「(逃げて来ちゃった…)」

ピアスの少年の鋭い視線にひるんで思わずその場から飛び出すように出てきてしまったことを少し後悔している。一応布巾を洗ってくるという口実は作ったものの、きっとあの場は白けてしまったに違いない。…どうしてこんなにうまくいかないんだろうか。出来ることなら仲良くなりたいのにと溜息をつく。とりあえずこの布をどうにかせねばと台所を目指して廊下を歩いていると、何やら向かいから話し声が近づいて来た。なんだろうかと何気なく顔を上げると、先程漫才を披露した2人組が今度は制服姿で目の前に立っている。どうやらキンキラキンと光り輝く衣装から着替えていたらしい。そして向こうも私に気付いたようで、目をぱちくりさせていた。

「あらら、ちゃんやないのー。どないしたーん?」

眼鏡の彼のピンク色の花を散らすような物腰の口調に、やっぱりこれはお笑い用じゃなくて素なんだなと再認識する。なかなか向こうではいないタイプの人だ。少し戸惑いつつ、しかし少し緩んだ緊張感から「えっと…」と遠慮しがちに口を開くと、ふと注がれる視線に気が付いてしまった。先程ユウくんと呼ばれていた彼が、何気なく私を見やっているのだ。その瞬間、先程の物騒な光景が脳裏をよぎる。さあっと血の気が引いた気がした。

こおらああ小春うううう浮気かー!死なすどーっ!どー!どー…どー……………

無駄にエコーが掛かって繰り返し脳内に響き渡るその台詞は、私の体を再び凍りつかせるのに十分な威力を持っていた。途端に「あ、ああああ、あの、」とおびえた口調に変わり顔を青くする私に、向かいの2人組は揃って首を傾げている。彼らは不思議そうにきょとんと見合っては、心配そうにこちらの様子を伺っては距離を縮めた。





が脱走した。

いや、脱走なんて物騒な表現はあまり響きがよろしくないのだが、その名の通りという少女が顔を青くながら慌てて広間を飛び出してしまった。溢したお茶をたっぷり吸いこんだ布巾を握りしめながら。おそらく、とある人物からの重圧に耐えきれなかったのだろう。…いろんな意味で。

「…財前、睨んだらあかんがな」
「もともとこういう顔っすわ」

つっけんどんに返す2年は相変わらず飄々としており、やれやれと言わんばかりにわざとらしい溜息をついてみるも、財前は気に留めている様子はない。そういえばこいつは初対面の相手はガン見する妙な癖があったことを今更ながら思い出した。…そしてそれは、おそらく男子が苦手でもそうでなくても、大抵の女子は怯えてしまう気がする。財前もただ不器用で、他人との距離感を掴むのが苦手なだけなんやけどなあと考えていると、隣に座っていたゴンタクレが突然おもむろに立ち上がった。

「鬼ごっこやなー!ワイもやるでー姉ちゃん!」
「あっ、こら金ちゃん!」

あかん!いくら人懐っこい金ちゃんでも、今行くのはあかん!制止を呼びかけ手を伸ばすも、あいにくすばしっこいルーキーはあっという間に広間を走り去っていってしまった。そもそも人様の家の中を走ったらあかんと何度言えば!しかも襖は静かに開けなあかんと前にも注意したはずなのに、廊下からはスパアン!だとか、ドゴン!だとか、と本来なら聞こえるはずのない妙な音しか聞こえない。むしろ渡邊家を壊してしまうのではないかと他のメンバーも顔を青々としている中、千歳だけが「まるで、2階の階段を探すメイみたいやね」と言って、妙に目を輝かせて嬉しそうだった。ツッコミどころが違う。





