「あっ―!」
突然背後から名前を呼ばれ思わずびくりと肩を震わせたのは、早朝の早乙女学園A塔の1階廊下でのことだった。一体誰かと考える必要すらないほど聞き慣れた声におそるおそる振り返ると、やはりそこには眩しい笑顔の幼馴染が既に制服を着用して立っている。一体全体、なんでこんな早朝に、しかも校内にいるのだろう、おとやは。なんでこんなときに限ってと言わんばかりに引き攣ってしまう頬を悟られないように必死に抑えながら「お、おとや。早いね、おはよう」と返すと、彼は嬉しそうに顔を綻ばせながら頷いて距離を縮め、私の前方1メートルほどのところまでやってきた。「こんな時間に、どうしたの?」たどたどしく尋ねる私に、おとやは「ああ、うん!」と相槌をひとつ打った。
「翔とサッカーするんだー。普段は昼休みなんだけど、ほら、今日Sクラス、午後からバラエティ実習なんでしょ?昼休みは早めに切り上げなきゃいけないからって」
「そ、そっか…」
なるほど、言われてみれば彼は毎日愛用しているのであろうサッカーボールを右手に持っている。そういえばおとやは中学の時サッカー部のエースだったことを思い出した。ついでに、早乙女学園に入学してもサッカー好きは変わらないらしく、時々来栖くんと遊んでいるという話も何度か耳にしている。──それにしたって、なぜ鉢合わせてしまうのか。もはや神様が遊んでいるとしか思えない。今日の星座占いは間違いなく最下位だ。どうやら昨日に引き続き、気まぐれな悪戯は継続中らしい。
「それで…は?授業にしちゃ随分早いよね、なんかの当番なの?」
「えっ!」
質問されたのだから質問で返すというのは自然な流れだけれど、まさかこんなに早く来てしまうだなんて…!そうなる前に「そうなんだ、楽しんでね」とでも言って早々と退散しようと企んでいた私の計画を見事に打ち崩されてしまった。勿論当番なんてものないわけだからなんと返したらいいのか分からなくて、思わず視線を右上に泳がせる。
ど、どうしよう、なんて言えば。
まさか馬鹿正直に「おとやから貰った第二ボタン無くしちゃったから、皆がいない朝に探そうと思って」だなんて言えるはずもない。オブラートに包んで「探し物」と答えるのも手かもしれないと一瞬考えたけれど、優しい彼の性格上気さくに「手伝うよ」と言ってくれそうだから逆に厄介だ。うまく誤魔化せやしないかと目をふらふらとあっちへこっちへ散歩させながら必死に言葉の引き出しを片っ端から開いてみるけれど、ちっとも良い選択肢は出てこない。
不思議そうに首を傾げているおとやに、これは良案がないと悟った私は勢いで「えっと、えっと、あの、なんていうか、う、うん。そう。そうなの。クラスの当番で、ちょっと」と頷いてしまった。人を疑うことを知らないおとやは「そうなんだ」と納得したみたいだけれど、どうしたことか良心が痛む。目を合わせられなくなって視線を落とした。
「なんか大変だね。…あ、俺手伝うよ!何すればいい?」
「え!?」
予想外の展開に驚いて思わず顔を上げると、人懐こい笑顔を向けるおとやがまるで任せてと言わんばかりに右手で拳を作ってみせた。これは回避しなくてはいけなかったはずのNG展開だ、出来ることならテイク2をお願いしたい。だってありもしない当番のお手伝いって、一体何をしてもらえばいいと言うのだろう。私にも分からない。慌てて手を振って断る仕草を見せながら口を開いた。
「いやいやいやいや!そんな悪いし、大丈夫だよ!それにおとや、来栖くんと約束してるんでしょ?」
「平気だって、ちょっとくらい。翔もまだ来てないしさ」
「(ええ、な、なんだろうこの展開。回避出来ない…!)」
本来ならばおとやの優しさに喜ぶところなのかもしれないけれど、状況が状況なだけに感動に溺れている余裕なんてない。困り果てた私は必死に断りを入れるけれど、おとやは「遠慮しなくていいって!」と言って、なかなか引き下がる気配すら見せようとしなかった。どうしようどうしよう。背中が急に熱くなって、自身の手をぎゅっと握りしめたら嫌な汗を掻いた。
おとやに嫌われたくない。裏切りたくない。
例えちっぽけなボタンひとつで大袈裟だと誰かに笑われたって、脆く短い糸しか知らない私達にとっては唯一繋がれた絆なんだ。いついなくなるか分からない不安定な場所で育った私にとってはそれが全てだったんだ。絶対失いたくない。手放したくない。例え他の人からみたら小さなものだって。そんな感情が全力で体中を走り抜けたらもう何が何だか分からなくなって、潤む瞳を隠すようにぎゅっと瞑って言い放ってしまった。
