―早う書けやー。部活行けへんやろー」

そう急かしてばかりの謙也は机に頬杖をついたまま私の手元を見ては、もう何度目か分からない台詞を繰り返し言った。日直当番だった私達は、放課後になっても日誌を埋めることが出来ないまま今に至っている。帰宅部の私と違ってテニス部に所属し、なおかつレギュラーの座を獲得している謙也にとって、きっとすぐさま部活に行きたいじれったい心境に違いない。けれど「あとはよろしく」と言わず、ぐちぐち言いつつもなんだかんだ最後まで付き合ってくれる謙也は実にお人好しだった。まあそういうところがすきになったんだけど、なんて心の内で呟いてみるけれど、謙也さん、流石に急かしすぎです。遅いと思うなら代わりに書けばいいのに、なんで替わってくれようとしないのか。

「あほ。字が綺麗っちゅーのはお前の唯一の長所やぞ。ここで発揮せんでどこで使うっちゅー話や」

そういえば謙也って字汚かったな、なんてことを思い出しつつ、「唯一って何むかつくんですけど」と毒を吐き、げしっと謙也の左足を蹴ってみる。一つの机を挟むように向かい合って座っているから、こんなことも容易に出来てしまうのだ。案の定謙也は机の下で勃発した予想外の攻撃を予想出来なかったらしく、「いてっ」と顔を歪ませた。

「ちょ、何すんねん」
「いった!」

仕返しと言わんばかりに蹴り返された私の左足はさほど痛くはなかったけれど、それでも反射的に口にした少し大げさだ。分かっている。それでもオーバーに反応してしまうのは、少しでも謙也の気を引きたいという我儘で自分勝手な乙女心からだった。案の定謙也は「そないに強く蹴っとらんやろが」とツッコミを披露している。

「書き終ったら言えや。俺はそれまで雑誌でも読んどるから」
「えっ、謙也雑誌なんて読んでるの。似合わなすぎ」
「ちゃうわアホ。クラスの女子に雑誌貸して貰っとったやろ。あれ見して」

えっ何。謙也ってそういう趣味があったの。だってあれ女子向けのティーン雑誌。そう言わずとも顔に出ていたらしい、それを見つけた謙也は眉間に皺を寄せながら「ちゃうわアホ、妙な勘違いすんなや」と否定した。

「単なる暇つぶしに決まっとるやろ。そもそも女子の服見てもおもろくもなんともないっちゅー話や。星座占いくらいあるやろが」
「あっなんだ。そういう。…べ、別に良いけど。勝手に取って良いよ」

そう言うと「ああ」だか「うん」だかよく分からない返答を寄越した謙也は、そのままあたかも自分のものですと言わんばかりに机の右側に引っ掛けていた私の鞄を手に取り勝手にファスナーを開け始めた。(いや、私がそうして良いと言ったのだけれど)どうやら教科書は全て机やロッカーに置いているせいですっからかんな私のスクールバックは中を漁らずとも簡単に雑誌を見つけ出すことが出来たようで、迷う素振りを全く見せずに鞄から取り出し、そのままそそくさとページをめくっている。

日誌に迷うフリをしてそれとなく盗み見してみるけれど、謙也の視線はずっと手元の雑誌に釘づけで、まるで最初から私のことなど見る気がないかのように顔すら上げない。私の気持ちも知らないでぱらぱらとページをめくり占いのコーナーを探す謙也の姿にげんなりした。ちょっとくらい私に興味見せてくれたっていいのに。一緒に「この時間何したっけ」なんて聞き合ってきゃっきゃしながら日誌書きたかったのに。

…いや、例え2人でこの空欄を埋めることになっていたとしても、「きゃっきゃ」なんて可愛らしい雰囲気にはならなかったんだろうな。どうせ。そんな半ば投げやりなことを考えては溜め息をつきそうになる。私達の共通の友人でありクラスメイトの白石くんは前に、謙也は私のこと気に留めてるって言ってくれていたけれど、それは絶対ないような気がする。だって私女子扱いされてないし。もっと女の子って感じになったほうがいいのかと考えて友人に借りたティーン雑誌も、まさか私より先に想い人に読まれてしまうとは思わなかった。謙也も口には言わないけど、「お前何背伸びしてんの」と思っているに違いない。むしろ「キャラじゃない」とか「似合わない」とか言われるのかと身構えてたのに。謙也はなぜか私にだけはやたら毒舌というか口が悪くなるから。

…だめだめ、ついついマイナス方向に考えちゃう。今は謙也じゃなくて、日誌を書き終えることだけを考えないと。じゃなきゃ私も帰れないし、謙也も部活に顔を出すことが出来ない。テニス部は毎年全国大会に出場しているから、練習にも気合いが入っているだろうし。…普段はあほでいつもふざけてるお調子者集団にしか見えないんだけど。謙也もなあ、テニスしてるときは真面目な顔してかっこいいんだよなあ。

日誌に何を書こうか考えているフリをしつつ、ちらりと向かいの彼を盗み見る。どうやら彼はひとつの記事を真剣に見入っているようで、ページをめくる手が完全に止まっていた。じいっと食い入るように雑誌を読み込んでいる。謙也ってそんなに占いにハマってたっけ・なんて考えながら、あっでも何かに集中してる謙也ってやっぱかっこいいかも、なんて思ってしまう私は相当の末期だ。謙也病だ。これはいけない。慌てて日誌に視線を下ろし、さて5限目の古典は何をやっただろうかとぼんやり思い出していると、謙也病に仕立て上げた張本人からとんでもない爆弾発言が聞こえてきた。

