未だかつて自分の口を、舌を、喉を、これほどまでに呪ったことがあっただろうか。

つい一時間ほど前に間違いなくこの口から発せられた名は原型を失っていて、もはやわたしが知っているものではなかった。別に自分のことを滑舌がいいと思ったことはただの一度もないけれど、それでも名前くらいは間違えることなくきちんと音に変換したかった。少なくとも、本人の前だけは。

──きっかけは、本当に些細なことだった。むしろそれは、毎日変わらず送られる日常から生まれたものと言っても過言ではない。朝いつもどおりに起床して、服を着替えて顔を洗って歯磨きをして、寝癖がないか入念に確認して髪にクシを通す。そんな、いつも当たり前のように行っていることを今日も滞りなく済ませた、ありふれた朝のはずだった。ひとつ普段と違う点を挙げたとするならば、髪が随分と素直で、気持ちが良いくらいまとまりがいいことくらいだった。…なんだか今日はいい日になりそう。鏡の中のわたしが笑った。

きっともうしばらくしたらいつもどおり来るであろう近侍の彼に今日はどんな談笑をしようかそわそわしながら、開けられることなくじっと閉じたままの襖を見やった。光忠さんはいつも身支度を済ませた後、必ずわたしの部屋へやって来る──そしてそのまま朝餉の準備真っ最中の大広間へ行って一緒に手伝うというのが、いつのまにかわたしたちの間にできた決まりだった──。今日のごはんは何かなあ、なんてふわふわしたことを考えてつつ時間を潰していると、ふと頭に名案が浮かんできてしまった。思わず、「あっ」と声を溢す。

「(光忠さんは私の部屋の隣だし、今日は逆に呼びに行くことにしよう!)」

まるでいたずらを思いついた子どものようにそんなことを考えてしまったのが、全ての始まりだったような気がする。そう、すでにこのときにはカウントダウンは始まっていたのだ。しかしそのときのわたしはそんなこと微塵も気付いていなかったわけだから仕方がない。

私の自室は職務室と繋がっていて、それぞれ襖で仕切られている。近侍の光忠さんとは何かと職務の相談をする機会が多いからこそ手間や時間を短縮をするために一番近い部屋にいてもらっていたのだけれど、まさかこんな形でそれを活かす日が訪れようとは夢にも思わなかった。

毎朝光忠さんに、襖越しに声を掛けられるのがすきだった。襖を隔てたときは「主」と呼ぶのに、顔を合わせると「ちゃん」と名前で呼んでくれる彼の声がすきなのだ。今日はそれが聞けなくなるかもしれないけれど、それより少しでも早く光忠さんに会いたい気分だった。多分それは、髪が素晴らしくご機嫌だったせいだろう。要するに、少し浮き足立っていた。

「(驚いてくれるかな)」

そんなことを考えてはつい笑みが零れてしまう顔はそのままに、善は急げと腰を上げ、勢いよく縁側との間を仕切っていた襖を開ける。するとその目の前に広がったのは見慣れた庭園──の、はずだったのに、どうしたことだろう。視界に入ってくる色は黄色に染まりつつある緑や土の色、青い空ではなく、なぜか今日に限っては黒と白しか見えてこない。

予想外の景色に心底心臓を飛び跳ねさせた私は、驚きのあまり反射で距離を取ろうと右足を後退させたものの、脳の信号に身体が中途半端についていかずそのままバランスを崩してしまった。そしてそのまま勢いよく回転していく視界に結末を把握してぎゅっと目を瞑ったというのに、待てど暮らせど覚悟した痛みはやって来ない。背中や肩にこそ何かに小さな衝撃はやってきたものの、一体どうしたというのだろう。絶対に尻餅をつく流れだったはずなのにおかしいと、流石の私も気が付いた。

状況を把握しようとおそるおそる目を開けたものの、視線の先には先程襖を開けたときに見たのと同じ黒と白の色がそこにあるばかり。しいて違う点を挙げるとすれば、それらとの距離が5センチに縮んでいて、やさしい匂いがしたくらいだ。ついでに言うと、わたしの足は畳と距離を縮めることなく立っている。要するに、やはりすっ転んではいないらしい。目の前の2色をじっと見つめながら、ふと思った。

