目が覚めたとき、隣に彼はいなかった。まるで最初からこのベッドには私一人しかいなかったかのような静けさにゆっくりと上半身を起こし、ぼんやりとする視界で辺りを見渡す。しかしコンタクトも付けていないこの状況で、これ以上分かることなどありはしない。サイドテーブルから手探りで眼鏡を掴み取り耳に掛けると、再び辺りを見回した。

 引っ越して一週間経った恋人との部屋は、昨晩までと何一つ変わっていない。唯一私が眠りについた直前と変わっていることと言えば、ハロが床に置かれたクッションの上で、小さく寝息を立てていたことだった。おそらく私が寝付いた後で、とおるくんがドアを開けておいたのだろう。

 ──泣いてしまった。

 彼を受け入れる直前に、どこからともなく湧き上がってしまった涙がぽろりと零れてしまったのだ。そしてとおるくんがそれを見逃すわけもなくそのまま行為は中断し、まるで怖い夢を見たこどものように背中をさすられて、最終的に寝かしつけられて終わってしまった。

 嫌だったわけではない。怖かったわけでもない。ましてや、そこに至るまでの過程に痛みを感じたわけでもない。自分でも泣いた理由が分からなかった。ベッドの上で仰向けになりながら彼の顔を見ていただけなのに、自分を見つめる目の前の彼が誰なのか、分からなくなってしまって。

 とおるくんが優しいことは知っていた。いつだって私が嫌がることを強行したことはない。だけど昨日は、昨日だけは、無理矢理にでも抱いてくれてよかったんだよ。体が重なったら心も埋めることができるんじゃないかって、私、柄にもないことを考えていたから。

 自分から誘ったくせにちっともそういう気分に浸れず、初歩の初歩で打ち切りにさせてしまったことへの罪悪感がぐるぐると頭の中を駆け回る。いつも、とおるくんに触れられるたびに愛しさを募らせて、彼をしあわせで包み込んであげたいことだけを願っていたはずなのに、昨日は自分の心を埋めることばかりを考えてしまっていた。頭も体も溶けきったら、全てがどうでもよくなるんじゃないかという自分勝手な発想に、彼を付き合わせてしまったのだ。

「(……とおるくんは、どこにいるんだろう……)」

 今すぐに会いたかった。会わなくてはいけないような気がした。何かに呼ばれるようにベッドを抜け出し、そのまま洗面所にも寄らぬまま、まっすぐにリビングのドアを開ける。明かりすら点けられていなかったものの、カーテンは開けられていたお陰で、入り込む朝日に目を細めた。

 静まり返ったその空間には、グレーのスーツに身を包んだ青年がぽつんと立っていた。

 まっすぐに背筋を正した背中が美しく、だけどどこかさみしげだった。金色の髪、褐色の肌、そして背丈とシルエット。どれも見慣れた恋人と完全に一致すると言うのに、まるで知らない別人のようだ。

「……とおるくん……?」

 何故だか確信が持てなくて、弱気な声でぼんやりと投げかけた。振り返った彼の瞳は透き通るほど青く、まっすぐに向けられるそれに私はようやく安堵する。私の知っている瞳だったからだ。しかし、いつもと何かが違う。そんな気がしたものの、具体的にそれが何かということは分からない。服装が違うから、そう感じただけなのだろうか。何故か妙な焦りを感じる。ゆっくりと距離を縮めながら、質問を投げ掛けた。

「今日、スーツなの? 今日はそういうお仕事?」
「ああ」

 短く答えた彼に、そっか、と頷く。自分が口にした「そういう仕事」というのがどのような仕事なのか具体的な例を挙げろと言われたら、きっと私は困ってしまう。しかし明らかに頭が回りきっていないような漠然とした表現でも、何か話し掛けなければ彼がすり抜けるように消えてしまうような気がしたのだ。

 まるで、空へ飛んでいく風船を必死になって繋ぎとめているみたいだ。手を離したら瞬く間にいなくなってしまうような感覚は、どこから生まれてくるのだろう。しかしここで私も口を閉じれば、きっと沈黙が広がってしまうことは寝起きの私でもなんとなく分かっていた。

「似合ってるよ。かっこいい」

 寝起きで調子が整っていない喉で出来るだけ明るい声を心がけているのは、明らかにこの空気が普段と違うと感じ取っていたからだった。どこか張りつめたような重い空気が支配している。だから、いつもなら褒め言葉を彼に渡すだけで顔を熱くして舌を噛んでいたというのに、今はそんな甘い雰囲気に浸ることすら出来ない。