「キスってどんな感じなんやろか」

ふと謙也がそんなことをまるで独り言を漏らすように溢したものだから、私は「はあ!?」と、思いっきり裏返った声を出してしまう。…予想外の台詞に度肝を抜かれたからなのか、見事に動揺が丸見えな反応をしてしまった。羞恥からか途端に体温が上昇してしまう私の体はどうやら非常に素直で分かりやすい構造をしているらしい。ぽかんと間抜けに口を開けながら呆然と向かいに座る謙也を見やると、その素っ頓狂な声と視線に気付いた謙也ははっと我に返り慌てて弁解を始めた。

「ちょ、ちゃう!ちゃうねん今のちゃうねん!誤解や誤解!…いや誤解っちゅーかなんちゅーか、ほれここ!雑誌にキス特集されとるやんなんや気になるやん!って、ちゃう!そういう意味やないねん誤解すんなや!?…ああもうあかん今のなしや色々忘れてくれ!!」

謙也が顔を真っ赤にして必死に弁解をすればするほど泥沼にはまっていくと言うか、逆に微妙な空気になっていくのはなんでなのだろうか。私も段々謙也の目が見れなくなって、ひょろひょろと下降してしまった。無意味に学級日誌を書くべく握りしめていたシャーペンを見つめるしかない。…ど、どうしよう、柄にもなく緊張してる。急にどうしちゃったんだろう、私。

私が珍しくしおらしい反応をしていたから、あれだけ大声で言い訳をしていた謙也もボリュームが下がっていく。どうやら急に空気が変わったことに気まずさを感じてしまったらしい、そのまま黙り込んでしまったものだから、私達しかいない教室は簡単に静まり返ってしまった。だけどそのまま沈黙が居座り続けるというのも更に微妙な雰囲気になってしまうと思ったのか、謙也は「あーっと…」だとか「なんちゅーか」だとか、そんな曖昧でどう反応していいのか分からないことばかり口にする。

は、その、なんや…ほれ。あのー、ほら」

随分と歯切れの悪い返事を寄越してくるなあと思いつつぶっきらぼうを装って「なに」と簡潔に反応をするついでに顔を上げてみたけれど、どうしたものだろう。視線は彼の瞳ではなくその下の口元へいってしまう。

今謙也に、唐突にキスをしたらどうなるんだろう。

そんなことをぼんやりと考えて、はっとした。…何を考えているんだ私は。すぐに我に返ることが出来て本当に良かったと心から思う。謙也の視線に気付かれる前に慌てて俯いた。しかし動揺を悟られないよう無意味にグリグリと4時限目の欄に書かれていた「数学」という字を修正するかのように重ね書きしてみるけれど、余計に汚くなっただけだった。ついでに数学の「数」の1・2画目の長さを書き足してみるけれど、うっかり3画目の横線の下まで突きだしてしまったものだからもはや漢字の原型も危うくなってきている。ていうかそもそもこんなことをして誤魔化せるとはとても思えない。むしろ動揺丸出しのような気がする。…どうしたらいいんだろう。せっかく謙也が褒めてくれた字はもうボロボロで、バランスなんて持ち合わせていなかった。

だけど今顔を上げたとき一瞬見えた謙也の耳まで真っ赤にして狼狽していた姿とか、今だって明らかに頬の赤みは残したままどこかそわそわして目を逸らしていた姿だとか、普段なかなか見れない彼がたくさんいすぎて緊張してしまうんだもの。いっそいつもみたいに下らない世間話や喧嘩を吹っかけてくるような減らず口を叩いてくれれば私もいつもどおりに冗談で返せるのに、なんでそんな態度見せちゃうのばか謙也。恥ずかしいったらないじゃない。どきどきと高鳴り始めたこの小さな胸の音ももしかして謙也に聞こえているんじゃないかとありえないことを心配していると、彼は相変わらず落ち着きのない様子で突拍子のないことを口にした。

はやな、その……き、キス、とか、し、し、したこと、あ、あ、あるん、か」
「えっ!?」

学習せず、またもひっくり返った声が出てしまった私はなんて間抜けなのだろう。でもだって、まさかこんなど直球な質問がすきな人からされるとは思ってもみなかったんだ。…どうしよう、恥ずかしすぎてまともに反応出来ない。頭はいっそ清々しいほどに真っ白になったせいで、金魚のように口をぱくぱくさせている。うまい返しも思いつかない。

「な、ななな…っ!そ、そん…っ!………っ!!」

予想外の展開に驚いてつい顔を上げてしまったせいで謙也の顔を凝視するも、キスしたことある?という思春期にはとても張り裂けてしまいそうな質問を彼はよく出来たものだ。だけど謙也は謙也で動揺丸出しのように噛み噛みな口調だったし目も泳いでいたものだから、きっと口にした張本人も恥ずかしくて死にそうな思いをしているのだろう。だったらしなきゃいいのにと思いつつも、けれどどこか自分の中で何かを期待していることに気が付いて、慌ててそれを振り払うように早口で返答をした。

「あ、あるわけないじゃん何言ってんの!」

あるわけない、というのを強調するようにブンブンと手を振って「本当にしたことないですよ」という仕草をしたところで気が付いた。…しまった、全否定してしまった!後悔するももう時すでに遅しというやつで、謙也は私の返答を聞いて露骨にほっとしたような反応を見せた。…ような気がして、ちょっとどきどきした。もしかして謙也もなんだかんだ言って私のこと想っててくれてたりして、なんて考えてしまって。でも分かっている、きっとこれは私の恋心が暴走していい方向に解釈してしまっているだけなのだということくらい。ばかで単純な私のフィルターは、謙也の何気ないちょっとしたことでもすぐに勘違いをしてしまう。

