なぜかは分からないけれど、どうやら私は蘭ちゃんの背中がすきらしい。そのせいかいつのまにか、暇さえあれば後ろから抱きつく癖がついていた。だから彼は、この部屋で一番存在感を放っていてなおかつ以前お気に入りだと言っていたはずの本革のソファに座らない。腰掛ければ必然的に私が抱きつけなくなるからだ。こういうとまるで彼がそれを望んでいるかのように聞こえるけれど、本人いわくそんなわけはないそうだ。身動きが取りにくくなってベースが弾けないし、熱いしうざったい。そんなことを言われたことがある。けれど私は知っている。それが彼の本心ではないことを。口では邪魔だと散々なことを言っているくせに、後ろから回されている腕を払うことをしない蘭ちゃんのことを、きっと世間ではこう呼ぶに違いない。

「ツンデレじゃねえよ」

まるでどこかのお笑い芸人のようにお決まりの返しを披露する蘭ちゃんは、きっと今頃心外だと言わんばかりに眉間に皺を寄せているに違いない。背中に張り付いている私には残念ならそれ確認することが出来ないけれど。どうやら彼はツンデレなる属性であることに関して自覚がないらしいことだけは分かった。

「そもそもてめえは引っ付きすぎなんだ。ベースが弾きづれえだろうが」

その証拠に、彼はお決まりの台詞を口にしながらも絶対に「離れろ」とは言わないし、後ろから回したこの両腕を剥がすこともきっと簡単だろうに、それすらもしようとしない。彼は本気で嫌がっていたら分かりやすく無言になり、誰が何を言おうと一切口を聞こうとしなくなるから。そう、つまりこのお決まりの台詞は私の耳には届かないのだ。だから調子に乗った私は相変わらず蘭ちゃんの背中に張り付いたまま、上機嫌に彼に声を掛ける。

「ねえ蘭ちゃん」
「だから、いい加減そのふざけた呼び方はやめろって言ってんだろ」
「どうして?レンくんには何も言わないのに」

先輩、不公平です。そう後輩ぶって反論してみたものの、彼には効果はないらしい。差別なんてしてねえよと溜息をつきながら言った。

「レンに何度言ってもやめねえだけだ。大体そんな呼び名じゃ女みてえだろうが」
「じゃあ、蘭くんならいいの?」

冗談交じりに尋ねてみたら、彼は何の反応も示さず無言を貫き通したものだから驚いた。これは反論するのが面倒だから口を閉ざしたんじゃない、図星だったから何も言えなかったんだ。そう察した私は、意外だと言わんばかりに言った。

「もしかして蘭ちゃん、蘭くんて呼ばれたいの?くん付けがすきなんだ。なんだか可愛いね」
「ち、ちげえ!今のはその…。──曲のアレンジを考えてて反応が遅れただけだ!」

やっぱりツンデレだ、なんて分かりやすい誤魔化しなのだろう。笑みを溢していると、それを察したのか気に食わないところがあったのか、蘭ちゃんはホールドしていた私の手を引っぺがし、自身を180度回転させた。久しぶりに蘭ちゃんの顔が正面に来たところで、彼は迷うことなく私の左頬に手を伸ばす。

「先輩からかってんじゃねえよ後輩」
「い、いひゃ…っ!やんひゃん!」

一体彼は私の顔を何だと認識しているのだろうか。右手で抓ってくる頬を、まるで餅のように伸ばして遊んでいる。やけにドスのきいた声が彼の不機嫌さを物語っているように聞こえたから、どうやら彼は本気で照れていたらしい。抗議の声も虚しく掻き消され──すなわち無視され、ついでにいつの間にか加勢されていた左手を、せめてもの抗議と言わんばかりに小さくぺちぺち叩くことしか私には出来なかったが、彼には全く効果がなかったようだ。暫く両頬を遊ばれていたものの、少しすると気が済んだのか蘭ちゃんは手を離した。彼は力加減というものを知らない。