「(……これ、すごく見覚えがあるネクタイ)」

よくよく脳内処理をしてみたら、黒いものはネクタイとベストで、白いものはワイシャツだったようだった。なんで衣服が宙に浮いているのかと一瞬考えたものの、明らかに布きれだけではない立体感と温かさですぐにその考えは却下する。そういえば背中には、誰かの手が回されているような気がする。つまり体勢を崩したわたしは、このネクタイを締め、かつ黒いベストと白いワイシャツを着た誰かに抱きとめられた、ということなのだろう。

しかしこれらのアイテムを着用していて、この時間帯にこの部屋に来る人物を、わたしはひとりしか知らない。加えてこのさわやかで上品な香り。その人物の名が頭に浮かぶ前に顔を上げてしまったわたしは、「彼」と目が合った瞬間、急上昇した体温に思考回路を完全に爆破されてしまった。

「(──み、み、み…っ!)」

金魚のように口をぱくぱくさせるわたしを抱きながら、彼、燭台切光忠さんはまっすぐな声で尋ねる。

「大丈夫かい?」
「みっ!みったらさん…っ!」

──って、誰!

舌が回らない間抜けな音を発した口を慌てて右手で隠したものの、間違いなく彼の耳に届いてしまっている。盛大に噛んだことが衝撃すぎて、「驚かせてごめんね」と謝る光忠さんの言葉もまともに耳に入っては来なかった。おまけに和太鼓のように大きく音を立てる心臓も手伝って、わたしはひどく緊張したように固まってしまう。

「……あ…あ、あの、えっと…」
「痛いところはないかい?」
「え?あっ。は、はい…」
「よかった」

ぼんやりとした返事をするばかりでいまいち状況を飲み込めていない私に、光忠さんは柔らかく微笑みかける。そんな彼に対し「ありがとうございます」だとか「すみません」だとか、きっと今渡すべき言葉はたくさんあるはずだというのに、どうしたことか一向にそれらを舌に乗せることができない。なぜなら今のわたしは、自己嫌悪の感情がぐるぐると頭を駆け巡っている最中だったからだ。

「(……さ、最悪だ…)」

名前を噛んだ瞬間慌てて口を塞いだものの、そんなことをしても戻ってこないものが声というもので、だからこそわたしは自身に呪いを掛けても永久に報われることはないのだろう。いくら驚いていたとはいえ、よりにもよっていつもお世話になっている光忠さんの名前を噛むなんて、審神者失格だろうか。つい先程まで弾んだ心を抱きしめていたはずなのに、それが嘘のような謎の喪失感はなんだろう。

…恥ずかしさのあまり、人は燃えるのかと思った。いや、いっそ燃えてしまったほうがよかったのかもしれない。そう本気で考えてしまうほどに全身は沸騰してしまっていた。もう何を言っても、正しい発音に変換することができない気がする。だからこそ、わたしはもう下手なことは口にできないのだ。…あんな失態を、もう二度と光忠さんの前で繰り返すわけにはいかなかった。

光忠さんも流すより逆に突っ込んだり笑ってくれたら、いっそ楽になれたのに。…というのは流石に自分勝手だろうか。そんなことを考えるわたしをよそに、彼は背中に回していた腕をそっとほどいた。

「そういえばまだ言ってなかったね。…おはよう。準備はもうできているのかな?」
「は、はい…」

いつも通りの笑顔が逆に気まずくて、徐々に視線をそらしてしまった。しかし光忠さんは特に気に留める素振りを見せることなく大広間の方向へ足を向けるから、私はますます謝るタイミングを見失ってしまう。なんだか少しずつ胸の奥が重たくなってくるのはなぜだろう。まるで重たい何かを抱えているような気分になってくる。

「じゃあ行こうか。さっき厨に顔を出して来たけど、肉じゃががあったよ。ちゃん、すきだよね?」
「は、はい……」

どうしよう、せっかく私の好物の話を振ってくれていると言うのに、もうそれどころではなさすぎてうまい反応ができない。いつも、どんなふうに話してたっけ。頭をフル回転させてみても、どうにも思い出すことができなかった。


──そんなわけで朝ごはんを食べ終え一人部屋執務室に戻ってきた今でも、光忠さんの名を勝手に変えた自分の口を呪いながら畳に横になっていた。いや、文机に向かうように座ったものの、そのまま気力をなくしたように右になだれ込み、そのままうなだれているというのが正しい。…どうしたことだろう、これではちっとも書類が片付かない。そもそも報告書すら机に出していないわけなのだけれど。……やる気が無さすぎる。

