とおるくんが作ってくれる出汁巻卵はとにかくふんわりとしていて、かつ焦げついているところなんて見たことがない。箸でつつくと途端に溢れてくるほどたっぷりと出汁が入っているのに、一切崩れることない綺麗な形を保ったまま、皿の上で、舌に乗せられるそのときを行儀よく待っている。
まるでどこかの料亭で出てきそうなほど完成されたそれを私はひどく気に入っていつも真っ先に箸を伸ばすからか、いつの間にか彼が台所に立つときには決まって作ってくれるようになっていた。
「今更だけど、僕に構わず、もっと寝ててよかったんだよ」
とおるくんは、ふと思い出したように私に話し掛ける。しかしちょうど口に物を含んでいたせいで、すぐに反応することができなかった。飲み込む前に喋り出すのはどうにも許せなくて、口元を手で覆い隠しながら必死に噛み砕く私を、とおるくんは優しく目を細める。少し欲張って、卵焼きを頬張りすぎたのかもしれない。なかなか飲み込めないままでいる私に、彼はせっかくの休日なんだからと、先程の台詞の続きを付け足した。
どうやらとおるくんは、自分に気を遣って付き合わせてしまったと考えて、後ろめたさに似た感情を抱いているらしい。私が勝手に起きて来ていることだから気にしなくていいのに、そういうことを言われると、逆に自分は邪魔だったのだろうかと考えてしまわないこともない。ああ、だけど、彼は結果的に二倍の朝食を作る羽目になってしまったから、あながち間違いでもないのかもしれない。
早く誤解を解かなければと、いつもならばじっくり味わう卵焼きを、急ぎ喉の奥へと落とした。しかしすぐに言葉を渡すのはどうにも照れ臭い。そのままじっと手元のお椀へと視線を注ぎ込んだ。等間隔に切られた立方体の豆腐が、わかめと共に味噌汁の水面に浮かんでいる。逃げ口を作っておこうとばかりに、すくい上げるようにお椀を持ち上げた。
「……私が自分で、とおるくんと一緒にごはんが食べたいなって思ったの」
まるで独り言のように籠った声で小さく呟くと、その言葉を掻き消そうとばかりにお椀に口を付け、味噌汁を口の中へと注ぎ込んだ。
「ふうん。そっか」
何やら含みのある笑みを見せるとおるくんに私は気付かないふりをしながら、お味噌汁おいしいと、取って付けたように口にする。それは、この話に終止符が打とうとしている私の一手だった。それを綺麗に読み取った彼はそれ以上追及することはなく、お互いの箸の動きは再開する。
珍しく、静かな食卓だな。ぼんやりと頭の隅でそんな印象を抱きつつ、正面の彼の顔をちらりと盗み見た。しかしバッグの中に押し込んだハンカチを思い出して、何も声を掛けることなく目を伏せる。いつもならとおるくんにはなんだって話せたのに、今はそれができない。
……なんで、とおるくんがあんなものを持っていたのだろう。
引っ掛かりは外れることも消えることもないまま、ぐるぐると頭の中で薄れた記憶を掘り起こそうとしている。しかし放置されてすっかり錆びついてしまった鍵はなかなか開きそうにない。ならば開くそのときまで放置すればいいと分かってはいるものの、どうにも魚の骨が喉に引っ掛かったような違和感が心を引っ張って、離れることができないでいた。
「……ね、ねえ。とおるくん、アルバムとかないの? 私、とおるくんの昔の写真見てみたいな」
まるで今気まぐれに思いついたとばかりの口ぶりで声を掛けてみたものの、不自然な口調ではないだろうかと心臓が怯えている。必死に気丈に振る舞うように口角を上げてみたものの、引き攣った笑みになっていないか不安を拭いきれなかった。
するととおるくんはお味噌汁のお椀を持ち上げながら、なんでもない世間話をするかのように答える。
「どうしたんだい? 急に」
小さく笑みを溢しながら尋ねてきた彼に、一瞬目が泳ぎそうになってしまった。私がこんなことを言ったことは一度もない。それをとおるくんも知っているから、きっと純粋に疑問に思ったのだろう。今も決して幼少期の話をしていたわけでもないから、急にこんな話題を引っ張り出して来ても、彼が首を傾げるのは自然な流れだった。疑問を晴らすことばかり考えていた私は、そんな当たり前のことをすっかり失念していたのだ。
「……あ、あの。ええと……」
臨機応変という高性能なスペックは、残念ながら私の脳に積まれていない。分かりやすく言葉を詰まらせた。
どうにか自然な理由を作り上げるべく、ええと、だとか、その、だとか、時間稼ぎの言葉を挟んでみたものの、どうにも頭の回転は鈍い。視線を上へ泳がせながら、大したことじゃないんだけど、と背中に汗を滲ませつつ、乾いた喉で話を繋ぎとめた。
「き、昨日荷物の整理をしてたら、昔の写真が出てきて。で、そういえばとおるくんの小さい頃の写真て見たことなかったなあって、その……思って……」
心臓は固くなる体の中で、ドッドッドッ、と大きな脈で自らの存在を主張している。なぜ私は、こんなにも身構えているのだろう。一般的に見ても恋人の子どもの頃の姿を見てみたいと思うことは自然なはずなのに、まるで触れることすら許されない禁忌に手を伸ばしているような感覚を覚えている。