「蘭ちゃん、ひ、ひどい」

じんじんと痛む両頬を包み込みながら涙目になっていると、彼は自業自得だと言わんばかりの目をした。「そんなに怒らなくなって…」それとも、そんなに嫌だったのだろうか。私、調子に乗りすぎちゃったのかな。からかいすぎてしまったのかもしれない。しょぼくれながら俯いていると、まるで心を読んだように彼は「てめえが調子に乗るからだ」と半ばヤケになったかのような声でズバリと言い放った。

「だ、だって…」

頬を触りながら、語尾を濁す。蘭ちゃんはいつだって正論を口にするから、私はうまく反論することが出来ない。「だってなんだよ」と追及の言葉がやってきたけれど、流石にその理由は恥ずかしすぎて目を見ては絶対に言えない。俯いたまま口を開いた。

「…蘭ちゃんが構ってくれて、嬉しかったんだもん」

そう弱々しく呟くと、蘭ちゃんは一瞬きょとんとした顔をしたかと思ったらすぐに眉間に皺を寄せ、「知るか」とそっけない反応を寄越してそのまま背を向けてしまった。そして暫く放置していた相棒のベースを手にメロディーを奏でだす。そういえば今度ライブがあると言っていたことを思い出した。…もしかして、本気で呆れられちゃったのかな。だから放置されているのだろうか、私。だとしたら、なんだかさみしい。でも練習もお仕事のうちだし、邪魔するのも気が引ける。先程までべったりはりついていた背中もこんなに近くにあるのに、なんだか少し遠く感じた。

「(蘭ちゃん、我儘しちゃってごめんなさい)」

ついしょぼくれてしてしまうけれど、今は背中を見つめていることにしよう。だから背中に抱き着かない。邪魔はしない。休憩だとか、キリが良さそうなときになったら謝ろう。そう心に誓った矢先、彼は指を滑らせたのかなんなのか、分かりやすく不協和音を作り上げてしまった。「…あっ」と漏らした彼の声からしても、これが故意的に発生させたものではないことは明白だ。蘭ちゃんがイージーミスをするなんて珍しいことがあるんだなとぼんやりと考えて、そして発見してしまった。彼の耳が分かりやすいほどに赤くなっていたことに。心なしか銀髪と白い肌のお陰でその赤みが一層際立って見える。蘭ちゃんは何かを誤魔化すように小さく咳払いをした。…これはもしかして、怒ったり呆れられたのではなく。

「(照れてる)」

…そうだ。蘭ちゃんは普段つまらなそうにぶすっとしていて愛想が無いし、何かを口にするもスパッと言い放つから怖い人と思われがちだけど、本当はこんなにも照れ屋でかわいい人だった。そして素直じゃなくて不器用な人だから、照れていることを悟られるのを嫌って誤魔化すように目つきが鋭くなってそっけなくなることを、どうして忘れていたのだろう。なんだか他の人には絶対に見せない姿を私だけに見せられているような気がして嬉しくなる。手の平を返したようにすっかり機嫌を回復させ頬を緩ませてしまった私は、じっと見守っていようと誓ったことすら忘れてまた彼の背中に抱き着いた。突然の衝撃に、うおっという声が漏れているのが聞こえたけれど気にしない。

「ふふーっ」
「…んだよ。間抜けな声出してんじゃねえよ」

呆れたような声も、どこか嬉しそうな響きに聞こえてしまう。やっぱり怒ってるわけじゃなかったんだね。いつの間にか鼻歌すら口ずさんでしまいそうなほど上機嫌になってしまった私に何を言っても聞かないということが分かったのか、蘭ちゃんは諦めたように溜息をついた。だけどそんなのは聞こえないふりをしてぺったり彼の背中に張り付いたまま、馬鹿の一つ覚えのように彼の名前を繰り返し呼ぶ。その度に蘭ちゃんは「はいはい」と軽く流しては、ベースを弄っていた。

