふと、薄暗かった部屋が明るくなる。どうやら曲が終わったらしい。ぜえぜえと肩で息をしている謙也は、どかりとソファーに座り込む。「あー」とかよく分からない唸り声?を上げたかと思ったら「なんや腹減ったわ」と呟いてくるものだから、ちょっと拍子抜けした。どうやら失恋してもお腹は減るらしい。普通こういうとき食べ物も喉を通らないものなんじゃないの。
「しゃあないやろ、腹減るもんは減るんや。人間の最低限の欲求やで。しかも歌っとるんやから余計やろ。しかも見てみい俺の消費カロリー。21キロカロリーやて」
画面に表示された数字を読み上げ、だから腹が減るのは当然と言わんばかりの顔をしている謙也に、なんだかもう返す言葉を考えることすら面倒になって、「ああそうだねすごいすごい」と適当に流した。そんな私の反応にイラッとした様子を見せていたけれどもスルーという選択肢を選んだ謙也は机の隅にあったフードメニューを引っ張り出して、どれを腹に入れようかと考え始めている。そんな変なところでマイペースな彼は、ふと思い出したように顔を上げ、「もなんか食うか」と聞いてきた。
「何。奢ってくれんの」
「なんで俺がお前に奢らなあかんねん」
「だって、カラオケ付き合ってあげてるでしょ」
「最初に遊べ言うたのやろ」
それはあんたが失恋して、しょぼくれた顔してるからでしょ、と言おうとして、やめた。そんなことを口にしたら、彼はまた振られたことを思い出してしまう。今だけは、私と一緒にいるこのときだけは、その長年の想い人とやらを忘れていてほしかった。感傷に浸り、想い人のことを考える寂しそうな彼を、もう見たくはなかった。だから代わりに、「誰かヘタレな僕と遊んでくださいって顔してるから、仕方なく誘ってあげたんでしょ」と憎まれ口を叩くことにする。私はどうしたって、いつだって、このばかであほで間抜けでヘタレな謙也のことがだいすきで、だからこそ、そんな謙也が元気になるためなら、自ら嫌われ役だって名乗り上げることすら厭わなかった。
「はあー?誰もそんな顔しとらんやろが!誰がヘタレっちゅー話や!」
案の定カチンときたらしい彼は、子どものようにムキになっている。あ・いつもの謙也。私達はいつだって顔を合わせば喧嘩ばかりだった。チョコは絶対ホワイトだとか、AKBで誰が一番可愛いだとか、そんなくだらなくてどうでもいいことばかり言い合ってばかりだけれど。だからこそ、いつもの私達に戻れそうで嬉しくなる。しかしすぐに彼は「…まあええわ」と静かにすんなり引き下がって、再びメニューと向き合い始めてしまった。やっぱりいつも通りじゃない。いつもだったら白石くんが止めに入るくらい言い合うのに。なんだか逆にこっちがへこむわとちょっとしょぼんとしていたら、唐突に謙也が口を開いた。
「…唐揚げでええんやろ」
「へ?」
「せやから、お前鶏の唐揚げでええんやろ。前好きやって言うとったやん。マヨネーズと一緒に食うとうまいとかなんとか」
「え?ああ、うん」
突然の展開におどおどしながら返答する私に、謙也は「何をきょどっとんねん」と不審そうな目をする。だって、確かに唐揚げ好きだって言ったことはあったかもしれないけれど、言った張本人ですら覚えていない些細な世間話を、わざわざ覚えていたなんて思わなかったんだよ。緩む口元を悟られないように唇を引き締めるけれど、はたから見たら不自然な顔をしているように見えるかもしれない。謙也が今メニューに夢中になっていてよかった。彼はまだどれにしようか悩んでいるみたい。どうやらスピードスターはなかなか即決出来ないらしい。未だにうーんと唸っては睨めっこしている。しまいには、
「お前暇やろ。なんか歌っとき。そういえば、今日全然歌ってへんやんか」
と、今まで私が一度もマイクを握らなかったのは、私が入り込む隙すら与えずあんたが続けて曲を入れるからだと言ってやりたいような台詞を寄越してきた。しかしずっとこうして謙也がメニューを決めるまで観察するのも暇だし、それもなんとなく気まずいので、ここは大人しく従ってBGMがてら歌おうかと選曲リモコンを手に取る。放り出されていたペンを取って適当にピッとタッチすると、放置を食らって暗かった画面がパッと明るくなった。さて、何を歌おう。選曲に困っていると、謙也は「なあ」と相変わらずメニューから目を逸らさず声を掛けてくる。なに・と簡潔に返したら、彼はぽつりと呟くように言った。
「なんでもええから、失恋ソング歌ってえな。スローテンポのやつ」
私はもう、何も言えなくなってしまった。そういえば思い返してみると、彼の選曲はどれもアップテンポのものばかりで、バラードだとか、しんみりするような曲調のものは一切選んでいなかったような気がする。きっと避けていたのだろう。…なのに、ほんとに良いのだろうか。感傷に浸ってしまうような気がするけれど。傷口に塩ってやつ。謙也は「そのほうが、お前の歌唱力のなさが引き立っておもろいやろ」と皮肉を付け足すけれど、表面上は笑っているけれど、彼の目が淋しそうな光を差していたのを私は見逃さなかった。
だけどそれに気付かないフリをして、「歌唱力ないなんて台詞、謙也にだけは言われたくない。白石くんになら分かるけど」と皮肉で打ち返す。そうしたらまた「はー!?ずうっと聞き惚れとったやろ俺の美声!」なんて意味不明なことをムキになって言ってくるけれど、そこでようやく私の目を見てくれたことに安堵する。ピッピッとリモコンを操作する作業に没頭しながら会話を続けた。
「じゃあいいよ。面倒だから、そういうことにしておいて」
「おい待てなんやねんその、しゃあないからこっちが妥協しといてやるわみたいな」
「だってほんとのことでしょー。…あ、あった」
目的の曲を探し出し、テレビに向かってピッと送信ボタンを押す。ピピピピピッと受信完了の音がしたと思ったら、すぐに予約完了と言わんばかりにテレビの画面上に曲名が表示された。何気なくその一連の動作を見ていた謙也もふとその文字を見つけ、叫ぶ。
「NAOは反則やろおおお」
そう言ったかと思ったら謙也は、うわあああ、と机の上になだれ込んだ。
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