「あの…し、白石くん。あのね…」
なんとも恥ずかしそうな彼女の声がして振り返ると、予想どおり頬を染めたまま妙にそわそわと落ち着きのないの姿を発見した。連休明けの、とある帰り道のことである。そんな彼女は随分と目を泳がせて、自ら声を掛けてきたと言うのに決して俺の顔を見ようとはしなかった。いや、実際は目を合わせようと努力しているのかもしれないが、恥ずかしがり屋で奥手な彼女の性格が足を引っ張って、結果的にこうなってしまっているのかもしれない。
「うん。どないしたん?」
不安にさせないように出来るだけ優しい声と笑顔を張り付け尋ねてみると、は「う、うん」と遠慮しがちにこくりと頷いた。時よりちらちらと様子を伺うように見上げてきてくるのでにこっと微笑んでみたら慌てたように俯かれてしまったけれど、その代わり耳まで真っ赤に染め上げてくるものだからまったく可愛い彼女である。そんなことを考えたらうっかり緩んでしまう頬を必死に引き締めた。…あかん、変態やと思われる。彼女の前では紳士で落ち着いている完璧な彼氏でいたいというのに、うっかり気を抜けばこのざまだ。紳士で落ち着いている完璧な彼氏はきっと彼女を見てにやついたりはしない。もっと気を引き締めなければと自分に言い聞かせていると、は「あ、あのね」とおずおずと話を始めた。
「あの、本当、嫌だったり面倒だったら断ってくれていいんだけど…」
「?うん」
もともと彼女は遠慮しがちで控え目な性格だが、こんなにも前振りをしてくるだなんて珍しい。よっぽどのことなのだろうかと身構えていると、は言いにくそうに軽く唇を噛みしめ俯き、視線を右下に注いでいた。…よく分からないがどうやら彼女は緊張していて、言おうか言わないか迷っているらしい。すぐにそれに勘付いた俺は、彼女にそっと声を掛ける。勿論出来る限り優しい声で、不安など一切与えないような柔らかい口調で。
「改まってどないしたん。俺に遠慮せんといてえな。…言うてみ?…な?」
「う、うん…っ」
こくんっと頷く彼女の頭を撫でてやると、はまた気恥ずかしそうに俯いた。けれど彼女はそれこそ口では言わないが頭を撫でられるのがすきらしく、恥ずかしそうにまた頬を染めるのにいつも嬉しそうに目を細めて口元を緩ませるから、俺はまるで子猫でも手名付けたような気分になってしまう。ああ、でもこの子は猫より犬っぽいかもしれないなんて頭の片隅でどうでもいいことを考えてみた。そもそもは動物じゃない。手名付けたなんて失礼だ。そう頭では分かっていても、こんなふうな反応をされてはまるで自分にだけ心を開いてくれたような気分になって、だからどうしようもなくにやけるのは仕方のないことなのだった。けれどそれを彼女に悟られてはいけない。なぜなら俺は完璧な男でいなければならないからだ。格好悪いところなんて見せられない。
それを誤魔化すように、本人いわく「毎朝起きたらあっちこっちにはねて大変」だと言う彼女の髪を梳かすように撫でながら、がこれから言わんとしている内容について想像して気を紛らわすことにしよう。…来週行われると告知された数学の小テストのことだろうか。いや、それならこんなにも緊張せずとも普通の世間話として切り出せばいいだけの話だ。ああ、もしかして一緒に勉強しないかというお誘いだろうか。大いにありえる。しかしそれならそんなに緊張せずとも二つ返事で承諾するというのに。
ふと、自分の左手にしっかり握られているトートバッグに目をやってみる。白にピンクの小さな花柄が散りばめられているそれは男の俺が持つには不自然極まりないが、無論この持ち主は俺ではない。である。なんでもあまりの可愛さにムック本を衝動買いしてしまったらしい。アルバイトも出来ない俺達中学生には1200円だかそこらの金額をぽんと出すのはなかなか出来ることではないが、意外にも我慢弱いタイプのには耐えられなかったらしい。彼女は奥手な性格だけれど、欲しいものは欲しいときに手に入れたいと考える女の子だった。
そんなお気に入りというトートバッグの中には、弁当箱と体操着に紛れて数学の教科書が入っているらしい。本人いわく「典型的な文系」らしいにとって、数学は召喚魔法に使う呪文の羅列にしか見えないんだそうだ。「合同の図形かどうかなんて証明しなくてもいいと思うの。今はパソコンもあるんだし、もっと有効活用したらいいのに」としょぼくれていたのが記憶に新しい。…だから間違いない。きっと彼女が言わんとしていることは勉強会のことだ。そう確信めいたものがあった。
「あの…しらいしくん。あ、あのね…」
そう自信なさげに口を開いたの瞳はどこか必死そうな色をしていて、それでいてやっぱり俺の目を見ようとはしなかった。右肩に掛けた学校指定のスクールバッグの持ち手をぎゅっと握る小さな手はまるで怯えている小動物のようだというのに、それでも彼女は必死に伝えようとしている。
、一緒に数学の勉強せえへん?