「ね、蘭ちゃん。蘭ちゃんは、ずっと蘭ちゃんのままでいてね」
「はあ?」

訳が分からないと言わんばかりの反応に、私はまた笑う。相変わらず口では文句を言いながらも抱き着いている手を一切解こうとしない蘭ちゃんは優しい。その優しさに甘えているのは分かっているけれど、こればかりはどうしてもやめられない。つまるところ私は蘭ちゃんの背中がだいすきなのだ。大きくてあったかくて、くっついているととても安心してしまう。だからだろうか、徐々に瞼が重くなってしまうは。それとも安心して気が抜けたからなのか明らかに瞬きが増えてしまう私の姿は背を向けている蘭ちゃんには見えていないはずなのに、まるで後ろに目があるかのように「おい。寝るなら布団貸してやるからそっちで寝ろ」と声を掛けて来たから蘭ちゃんの洞察力はいつも舌を巻いてしまう。が、ほわほわした頭では返事を考える余裕もなかった。

「んー…」
「俺は抱き枕じゃねえ」
「んん…」

随分と間抜けな声になってしまうけれど、お言葉に甘えて寝てしまったら蘭ちゃんに構ってもらえなくなってしまうことは明白だ。そもそも私は別に横になりたいわけじゃない、蘭ちゃんの背中にくっついていたいだけなのだ。だから私は考える間もなくすっかり重たくなってしまった頭を左右に振って拒否したものの、結果的にはまるで甘えるように背中に頭を擦りつけるようになってしまったものだからちゃんと彼に真意が伝わったかは怪しいところだった。

「そもそも、抱き着くならせめて正面から来いって何度言えば分かんだよ。何も出来やしねえ」
「…んーん…」
「やだじゃねえ。ひたすら人の背中にひっついてきて子猿かってんだ」

流石蘭ちゃんだ、若干のニュアンスの違いから意味を読み取ってくれた。意思疎通とか以心伝心ってやつかなあ。ほわほわする思考回路の中でほにゃっと笑っていたら、あからさまに溜息をついた蘭ちゃんが、これじゃまともに練習出来やしねえと呟く。でも随分柔らかい声だったから、やっぱり彼はツンデレ以外の何物でもない。素直じゃないなあなんて考えてまた頬を緩ませながら、こういう時間がずっと続けばいいなと強く抱き直した。

「…あーもう。ほら、昼寝すんぞ」
「ええー…」
「えーじゃねえ。一緒に寝てやっから言うこと聞け」

反論は許さないと言わんばかりの言い方に、まるで反抗期の子どものような反発心が芽生えてしまった。…お子様だと思われている気がする。確かに年は5つほど離れているし眠かったのも事実だ。しかし何度でも言うけれど私は別に寝たかったわけではなく、彼の背中に抱き着いていたいだけなのだ。横になってしまったらそれが出来なくなってしまう。絶対やだと言わんばかりに一層力を入れてぎゅうっと抱き着いてみるけれどその努力も虚しく、両首を掴まれたと思ったら、まるでマジックテープのようにあっけなく剥がされてしまった。

「あっ」

まるで大人と子供のように握力が違い過ぎる。まさかこんなにもあっさり突破されてしまうだなんて思ってもみなかった。そのまま勢いを殺せず右側にこてんと床に寝っころがってしまった私は、何を言うでもなくじっとそのままの体勢を保ったまま動かない。睡魔も吹っ飛んでしまった。横向きに寝たまま軽い絶望を味わっていたところで、ふと目の前に白い左腕が床についていることに気がついた。それを辿るように上を見上げると黒い袖を見つけ、そのまま引き続き上を追っていくと、Vネックから覗く鎖骨を発見する。

「…おい」

頭上から降ってきた声は、やっぱり少し不機嫌そうな聞き慣れたものだった。声を掛けてきた張本人の顔を至近距離で見つけると、私は状況を把握してみるみるうちに体を硬直させてしまった。見下ろされる視線にうっかりときめきなるものを感じてしまった私は、高鳴る鼓動が収まるのを待つしかない。急に顔が熱くなってきた私に気付いているのか気付いていないのか、蘭ちゃんはマイペースに言い放った。

「…たまには俺の言うことも聞け」
「…………は、はい…」
「ん」

素直に聞き入れた返事に満足したのか、蘭ちゃんはすんなり腕をどけて体勢を直し、背を向けて立ち上がってしまった。…えっ、あれ。あ、べ、別に、そういう意味じゃなかったのか。一瞬妙な想像をしてしまった自分が恥ずかしい。や、それはなしにしても。