しかしそんな私の心中を知るよしもない彼は、目をぱちくりとさせた後、顎に手を当ててぼんやりと天井を見上げる。そして何かを思い出すように、「そっか。そういえばそうかもしれないな」と呟いた。
「う、うん……!」
だから、私が興味を持つのは自然な流れだよね。おかしなことじゃないよね。そう後押しするように力強く頷く私は、気を抜けば前のめりになりそうな体を必死に引っ張り上げ、背中を背もたれへ付けることを意識する。
これは、じゃあ見てみる? だとか、ちょっと探してみるよ、という前向きな回答が返って来る流れだ。もしかしたら、ちょっと恥ずかしいなと困ったようにはにかまれるのかもしれない。そう言われたらなんと返すのが得策なのだろうと、まるで将棋のように先の手を読み模索していると、とおるくんはその瞳に私を捉え、眉を下げて困ったように笑った。
「でもごめんね。僕、小さい頃の写真ないんだ」
予想外の返答に、えっ、と困惑の声が漏れたのは私の方だった。彼の言う“ない”という言葉がどういう意味なのか飲み込めず、困らないよう先に準備しておいた回答たちはさっぱり役に立たない。しかしここまで来たらこのまま引き下がるわけにもいかないと、たどたどしく言葉をかき集めた。
「……な、なんで? ……あ、実家にあるってこと? そういえば実家ってどこ……」
一度口を開いたら疑問が次から次へと浮かび上がって、彼の反応を待つ前に次々と渡してしまう。一度にこんな質問を重ねたところで彼も困ってしまうだろうに、そんな簡単なことすら考慮することができない私は、分かりやすく焦りを積もらせていた。
しかしつい早口になってしまう私とは対照的に、とおるくんはゆったりとした口調で言う。
「うん。僕、小さい頃親が離婚して、祖父母のところで世話になってたんだけど、高校のときに家が火事になって全焼しちゃってさ」
「えっ」
「ああ、みんな無事だったから」
まるで、この前キャベツが安くてさ、とでも言うかのようになんでもない素振りでけろりと言ってのけた彼に唖然とする。確かに起こってしまったことはもうどうにもできないけれど、こんなにも世間話をするかのように言えるものなのだろうか。一世一代の大事件ではないのか。いや、だからこそ逆に冷静な目で見られるのだろうか。
なんだか一周回って、嘘みたいな話だ。しかし彼は、まるで映画のあらすじでも教えるかのように、相変わらず淡々とした口調で言う。
「そのとき昔の写真なんかも全部燃えたから、手元に何も残ってないんだ。結局祖父母も僕が高校卒業する時に亡くなっちゃったから、実家と言う実家も、もうないしね」
「……そ、そう、なんだ……。ご、ごめんなさい、変なこと聞いて……」
「ううん、気にしないで」
まさかの展開に、私はもう何も追求することが出来なくなってしまった。どんな顔をしたらいいのか分からなくなって目を伏せると、ふいに、食べかけの卵焼きと目が合った。せっかく作りたての状態で出してくれたというのに、もしかしたらもう冷めてしまったかもしれない。しかし今の私にはどうにも舌の上へ運ぶ気分にはなれず、代わりにお茶を喉に流し込んだ。気が付けば私の口の中は、随分と乾いている。
三口程の水分補給を終えたマグカップは再びテーブルの上へと戻されたものの、どうにも手放すことができない。その円周を両手で包み込むように握りしめた。
お揃いで買ったマグカップはいつの間にかこの空間にも馴染んで来たようで、二つ並んでいるのが当然とばかりにテーブルの上に座っている。すっかり低くなった水面を見つめ、一息つくと、ゆっくりと顔を上げた。するととおるくんはまるでそれを待っていたかのように、にこりと微笑み掛ける。
「だから、どんなに大切にしていたものも写真もいつか無くなっちゃうんだなって思って、日常的にもあんまり写真は撮らないんだ」
「そ、そっか……」
その言葉だけは、なぜかすんなりと落ちてきた。表情は穏やかなのに声はしっかりと芯のある声だったせいか、妙に説得力を感じてしまったのだ。そういえば以前水族館に行ったときも、あまり写真を撮らないと言っていたような気がする。
しかしどうしたことか、自分から話を振ったくせに、どう対処していいのか分からない。いつの間にか芽生えた気まずさを誤魔化すように座り直した。なんでもいいから動きたい気分だったのだ。
するとどうにも落ち着かない私に気付いたか、とおるくんはにこやかな笑みで口を開く。
「……あ、ごはん冷めるよ。早く食べよう」
とおるくんはそう言って、思い出したように再び箸を取った。そのまま鰤の照り焼きを器用に箸で一口大に切っている。その姿を見届けてから味噌汁の入ったお椀を手に取り、そのまま唇をつけた。出汁は彼が昆布と鰹節で取ってくれたもので、だからいつも舌にじわりと滲む旨みがある。私はそれを味わいながら、ぼんやりと頭の中の整理を始めた。