大体さっきもそうだ。キスしたことあるのという何気ない質問を瞬時に「えっこれもしかしてキスしてくれるの」なんて思考回路が働いてしまった私を私は馬鹿野郎と言って渾身の力を込めて殴りたい。どこをどう解釈したらそんなふうに考えられるのか。まあ軽いパニックを起こして何を考えることなく口がべらべら動いてしまったからきっと気付かれてはいないと思うけれど。…いや、下手をしたら、ださいとか遅れてるとか、そんなことを思われているかもしれない。そんなことを考えたらいてもたってもいられなくて慌てて口を開く。私は生意気に反抗するしか誤魔化す術を知らない。

「そ、そういう謙也は、ど、どうなの」
「な、何が」
「や、何がってだから、その、えっと、謙也もさ、ほら、き、キスとか、し、したこと、あるの」
「なっ!?おま…っ!」

ぼんっと勢いよく爆発するかのように顔を赤くした謙也はひどく動揺していて落ち着きがない。ああもう、そんな謙也を見ているこっちも緊張がうつってきてしまうものだから少しは落ち着いてほしいというのに。なんだか背中が熱くなってきてしまった。うずうずする。無意味に上履きを擦り合わせながら辛抱する一方、謙也は相変わらずパニックに陥っているようで、「おま、何、…っ!ちょ、そん…っ!!」とか訳の分からないことをスピードスターという肩書きを表すような速さで口にしている。どうやら心底慌てているらしい。凄まじい気迫で口を開き、下町のおばちゃんのようなマシンガントークを披露した。

「う、うっさいわ俺かてしたことあらへんっちゅー話や悪いか悪いんかそもそもあったらどんなんなんやろーとか考えんわアホこんなん言わすなや!」

そ、そうだね、ごめん。そう口を挟む隙さえ与えず、謙也はひたすら口を動かし続ける。

「大っ体!中3でキスしたことある奴39.5%とか嘘やろなんやこの記事喧嘩売っとんのんか2、3人に1人経験あるってどういうこっちゃ計算合わんっちゅー話や!」

どうやら動揺した謙也の矛先は質問をした私ではなく、そもそもの話題を提供した雑誌へと向けられたらしく、バシバシと机の上の雑誌を叩いている謙也は完全に我を見失っている。妙に饒舌だった。一方の私も、普段そんな彼と負けず劣らずの口を装備しているはずなのに、どうしたことか今日に限っては妙に大人しい。…緊張のあまり、口が動かなくて。

一方的に口を動かし私から何の反応もないことに気付いたらしい謙也も、しばらくマシンガントークをかましていた口をつぐみ、俯いた。そうして異様な空気になってしまったことを詫びてきたものだから、私は一層心臓を弾ませる。私は随分と熱くなった顔をふるふると小さく左右に振ることくらいしか出来なかった。

しんと静まり返る教室は久しぶりで、だから私はどうしたらいいのか全く分からなくなってしまう。本当は日誌を書いて先生に提出しなきゃいけないのに、シャーペンを握りしめる右手に力が入らなくてそれも出来そうにない。ひとつの机に向かい合って座っているせいでいつもより近いこの距離で、私はどう落ち着けと言うのか。謙也も何か言えばいいのに黙り込んでしまうから、私はまだむず痒さを抱えたまま机の上に転がった消しゴムを凝視する。熱い。

脳までデロデロに溶けてしまったのだろうか。そう思わずにはいられないくらい私の頭はもう正常に動いてはくれないらしい。だからもういっそどうにでもなれと半ばヤケになりながら、突拍子のないことを口にしてしまった。

「こ…ここにいる2人、どっちもキスしたこと、な、ないのにね」

ばくばくと心臓が五月蝿いせいで、随分上ずった声を吐き出してしまった。それもこれも全部謙也のせいだ。恥ずかしくってもうやめてほしいなんて思ってたくせに、自ら話を蒸し返すようなこと言っちゃったのも、全部全部謙也のせいなんだから。そんなにキスしてみたいなら私でしてみればいいのになんてことを考えちゃうものも、全部全部謙也のせいなんだから。ばかばか、謙也のばか。人の気も知らないで。そんな八つ当たりのことを考えていると、まるでその心の声を拾い上げたかのようなタイミングで謙也が口を開いた。

「せ、せやな。ほ、ほな、その………あれや」

普段はハキハキ喋るくせに珍しくごにょごにょと不明瞭な声を出したその人物をこっそりと見やると、なにやら気恥ずかしいのか照れた横顔を見せて首の後ろを掻いている。そうして時よりちらちらと様子を伺ってくる彼の左目は私の瞳を捕えた瞬間はっと我に返ったように即座に逸らされてしまった。そんな態度をされるものだから、私はぎゅっとスカートを握りしめる。皺になってしまうことなんて構っていられない。

「お、俺らも今、その、し、してみるか?」
「えっ」

な、何言ってんのばかじゃないの。

そう震える声で口にしようと恐る恐る顔を上げたところで息を吸い込んだものの、そこで何も口にすることが出来ずそのまま息を飲んでしまった。耳まで真っ赤に染め上げた謙也が照れ臭そうな目をしてじっとこちらを見ているから、私はもう何も言えなくなってしまって。恥ずかしくて仕方ないはずなのに、だから視線なんて向けたくないくらいなのに、何故か瞳に吸い込まれるみたいに目が逸らせない。だから私は思わず返事をしてしまった。