「(…び、びっくりした)」

蘭ちゃんなんて可愛い愛称で呼んでいるけど、やっぱり蘭ちゃんも男の人だったと今更すぎることを考えては一人動揺していた。しかし私が鼓動を高鳴らせているとは思っていない彼は、背を向けたまま布団を1式取り出して手慣れた様子で敷いている。上向きに寝ていた体勢からゆっくりと上半身を起こしてじっとその姿を見つめてみるけれど、この部屋にはベッドはないためとはいえその様子は何度見てもどこかシュールな図だった。

正直ベースやレコードが並んでいるこの部屋に布団は不釣り合いだと思うのだけれど、本人いわくベッドを置いたらただでさえ狭い部屋が圧迫するらしく購入は考えていないようだ。そういえば蘭ちゃんはどこでも寝れるし、時によってはソファで寝ることもあるらしい。私からしてみればよく身体が痛くならないものだと感心してしまうけれど、そんな彼が不必要と考えていた大きな掛け布団を購入し、当たり前のように低めの枕が1つ完備されるようになったのは、私がこの部屋に遊びに来るようになってまもなくのこと。更に家具が黒で統一されたシックな部屋の中にいつの間にか増えてきた小さな色彩達は私が持ち込んだものだった。そして最初は明らかに浮いていた存在であった雑貨達も徐々に馴染み始め、当たり前のようにここに存在するようになった理由を私は知っている。蘭ちゃんが何も言わず、少しずつ部屋のテイストを調整してくれていたからだった。

「(……………)」

なんだか蘭ちゃんの世界に自分が溶け込めたような気がして急にむず痒くなる。ひょろひょろと視線を落とし、傷一つないフローリングを見つめてみてはつい緩んでしまう口元を隠すように下唇をほんの少し噛んでみたけれど、ちっとも引き締まってくれそうにない。こんなの蘭ちゃんに見つかったら、また間抜け顔って呆れた口調で言うのかな。でもどこか嬉しそうな声で言うのかな。そんなことを考えたらいつの間にか昼寝の準備をすっかり整えたらしい蘭ちゃんが声を掛けて来た。

「ほらさくら、来い」

…台詞があまりにストレートすぎて、どんな顔をしていいのか分からなくなってしまう。若干の気まずさを感じて慌てて目を泳がせた私に、彼は何を思うのだろう。でも、だって、確かに今まで隙さえあれば背中にひっついてきたけれど、改めて言われると恥ずかしくなってしまうんだ。それに来いと言われたからと言って、素直に彼のところに行くのもなんだか恥ずかしい。

しかしその複雑な乙女心のせいでなかなか来ようとしない私に痺れを切らしたのか分かりやすく眉間に皺を寄せた蘭ちゃんは、こちらにやってきたと思ったら私の左腕を引っ張って半ば無理やり抱き寄せ、そのまま離すことなく敷いたばかりの布団に並んで横になってしまった。蘭ちゃんは少し短気なところがある。彼は向かい合うように私を抱きしめたまま、訳が分からないと言わんばかりの口調で言った。

「あんだけベタベタくっついてきたくせに、何今更照れてんだ」
「だ、だって…」

なんとなく恥ずかしかったんだもん。…と言うのはそれこそ恥ずかしいので封印しておくとして、とりあえず「な、なんとなく」とそこそこ無難な返答をして誤魔化してみるにする。すると蘭ちゃんは「ふうん」と感心があるのかないのかよく分からない反応をしたかと思ったら、何かを思いついたように意地の悪そうな顔をした。目の奥が光っているような気がするから、多分、いや、きっとろくなことにはならない。それを察知した私は慌てて離れようとするけれど、先程でも実証済みの腕力の違いがそれを拒ませる。後ろからしっかりホールドされた両腕が逃げるなと言っていたけれど、それでも相変わらず飼い主の腕から逃れようとする猫のように身をよじらせる私に、不敵な笑みを浮かべた蘭ちゃんが首元に顔を埋めた。

「逃げんなよ」

くすぐったくて分かりやすく身を縮めてしまう私と対照的な彼は、どこか楽しそうに言った。




20131020 抱き着くなら正面から来いと言った蘭丸さんの理由に注目して頂きたいところ