「……ありがとう」

 どこかさみしそうに目を細めたとおるくんは、なんだかどこか遠くの人になってしまったかのようだ。だから珍しく、私から彼の手に触れる。そのまま指先を包みながら、ぎゅっと握りしめた。しかし、いつもならばすぐに握り返してくれるはずのとおるくんの手はぴくりとも動かない。

「とおるくん……?」

 どうしたの。そう口にするかのように名前を呼ぶも、彼は視線を伏せたまま、消して私を見ようとはしなかった。それが余計に心に不安を煽る。

 やっぱり何か、様子がおかしい。だけどそれは、きっと私もそうだった。どこかぎこちない私達は、お互いの出方を探り合っている。しかしなんでもない世間話で気を紛らわせるべきかと考えれば考えるほど、不思議と話題が出てこないのだ。いつも、なんでもない話で笑い合っていたというのに。

 やはり、昨晩のことを怒っているのだろうか。それで、冷めてしまったのだろうか。泣きじゃくる私の背中をやさしく撫でてくれた彼は、私が寝付くまでずっと抱きしめてくれていたけれど。

「(でも、いつもと雰囲気が違う理由は別にある気がする)」

 そんな根拠のない直感が働いたものの、しかし先程の仮説が当たっている可能性は勿論ゼロではない。それに意図してやったことではないとはいえ、昨晩の私の行動は、決して褒められたものではないのだ。だから、どちらにせよ彼には改めて謝罪をするべきだと口を開く。まるで、沈黙を破れるならなんでもいいかのような焦りを感じながら。

「……あの、とおるくん。昨日は本当にごめんね。私、もうちゃんと大丈夫だから。だから……」

 そこまで言葉を紡ぎながら、何気なく彼の視線の先を追う。そこで捉えたものに、心臓は大きく飛び跳ねた。彼を繋ぎとめる指先から、力が抜けてしまいそうになる。

「──アルバム、探したんだな」

 いつもより低いその声は、決して機嫌の良し悪しからくるものではない。そんな気がした。むしろその喉から自然と出て来る標準の音程だとばかりにすんなりと紡がれた彼の言葉の音は、私の心臓をひと撫でするかのように鼓動を急かすと、静かに部屋の空気に溶けて消えて行ってしまった。しかしすっかり速まった心拍は、そう簡単に治まりそうにない。

 ダイニング・テーブルには、私が昨日実家から持ってきた分厚いアルバムが置かれていた。三分の一ほど読み進めたページで開かれていたものの、無論私はリビングに置いた記憶などない。確か紙袋に入れたまま鞄の中へ入れて、見つからないように更に寝室のクローゼットの中にしまい込んだはずだ。

 きっと私が眠りについた後、彼が見つけ出したのだろう。隠せる場所など限られているし、私の行動パターンを熟知している彼のような探偵には、きっと造作もないことだったに違いない。

 もう隠し通せるものではないとゆっくりと頷いた私に、彼は怒るわけでも悲しむわけでもなく「そうか」とどこか安堵したような声を漏らした。開かれたそのページには、私が昨日見つけた少年が写っている。とおるくんはその写真の表面をなぞるようにそっと撫で、幼い彼を見つめながらぽつりと呟いた。

「……本当の僕を、見つけてしまったんだな」

 彼は、懐かしんでいるのか、悲しんでいるのか、それとも淋しがっているのか、複数の感情を混ぜて一言では言い表せないような不安定な表情を見せていた。言葉を詰まらせた私は、なんと答えていいのか分からない。彼の「見つけてしまった」という表現に、触れてはいけないパズドラの箱を空けてしまったことに気付いたからだ。

 しかし今の彼の言葉で、やはり私の仮説は正しかったと証明されてしまった。そのことだけはやけにはっきりと理解してしまったから、余計になんと答えればいいのかが分からない。

「(やっぱりとおるくんはぜろくんで……。あ。でも名前が……)」

 整理しきれないほど突然押し寄せてきた情報に、的確に処理することが出来ない。頷くことすら出来ぬまま黙り込み目を伏せる私は、未だ彼の右手を捕まえていることに気が付いた。私が繋ぎとめたいと願っているのは、一体なんなんだろう。彼は、はっきりとした口調で言った。