「──だから、大丈夫だってばっ!」
自分が発した強い口調にはっとした。一瞬息をするのを忘れてしまった私はすぐに我に返って顔を上げるけれど、目の前の幼馴染は私以上に驚いてしまったらしくぽかんとしている。なんだか泣きそうなおとやを見て、思わず私までも泣いてしまいそうになってしまった。すぐに頬を上げて申し訳なさそうに首の後ろを掻きつつ「ごめん」と口にするおとやは、なんだか無理に笑っているように思えた。
隠しきれていない傷ついた瞳を伏せながら言ったおとやの言葉はひどく弱々しく聞こえて私も慌てて謝るけれど、おとやも聞いてくれたけれど、きっと届いてはいなかった。こんなこと、前にもあった。卒業式の帰り道。おとやのボタンにムキになって、つい強い口調で怒鳴ってしまったんだ。なんで同じことを繰り返してしまんだろう。なんでおとやに必要とされたい一心でしたことが、いつも裏目に出てしまうんだろう。
「お、おとやは悪くないの。あの…ごめんなさい…」
本当は謝罪の言葉はちゃんと目を合わせて言った方が良いに決まっているのに、居心地の悪さからそうすることが出来ない。気まずそうに俯きながら、どうやって弁解をしようと必死に考えようとしてみるけれど、こんなに近くにいるのに急に遠くに行ってしまったかのような距離感を感じてなかなか集中出来ない。なんだか自分がとんでもないことを仕出かしてしまったような気がして潤む視界に慌てて擦る。きっと、訳が分からず泣きたいのはおとやのほうに違いないというのに。
「ちょっと今うまくいかないことがあって、八つ当たりしちゃったの。本当ごめんね、ごめんなさい」
何度謝罪の言葉を繰り返しても、声が心に届かなければ意味はないというのに。ごめんという言葉は口にしても、肝心の理由は言えない自分自身がもどかしい。でもそれ以外何を話したらいいのか分からなくて俯いてお互い沈黙する。ただでさえ広い廊下は沈黙すらも長く感じさせた。
…気まずい。
今の状況を説明するとしたら、まさにそんな表現がぴったりだ。誰か仲裁者でも現れないだろうかと都合のいいようなことを考えていると、突然ケータイの着信音が鳴り響く。過剰に肩を震わせてしまいながらその発信源を見やると、おとやは少し慌てたように右ポケットから自身のケータイを取り出す。いつの間にかサッカーボールの所持は左手に持ち替えていたようで、折り畳まれた表面に配置されたサブディスプレイを確認して呟いた。
「翔だ」
どうやらサッカーの相手から電話らしい、途切れることなく電子音が続いている。申し訳なさそうに私を見やるおとやに、遠慮せず電話に出るよう促すと、彼は「じゃあ俺行くね。また」と小さく手を振るから、私も頷いて手を振り返す。うまく笑えているだろうかとひやひやしているとおとやは「じゃあね」と背を向け、通話に出た。今どこ?とお決まりの台詞を答えつつ昇降口へと消えてしまった幼馴染の背中をじっと見送って、ひとつ溜息をつく。…私、何やってるんだろう。
★
「悪りぃ、音也!ちょっと寝坊した!」
申し訳ない!と言わんばかりに顔の前で手を合わせて必死に謝る友人に、「そんな謝んなくて大丈夫だって。俺もちょっとゆっくりしちゃって今来たとこだし」と答えると、翔は納得いかないという顔で頬を掻いた。翔はとても正義感が強くて、そして律儀なところがある。現に遅刻したと言っても5分かそこらだし、そこまで気にしなくて良いように思う。もしかして俺が早く来すぎて暇つぶしに校内を散策していたことを察したのだろうかと考えながらじっと翔の顔を見てみるけれど、あいにく俺には人の心を透視する超能力なんてもの身につけていなかった。じっと見つめる俺に不審に思ったのか翔は不思議そうな顔をするから、誤魔化すように慌てて口を開く。
「ほんとに大丈夫だって。それにとばったり会って、ちょっと話してたんだ」
そう先程の出来事を大雑把に理由づけしてみると、予想外の人物の名に首を傾げた翔は「?なんでいんの?」と不思議そうに尋ねる。その様子は、まだ学校に来るには早いのにと言わんばかりだった。
「だって、クラスの当番なんでしょ?」
「当番?なんの?」
きょとんとした翔と目は、俺が聞いた話のつじつまが合わないことを教えていた。嫌な予感が駆け巡る。…、もしかして俺に嘘ついた?なんで?朝早くいる理由なんて、わざわざ誤魔化すようなことじゃないだろうに。たった小さなことなのになんだか大きな隠し事をされた気分になって、ふと昨日のトキヤの言葉が蘇ってきた。
