…生きた心地がしない。
ばたりとベッドに倒れ込むようにうつ伏せになったまま枕に顔を埋めてばかりいる私は、ルームメイトから見たら不貞寝しているかよほど疲れているかのどちらに映っているのだろう。だけど人目を気にしている余裕すら残されていない私には、そんなのどうでもいいことだった。カーテンで閉め切られた窓の向こう側はすっかり暗くなっている。結局あれから校内をひたすら探し回ったのだけれど、お目当ての第2ボタンを見つけることは出来なかったのだ。
「(どうしようどうしようどうしよう)」
せっかくくれたおとやに申し訳なくて、あんなに嬉しかったというのに自ら紛失してしまう自分が情けなくて、だから二重の意味で泣きたくなってしまう。明日、おとやにどんな顔して会えばいいんだろう。ふと卒業式後の幼馴染の姿が脳裏をよぎった。
『俺のこと大事だからさ、せっかくだし、あげたいなーって思って!』
眩しいくらい満面の笑顔でそう言ってくれたおとやに、まさかボタン無くしましたごめんなさい、なんて言えるはずもない。しかも貰ったのはこの間の3月なのに。…まるでおとやに対する裏切りのように思えてしまってならない。もしかしたらこれは私の考えすぎで、おとやは「ああいいよそんなの。ていうかまだ持っててくれてたんだね」とけろっと言ってくれるかもしれないけれど、きっとこれはもう、そういう問題じゃないんだ。…でも恋愛禁止のこの学校で、「第2ボタンの落し物ありませんか」なんて先生に聞けるはずもないし…どうしよう。
『あの、おとや!ボタン、ありがとう!えっと、ぜったい大事にするね…!』
ボタンを受け取ったときの自分の台詞を思い出してしまって、ずごんっと岩でも落ちてきたような感覚になる。「ぜったい大事に」……してない。おとや、嘘だいきらいなのに、このままじゃ私嫌われちゃう。嫌われてしまう。それだけは避けなければいけない。神様、私、何か仕出かしてしまったのでしょうか。もしそうなら今後いい子にしていますから、どうかその意地悪、もういい加減にしてください。お願いします。
★
「…いい加減にしてください」
ルームメイトにそうぴしゃりと言い放たれてしまった俺は、何のことかさっぱり分からず「えっ何が?」と少し間抜けな声を出してしまった。トキヤは眉間に皺を寄せて目を閉じている。何やら頭を抱えているけれど、頭痛でもするのかな。そんな呑気なことを考えつつ「トキヤ、バファリン飲む?俺サオトメイトで買ってこようか」と声を掛けると、そのルームメイトは明らかな苛立ちを込めた視線を寄越してきたものだから思わずひるんでしまった。トキヤは目力があるから、余計に威力が増しているような気がする。
部屋の中央に配置されている共同テーブルから椅子を引っ張ってトキヤの間隣りに座り込む俺は、先程までトキヤに何ら他愛のない話を振っていたところだった。トキヤは自分の勉強用机の椅子に腰かけながら読書にふけっていたけれど、時より「そうですか」と返事がちらほら返してくれていたというのにどうしたんだろう。あ、でも、よくよく考えてみればその反応は心なしか少し面倒臭そうなニュアンスを含んでいた気がする。もしかしてあれは、体調が良くなかったからなのだろうか。そんな仮説を立てたら全ての出来事に筋が通る気がして、慌ててトキヤに注意する。
「トキヤ、薬が嫌なのは分かるけど、頭痛いなら飲まなきゃ」
そう言ってやると、「私に頭痛があるとするならば、その原因はあなたです」と訳の分からない回答を頂いてしまったものだから俺は首を傾げるしかない。…俺、別に風邪引いてないからうつしたって線はないと思うんだけど。そんなことを考えていたら顔に出ていたのだろうか、トキヤは溜息をついては「分からないなら結構です。それから私は、別に風邪を引いたという訳ではありません。体調管理はきちんとしていますので」と横目で言って、また小難しそうな本に視線を落としてしまった。とりあえず具合が悪いというわけではないらしい。多分。トキヤって体調悪くても表に出さなそうだけど、今回は本当に違うらしい。とりあえず良かった。