結局目立つ騒音を発生させていた張本人である金太郎は早々と捕獲され、尻尾を垂らした犬のようにしょんぼりとしつつも罰は免れず、見事に正座の刑に処された。しかしものの1、2分で限界が来たらしい金ちゃんは見事に泣きそうな顔をしていたのが記憶に新しい。(見かねたばあちゃんは「別にうちは構へんのに」と言ってくれていたけれど、そういう問題じゃない。)もっとちゃんとしつけなあかんかなあとまるで親のように考えながら廊下を歩き、きょろきょろと辺りを見渡してみる。結論から言うと、捜索隊として駆り出されてしまった。金ちゃんではなく、ばあちゃんに。「白石くん、ちょっとの様子見に来てくれへん?」と。自分よりばあちゃんが行った方がにとっては良いような気がするのだけれど、断るにもそれらしい理由が見つからず、結局そのまま席を立って早数分が経過しようとしているというわけだった。

もしかしたら金ちゃんがあまりに正座をつらそうにしていたから、ばあちゃんも助け舟を出したかったのだろうかと考えながら、とりあえず素直に台所へ向かってみる途中で小春とユウジに出くわした。しかし、妙にユウジが落ち込んでいるように見えたのはどうしてなのだろうと思っていたら、成程に会ったらしい。そして目が合った瞬間青ざめた顔で走り去ってしまったとのことだった。多分広間で大声上げたから変なイメージ持たてしもたんやろな、とぼんやり思いつつ慰めながら別れた。どうやらは台所の方向目指して逃げて行ったらしい。

しかしそこには皿を取りにやって来た小石川の姿しか見当たらず、尋ねてみても、は見ていないと言う。…おかしい。じゃあ洗面所のほうに洗いに行ったのだろうかと踵(きびす)を返してみたものの、そこは電気すら点いておらず、少女の姿は見つからなかった。ここまでくると、もしかしてすれ違いになったのではという可能性も捨てきれない。でもこっから俺らがいた広間まで一本道やしなあと考えながらふと、もしかして気まずさから帰るに帰れないんじゃ、という説を紡ぎ出してみる。なるほど、それは大いにありえそうだ。…金ちゃんはかくれんぼと言っていたけれど、本当にどこかに隠れてたりして。

とりあえず手始めに、身近の部屋の襖に手を掛ける。失礼しまーすと小声で誰に言うでもなく口にしながらそっと開いてみたけれど、中はもぬけの殻だった。…うん、まあ、せやな。そう簡単に見つからんよな。なんだか不法侵入をしたように気まずくなって、そっと襖を閉じた。

「(どこにおるんやろー…)」

確かに彼女の話は1年、とまではいかずとも、それに近い期間世間話のように聞いてきた。それは認める。だがしかし、だからと言って思考回路まで熟知しているわけではないし、そもそもこのただっ広い渡邊家で女の子1人を見つけろというほうが無茶な気がする。とりあえず立ち止まっていても始まらないので適当に家の中を散策しながら、どうしたもんかなあとぼんやりと窓の外を眺めた。左側一面に広がる窓の向こうには、青々とした木が風に揺れ、ばあちゃんの趣味だという花が所狭しと言わんばかりに植えられていた。

「(…まさか、庭にはおらんよなあ…なあんて…)」

ふと足を止めて網戸を開け、ひょこりと上半身だけ覗き込むように外に出してきょろきょろと辺りを見渡してみる。しかしそれらしい人物の姿は見当たらない。流石にいないかと思い直して網戸を閉じようとしたところでふと、右方向辺りから今にも泣きそうな少女の声が耳に入った。

「───早く来て!」

大きな声は、それきりで、しかし耳を澄ませばなにやらぼそぼそと誰かを話しているかのような声が聞こえてくる。話していると言うには随分一方的だ。そして今の台詞は勿論俺に当てられたものではないことくらい分かっている。しかし独り言にしてはあまりにも大きすぎるそれは、おそらく電話でもしているのだろう。そしてその相手はオサムちゃんであろうということは安易に想像がついた。

閉じかけた網戸をゆっくりとまた開き、先程と同じように上半身を乗り出して右方向を眺めてみる。玄関が俺のいる廊下より少し前に出ている構造のせいで死角となり、その向こう側はちっとも確認出来ない。しかし、確かに向こうから声がしたように思ったのだが。数秒考えてみたものの、分からないものはいくら考え込んでも分からないので大人しく声を掛けてみることにする。