「う…うん……」

蚊の鳴くようなか細い声で同意してぎこちなく頷いてみたけれど、どうも全身が熱くて仕方がない。心臓は和太鼓みたいなボリュームでドンドン叩いてくるくせにハイスピードで、私も遂にスピードスターの仲間入りでもしてしまったようだった。どうしよう私、死ぬ。死んでしまう。謙也も冗談なら冗談だと早く暴露してしまえばいいのに、なんでこんなときに限って真面目な顔をしているんだろう。…や、嘘。本当は冗談だなんて言わないでほしいよ。だってそんなことになったら私、泣いてしまう。でもだって、状況がよく分からない。現実とは思えなくて泣きそうになるのに、でもなんでかにやけちゃうじゃない。私の返答を聞いて「お、おう」とぎこちなく頷いた謙也は、相変わらず耳を赤くしていた。これも全部冗談なら、きっと謙也はアカデミー賞ものの俳優になれる。

「ていうかちゅーって、ど、どないすればええんやろ。な、ななななな、なんかこれ、やり方とか書いてへんのか。えっと、手順とか、角度とか」
「そ、そんなの、あ、あああ、あるわけないじゃん…っ!て、ていうかあの、これ息とかどうすればいいの」
「と、止めるんちゃう」
「なにそれ死んじゃう」
「俺も死ぬっちゅー話や」

どうやらキスとは粘膜と粘膜をくっつけるだけではなく、生命の綱渡りをする行為のようだ。でもあの、映画とかドラマとかはやたら長時間口くっつけてた気がするんだけど、なんて沸騰寸前の頭で考えてみるも、きっと彼らは両生類か何かでエラ呼吸をマスターしているに違いないというとんでもない結論しか至らない。冷静になって考えてみるとエラ呼吸が出来るのは両生類じゃなくて魚類だしそもそも人は肺呼吸しか出来ないというのに、私達は完全にパニックに陥っている。色々論点がずれてきてしまった。修正が出来ない。そもそも今私達が考えていることも、きっと着眼点が間違っている。

「エ、エラ呼吸ってどうやったら出来るんだろ」
「わ、分からん。と、とと、とりあえず、ネット検索したら出て来るんちゃうん」
「う、うん。そか…っ!」

慌ててポケットに無理やりねじ込んでいたケータイを引っ張り出して言われた通りネットを立ち上げてみるけれど、どれも人間にエラ呼吸は不可能だとか遺伝子がどうとか進化の不可逆性の法則うんぬんとかよく分からない理屈が並べられていて思わず目が点になってしまった。まあ要するにさくっとまとめると、私達はエラ呼吸することは不可能らしい。さっそく前途多難だ。

「あかーん!全く分かれへん!」

随分イラついてきたらしい謙也はうなだれたようにばたりと日誌が置かれていた机に突っ伏した。お陰で私は一切日誌が書けなくなる。(いや、元々放置していたのだけれど)どうにもこうにも私達にはキスなんて行為、世界の有名教授が頭を抱えて説く数学問題よりも遥かに難しく、なおかつ重大な問題だった。大きな壁は重くのしかかり、早速現実を突き付けられたような気がする。まるで神様が、お前達にはまだ早いと言っているように思えた。

そもそも冷静になって考えてみると、付き合ってるわけでもないのにキスするのはどう考えてもおかしい気がする。そう頭では思っていても、すきな人を前にしては決して口にすることは出来なかった。おかしいって分かってても、私、なんでもいいから謙也とキスしたい。ぎゅっとスカートを握る。いつの間にかケータイで検索の作業に勤しんでいたせいで解放されたシャーペンはいつの間にか机の右隅に追いやられて、今にも落ちてしまいそうだった。

「…なあ」

ふと、謙也が声を掛けて来た。ふと顎を引いて見下ろしてみると、相変わらず机に突っ伏したままの明るい色の髪が目に入る。思わずそれを撫でたい衝動に駆られるけれどぐっと堪えながらなんでもない声で「なに」と簡潔に応えてみるけれど、やっぱり謙也は顔を上げないままだった。心臓がバクバクと騒がしい。嫌な予感がする。

「(もしかして、やっぱやめようって言われちゃうのかも)」

そんなことを考えたら喉の奥がきゅっと詰まって目が熱くなった。だけどそういう結論になるのは当然というものだ。だって私達は別に恋人同士とかそういうのじゃないし、そもそもキスしようかっていう流れの発端も「お互いしたことないしなんとなくやってみたいから」という、謙也からしたら一種のノリというか思春期の気まぐれと言うか、その程度のものだったはずだから。でも私は、私は。スカートを握りしめている右手を左手で包み込み、爪を食い込ませるように力を入れてみる。痛い。だけどこうでもしていないと泣いてしまいそうだったから、私はひたすら爪を立てる。もしかしたら跡がついてしまっているかもしれない。

「その、結局よう分からんかったけど、その、あの、なんや」

言いずらそうに切り出している謙也は目を泳がせて、決して私と視線を交わそうとはしなかった。逆にそんなふうにしてくるからこそ私は嫌な予感がしてならない。キスしようってあれ、やっぱやめよう。そう言われてしまいそうな気がして。特別勘が良いわけでもない私も、今回ばかりは胸騒ぎがしてならない。この小さな胸にどれだけ大きな心臓が備わっているのかと不思議に思ってしまうほど全身に鳴り響く鼓動に嫌な汗を掻く。そうしているうちに謙也は視界の隅に入ったらしい今にも落ちそうなシャーペンを拾い上げて無意味にカチカチとシャー芯を出していた。じっとその様を見つめている彼は相変わらず頬を赤くしている。