「……もう、おしまいにしよう」
「えっ?」

 何をと言われずとも理解した頭は、瞬く間に真っ白になった。真意を伺うようにその瞳を見つめてみる。しかしその目は冗談を一切含んでいなくて、ただただまっすぐに私を捉えていただけだった。

 まさか彼の方から別れを切り出されることになろうとは、夢にも思っていなかった。もしもこういうカードを選ぶとしたら、きっと私からしかないと無意識に思っていたからだ。なるほど、私は気付かないうちに自信家になっていたらしい。彼に愛されている自信が。それとも彼は、私が一方的に水面下で動いていたことが嫌だったのだろうか。

 しかし、あまりにもあっさりとした口調は、まるで「自分は君と共に過ごしてきた時間をこんなにもあっさりと断ち切ることができる」と言われているような気がして、呼吸の仕方すら忘れてしまいそうになる。風船の紐を、私は離したくはなかったのだ。

「わ、私が勝手に詮索をしたから? それとも昨日全部できなかったから、冷めちゃったの……?」

 すっかり喉が乾き切っていたせいで、声が出しづらい。それとも寝起きだからなのだろうか。いつもより多く息を吐き出さなければ音に変換してくれない状況にひどく焦ってしまう。ワンテンポ遅れた声は、まるで自分のものではないかのようだった。喉の奥がぎゅっと詰まるこの感覚は、何故だか目の奥を熱くさせる。

 私の質問に対しとおるくんは静かな声で否定したものの、ちっとも焦りを感じないその姿は、なんだか私とは違う時間軸で生きているみたいだ。やけに冷静で落ち着いて見えるから、逆に私がこんなにも状況を整理できていないことがおかしいのではないかと思えてしまう。

 今日は、エイプリール・フールか何かだっただろうか。勿論今が春ではないことくらい分かっているけれど、実は私が知らないだけで、世間的にはそういう類いの日だったりしないのだろうか。いや、やはりそれはない。だって、例えもし本当にそんな馬鹿みたいな日だったとしても、とおるくんは人を傷つけるような冗談は絶対に言わない人だったから。

 そう思っている。そう思っていたけれど、今、私は彼のことが分からなくなっている。だからきっと、安易に“絶対”なんて言葉は使うべきではない。

 だって今、彼が何を考えているのかさっぱり分からない。きっと私は、目が合うだけで愛しそうに目を細めて、疲れたときには優しく頭を撫でて、何かというと半ば無理やり理由を付けてキスをしたがる彼に満足をしていた。つまりきっと、表面上しか理解していなかったということなのだろう。私に見せてくれるものが全てだと、信じてやまなかったのだ。

 現に今、私は確かに目の前の彼を見上げているはずなのに、何故だか今日初めて会った人のような感覚を拭えないでいる。そんな私に、彼はゆっくりと言葉の続きを紡いだ。

「いつかはこうなる日が来るかもしれないと、思っていたから」
「お、思ってたって……」

 まるでこうなることをずっと前から予想していたと言わんばかりの口ぶりに、言葉を詰まらせてしまった。自分は私と別れる選択をずっと持っていたと言われているような気がしたのだ。私はそんなこと、一度だって考えたこともなかったのに。

「……僕のことを思い出してしまった以上、君はもう“安室透”の恋人ではいられない」

 淡々とした口調は、随分と割り切ったものだった。一瞬息をするのも忘れてしまった私に彼は、だから、と前置きをすると、まっすぐな瞳を向けて言う。

「 “降谷零”としての僕と、付き合ってくれ」

 なんだかトドメを差されたかのような気分だ。困惑する頭は彼の言葉を飲み込めず、中途半端のまま浮かんでいる。今、おかしな表現が出てこなかっただろうか。

「ふ、ふるやれい、と、しての……?」

 繰り返し口にすることで自分に言い聞かせ意味を理解しようと試みてみるけれど、どうやらその効果は薄いようだった。私はまだ夢か何かを見ているのだろうか。その言い方ではまるで、彼にもう一つの顔でもあるかのようだ。それとも彼なりの冗談のつもりなのだろうか。その判断すらつかないまま、すがるように彼に謝罪をする。少しでも場を和ませようと、口角を上げながら。

「ご、ごめんね、とおるくん。言っている意味が、よく分からないんだけど……」
「違う」

 私の言葉を遮断するように否定した彼は、真剣な表情を見せていた。あまりにもその瞳がまっすぐだから、私の脳はますます困惑する。彼が何を否定したのかを、未だに理解することが出来なかったからだ。心臓が大きく鳴り響く。その振動が全身まで伝わって、指先が小さく震えた。