ー?そこにおるんかー?」

遠くにまで聞こえるように声を張って尋ねてみても、少女の声は返事は帰ってこない。代わりに動揺して身動きしてしまったのか、ドンッという物音がご丁寧に返ってきたあたり、なるほどどうやら彼女は非常に素直な体質をしているらしい。ひとりかくれんぼを継続する彼女は、やはり玄関の向こう側に身を潜めていると見た。なるほど、この廊下からでは姿を確認出来るはずもない。思わず苦笑した。

「体調悪いんやったら言わなあかんでー。さっき小春とユウジが、顔真っ青にしとったって心配しとったしー」

声を張って身を隠しているであろう彼女に話し掛けてみるけれど、やはり返事は返ってこない。実はさっきの物音は猫か何かで、本当はそこにはいないというオチだったとしたら、今の俺は恥ずかしすぎる行動なのだけれど。

「(…確かめてみよか)」

廊下を渡り、玄関の横に位置する部屋にこっそり足を踏み入れてみる。確かここはばあちゃんの部屋だったろうか。あれだけ金ちゃんに人様の家で騒ぐなだとか、勝手に襖を開けるなだとか言っていたというのに、まったく人間とは都合のいいものだ。でもここ襖完全に開いとったし、ばあちゃん直々に頼まれたし、なんて言い訳を考えてみる。

それにしてもこの部屋、大きな家具は文机とテレビくらいしか見当たらず、随分がらんとしていているような気がする。広さの割に物が少ないんだろうか、なんて頭の隅で考えながら出窓を開け、体を乗り出すようにして下を覗き込んでみる。すると予想通り、まるで見つけないでくれと言わんばかりに少女が身を縮めるようにして丸まっていた。手にはしっかりとピンクの携帯電話が握られており、ストラップのマスコットがゆらゆらと揺れている。玄関の隣に位置するこの部屋の、しかも出窓の下にいたということは、きっと彼女のイトコの到着を待っていたのだろう。…さて、どうしたものか。探しに来たはいいものの、男は苦手だと言われた手前、いざ姿を発見しても何と声を掛けたらいいのか分からない。ふと、廊下でのやりとりを思い出した。

『…あ。もしかして俺のことも怖いです?』
『そ、そんなことは!…あ、えっと、ない……です……けど……』

あんな質問に、「はいそうです」と返事出来るはずもないし、半ば強引に否定させたような気がしてならないのだけれど、それでも必死に絞り出したような彼女の言葉が純粋に嬉しかったのも事実だ。なのに顔を真っ赤にして、目を泳がせて、それでいて落ち着きのなかったの言動ひとつひとつが、嘘じゃないですよと言っているように思えているという都合のいい解釈はあまりに自分中心的主義すぎると十分承知しているはずなのだけれど。

覗き込むのをやめて、乗り出していた上半身を元に戻す。網戸は閉めないままふと上を見やると、先程まで明るかったはずの空が嘘のように薄暗くなっていた。風も昼間と違ってどこか肌寒い。「…そこ、寒くないです?」出来る限りの優しい声でそう尋ねると、3秒遅れて今度は返事が返ってきた。弱々しい声で、「だ、だいじょうぶです」、と。どうやら今度は会話はしてくれるらしい。「ならええんですけど」と相槌をひとつ打った。

『あの、わたし、あの…っ!……っ、お、おとこのひと、苦手なんです…っ!』

顔を真っ赤に染め上げながらまるで決死の思いでと言わんばかりにそう暴露した彼女の姿が、ふと脳内再生された。最初は嫌われているのではないかと思ってしまったけれど、でも大して話してもいないのにそこまで拒否される覚えは流石になかったし、そもそも初めて顔を合わせたとはいえ随分よそよそしすぎるというか、拒絶とはどこか違う妙な壁を感じると言うか、でも時より視線を感じていたというのにいざ目が合ったらすぐに逸らされてしまうから、てっきり。