──いつも相手が自分のことを分かってくれていたり、同じことを考えている訳ではありません。
もしかして、俺と話したくなかったから嘘ついたのかな。そんなことを考えたら途端に重くなる手足に泣きそうになってしまった。まるで壁を作られた気分だ、もやもやする。それとも俺が考えすぎなのかな。…そうだ、そういえば去り際に悩んでるみたいなことを言ってたし、色々考えたいことがあったんだ。…うん、きっとそうだ。とりあえず後で会いに行ってみよう。きっと始業前なら教室にいるはずだ。──そう思っていたのに。
「どうした一十木。やはり今日はお前らしくないぞ」
「んー?…あー、真斗…」
ぐったりと机に突っ伏していたら、昼休みになっても一向に昼食を取ろうとしない俺を不審に思ったらしい真斗が声を掛けて来た。そういえば朝顔を合わせたときも「大丈夫か」と言っていたし、もしかしたら俺は自分では気づかないうちにショック丸出しの顔をしていたのかもしれない。こんなんじゃアイドルなんてなれないと分かってはいるものの、今朝から起こる出来事に平常心はどうしても保てなかった。「聞いてよ真斗―…」と泣きそうな声でクラスメイトに愚痴をこぼすと、真斗はなんとなく事態を察したのか、「どうした」と言いながら俺の前の席へ横に着席し、体を90度捻って俺を見やった。
「……実は、に避けられてるような気がするんだよね…」
「に?」
「…うん。朝も教室に行ってみたら、まるで逃げ出すみたいにどっか行っちゃって。休み時間とか見かけても、俺の顔見た途端慌てたみたいに行っちゃうし。昨日の昼休みに会ったときは普通に話せたのに、俺、気付かないうちに何かやっちゃったのかなあ…?」
「きっと忙しいだけだろう。考えすぎではないのか?」
「うーん、そうなのかな…?…そういえばうまくいってないことがあるって言ってたけど、でもそれだけじゃなさそうだったし…。……今まで避けられたことなんてなかったのに…」
今日の一連の出来事を思い出しただけで暗い空気を背負ってしまう俺に、真斗は「そう気に病むな」と声を掛けてくれるものの、曖昧な返事しかすることが出来ない。それを見かねた真斗は思い出したように口を開いた。
「…そうだ一十木。メロンパンを買ったのだが、半分どうだ」
「ほんとー!?食べる!」
しまった、食べ物にホイホイ釣られてしまった。まるでよりもメロンパンのほうが大事みたいじゃないかとちょっと恥ずかしくなる。しかし真斗はそんな俺を見ても、「考えるにも、栄養が必要だからな」と言って、全く馬鹿にしない。いい奴だとじんわり感じていると、真斗は透明な袋を破ってパンを2つに千切り、そのうちの大きいほうを何のためらいなく俺に渡した。流石に申し訳なくて慌てて声を掛けるけれど、「実は朝食で既に食べたんだ。遠慮をするな」と言う。いいのかな、と真斗と差し出されたパンをちらちら見比べつつ、じゃあ頂きますと受け取ってかじりつく。甘い味がじんわり口の中に広がる中、真斗に相談した内容をひとり振り返っていた。
確かにSクラスとAクラスとじゃまた課題内容も違うらしいし、同室のトキヤを見ている限りとても大変そうだ。…忙しい…。うん、きっとそうだ。でもそれだけじゃない気がするんだけど、なあ。だって俺の顔見た途端に慌てたように逃げ出してしまうし、声を掛けても「ちょっと急いでるから」と言われて結局足早に去られてしまう。なんとなくそれは気が回らないからと言うより何か心配事があるように見えたんだけどな。…うーん。
「あ、おいしいねこのメロンパン」
「そうだろう」
もぐもぐとメロンパンを頬張りながらそんなことを言い合って見るけれど、きっと真斗は俺のことを心配してくれているんだなということはなんとなく分かっていた。好物であるはずのメロンパンの、しかも大きい方を進んで俺にくれたのは、きっと元気を出せということなんだろう。やっぱり真斗はいい奴だ。俺友達にすげえ恵まれてるかもと思いつつ、最後の一口を放り込んだ。
「ありがとう真斗!俺、やっぱりに聞いてみるよ。何か悩んでるみたいだったし。…って色々考え込んじゃうタイプだからさ、俺、そばにいてあげたいんだ」
「そうか。…うむ、確かに人に話すと気が楽になると言うし、効果的かもしれん」
「うん!俺も真斗に聞いて貰ってすっきりした!」
「ならば良かった。…ほら、のところに行くのだろう」
「うん、行ってくる!」
思い立ったらすぐ行動な俺をよく理解している真斗は、教室を飛び出す俺の背中に、まるで小学校の先生のように「廊下は走るなよ」と注意を呼びかけた。
20130110