「僕は、警察庁警備局警備企画課所属、降谷零。安室透は捜査のための偽名で、公安警察の潜入捜査のために作られた存在だ」
「な、何言ってるの? とおるくん。なんか、そういう映画でも見た?」

 へらりと締まりのない笑顔を作って見せてみるけれど、頬が全く上がっていないことくらい自分でも分かっている。普段の日常では決して聞くことのない単語を連発されたせいか、ますます私の頭はこんがらがっていた。だからか、気が付けば私は彼の手を離している。

「やっぱり、昨日のこと根に持ってるんだよね……? そうじゃなきゃおかしいよ。だって、とおるくんはとおるくんでしょ? 今までとおるくんて呼んできたし、だから……」

 目を逸らしこめかみを軽く手で押さえながら、突き付けられた事実を受け入れられず迷走していた。自らを降谷零と名乗ったとおるくんは、何も言わなかった。ただじっと、私の頭の整理がつくのを待っている。私がアウトプットまで時間が掛かる人間だと理解してくれているからだ。

 警察。捜査。作られた存在。心に引っ掛かった単語をぐるぐると頭の中に流し続けているものの、まるで穴の開いたふるいのように次から次へと零れてしまう。しまいには何も残らなくなってしまった。だって現実味が湧かなくて、何も理解できない。助けを求めるように顔を上げた。その顔は、写真に写る幼い“彼”と完全に重なっている。唯一それだけは理解出来たから、震える声で小さく呟いた。

「……“あなた”は、本当に“ぜろくん”なの……?」
「……ああ」
「私が昔の知り合いだって、最初から気付いてたの?」
「……ああ」
「なんで、言ってくれなかったの?」
「……僕が公安だからだ」

 また先程と同じ発音を持つ言葉が出てきた。繰り返されたと言うことは、どうやらこれがキーワードらしい。しかしテレビか何かで聞いたことすらあるものの、それが具体的に何をするものなのか完璧に把握することができない私は、静かに彼の言葉に耳を傾けるしかなかった。

「公安警察は円滑な捜査のために、自分の本名は決して明かさない。自分が公安であることを周りに知られないように偽名を名乗り、完全なる第三者として振る舞い続け、存在をカモフラージュする。安室透の性格は、立ち回りがしやすいように僕が作り上げたものだ」

 彼は私にも理解できるようにと説明してくれているはずなのに、その半分以上は受け止めきれず綺麗に取り溢してしまう。唯一受け取れた情報も、私の心臓を強く握り締めて離さなかった。いつの間にか顔が俯いていく。

 今の自分を的確に言い表すとしたら、一体どんな言葉になるのだろう。混乱だとか、絶望だとか、呆然だとか、きっと挙げればきりがないけれど、どれも何かが違う気がした。すがるように左の手の平を掴み、爪を立てながら力いっぱい食い込ませてみる。痛い。痛い。だからきっとこれは夢ではないのだ。だから、息をするだけで喉が震えてしまうのも、残念ながら現実の出来事らしい。

「……じゃあ、今まで私が見てきた安室透っていうのは……」

 誰だったの? そう最後まで口にすることなく途中で区切られた言葉は、完成することなく消え去った。彼は何も言わない。まるで私からの質問の続きを、言葉を、急かすことなく待っているかのようだった。目の前にいるはずなのに、何故だかひどく遠い存在のように思える。

 先程彼が口にした、日常生活を送っているだけでは絶対に聞くことはなかったであろう言葉を思い出し、頭の中で必死に繰り返す。ほとんど流れ出して消えてしまった単語の中で唯一頭に突き刺さって残されていた言葉を拾い上げた。

「…………作り上げたっていうのは、つまり……」

 笑い掛けてくれていたのも、子どものようなあどけなさを見せていたのも、私にくれた言葉も態度も全て、潜入捜査とやらのための偽りだったっていう意味なの? そう続けるつもりだったのに、急に喉の奥がつっかえて音にすることができなくなってしまったから、おかしい。

 例えば、しあわせだと言ったはにかんだ笑顔も、繋いでくれた手の温度も、唇を重ねてきたのも、肌に触れてくれたのも、一緒に住みたいと言ってくれたあの言葉も、みんな本心からというわけではなかったという、そういう解釈で合っていますか。予行練習がてら脳内で台詞を流してみたけれど、何故だか爪を立てる右手に力が入るばかりでちっとも喉から声が出ない。よく分からないけれど、この質問は喉が拒否しているらしい。ならば、質問を変えなくては。

