おとやの顔を見るたびに背を向けてしまうようになってしまった。逃げ出すだなんて、悪循環以外の何物でもないと言うのに。…もうどんな顔をして良いのか分からない。しかしだからこそ彼の中の何かを刺激してしまったらしい、おとやはまるで鬼ごっこでもしているかのように私を探し回っているようで、今朝も教室に顔を出したり、移動教室で渡り廊下などにいれば遭遇した彼に声を掛けられそうになってしまった。…勿論どれも逃げ出してしまったのは言うまでもないけれど。
「(どうしてこんなことに)」
どんどんマイナスの方向へ進んで行っているような気がする。どうしたらいいんだろう。朝も結局ボタン見つからなかったし。…朝掃除の業者が入るまでにと思っていたのに、結局それも失敗に終わってしまったようだ。ただでさえ広い早乙女学園で、小さな服飾物ひとつ見つけようと言うのが無理な話だったのかな。心配してか声を掛けてくれた来栖くんの声もまともに聞き入ることが出来ない。心ここにあらずと言わんばかりの私に、「とりあえず午後から実習だし飯食っとけよー…」とアドバイスを弱々しく口にした。こくりと頷いて、重い溜息をつく。…なかなかいい方向に転がってくれない。
「──音也が」
突然右隣から聞こえた人名にひいっと過敏に肩を震わせしまう。彼の名を口にしたクラスメイトをおそるおそる見やると、隣の一ノ瀬くんが綺麗な横顔で教科書とノートを机の中にしまっているところだった。
「…昨日、貴女の話をしていました」
「わ、私…?」
な、なんだろう、急に。身構えてしまう私をよそに、彼は淡々と続ける。
「ええ。茄子が苦手だとか、本をよく読んでいただとか、そんな他愛のない話です」
「そ、そう…」
「それから、以前渡した小さなボタンをストラップに付けて今も持っていてくれているようだと嬉しそうに言っていました」
「(話題がタイムリーすぎる!)」
一ノ瀬くんは読心術でも心得ているのだろうか。頭上に何か重い石かタライでも落ちてきたような衝撃を受けて机に寝たまま起き上がれないでいると、彼は「貴女達は本当に分かりやすいですね」と感想を述べた。…もしかして、嵌められた。溜息をひとつついた一ノ瀬くんは、ひどく呆れているようなオーラを放っていている。なんだか居心地の悪さを感じながらのそのそと顔を上げると、彼は突然小さな紙切れを差し出してきた。じっとそれを見やると、そこには「パン半額サービス券」という文字とサオトメイトのロゴが書かれている。サオトメイトにこんなのあったんだ、知らなかった。半ば感心した目で一ノ瀬くんに視線を移すと、彼は「先日利用した際レジで当たって頂いたのですが、私は使いませんので」と一言説明を添えられた。つまりお前にやるよ、ということらしい。
「いいの…?」
「ええ。私には不要ですから、貴女に差し上げます。いらないのなら捨てるなり人に渡すなり、好きにしてください」
「あ、ありがとう…」
席は隣でも、今までこんなに一ノ瀬くんと絡んだりってこと一度もなかったんだけど、どうしたのかな。って言ったら失礼だから言わないけど。本当にいいのかな、なんて思いつつそっと差し出されたサービス券を受け取ると、それを見届けた彼は早々と席を立ってしまった。慌ててまた礼を繰り返すと、「いえ」と横顔で返される。
「…貴女に暗い顔をされては、ルームメイトが五月蝿くて、まともに読書も出来ませんから」
そう言い残して教室を去るクラスメイトの背中を見送りながら、もしかして心配してくれたのかな、なんて考えてみる。ああいうの、ツンデレって言うんだっけ。一ノ瀬くん器用そうに見えるのに、本当は不器用なのかな。ふと受け取ったばかりの小さな紙にもう一度視線を落とすと、小さな文字で有効期限が記載されているのを発見した。やけに見慣れた数字だなと思いつつケータイを開いて日時を確認すると、今日がそのキャンペーン最終日であることが判明し、私も慌てて席を立つ。
「(そうだ、切り替えよう。ボタンは諦めたくないけど諦めよう。午後は実習だし、ちゃんと食べなきゃ。オンとオフは大事!)」
気を抜けば溜息をつきそうになる脱力感をぐっと堪えながらサオトメイトへ向かうことにする。おとやは普段食堂を利用しているから、鉢合わせることはないはずだ。生徒の大多数は食堂で食事をするからかすでに廊下の人通りは少ない。きっと今頃大混雑となっていることだろう。ふとジャケットの右ポケットに入れたサービス券を取り出してみる。おとやは良いルームメイトを持って幸せだなあ。そんなことを、前を見ず呑気に考えていた私が悪いのだろうか。角を曲がった瞬間突然横から誰かに手を引かれ、その勢いを殺せぬまま半ば無理やり見知らぬ教室に連れ込まれてしまった。