「えーっと、なんちゅーか。……キスしてもええやろか」
「えっ」

予想していたものと180度違う台詞に思わず裏返った声が出てしまった私は自分の耳を疑って、ぽかんと謙也を見つめるしかない。…今なんて言ったの。これ本当はドッキリで、どこかに隠しカメラが設置されてたり、はたまた他の男子がどこかに隠れてるんじゃ、なんて考えて無意味にきょろきょろしてみるけれど、それらしいものも人の気配も、この教室には見当たらない。口を半開きにしたままもう一度謙也を見やると、やっぱりどこか気恥ずかしそうに目を逸らしていた。…じわじわと侵食するように湧き上がってくるこの感情はなんと表現すれば良いのだろう。すきな人からそんなことを言われたらきっと嬉しくてにやついてしまうんだろうだとか恥ずかしくて泣いてしまうんだろうなんて思っていたのに、どちらかというとそんな感情より本気で言っているのか半信半疑になってしまっている自分がいる。全くもって可愛くない。そんな私に、謙也はようやく引っ付いていた机から上半身をお越し、半ば八つ当たりするかのように「な、なんか反応しろや!」と突っかかってくる。スピードスターは逆切れもお手の物のようだった。

「一人黙りこくってからに!俺めっちゃ恥ずかしいやんなんやこれ!」
「だ、だってなんか謙也が突然変なこと言うから!」
「変なことってなんやもしてええってさっき言うとったやろ!」
「そうだけど改めて言われると恥ずかしいって言うか!」
「そんなん俺かて同じやアホ!」
「な!」

大袈裟なまでに反応してしまった私に、謙也は何を勘違いしたのか「アホにアホって言って何が悪いっちゅー話やー!」と普段通りの口調で喧嘩を吹っかけてくるけれど、私はいつもどおりに反応なんて出来ず顔を熱くしてしまったものだから、彼は驚いたように狼狽した。どうやら謙也はキスのくだりのことに動揺したと勘違いしたらしい。

「えっ、えっ、な、なん…っ!なんや…!時間差で反応すんなっちゅー話や!」
「べ、別に!そういう意味じゃないし!」
「ほ、ほななんや!」
「な、なんだっていいじゃん…!」

ああだめだ、なんて可愛くない口なのだろう。いっそ誰か、私の口が開かないように魔法を掛けてくれたほうがいい。謙也の前だといつも素直になれないから。本当は、私だけじゃなくて謙也も恥ずかしかったらしいとことを知って嬉しかっただけなのに、そんな簡単な一言も捻くれ者の私は言葉にすることが出来ない。ムードもへったくれもないじゃないか。そうして私はいつも頭を抱えて後悔するのが日常茶飯事と化していたのだけれど、今はそんなことを言ってられない。だって少なくともこんな状況もう二度と訪れることはないのだから、後で悔やむようなことをしてはだめだ。

「だ、だから、なんていうか、その……っ」

謙也のことはもう見れなくて、自信なさげに左右に泳ぐ目は次第に俯いていった。そうしてスカートの上で自分の手をぎゅっと握るさまをひたすら見つめる私に、目の前の彼は不思議そうな視線を寄越している。ような気がする。きっと、「なんやはっきりせえよ」と言いたいのだろう。謙也は時間を無駄にすることを何より嫌っている。それを知っているから、私は死にそうなくらいに全身を熱くさせながらも決死の思いで口を開いた。

「…………け、けんやもはずかしかったんだなって思って、あの、なんていうか。お、同じだったんだなって、お、おも…っ!思ってっていうか……そ、そういうこと、だから……!」

こ、こんなこと言わせないで。そう震える小さな声で付け足すも、一向に謙也から反応が返ってこない。人にはあれだけリアクションを求めていたというのにどういうことなんだ、矛盾していないだろうか。もしかしてドン引きされたとか、とびくびくしながら俯いていた顔をそっと見上げてみると、謙也は顔を真っ赤にしながらフリーズしていたものだから思わず私も同じような状態で固まってしまった。

「(な、何…っ!)」

いっそ「反応しないでよばか!」とまた減らず口を叩いてやりたいのにそれが出来ないのは間違いなく見事に過剰反応をした謙也のせいだ。お陰で妙な沈黙が訪れ、私はもうくすぐったくて仕方ない。あまりの生き地獄にいっそのこと殺してくれと思ってしまうほどに。でも実際本当に人生にピリオドを打つのはたまったものじゃないのでとりあえずまた俯いてこの空気を乗り切ろうとしていると、時間差で我に返ったらしい謙也はまたやたら噛んだ口調で「え、あ。うん」と意味不明な相槌を打ったのが聞こえた。おそらく彼の頭は未だフリーズから立ち直れず、正常稼働していない。

また暫く無音が続いたのち、謙也は「えっと、え、ええのんか」と遠慮しがちに尋ねる。そんな、聞かれるこっちも恥ずかしいんだから、何度も何度も確認しないでほしいと心の内で叫びつつ、こくんと控え目に頷いた。顔はやっぱり上げられない。私絶対爆発する。珍しくしおらしい反応をする自分が、なんだか自分じゃないみたいだ。そんな私が恥ずかしくて俯いたままぎゅうっと固く目を瞑っていると、ふいにカタンと椅子が床に擦れる音が聞こえてくる。何、と思っていたら、ふいに机の下で謙也の足とぶつかった。どうやら謙也が距離を縮めるように座り直したらしく、その関係上収まりきらなくなった足が私の机の下に収納されたらしい。思わず縮こまりながらもそっと距離を狭めてきた彼の様子を見やると、先程より明らかに30センチは違うであろう距離の中に謙也の顔を発見したものだから、私は一瞬息をするのを忘れてしまった。思わず後ろに下がりそうになるのを必死に我慢する。謙也、冗談なんかじゃなくて、本気、かもしれない。ドッドッドッとすごい勢いで心臓が鳴り響いた。謙也に触れている右足が熱くなる。どうしよう、どうしよう。ひたすらそんな問いを頭の中で駆け巡らせてみるけれど、勿論答えなんて出るわけもない。嬉しいような今すぐ逃げたいようなよく分からないまま私は謙也が近づいてくるのを黙って見守るしか出来ない。