「(…俺に気でもあるんかなって思っとったんやけど)」

どうやらそれは俺の自意識過剰な勘違いだったらしい。…いっそ穴があったら入りたい気分だ。あのとき、男子が苦手と言うあまりに予想外の展開に思わず声が裏返ってしまったことを、彼女が不審に思わなかったことを祈るばかりである。…恥ずかしい。これは流石に恥ずかし過ぎる。前々からばあちゃんに聞いていたから、男子が苦手だなんてこととうに知っていたはずなのに。

「(…ほんまに、変なこと言わんでよかった)」

それにしたって苦手なら苦手らしく顔を青白くしていればいいものを、なんだってこう恥じらうかのように耳まで赤く染め上げてしまうのだろう。これを恋する少女と勘違いしないほうがおかしい。自分で言うのもなんだけれども俺もそこそこ女子からお声を掛けて来られるタイプで、だからある程度この手の反応は把握していたと思っていたけれど実はそうではなかったらしい。いつだって恥ずかしそうに伏し目がちにする小さな少女に、もし自分に好意を持っていると勘違いしていたと暴露したならどんな反応をするのだろうか。ぼんやりと考えてみるけれど、そんなことをしたら最後更に壁を作られそうだからやっぱり冗談でも言わないでおく。

「…あの。さっきはまたうちの部員が驚かしてしもて、すんませんでした」
「……えっ?」

予想外だと言わんばかりの声が外から聞こえてくる。随分と動揺した声はまるで、どうしてそちらが謝るんですかと言わんばかりの響きをしていたけれど、すぐに彼女は口を開いた。

「そ、そんなことは。それに私のほうこそ逃げ出すようなことして、失礼なことしちゃって。…それにさっき、頑張るって言ったのに。だからどんなふうに戻ったらいいのか、分からなくて。それで、その…色々ごめんなさい」
「…うん。俺は大丈夫やから、後であいつらにフォローしたって。さっきも金ちゃんが姉ちゃんとこ行くーって言いだして、大変やったんで。今頃正座でぷるぷる震えとる頃やろ思うけど」
「え、正座?なんで?」
「俺こう見えて、教育にはスパルタやねん」
「なにそれ。ごめん、ちょっと意味わかんないかも」
「(お、笑ってる?)」

楽しそうに声は少し震えていたから、きっと今頃姿を隠したこの女の子は、口元を抑えながら目を細めているんだろう。が、予想はしてみるものの、その姿を映像には出来ない。実物の「」は想像していた「」よりずっと可愛い子だったけれど、さっきだって少し気恥ずかしそうに頬を染めながら必死に後ろを追いかけてくる様はまるで子犬のようで愛らしかったのだけれど、実際問題、知らないことが多すぎる。

「(…どんなふうに笑うんやろか)」

ふとそんなことを考えてみる。は嬉しいとき、誰より可愛く笑うんだとばあちゃんは決まって言っていたっけ。しかし思い返せば俺は彼女の笑顔はもちろんのこと、まともに顔を見れていない気がする。すぐに顔を逸らされてしまって。今だってせっかく笑ってくれている(と思われる)のに、彼女の姿は見えないものだから全くもって無意味だ。いや、笑うようになってくれるくらいは距離が縮まったと喜ぶべきなのかもしれないけれど。

「(……うーん)」

ちょっと、気になるかもしない。

とは言ったものの3秒たりとも目を合わせてもらえないこの現状では、想像すら出来やしない。どうしたものかどうしたものかと考えてみるけれど、そう簡単に名案が浮かんで来たら苦労はしないという話だ。

「…でな。今、ひとつ分かったことがあんねんけど」

少し口籠った口調で小さく呟いたの言葉は若干聞き取りにくかったけれど、言わんとしていることは汲み取れる。でも今は、それに比べてすらすらと出て来ているような気がする。現に隣にいたり正面にいたときは表情を強張らせて緊張していますと言わんばかりだったのに、

「顔合わせへんかったら普通に話せるし、笑ってくれるんやな。よかった」


20121015