今日は髪がいつもよりまとまってるしいいことありそう、なんて呑気に考えていたのはどこの誰だったか。常に平常心をというのは無理でも、鏡を見る前に発声練習でもしておいたほうがよかったのではないかと思わずにはいられない。

「(そうか、れんしゅう!)」

これは名案だと言わんばかりに勢いよく上半身を起き上げ、背筋を伸ばし、無意味に咳払いをして喉の調子を整えた。

「(みつたださん。みつたださん)」

ばかの一つ覚えのように頭の中でひたすらに繰り返す。…心の中では普通に呼べるのに、どうして声にしようとすると出来ないのだろう?やっぱり滑舌の問題なのだろうか。…そうだ、もしかしたら自分が思っているより口を小さく動かしているのかもしれない。ということは、口をしっかり動かしたら言えるのかな。ふむ、と納得して、文机の引き出しから手鏡を取り出す。そこに自分の口元を写しながら、小さく呟くように言った。

「…みつたださん」
「呼んだかな?」

悲鳴なのか奇声なのか自分でも分からない声を上げてしまったのは初めてだった。ついでに無意味に立ち上がろうとしてしまい、手の甲を机の角に強打したのも初めてだ。じんじんと響くような、熱いような、よく分からない痛みに涙目になりながら左手をひたすら握って耐えるしかないものの、なかなか消えてくれる気配を見せない。おまけに心臓がばくばくと騒がしい。今日は厄日か何かなのだろうか。

ついでに言うと今、わたしの耳と頭が壊れていなければ光忠さんによく似た声が聞こえたけれどもそれは幻聴であってほしいし、本当に誰かが部屋の前にいたならば、どうか光忠さん以外の刀剣であってほしい。もしも万が一にでも光忠さんであったなら、どうか夢であってくれと願わずにはいられない。しかしこの熱い痛みは間違いなくここが現実世界だと嫌と言うほど訴えてくるし、わたしが光忠さんの声を聞き間違えるはずはない。つまりそこから導き出される結論はひとつだった。

「ご、ごめん!大丈夫かい!?」

訳の分からない悲鳴を上げてしまったわたしを見かねて唐突に声を掛けた人物は、慌てた様子で部屋に入って来た。まさか声を掛けただけでこんなにも過剰に反応し、かつ怪我をするとは夢にも思っていなかったらしい。「私もまさかこんなことになるとは思ってませんでした」なんて言える気力すら残されていなかったけれど、必死に音をかき集める。視界の端で黒い服が見えた。

「…………だ、だい、だいじょうぶ、です…」

あ、これ声が震えて全然大丈夫に聞こえないやつだ。猫背気味のまま左手を握りぷるぷると震えていると、案の定彼はまるで「見せてごらん」と言わんばかりに、相変わらず痛みを響かせる左の甲を持ち上げた。かたくなに俯くことに徹したため確認は一切してはいなかったものの、この黒い手袋越しに触れられて確信した。やっぱり光忠さんだった。だからわたしはきっと顔を上げられない。もう触れられた指先を直視することすらできず、無意味に畳の目を数えて心を落ち着かせるしか道はないのだ。…それにしても今日の光忠さんは、やたら急に現れる気がする。

「うーん。血は出てないみたいだけど、赤くなっちゃってるね。多分大丈夫だと思うけど、暫く経っても痛むようなら、湿布を張った方がいいかもしれない」
「……そ、そうですね…」

血だとか痛みだとか、今のわたしはそれどころではない。だからだろうか、随分とそっけない返事になってしまった。だって最高に気まずい。だからこそただじっと俯いては彼がこの場から去るのを待つしかないし、心臓もそれだけを望んでいる。しかし光忠さんはそんな素振りを一切見せないどころか左手すら離そうともしないから、そこから熱がじわじわと全身へ広がっていってしまう。触れられると、心まで読まれてしまいそうでどうにも落ち着かなかった。

「(ど、どうしよう…)」

まるで壊れ物に触れるかのように優しい指先に、ひどく緊張してしまう。今日はなんて厄日なのだろう。石切丸くんにお祓いでもしてもらったほうがいいのだろうか。それにしても、なぜ私は執務室の襖を閉めていなかったのだろう。いや、いつも朝食を終えた後は基本開けっ放しにしているから、今日もついその癖が出てしまったからなのだけれど、それにしたってこんな口に出して名前を呼ぶときくらい閉めておくべきだった。…だって、だって。