「……は、はよ目ぇ瞑れや」
「け、謙也こそ…」
「………………………」
「………………………」

沈黙したまま至近距離で見つめ合うと言うのはこれまた随分心臓に悪いことを。でも自分が目を瞑った姿なんて私は見たことがないし、ていうか絶対間抜け面とか思われるんだろうし、そしたらもう私死んじゃうし。なのにお前が先に目瞑れというのはイコール死刑宣告そのものだった。

「(ていうか、息もまともにできない)」

息がかかっちゃうんじゃないかとか、もしかしてにおいとかあるんじゃないかとその他色々不安を覚えてしまった私は、まるでヨガでもやっているかのように長く細い呼吸を必死になって繰り返していた。ていうか苦しい。吸うのはいいけど吐くのがスローペースって何これ死ぬ。心臓もやたらせっかちなのはこれのせいもあるんじゃないだろうか。そう思わずにはいられない。だって、だって。

こんな息がかかる距離に謙也がいるなんて、未だかつてなかったんだから。緊張しないほうがおかしいっていう話だ。どうしようどうしよう。私、どうしたらいいんだろう。こんなに近くに謙也がいると言うのに、私は精一杯視線を右に流して目を逸らしてばかりだ。悲しくなんてないはずなのに、気を緩めれば今にも泣いてしまいそう。だってもう、この距離感耐えられない。直視出来ない。恥ずかしすぎて爆発しそうだ。いっそ薬局でパックか何か買ってスキンケアでもしていればよかったのかもしれない。こういうとき日頃の女子力が試されるのだろうか。勿論全て時すでに遅しというやつなのだけれど。

「け、けんや…あ、あの……、」

ドッドッドッと全身で鼓動を感じる私の体は完全に謙也に支配されている。だって私がどきどきしたり緊張したりいっぱいいっぱいになったりするのはいつだって謙也のことなのだから。そんな謙也とキスとか、私、わたし。

「…うん」

うまく言葉にならず途切れてしまった私の声もご丁寧に拾い上げた謙也は、まるで私の不安や緊張を察したかのようにぎこちなく名前を呼ぶ。お陰で大袈裟なまでに肩を震わせてしまったけれど、これは緊張してるの丸分かりじゃないか。内心動揺しつつ、もしかしたらからかわれるかもしれないと予想する。ムードもへったくれもありゃしない。もっと可愛い反応が出来たら良かったのにと自分自身を全力で呪っている私に、謙也は引き続き声を掛ける。

「目、瞑れ」

文字だけみれば随分強気で強引な台詞だと言うのに、少し震えた声のお陰で、彼もまた緊張しているということをありありと伝えていた。こういうの、本当はもっと落ち着いて言うから女の子はきゅんとするんじゃないの?と思ってみたりしたけれど、それでも謙也も私と同じで、こんなに緊張してどきどきしてるのは私だけじゃないということが分かったような気がして、だからちょっと情けない謙也だけれど嬉しくてたまらない。

どうしよう。すき。私ほんとに謙也のことすき。

次から次へとすきが溢れて仕方がない。人はオーラを放っていると言うのなら、きっと私のそれは、愛なんてまとめるにはきっとチープでこどもっぽいであろう謙也への想いで埋め尽くされているに違いない。ずっと逸らしてばかりだった瞳を正面に向けてみたいけれど、そんなことをしたらどう考えても謙也と目が合うのは確実で、今そうしたら確実にフリーズしてしまうのが目に見えているから、羞恥に耐えながら、言われたとおり目を閉じる。緊張のあまりぎゅっと固く瞑ってしまったけれど、変な顔だと思われていないだろうか。それだけが心配でならない。そういえば私、さっきからどうしたらいいのかって悩んでばっかりだ。

…」

緊張ゆえか少し掠れた小さな声で呼ばれた私の名は、今までで一番甘い響きがした。どうやら目を閉じているせいで、聴力が敏感になっているらしい、校庭から野球部の廊下から風に乗って金管楽器の音色が聞こえてくる。その音がなぜか世界で私達だけになってしまったかのような気分に仕立て上げた。

すきな人にキスされるなんてシチュエーション生まれて初めてで、そわそわして、加えて目を瞑っているものだから、こんなことになっている今でも状況が掴めていないままでいる。例えば謙也と私の唇の距離は何センチなんだとか、謙也は今どんな顔をしているのか、とか。知りたくて知りたくてたまらないのに知ることのできないもどかしさに私は悶えるしかない。ぎゅうっと自身の手を強く握った。

「(ま、まだ?まだなの?お、遅くない?それともこんなもんなの?それとも死ぬときは全てがスローモーションに見えるあれみたいなやつと同じなの?)」

たった数秒のことなのに、随分と長く感じてしまうのはなんでなのだろう。早くキスしてほしい。いっそのこと私からしてやろうか。そしたらきっと謙也、びっくりする。驚いた顔も見てみたい。でもどうせなら、やっぱり謙也からキスしてほしい。口に全神経を集中させていると、そこより遥か上に位置する額に衝撃を受けた。ごんっと、それはそれは見事な音がしたのである。何事か!と思った頃にはもう遅かった。私は謙也に、見事な頭突きを食らわされたらしい。衝撃のあまりくらあっとした私は、もう訳が分からず「いたっ」と無意識に口から溢しながら強打された自分のおでこを両手で抑え込む。