 ええと、と時間稼ぎの言葉を口にしたものの、どうにも喉の奥が締め付けるせいでうまく声にならない。これはもう、勢いで言う以外に方法はないのだろうか。震える喉を置き去りに、必死に言葉を吐き出した。

「……わ、私のことを、すきって言ってくれたのは……」

 ──ああ、だめだ。

 そう直感してしまったから、私はまた中途半端なところで言葉を区切ってしまう。最後まで口にしたら、今度こそこの歪んだ視界が崩壊してしまうような気がした。なぜならすっかり熱くなった目が、これ以上下手なことを喋れば涙腺を切ってしまうぞと私を脅して聞かないのだ。代わりに脳は、これまで彼が私にくれた言葉を再生し始める。

「(絶対大事にすると言ってくれたあの言葉は、一体なんだったんだろう)」

 俯いたら本当に涙が零れてしまいそうで、あまりにも情けない。私はこれまで、彼の前であまりにも泣き過ぎていた。しかし顔を上げると、この情けない姿を晒してしまうことになる。どちらの選択をするべきなのか悩む間にも、熱い何かが喉の奥から込み上げてくるから厄介だ。爪を立てられているのは左手のはずなのに、胸の奥が一番痛い。苦しい。

 隠し通せるものなら隠したいというちっぽけな私のプライドが、唇を噛みしめながら逃げるように顔を俯かせる。少しずつ早くなる呼吸がカウント・ダウンを告げていた。

 降谷零と名乗った彼は、何も言わなかった。きっと察しのいい彼ならば私が何を尋ねようとしているのか分かっているだろうに。もしも今私の両肩を掴み、想いに偽りはないと訴えかけてくれたなら、私は迷うことなく頷いてみせるのに。

 顔を伏せ黙り込む私を呼ぶ彼の声は澄んでいて、まるでどこか遠くの場所から風に乗って流れてきたようだった。確かに目の前にいるはずなのに、なんだかぼんやりと聞こえる。深呼吸するかのように長く息を吐き出してから、ほんの少し顔を上げた。するとそこには、まっすぐな青い瞳が私を見つめている。その瞬間、初めて想いを伝えてくれたときの彼の言葉が脳裏に響き渡った。

 ──あなたはいつだってまっすぐに僕を見てくれていたのに、僕は嘘を重ねてきたんです。それでも傍にいたいと願ってしまった僕の我儘に、付き合ってもらえますか?

 今、ようやく理解した。彼が本当に言いたかったのはこのことだったのだと。安室透と偽って振る舞ってきた自分を受け入れてくれるかと、そう伝えたかったのだ。しかし、それが本心からの言葉だったのかは、今では分からない。今彼が告げたことが事実なら、潜入捜査なるもののためだったのかもしれないのだから。

「(……私は彼の、何を見てきたんだろう?)」

 とおるくんがぜろくんだったということも、彼が何やら複雑な事情で偽りの姿で私の側にいたことも、全てがどうでもよかった。ただそれを見抜けなかった自分が何より情けない。それだけだった。あんなにだいすきだったのに、彼の心に寄り添って本質を拾い上げることができていなかったのだ。それはつまり、私は彼の本当の恋人になれていなかったということなのだろう。

 じわりと滲む涙は次第に下瞼だけでは収まらなくなってしまった。瞬きをした瞬間、それは流れ落ちて頬を伝う。しかし真っ白な頭のままでは体をうまく動かせなくて、涙すら拭えない。私はただ茫然と、降谷零と名乗る彼を見つめることしか出来なかった。彼の瞳は僅かに揺れたように見えたものの、すぐに顔を逸らされたから、もしかしたら私の気のせいだったかもしれない。

「……しばらく家を空けるよ」
「え……?」

 彼がどんな表情をしているのか捉えることができなかったからか、呟くような小さな声は、まるで幻聴か何かのように現実味が湧かない。そしてそんな私の心境を察したかのように、彼は続けたのだった。

「急にこんなことを言われても、戸惑うだろう。僕がいない方がゆっくり考えられるだろうし、一週間後にまた帰ってくる。もう僕の顔は見たくないというのなら、ここに無理にいなくていい。勿論、引っ越し費用や新居の家賃は僕が払うから、金銭面のことなら心配しなくていい。……勿論、殴るためにいてくれても構わないよ」
「そ、そんなこと……」