「光忠さん」と呼ぶ練習を、絶対に聞かれてた。

だから「呼んだ?」なんて言ってきたんだ。これは可能性や不安じゃない。確信だ。どうしようどうしよう。死ぬほどはずかしい。一体どんなタイミングの良さだというのだろう。ちょっとした寸劇の類いか何かかと考えずにはいられない。できることなら今すぐ逃げ出したい気分だ。

「で、僕に何か用だったのかな…?」

しかし彼にはそうさせる気は毛頭ないらしい。お陰でわたしの体は今氷のように固まってしまった。とはいっても別に体にまとっていた熱が消えたというわけではなく、いや、むしろ背骨に沿って首の後ろまで熱が広がったのが分かったくらいなのだけれど、それに伴って嫌な汗が止まらない。どうしよう、なんと誤魔化したらよいのだろうか。

俯いたままあっちこっちに目を泳がせ、何かいい具合にカモフラージュできるネタが転がっていないか無意味に散策をするものの、そんな都合のいいものがあるはずもなく、はたまた救世主のように誰かが部屋の前を通りかかってくれるはずもなかった。正直なところわたしは熟考タイプであり、ひらめきに長ける臨機応変タイプではないのだ。残念ながら。そして私は誤魔化すのが得意なタイプではない。

「…………み、光忠さんは、どうしてここに……?」

ようやく絞り出した答えは、質問に質問で返すと言うなんとも邪道なものだった。しかしながら今のわたしはそんなことを気にしてなどいられない。まさか名前を呼ぶ練習をしていましただなんて本人に知られるわけにはいかないのだ。つまり、どんな手を使ってでも他の話題にすり替えなくてはいけない。そんなわたしの企みを微塵にも知らない光忠さんは、心底心配そうに言った。

「…なんだか君の様子がおかしかったから、どうも気になって…」

…これはまたトドメを刺された気がする。

必死に頭をフル稼働させたつもりが、逆に退路を断たれた気がしてならない。あわよくば話題を変えてと願っていたというのに、これでは“わたしの様子がいつもと違った理由”を答えなくては話が進まないではないか。そもそも光忠さんも放っておいてもいいことだろうにわざわざ様子を見に来てくれるなんて、うれしいような、恥ずかしいような、申し訳ないような、なんとも言えない感情が混ざり合ってしまう。お陰で頭の中はごちゃごちゃだ。

…彼は純粋にわたしのことを心配して来てくれたのに、適当に誤魔化していいのだろうか。そんな考えが浮かび上がってはもどかしい気持ちになる。…これって、すごく失礼なことなんじゃないだろうか。だけどそれぞれを天秤にかけてみるものの、やはり内容が内容なだけに、私は私のプライドを守ることを優先させるほうが得策なのだろう。そう無理矢理結論付けて口を開きかけた。

──大したことじゃないので大丈夫ですよ。

確かにそう言うつもりだったのにそれが出来なくなってしまったのは、目の前の彼が眉を八の字に垂れ下げて、どこかさみしそうな目をしていたからだった。そんな顔をされたら、私はもう嘘が言えなくなってしまう。胸の奥がぎゅっと苦しくなった。視線を下ろしながら今度こそ「本当に、大したことじゃないんですけど」と弱々しく前置きをしたものの、その続きはまったく違うものにすり替わっていた。

「…………れ、れんしゅう、を…」
「練習?」

おそらく今見上げたなら彼は、「何の?」と言わんばかりの顔をしているに違いない。しかし今彼の目を見ることは自虐行為でしかなく、そんな度胸を持ち合わせていないわたしは相変わらず視線を下に泳がせたまま静かに頷いた。

「………さ、さっき、その…呼びに来てもらったとき、名前をうまく言えなかったから…。そ、それで…申し訳なかったというか恥ずかしかったというか…。だから…その…れ、れんしゅう、を……」

これは何かの罰ゲームや公開処刑の類いなのだろうか。これ以上口にすることはどうしても出来ず小さくなっていく声に、彼はどう思っただろう。耳の後ろに心臓が付いているような錯覚に陥ってしまうほど、今のわたしはひどく緊張している。うまく言葉が選べなくて、自分でも何を言っているのか分からなかった。