も、もしかしてやっぱりからかわれてたんじゃ!なんて泣きそうになりながら考えていると、すぐさま「あっすまん!目瞑っとったら分からんくて…!」とすぐそこから聞こえてきた謝罪の声があったから、どうやらそういうことではないらしい。心臓に悪すぎて吐きそうだ。漫画とかドラマとかではこんな馬鹿みたいな展開なかったしすごくロマンチックだったのに、現実は程遠い。なんだかイライラしてきてしまった私は、遂に我慢しきれず目を開けてしまった。なんてばかばかしい。

「もー…!謙、」

と、中途半端なところで言葉がつっかえて途絶えてしまった。うっかり仕出かしてしまったからだ。私が。あれだけこの至近距離で謙也を見たら死ぬと言い聞かせて来たくせに、うっかり目を開けてしまったから。「あ」口から漏れてしまった間抜けな言葉は謙也と見事に重なって、ただただお互いまっすぐに瞳に吸い込まれていくしかない。謙也。謙也がこんな近くに。分かっていたはずなのに改めて実感してしまった私の体温は再び爆発的な急上昇の一途を辿る。そんな私の頬はきっと心底熱くなっているだろうに、謙也は左頬に右手で包み込んだ。だけど私は、恥ずかしくて何も言えない。見つめ合うことすら出来なくなって、きゅっと唇の内側を噛んだ。

「(謙也、そんな真剣な目しないでほしい…)」

だって普段の私達、そんなふうじゃないんだもの。だからいつもと違った謙也に見えて、素晴らしく緊張してしまうんだもの。小さく頷きつつそっと手を伸ばし、私の頬に触れている彼の左手の手首の下辺りを控えめにそっと触れてみる。すると分かりやすいくらい反応した謙也はびくりと腕を振るわせたものだから、もしかしたら私より緊張しているのかもしれない。そんなことを考えたら小さく笑ってしまった。

「な、なんや。何を笑っとんねん」

こんな状況で、と付け加えられてもなんらおかしくなさそうな台詞を寄越してきた謙也は、なんだか動揺しているのか怪訝そうにしているのかよく分からない顔をしている。流せばいいというのに、どうやら随分彼は気にしているらしかった。…やっぱり謙也は謙也だった。そんな当たり前なことを考えては思わず笑みが零れてしまう。

「ううん、なんでもない」

あ、しまった。いつもどおりの口調で答えたかったのに、やっぱり笑いを含んでしまった。やっちゃったかなと思いつつ、それでも溢れる笑みは止まらないからどうしようもない。謙也は眉間に皺を寄せて「そないなこと言うとったらほんまにちゅーしたるっちゅー話や」とどこかヤケになっている声で返してきたものだから、私もまるで売られた喧嘩を買うように言ってのける。

「うん、してみればいいじゃん」

きっとはたから見たら冗談を言い合っているようにしか聞こえないであろう何気ない台詞も、私は死んでしまうほどに緊張しているだなんて誰が気付けようか。「うん」ってところは声が震えてしまっていたし、「いいじゃん」の「じゃん」なんて若干声が上ずってしまったように思う。いい加減平常心というものを手に入れたいものだ。心臓は相変わらずフルスピードで駆け出しているし、震える喉でまともに話すことも出来ないと言うのに、実はさっきよりかはピンと張りつめていた心の紐が緩んでいる。ような気がする。いや、実際緊張はしているのだけれど、そのレベルがほんの少し収まったと言うか、いや、それを緩んだと言うのかな。だめだ訳が分からなくなってきた。でもさっきに比べて優しい気持ちで満たされていると言うのは事実であり進歩のような気がする。

売り言葉に買い言葉のような展開でこんなことになったけれど、正直私達は完全に空気に流されているけれど、それでも自然と近づくその事実が嬉しくてしあわせに感じてしまっていたりする。こんなこと、きっと誰にも言えやしない。クラスメイトにも、相談相手の白石くんにも。

──しかし唇は重なることなく私達は現実に引き戻されることとなってしまった。毎日聞き慣れているチャイムの電子音が、まるでタイムリミットを知らせるベルのごとく鳴り響いてしまったのだ。どうやら下校を知らせるチャイムらしい。3年2組の教室のみならず廊下からも聞こえてくるそれに、我に返ったのは私だけではなかったらしい。

「…あ」

二人揃ってユニゾンした。もしかしたら12時の鐘が鳴ったときのシンデレラはこんな気持ちだったのかもしれない。夢の世界にいたかのようなふわふわしていた感情が一気に現実に引きずり戻されたこの感覚、どうしようもなくむなしい。空気に流されたということはすなわちひょんなことから簡単に流れを断ち切られてしまうということで、つまり私達は舞踏会は続けられない。魔法は完全に解けてしまったのだから。ガラスの靴なんてどこにもないというのに。

いつの間にか目を開けていた私達は、まるで今までの甘い空気が嘘だったように顔を見合す。そうしてお互い何を言うまでもなくそっと離れ、日誌を書き始めた頃と同じ距離をとる。まるでキスしようかなんて幻想が、最初からなかったように。私も謙也も一言も口を開いていないけれど、きっとお互い場面が断ち切れたことを察してしまっていた。

「…俺、部活行くわ。日誌も大体書き終ってんのやろ。…後頼むわ」
「…う、うん。提出しとく。私も書き終ったらすぐ、帰るから」
「ん」

そう簡潔な会話を交わしたら、謙也はテニスバッグを肩に掛け席を立ち、そのまま教室を去ろうとしていた。だけど私はそれを見送るべく顔を上げることも、「バイバイ」なんて挨拶を口にすることすら出来そうにない。だってこれ以上口にすれば、必死に耐え抜いて抑えてきた何かが途端に壊れ、泣いてしまいそうだ。だから謙也への返答も随分と低くて冷たい音になってしまったように思う。不機嫌だと思われたりしてしまったらどうしようかと考えたらまた目頭が熱くなってしまった。じわりと潤んで滲んだ視界気付いて、慌てて目を擦った。