 急に言われても困るよ。そう続けようと口を開いたままはずなのに、どうしたことか声が出ない。ただ淡々と物事を決めて行く彼に唖然としていたのだ。彼は動揺を表に出していない。まるでこうなることを、本当にずっと前から予測していたみたいに。

「(最初から私達の結末は一つしかないような割り切り方してる)」

 彼にとって私なんて、そんなにあっけなく断ち切れるものだったのか。それにお金は払うって、まるで慰謝料や手切れ金みたい。

 視線を泳がせ、力なく俯く。そんな私を、彼は了解の意と捉えてしまったのだろうか。穏やかな波のように静かな声で、ゆっくりと問い掛けた。

「ハロは連れて行った方がいい?」

 今はハロのことじゃなくて、他にもっと話し合うべきことがあると思うよ。ぐるぐると体の中を駆け巡る何かは重くどす黒い。酔ってしまったかのように胸の奥が重たくて仕方がなかった。

 なんだかこの質問を返答したら、彼はどこか遠くへ行ってしまうような気がする。そんな予感は、心臓を強く握り締めた。

「…………いてほしい……」

 必死に喉から絞り出した声は震えていた。声と吐息の中間地点のような中途半端な意思表示を、しかし彼の耳はしっかり聞き取ったらしい。そうか、と静かに頷いた。

「じゃあ悪いけど、世話は頼む」

 その言葉に頷かなかったのは、決してそのお願いを拒否したい意思を持ち合わせていたからじゃない。ただどうしても、素直に頷くことが出来なかったのだ。

 今の言葉は決して、ハロだけのことを言ったわけじゃないんだよ。うまく伝わらなかったけれど。

 ただ茫然とフローリングを眺めながら、拳を作った右手を固く握り締めていた。こうでもしていないと、きっと私は立っていられないような気がして。そんな私は、彼の目にはどう映っているのだろう。それが分からない。

「……ごめん」

 それは、何に対しての謝罪なのだろう。ハロの世話をさせて、ということなのだろうか。ハロは僕らの子どもみたいなものだと思っていると、言っていたはずなのに。それともこれは、ずっと嘘をついていたことに対してのなのだろうか。……それとも。

 彼は黙り込む私の横を通り過ぎてそのままリビングを出た後、どこかへ立ち寄ることなく一直線に玄関へと歩みを進めた。並々ならぬ雰囲気を察知したのか、いつの間にか起床していたハロは寝室からひょこりと顔を出し、そのまま兄の後を追う。その姿にようやく我に返った私は、どうするべきか悩んだ挙句、慌てて玄関へと向かった。彼は革靴を履き終え、愛犬の頭を撫でている。

 なんと声を掛けるべきか分からずただその様子を眺めていた私に気付いたらしい彼は、ゆっくりと顔を上げると、ハロから手を離しては折っていた膝を伸ばした。そして視線を不安定に泳がせる私に、どこかぎこちなく笑う。

「それじゃあ、元気で」
「あっ……」

 続ける言葉が詰まって、何も言えなくなってしまった。確かに目の前の彼を呼び止めようと思ったはずなのに、なんと呼べばいいのか分からなくなってしまったのだ。とおるくん、なのか、ぜろくん、なのか、それとも降谷さん、なのか。どれが正しい選択肢なのか分からなくなって、ついに視線を下ろし、口を閉じてしまう。だからだったのだろうか。彼はそれ以上何も言葉を投げ掛けては来ない。

 ドアを開ける音に気付きようやく顔を上げたものの、彼は私に背を向けたまま一度も振り返ることはなかった。そのままバタン、と無機質な音が響き渡る。私はもう動けなかった。彼がいなくなった玄関がぽつんと立ちすくむ私の元へ、ハロがすり寄って来る。ふと視線を下ろすと、淋しそうに鳴きながら見上げていた。小さく笑って、膝をついて頭を撫でる。

「ごめんねハロ。ご主人様は、しばらく帰って来ないんだって。だから、私と一緒にいてくれる?」

 いつも頭を撫でると尻尾を振ってくれるのに、どうしたことか今日に限ってはそれがない。玄関のドアをじっと見つめた後耳を垂らして私を見ては、腕に頭をすりつけてくる。

「ハロも、一緒について行きたかったかな」

 クゥーンと淋しそうに鳴かれた。まるで、大丈夫? と言われているような気分になって、ついに崩壊した。ごめんねと呟くつもりだった声は、震える喉が掻き消した。


20200101