頭が真っ白になって身体的危険を直感した私は、恐怖のあまりぎゅっと目を瞑る。すると聞き慣れた声で「急にごめん!」という台詞が降ってきたものだからおそるおそる見上げてみると、そこには声どころか顔も見慣れた幼馴染の姿があった。どうやら犯人は彼のようだ。引っ張られた左手は握ったまま、彼は両手を私の顔の両側について逃げ場をなくしている。背中に触れる壁にひやりと冷えた。
「お、おとや!?」
「えへへ、捕まえた!」
突然の襲撃にひどく動揺している私とは対照的に、おとやはまるでかくれんぼでもするかのようにどこか楽しそうな印象を受けた。「び、びっくりした…」全身が脱力して、壁に寄りかかりながらずるずる降下する。気が付けば私は背にもたれながら座り込んでしまったものだから、おとやもそれを真似するようにしゃがみ込んだ。使われていない教室はほぼ物置と化していて、明かりひとつ点いていないどころかカーテンすら閉められたままだった。
「ご、ごめん。でもこうでもしないと、、俺と話してくれないような気がしたから…」
そう口にする彼は申し訳なさそうに眉を垂れ下げたけれど、ほんの少し不機嫌そうに見える辺り間違いなく今朝から避けていることを根に持っているようだった。おとやは気になることはとことん気になる性質で、そしてじっと考え込むより解決するまでひたすら行動するタイプだったことを今更ながら思い出したところで遅すぎた。現に今、彼に捕まってしまったのだから。座り込んでしまったから両隣につかれていた腕はどけてくれたけれど、相変わらず左手は拘束されたままだ。手を繋がれてると喜ぶべきところなのに素直にそれが出来ないのは、この状況のせいに違いない。
「…今朝から俺のこと避けるよね、俺何かした?」
やっぱり、来た…!外れてほしい予想をズバリ射抜いてしまった幼馴染の質問に眩暈がした気がした。しかし妙に間を開けると余計に答えづらくなると直感した私は、慌てて口を開く。
「ち、ちがうの!おとやは全然これっぽっちも悪くないし、何もしてないよ。なんでもないの!」
今朝と同じようなことを答えても、彼は納得しないらしい。おとやはなんでそんな他人行儀なのと言わんばかりに眉をひそめた。
「ほんとのこと言ってよ。俺馬鹿だけど、が何か隠してるってことくらい分かるよ」
「か、隠し事なんて…」
目を逸らしながら否定しても説得力の欠片もないことくらい分かっているけれど、どうしてもおとやの顔を見ることが出来ない。左上の天井を見やりながら紛失したボタンを思い描いていると、彼は「でも目泳いでる」とズバリと指摘してくるものだから、生きた心地がしなかった。おとやはこういうときびっくりするくらいカンが鋭い。
「ね。俺の目見て言える?」
そう言った音也は握る手の力を少し強めるから、ますます顔を合わせられなくなる。急に背中が熱くなった。そんな私に気付かないおとやは、ひょいと間合いを詰めるように顔を近付ける。
「、俺を見て。何か悩んでるなら言ってよ」
そんなの二重の意味で無理だよ。恥ずかしくて、先程とは違う事情で顔を上げられなくなってしまった。覗き込んでくるおとやに驚いて後退しそうになるけれど、背中は壁が退路を塞いでいるためそうすることも出来ずにただ心拍数を上げただけだった。これはなんという拷問なんだろう。ブレザーの裾を空いている右手でぎゅっと握って必死に耐え抜こうとするけれど、平常心なんて保てるはずがない。
「…お願いだから」
どこか必死そうなおとやの声にはっとした。まるで、置いていかないでと言っているかのように聞こえて。
──いつからおとやは笑うようになったんだろう。
私が施設にお世話になる頃にはすでにおとやは在籍してから数年経過していたようで、随分慣れているようだった。そのときから彼は、まるで自分を守る盾であるかのように笑顔を絶やさない子で、なんだか楽しそうに賑わっていると思ったときは必ずその中心にいる人物だった。人はそれを明るく優しい印象と勘違いするけれど、本当はその真逆であることをなんとなく察し始めたのは、私が児童養護施設に入所して随分経ってからのこと。必要以上に笑みを絶やさない彼が、人目を拒んで1人でこっそり泣いている姿を偶然見かけたときだった。いつもへらへらと笑う彼が正直嫌いだった私が、初めて一十木音也という存在を認知した瞬間だった。ついでに、「この子いじっぱりだ」。ぼんやりとそんなことを考えた記憶がある。