謙也が行っちゃう。

冗談を本気にした馬鹿な尻軽女とか思われたらどうしよう。愛想尽かされたら。避けられちゃったりして。もし友達でもなくなっちゃったら私、私。次から次へとマイナスなことばかりが浮かんできては私の小さな胸を締め付ける。痛い。痛い。

「──あ、あああ、あの!…っ!」

突然掛けられた謙也の声に肩を震わせる。びっくりしておそるおそる顔を上げてみると、そこにはドアの真ん前で、「その、なんちゅーかやなあ」と顔を真っ赤にしながら言葉を濁らせている謙也の姿を発見した。おまけに視線はあっちこっちに彷徨っていてまったくもって落ち着きがない。

「な、なに…っ」

泣きそうになっていたことを気付かれたくなくて、必死になって強気な声を引っ張り出してみたものの、やっぱりそう簡単に自分を偽れないらしい、少し震えていたような気がする。謙也は人のそういうところを敏感に気付いてくれる人だから、もしかしてバレちゃったかも、なんてどきどきしてみるけれど、肝心の彼はやっぱりひたすら目を泳がせて私を見ようともしていない。もしかしてさっきのがあって気まずさを感じているだけなのかもしれないけれど、逆にそんな態度を取られると私のマイナス予想が的中してしまったような気になって不安になってしまう。

つかつかつかっと早足でこちらに戻ってきた謙也に思わず身じろいしつつ、「え、ちょ、何」と問いかかけてみると、「か、勘違いすんなや」とすぱっと言い放ってきた。…かんちがい。すとんっと降りてきた言葉は私の不安要素を全て肯定していたように思えて何も反応出来ないでいる。急に涙腺が潤み始めたまま、呆然とけんやを見上げた。目の前の彼は相変わらず落ち着きのないハイペースな口調で少したどたどしく答える。

「俺はその、あれや。…きょ、興味ない奴と、その、ちゅーしたいとか、お、思わんし、そ、そもそも!言わんっちゅー話、や…っ!」
「へ」

間抜けな声が出た。頬を真っ赤にした謙也が気恥ずかしそうにじっと見つめ返し、ぽかんと口を開けたまま見慣れたクラスメイトを凝視するしかない。うっかり涙も引っ込んでしまった。…え、なに、何言ってんの。頭でも打っちゃったんじゃないの。謙也が口にした内容を消化することが出来ないままそんなことを考えていると、特にこれと言った反応がないまま無言で視線を注がれていることに痺れを切らしたらしい謙也は、真っ赤に染め上げた顔を隠すようにぐるんと180度回転して背を向けてしまった。けれど尻尾隠して尻隠さずというやつで、確かに顔は見えなくなったけれども赤い耳たぶはしっかり目に入っている。そして背を向けたまま、謙也は早口に言う。

「そ、そういうことやから、あ、明日!避けんなや!?ほ、ほな俺部活行くわ!」

まるで捨て台詞のように言い放った謙也は、そのまま慌てたように教室を飛び出し、バタバタと大きな音を立てて去って行ってしまった。きっと宣言どおり部活に向かったんだろう。…私も帰らなきゃいけないはずなのに力が入らない。立ち上がることすら出来ない。今起こったことが把握出来なくて。謙也が去って誰もいなくなったドアをぼうっと見つめる。ブラバンが全体練習を始めたのか、ジャンッ!と大きな音を立てたところでやっと我に返った。

「(え、ええええ…っ!)」

収まったと思っていた頬の火照りがなぜだか急に掘り返してきたものだから、私は慌てて両手で顔を覆うしかない。だ、だって、なに!何を最後に爆弾を投下していったんだ謙也は!興味ない子にキスしたいとか言わないとか今の完全に、でもだって、だってだって、今までそんな素振りひとつも見せなかったくせに。顔見合わせればちょっかい出して喧嘩して、ちっちゃいことで馬鹿みたいに笑い合って。そんな、恋愛感情持ってたのは私だけだと思ってたのに。今のキスしようってやつだって、ただの気まぐれなんだろうって。なのに。なのに。

なんだかもう何が現実で何が妄想なのか分からない。でももし謙也が私のことをすきだというのなら、一体いつから私のこと思っていてくれたというのだろう。ちゃんとそこらへんを詳しく聞かせてほしいのに、なんで逃げちゃうの。一番肝心なこといつも言わないで、変なところでスピードスターとかふざけてる二つ名フル活用しちゃうんだから。そういうところがだめだっていうのに。でもそういうちょっとヘタレで、でも誰より優しくて人懐こい笑顔が、私は。

いてもたってもいれなくなった私は慌てて席を立ち、全速力で踊り場に向かう。教室は2階だし、足が速い謙也はもうとっくの昔に降りきってしまっただろうか。もう昇降口で靴を履きかえてしまっているだろうか。今私がここで何を言っても彼の耳に届くことはないのだろうか。でもそれでも、こんな風に勘違いをされたまま終わるなんて私には出来ない。だって明日でいいやなんて言ってたら、「避けるな」と言っていた謙也のほうが私に距離を置いてしまうかもしれない。タイミングも分からず結局何も口にすることなく終わってしまうかもしれない。そんなの絶対いやだ。いやだもん。いやなんだから。だから階段の手すりを掴み1階昇降口に向かって、私は出る限りのありったけのボリュームで思いきり叫んだ。

「わ、私も謙也がすきだばか!」

その直後、ドンッ!だとかガシャーン!とかいうとんでもなく大きな物音が昇降口から聞こえたような気がした。





舞踏会には戻れない






20120910 ※登場した統計結果に、正確な調査は含まれておりません