「じゃあ、その練習僕も付き合うよ」
「えっ?」

予想していなかった反応に、どうにも思考がついていかない。光忠さんなりのフォローのつもりなのだろうか。思わず顔を上げてしまうわたしと視線をぶつけた光忠さんは、まるで「いいこと思いついた」とでも言わんばかりの晴れやかな顔をしている。鶴丸さんの言葉を借りるならば、驚きだぜと言わざるを得ない展開だ。練習に付き合うって、その練習というのはもしかして、この流れから察するに名前を呼ぶ練習ということですか。…そう理解した瞬間、全身の血の気が引いた気がした。

「いいです!大丈夫です!間に合ってます!」

何が間に合っているんだと思わず頭の隅で突っ込みたくなるほどに会話のキャッチボールを無視した返答をしてしまうほど、今のわたしは頭が回ってなどいなかった。人は必死すぎるととにかくなんでもいいから口を動かさなければという脳の信号が出るらしい。ついでにオーバーすぎるほど右手を大きく振るも彼は、そんな遠慮しなくてもいいからとでも言いたげに笑っている。

しかしわたしは決して謙遜をしているわけではなく、ただただ自分の置かれた状況があまりにも恥ずかしすぎるものだからその提案だけは回避したい、その一心だけなのだ。なのに彼はそんな単純なことに気付かないのか、はたまた珍しくからかって遊んでいるのか、考えていることはちっとも分からないけど全く引こうとはいない。こんな光忠さんは初めてのことだった。

「ね。僕のこと、呼んでみて」
「え、ええ…?」

我ながら、随分と上ずったまぬけな声だった。改めて名前を呼べと言われることが、こんなに恥ずかしいことだったとは。いや、きっと原因はそれだけではない。解くタイミングをすっかり失ってしまった左手の指先を握られているせいだ。これはもう早く言って早く解放してもらうしか道はない気がする。ここまで来たら腹をくくれと、意を決して口を開いた。

「みちゅ…っ」
「ん?」

何かなと言わんばかりに小首を傾げられてしまった。かあっと顔が熱くなる。誤魔化すように口を開いたものの、なぜだか舌がうまく回らない。焦れば焦るほど正しい音にはならなくて、底なし沼のようにどんどんはまっていくようだった。

「…み…み、み、みつてゃ、」
「うん」
「みっ、みった…。……す、すみません……」
「うん、頑張って」

本当に、遊ばれているだけな気がしてきた。多分彼は私がうまく名前を言えるまできっとこの手を離してはくれないし、やめさせてなどくれないのだろう。それをなんとなく感じ取っているからこそ、早く「光忠さん」と口にしなくてはいけないのに、そう思えば思うほど焦りからか舌がうまく回らず、結果彼の名前とは程遠い、ふにゃふにゃとした音にしか生まれない。

「み、みつ、ただ、さん」
「そう」
「みった…。……」
「ふふ。ゆっくりでいいよ」

まるでがんばってと言わんばかりに手を握り返されるこんな状況で、平然と名前を呼べるほうがおかしい。向かい合って手を繋いで名前を呼ぶなんて、いささかハードルが高すぎやしないだろうか。我慢しきれずおずおずと口を開いた。

「……あ、あの。な、なんだかはずかしいです…」
「そんなことないよ。気のせい」

だからもうやめましょうという意味を込めたつもりだったというのに、気付かれなかったのかあっさりとスルーされてしまった。…むしろ、なんだか楽しんでいるように見えるのは気のせいだろうか。いや、光忠さんはからかってくるような人じゃないと知ってはいるつもりだけれど、かたくなに手を開放しないあたり、彼の強い意志を感じる。だから気付かれないように深く息を吐いては、そっと口を開いた。

「……み、みつ、たださん」
「うん」

まるで催促をされるように、ぎゅっと手を握られる。お陰で鼓動は先程よりも随分とスピードを速めてしまう。すっかり頬を熱くさせながら、私はまた彼の名を口にする。だけど、ひとつひとつ音を取ることは忘れない。

「…みつたださん」
「もう一回呼んで」

温かい声があまりにやさしくて、ゆっくりと顔を上げてみる。目を細めてじっと見つめてくる光忠さんが眩しくて、どこかくすぐったい。いつの間にか高鳴る鼓動が心地よく、ほわほわした何とも言えない気分になったわたしは、目を逸らさないまま、初めて彼の手を握り返した。

「光忠さん」
「うん。よくできました」

でも、なんだか照れるね。そうはにかんで笑った彼に、遠慮しがちに頷いた。もうすぐ木々は紅色に染まろうとしていると言うのに、なんだか今日は、とても暑い。


再構築された名




20180908