意地っ張りで頑固者だけど、誰より弱虫なおとやは人に置いて行かれることを嫌っていた。だからきっと誰かに幻滅されたくなくて、断ち切られたくなくて、でも絶対に踏み込まれたくないスペースもあって、必死になって隠そうとしていることがきっとたくさんある。そしてその例外でない私は彼に共鳴し、妙な親近感を抱いてしまった。気が付けば大嫌いだったはずの彼に自ら進んで距離を縮め、まるで足りない穴をお互いで埋めるように一緒に行動するようになったのだった。
つまり私達は小さなテリトリーの中で身を寄せ合いながら居場所を共有して生きて来た。だからもしその手を離されてしまったなら私は恐怖心にさいなまれ、きっとこの世の終わりと言わんばかりに泣き出してしまうだろう。そしてそれと似たような感覚に、今の彼は捕らわれているのかもしれない。そんなことを考えたらちっぽけな見栄だとか自尊心だとか、そんなまるで役に立たないカードよりも、おとやに隠し事をしている事実が無性に悲しくて悔しくなってしまった。ボタンひとつで、まさかこんな大ごとになってしまうだなんて思わなかった。
「…ご」
喉の奥がきゅうっと締め付けて、口元が変に緩んでしまった。きっと、変な顔になる。見られまいと慌てて俯いてみるけれど、嗚咽は隠し通せそうにない。ふるふる震えながら口を開いたせいで随分か細いものとなってしまった私の中途半端な言葉はおとやにも届いたらしく、「え?」と聞き返していた。
「なに…?」
その声がまるで子どもに声を掛ける母親のように優しくて、思わず涙腺が崩壊した。今まで必死にせき止めていたものが一気に流れ込んできて、ぶわあっと涙に変換される。「…ご、ごめ…っ!ごめんなさいーっ!」と子どものように大きく泣き出してしまった私に流石のおとやも面を食らってしまったらしく、状況についていけないと言わんばかりにおろおろし始めた。しかし私にはもう彼に気を遣うほどの余裕は残されていない。
「ええっ!ど、どうしたの!…お、俺!?怖かった!?びっくりさせちゃったのかな!ご、ごめん!ごめんね!でも俺、別に謝ってほしかったわけじゃなくて、あの、えっと…!?」
隠せんばかりの涙がぼろぼろ溢れてしまうものだから慌てて手で拭ってみるけれど、どうしたことかそうすればするほど止めることが出来なくて、おとやにちゃんと説明しなきゃいけないというのに、喉の奥がひくつくせいでそれも満足に出来そうにない。「あ、あの、あのね…っ」必死に音をかき集めてみるけれど、自分でも何を言っているのか分からないような声じゃもっとおとやを困らせてしまうだけだ。どうしよう、どうしよう。困惑する頭で良い方法を考えてみてもちっとも浮かばない。ひたすら散らかったこの状況を慌てて片付けようとする私の髪をふわりと撫でる手の存在に、ふと顔を上げた。その拍子に、また一粒ぽろっと涙が零れてしまったけれど。
「うん、うん。ゆっくりでいいよ。どうしたの?」
そう口にするおとやはほにゃっと優しい笑みを見せて、まるで猫にでも構うかのように頭を撫でる。少しぎこちないその手に癒されて、また込み上げて来てしまう何かを必死に抑えて俯いた。彼が決して離さないその右手をぎゅっと握りしめながら、震える口を開いて息を吐く。
「あの、お、おとやに貰った第2ボタンね…っ、ど、どこかに落と、落としちゃって…っ!さ、探したんだけど、無くって…っ!あ、朝も、探したんだけど…!だから、も、もうしわけ、な…っ、なくて…!逃げちゃって…!」
おとやは泣き虫だと言ったけれど、私こそおとやの前で泣いてばかりだ。小さい頃転んで足を擦り剥いてしまったときだって、お気に入りのぬいぐるみが破れてしまったときだって、卒業式でボタンを貰ったときだって、早乙女学園で迷子になったときだって、私はいつだって情けなくて、頼りなくて、弱虫で、ずっとおとやに甘えてる子どもだった。だけどそれは私だけじゃなくおとやも同じで、つまり人は支え合って出来ているだなんて世間様は言うけれど、私達にとってはそれは他人ではなくお互いであり、それ以外では成り立たない。おとやに対する私の感情は恋愛ではなく家族愛だと誰かが指摘してもおかしくはないし、私もそれを否定出来ないほどの感情があるのは確かなことだった。私の中の一十木音也という唯一無二の存在があまりに大きすぎて。