「じゃあ、疲れてるんじゃないかな。今日は早く寝たほうがいいよ」
「ありがとうございます。ですが、大丈夫です」
そう言って、トキヤは右手でぱらりとページをめくった。次のページも相変わらず細かい文字で埋め尽くされていて、俺にはその本の何が面白いのかちっとも分からない。とりあえずカギカッコが見事にないから、小説ではないということだけはかろうじて分かったけれど。「ねえトキヤ。それ、面白い?」何気なく尋ねてみると、ひょいと顔を上げて「ええ」と頷いた。なんだかんだ言っても人と話すときは必ず目を見るトキヤはいい奴だと思う。ついでにどんな内容なのか聞いてみると、何やら外国のなんとかという人が提唱した心理学のなんちゃらと、これまたキャパオーバーな単語のオンパレードを奏で始めてしまったものだから、とりあえず俺には無縁の本らしい。「ふうん、そっかあ…」と曖昧に相槌を打つと、トキヤはもう会話終了と判断したらしく、また視線を下げてしまった。
「そういえば、もよく本読んでたよ。図書館で借りてた。基本的に小説だったけど。で、俺基本的に本とか眠くなっちゃうタイプだからさ、読まないの。だから俺暇じゃん?だから話し掛けてもは本に熱中してるから返事も適当になってさ、それで前喧嘩になったことがあるんだ。懐かしいなー」
「それです」
「えっ」
何がそれなのかさっぱり分からず、「何が?」と言わんばかりの返事をしてしまった俺に、トキヤはいつもに増して真面目な顔で続けた。
「私は今、さんの気持ちが痛いほどに分かります」
「えっ」
「あなたのその素直さは長所ですが、もっと視野を広げたほうがいい。いつも相手が自分のことを分かってくれていたり、同じことを考えている訳ではありません」
「わ、わかった…気を付ける」
こくりと頷くとトキヤは満足したのか、また読書を再開してしまった。…視野を広げる。そんなこと急に言われても。確かに俺は何かに熱中するとそれしか目に入らなくなるっていうのはよく学校や施設の先生にも言われていたけれど、だからと言ってすぐに改善されるほど人間できちゃいない。それに今の言い方、もしかしても俺のことをいつも分かってくれてるわけじゃないってこと?しかも、トキヤはの気持ちが分かるって。…とずっと一緒にいたのは俺なのに、なんだかもやもやする。勿論本を読む者同士通じるものがあるからってことなんだろうし、分かるって言ったって一部分にしか過ぎないんだろうけど、ちょっとジェラシー。
「(でも俺らは…大丈夫だよ)」
だって誰よりも一緒にいたし、学校だってずっと同じだった。は俺に嘘や隠し事をしてないし、しない。勿論俺も同じで、そしてそれは昔もこれからもずっとで、だから分かり合えてるよ。俺はのこと、家族以上に思ってるよ。それだけは自信持って言えるから。
しかしそんな柄でもないことを考えていたら口元がへにゃっと緩んでしまったものだから、きっと今トキヤがこちらに振り返ったら「なんてだらしない顔をしているんです」と言われてしまうことだろう。だけど当の本人は本に夢中で気付いていない。危ない危ないと安心しながら念のため隠すように手で口元を抑えつつ、何もない天井を無意味に見やって思い出した。中断してしまった話が中途半端なところで止まっている。そんなことに気付いたらいてもたってもいられなくなって、上機嫌に口を開いた。
「そんでさっきの続きなんだけど、あのときの…って、トキヤ聞いてるー?」
「聞いていません、むしろ聞こえません」
「なんでー!?聞こえてるじゃん!」
20130110 狭すぎる世界と思い込み