そう俺から声を掛けるのは簡単だったけれど、あまりに彼女が顔を真っ赤にして必死そうにしていたし、何よりから誘われるというのは非常に稀なケースだった。俺としては是非一字一句聞き逃すことなく耳に入れたいというもので、つまりには悪いがここは頑張って言ってもらおう。そう考えた俺は妙に上機嫌になり、ついにやにやと口元が緩んでしまう。──訂正、にこにこと微笑んでしまう。ほら、早う言ってえな。そう心の中でエールを送っていたのが彼女に届いたのか、遂にはぎゅっと目を瞑って決意したように口を開いたが、その内容は俺が予想していたものとは全く違うものだった。
「あの!ぎゅって!…し、して、いいかな…っ!」
──くらっ、と。一瞬眩暈がしたような気がした。お陰で脳も何を言われたのか理解出来ず、ぽかんと呆気にとられてしまった。そんな大々的なフリーズが起こってしまった結果全身の力が一気に緩みカシャンッと言う音が足元で聞こえたと思ったら、なんということだ、可愛い彼女が「可愛い可愛い」と連呼してあんなに気に入っていたトートバッグをうっかり手放してしまっていた。おそらく今のは中に入っていたプラスチック製の弁当箱が地面に叩きつけられた音だったのだろう。割れていなければいいのだが。
…しかしどうしてだろう。落下してしまったトートバッグは今もコンクリートの上にたたずんでいるというのに、俺は未だに呆然としたまま一向に反応することが出来ない。まさか奥手の彼女から抱きしめたいなんて言われる日が来ようとは夢にも思っていなかった。しかもちらほらと周りに人がいる学校の帰り道で。…なんだろう、この、妙に湧き上がってくる照れ臭さは。
しかし俺よりもの方がどうやら羞恥でいっぱいのようで、地面に落下した自分の荷物など気にする素振りすら見せずひたすら耳まで真っ赤にした顔を俯かせながら返答を待っている。何を考えるでもなくそれをじっと観察するように見つめていると、俺からの視線に気付いたのかは何気なく遠慮しがちに顔を上げ、そして視線をぶつけると慌ててまた俯いた。じわじわと処理をこなして現況に追いついた頃には、すっかり取り乱した声を出してしまったけれど。
「…え。え!え!?え、ぎゅって、え、こ、ここで!?」
「う、うん…っ」
こくこくっと頷くはいっそ爆発でもしてしまうのではないかというほど耳まで真っ赤に染め上げて、まるで林檎のようだった。そんな彼女をぽかんと見つめている俺までもそれが伝染してしまったようでたちまち体温が上昇してしまう。だっていつだって恥ずかしがり屋で奥手で内気な彼女は「すき」の一言も口にすることが出来なくて、だからいつも俺からの言葉に頬を熱くさせながらこくこくと頷くような子だったと言うのに。初めてキスをしたときだって顔から火が出るんじゃないかと心配になってしまうほど真っ赤になっていたし、ちゃんと呼吸をしているのかと心配になるほどガッチガチに固まっていたし、むしろ驚いて泣き出してしまっていたような子なのに。
「(人って変わるもんなんやなあ)」
そんなことをまじまじと思ってしまう。思わず感動してしまった。感心と言っても良い。なんだか失礼な物言いだが、それくらい衝撃を受けてしまったと受け取ってほしい。動揺のあまりうっかり自分の耳を疑ってしまっていたが、どうやら彼女のこの恥ずかしがりようを見る限り幻聴ではないらしい。そんなはありったけの勇気を振り絞ったためのか、潤んだ瞳を隠すようにじっと俯いていてばかりだけれど。
相変わらず決して目を合わせようとしない彼女に一歩踏み出し近づいてみると、はそれに気付いてびくっと小さな肩を震わせた。俺に怯えているのではなく、恥ずかしくて仕方がないから過剰に反応してしまったということくらい気付いている。彼女はそういう子だ。恥ずかしがり屋で、すきって一言もなかなか言えなくて、手に触れることすらためらって、うぬぼれかもしれないけれど、いつも嬉しそうに俺の名前を呼んでくれる子だった。