逆に、だからなのだろうか。極端に今の論点を言うならばボタンを無くしてしまったと一点のはずなのに、脳裏に浮かぶのは罪悪感よりも、おとやの優しさが逆につらいということの方が勝っている。彼に対してではなく自分に対する感情を優先してしまうだなんて、まるで自分主義みたいで嫌になる。泣きに、余計に拍車を掛けてしまった。おまけに、どうにも止めることが出来ないと考えたらしいおとやは唐突に頭を撫でるのをやめてしまったものだから、マイナス思考は止まらない。
もしかして今度こそ呆れられてしまったのだろうか。不安にぐらぐら揺れている感覚になっていると、まるで彼はそんな心情を察したようにぎゅっと抱きしめて、ぽんぽんと背中を撫でるようにあやし始めた。驚いて思わず身体が強張ってしまう私に「だいじょーぶ、だいじょーぶ」とまるで暗示に掛けるように優しい声を掛ける。彼の体温はとても温かく、驚きのあまり思考回路が停止した私は泣くことをすっかり忘れてしまった。
「ストラップに付けてくれてたよね。…俺が無理やり押し付けちゃったようなもんなのにさ。…それだけで俺、すっごく嬉しかったから。だから、そんな思いつめなくて大丈夫。ちゃんと分かってるよ。は本当に優しいよね、ありがとう」
優しいのは私ではなく、おとやのほうだ。まさか礼を言われるとは思わなくて、ようやく止まった涙がまた再発してしまう。するとますます悪化してしまった展開に、おとやは「こんなはずでは」と言わんばかりに狼狽した。決して顔は見えないけれど、「どうしたの」と上ずった声が状況を教えている。
たかがボタンに大袈裟だとか、気持ち悪いだとかと言われなくて良かった。おとやはそんな子じゃないことは私が一番分かっていたけれど、本当は貰ったものを無くすだなんてという正義心より、おとやに幻滅されることを何より怯えていたのかもしれない。…それに、おとやと一緒にいると安心するのはなんでだろう。あったかいからかな。心もそうだけれど、こう…体がぽかぽかするというか…。
「(……………)」
抱きしめられていたらそりゃそうだ!
よくよく考えてみたらこの状況は一体なんなのか!我に帰ったら途端に硬直してしまった体が指先まで熱くなってきてしまった。このままでいたいけどいちゃいけないような気がして、でも振りほどくことは出来なくて、視線を落ち着きなくおろおろ泳がせてみるけれど、体勢的に気付くはずもない当の本人は相変わらず腕の力は緩めず、むしろ相変わらずなだめるように背中をさすっていたものだからどうしようもない。でも涙なんて、とうに引っ込んでしまった。おとやは私を殺す気としか思えない。弱々しく彼の名を呼んでみると、嗚咽は聞こえなくなったこともあり素直に聞き入れたらしいおとやが返事をした3秒後、謎のタイムロスが発生する。これ以上何を長引かせようとしているのかと心臓に悪い展開に手を焼いていると、突然何かに気付いたように凄まじい勢いで私の両肩に手を置いて距離を作った。
「ご、ごめん!次の時間、実習なんだよね!時間ないよね!」
「えっ」
そっちなの?気にしたのはそっちなの?いや確かに彼の言うとおりだし、その、良いんだけど、良いんだけど、ちょっと良くない。未だにバクバクと五月蝿い心臓を悟られまいと曖昧に「ああ…う、うん…」と頷くと、おとやは「うわあ、やっぱり!」と申し訳なさそうな顔をして言った。
「俺、何も考えてなくて…ほんとごめん。これからは気を付ける。…トキヤにも言われてたのに…」
まるで耳を垂らす子犬のように元気なさげにしょぼんとする幼馴染に慌てて首を振って、「真っ直ぐなのはおとやの長所だよ」と声を掛ける。すると彼は本当?と言わんばかりに花を散らした。くすぐったそうに笑って「ありがとう」と言うおとやは、やっぱり誰より素直すぎるし、感情がすぐ顔に出ちゃうし、隠し事されるのを誰より嫌う。きっと引っくり返したら長所にも短所にもなりえるところに違いない。でも私はおとやのそういうところが、みんなみんなすきだよ。だからそんな私と一緒にいたいっておとやも思ってくれるくらい素敵な人に、私、ずっとなりたくて。
20130110 実はこの連載は、恋愛するというより、小さい世界で寄り添っていた2人がちょっとずついろんなことを知って成長していく話にしたいんです。だからまだ2人はまだ、視野がすごく狭い子どもなんです