それでも今にも泣き出しそうになっても決死の思いで「抱きしめてほしい」と言ってくれたことが何より嬉しくて、可愛くて、だから抱きしめたい。そんな感情に気付いたら、もう止まらず手を伸ばす。つまりは彼女のお望みを叶えてあげようと思ったのではなく、自分の欲求にそのまま素直に従ってしまったのだ。完璧で紳士な彼氏とは程遠いとは百も承知である。しかし俺とていたいけな男子中学生なので仕方のないこともあると調子のいいことを思いつつ彼女の頭の後ろに手をやり引き寄せる。は驚いたように俺を見上げ目を丸くさせていたが、そのまま引き寄せられる勢いに負けたらしい。あっという間に胸元に収まってしまった彼女の背中に腕を回せば、「…えっ」と動揺した彼女の声が胸元から聞こえてきた。
「えっ…えっ?えっ!」
途端にガッチガチに凍りついてしまったは動揺しているのか相変わらず「えっえっ」と繰り返しよく分からない声を漏らした。…慌てすぎや。なんだかおかしくなって笑みが零れてしまう。だけど彼女がこんなにも緊張しているから、俺までもそれがうつってしまったようだ。決して顔を覗き込まれないようぎゅうっと抱きしめたまま随分と高鳴って仕方がない心臓の音を全身で感じた。の温かい体温が愛しい。
「えっ、あの、し、しらいし、く…!あの、えっと、ど、どうし…、えっえっ…!」
相変わらず展開についていけないらしいはやっぱりおろおろした様子でひっくり返った声を出してしまう。そんな彼女に「うん」と小さく返し腕の力を強めながら口を開いた。「…がこうしてくれって言うたんやで」すると彼女は驚いたように声を引っくり返してきた。
「えっ!?わ、わたし…!?」
予想外だと言わんばかりにあわあわと口籠る彼女は相変わらず硬直をしているから、きっと今顔を覗き込めば耳まで赤くしている姿が見れることだろう。だけどそれが出来ないのは俺も彼女と同じような状況だからだった。こんな姿照れ臭くて、彼女に見せるわけにはいかない。…恥ずかしい。嬉しい。愛おしい。色んな感情が混ざりに混ざり合って、もはや何が何だか分からなくなっている。だめだ、やっぱり彼女の前では俺は完璧になんてなれない。いつだって振り回されていっぱいいっぱいになって俺のペースが乱されてばかりだ。
例えば彼女がすきだというアイドルの存在を知ればからっぱしからCDを買い込みまたは妹から借り徹夜になって聞きこんで、翌日「ST☆RISH好きなんやろ?」となんでもない顔で話し掛けたことがある。すると分かりやすいほどに目をまん丸くした彼女に「俺も最近気になっとんねん」と言えば嬉しそうに笑ってくれたから、また俺のipodは随分彼女の好みに侵食されてしまうことが決定してしまった。そして俺はまた馬鹿みたいにパソコンを開きがすきだという曲から食べ物から店まで片っ端から情報収集を繰り返すうちにふと我に返って「俺はこんな夜遅くまで何をやっているんだ」と冷静になることも多々あるというのに、どうしてかやめられないのだ。
随分と変わってしまった俺の趣味にテニス部員達は「影響されすぎだ」と笑うけれど、実際自分自身でもそう思うけれど、それでも彼女のすきなものを知ることがただただ楽しくて嬉しくて仕方がない。しかし自分で言うのもおかしな話だが、白石蔵ノ介という人間はもっと信念と言うかぶれない柱というか、そういうものがしっかりある人物であると思っていた。
完璧って、なんだっけ。
理想の彼氏でいたいと願えば願うほど分からなくなってしまう。そして今理解した。俺は、いつも大人で落ち着いていて動揺しない、そんな男には絶対になれない。だって俺はいつも表面上だけを綺麗に繕うとすることに必死になっていい面だけを見せようとする、ただいつも必要以上に背伸びをしたがる不完全な子どもだったのだから。子どもはいつだって全力投球で加減と言うものを知らない。
だから、溺れすぎだとか自分をしっかり持てだとかいくら外野に言われたって、止まらないものは止まらないのだ。何故こんなにいっぱいいっぱいになってしまうのかなんて俺も知りたい。こんな自分は自分じゃないようで時々無性に怖くなることもあるけれど、そんな矛盾だらけの俺の背中を見つけては嬉しそうに名前を呼んでくれるから、やっぱり溺れていってしまうのだ。結局のところ俺はこの無限ループから抜け出せない運命らしい。…なんということだ。
ふと、くいくいっと学ランの裾を引っ張られた気がした。だ。もしかして力が強すぎて苦しかっただろうかと少し腕を緩めると、「あ、あの、しらいしくん…!なんかちょっと、言いにくいんだけど、あの…」と何やら心苦しそうな声が聞こえてきた。
「…あ、あのね…っ!わ、私、手を繋いでって意味で言ったんだけど…」
「…へ」
手?
予想外の単語にまたも頭がフリーズしたようだった。全くもって今日の俺は不調すぎるが、それ以上に予想を遥か斜めにいく展開が多すぎる。…手?て、手?瞬きを2回したのち、彼女の背中に回していた両手をゆっくり彼女の両肩に移動させ距離をつくる。そのままきょとんと見つめ合って見ればの言った意味を脳がじわじわと処理し始めたようで、途端に全身がかああーっと熱くなった。
「(え、あ、何。ぎゅっとしてって、抱きしめてっちゅー意味やなくて手をとか、そういう…!)」
無言のまま目を合わせて3秒後、遂に羞恥のメーターがマックスに達してしまったがために肩を捕まえていた手を離し、お互い勢いよく顔ごと逸らしてしまった。しかしそれでも蒸気が出ているかと錯覚するほど全身が茹っている。…だめだ、もう彼女を直視出来ない。ばくばくと全身を駆け巡る鼓動は全力疾走することをやめず、むしろスピードを上げていくようだった。もうどんな顔をしたらいいのか分からなくなって、けれどつい緩んでしまう口元を左手で押さえるように隠すしかない。きっと俺は今、とてつもなく変な顔をしている。
「(やってもうた!何やっとんねん俺!アホ!アホや!白石アホノ介!)」
しかもそのうっかりが早とちりだったなんて。しかも「抱きしめてほしい」ではなく「手を繋ぎたい」と言っていたことなど彼女の性格を考えればすぐに分かるはずなのに。しかも室内でならともかくこんな外で人目もあるこの場所で、がそんな積極的すぎることを言うはずもないだろうに。そりゃあ彼女も慌てるだろう。…一体何をやっているんだ俺は。一瞬にして頭が真っ白になってそれ一択しか思い浮かばなかったなんて、まるで自分がそう言ってほしいと望んでいたみたいではないか。いや、彼女から「抱きしたい」と甘えられて嬉しくない男などいるはずもない、ないのだが。
彼女の前では完璧な人間にはなれずとも、せめて紳士な男だと思われたい。優しい人間だと思われたい。少しでも居心地がいいと感じてほしい。今までだって大事だからこそそう考えてきていたし、だからもっと声を聞きたいだとか触れ合っていたいだとかキスしたいだとか、出来ることなら肌を重ねたいなんて俺の我儘な欲求は抑え込んできたというのに。のに。…これまでちまちまと積み重ねて来たものが一気に崩れ落ちたような気がした。
「(ああもうあかん!ほんっまに!)」
穴があったら入りたい。いっそ誰か俺を埋めてはくれないか。なんせこんなに恥ずかしい思いをしたのは初めてだ。生きた心地がしない。こんなの告白したとき以来かもしれない。ああなんだか耳の後ろに心臓があるように鼓動が駆け巡る。しかしもうを見れないと思っていたばかりだというのに、それでも隣で顔を逸らす彼女を見たいと願ってやまないのだから俺は調子がいいと思う。マイペースとでも言うべきか。
うっかり落としてしまったのトートバッグを拾い上げ軽くはたいたところで、ちらりと隣の彼女に目をやると、ちょうど彼女も俺に視線を寄越していたらしく目が合うものの、さっきのことが合ってかお互いすぐに目を逸らしてしまった。首の後ろを掻きながら、「あーっと…」と意味のない声を出しつつ、改めて彼女と向き合う。
「…えと…。そろそろ帰ろか」
名を呼べば恥ずかしげにどんなときでも見上げてくれる彼女の大きな瞳が愛しい。「うん」と震える小さな声で答えるその口も、すぐに桃色に染めてしまうその頬も、どうしてそんなに愛らしく映ってしまうのだろう。しかしなぜだかいつも以上にそわそわしているように見えるのは何故だろうと考えて、思い出した。ああそうだ、手を繋ぎたがっていたのだ。彼女は。
ありったけの勇気を絞って口にしたにも関わらず見事に勘違いされ何を思ったか抱きしめられて終わったので、結局彼女が望んでいた「手を繋ぐ」と言う行為は達成されていないままだ。いや、そもそも手を繋ぐ行為よりもハグのほうが明らかに難易度と言うか欲望達成というかそういう類いのものは高いように思うのだけれど、それでも彼女は手を繋ぎたがっているらしい。決して直接的なことは口にはしないのに妙に意地っ張りな子だと苦笑しつつ、相変わらず恥ずかしそうに俯いてばかりの彼女の手をとってみる。すると予想通り彼女は目を大きく見開いて驚いたように見上げてきたものだから思わず笑ってしまう。けれどははっとした顔をしてまた恥ずかしそうに俯いてしまった。やってしまったかなと小さく笑いつつ、しかし彼女に掛ける言葉は決まっている。…明日の放課後暇やったら、一緒に勉強せえへん?…2人で。
20120512 白石「すきの連鎖が続いてクラッとしたわー。蔵ノ介なだけに」謙也「それ言わんでほんまに良かったな」