「(……そっか、ないのか)」
先程の私の質問に対する答えを再び脳内で再生させながら、まるで自分に言い聞かせるように考えつつ、今度は箸で一口大にカットされたわかめをすくい上げ、口の中へと運んだ。飲み込みやすいように噛むものの、何故だか顎はゆっくりとしか作業をしてくれない。時間を掛けて飲み込むのは、まるで味噌汁の具だけではないと言っているかのようだった。
別に、とおるくんの言葉を疑っている訳ではない。しかし彼の言葉が事実なら、なぜあのハンカチだけは残っているのだろう? そんな単純な疑問が浮上して来るから、どうも納得していない自分がいた。
「(全焼したのなら、あのハンカチだって燃えてなくなってしまったはずなのに)」
子どもの頃と言うならいざ知らず、火事が起こったのは高校生のときと言うならば、毎日持ち歩いていたわけでもないだろう。つまり、これはあくまで私の理論上の話になるし、間違っていることも大いにあるけれど──。
「(……とおるくん、私に嘘をついてる?)」
辿り着きたくなかった結論に、胸の奥がぎゅっと締め付けられた気がした。例えば過去の自分を見られることが恥ずかしいとか、思春期で肌が荒れていた姿を見られたくないだとか、そういう可愛らしい理由である可能性だってゼロではないはずなのに、何故だか妙な確信を得た心臓は、その可能性は低いと主張していた。
すっかり色褪せてしまった記憶の中に見つけてしまった少年は、ぼやけて輪郭すら捉えることができないのに、どうしてこんなにも気になってしまうんだろう。今まで忘れてたくせに、急に思い出してしまうだなんて。
◇
「帰って来るなら帰るって言ってくれれば、色々準備出来たのに」
アルバムを引っ張り出し、ひたすらページをめくり続ける私に、母が言った。事前の連絡もなく突然顔を出した娘を、一体どう思ったのだろう。挨拶もそこそこに小学校低学年のときのアルバムの場所を尋ねた私に母は、どうしたの、と目をぱちくりとさせていた。
しかし教えてもらった通りリビングのテレビラックの中を漁り、重い本のページをひたすら進めているものの、なかなか探している人物は見当たらない。それどころか写真に写っているのは、子どもと言うにはあまりに小さすぎる赤子の姿だった。
これは遡りすぎたのかもしれないと早急に切り上げ他のアルバムを確認しようと指先に力を込めたところで、ちょうどページを覗き込んでいたらしい母は、生まれたばかりの私の写真を見つけるや否や、「あら懐かしい」と感嘆の声を漏らした。
「あんた、予定日より早く陣痛が始まってね、大変だったのよ。おじさんに車出してもらってね。あのときおじさんいなかったらどうなっていたことか」
「うん」
「まあよく食べてとにかく寝る子だったから、手間は掛からなくて助かったけど……」
しまった、始まってしまった。母はエンジンが掛かると話がとても長くなる。もしかしたら、暇潰しのいい話し相手が見つかったと思っているのかもしれない。今日は土曜日だから、パートは休みなのだ。
できることなら話に付き合って、うんうんと相槌を打ち、お茶でも飲みながらまったり思い出話に付き合うことがきっと親孝行なのだろう。しかし今の私にその余裕は存在しない。急かす心臓の音を全身に響かせながら口を開いた。
「ねえお母さん。私が小学一、二年だった頃の写真ないかな。ほら、よく病院に遊びに行ってた頃の」
「ああ、明美ちゃんとよく遊んでたわねえ。……なあに? 懐かしくなったの?」
「うん。そんなとこ」
あまりにも適当な返事に、母は、ふうん、と納得したのかそうでないのかいまいち分からない反応を見せながら、並べられたアルバムの背表紙を眺める。そしてそこから一冊を取り出し、適当にぱらぱらとページをめくり始めた。
「多分この辺りじゃない? ……ほら、宮野病院の前で写真撮ってるし」
「見せて!」
間も明けずに顔を上げ、手を差し出したからだろうか。母は、まさかそこまで反応するとは思わなかったとばかりにきょとんとした目を見せたものの、すぐにこちらに見えるように、アルバムを開いた状態で差し出してくる。
食い入るように中身を確認する私をよそに、母はやけにまったりとした口調で言った。
「明美ちゃん、どうしてるかねえ」
「うん」
明らかに流した返事をしながら、視線をページの上から下へ、左から右へとせわしなく移していく。ページをめくることに専念している娘を尻目に、母は私の幼少期の思い出話を、まるで昨日の出来事のように語り掛けていた。当の本人はすっかり記憶から抜け落ちてしまっているというのに。
アルバムには、当時仲の良かった明美ちゃんとプールに遊びに行ったり、仲良くおやつを食べている姿が収まっていた。二人共まだ幼い。ついゆっくり読み込んでしまいたくなるけれど、今日このアルバムを見に来たのは思い出に浸るためではなかった。
まるで流し読みするかのようなスピードで手早くページを進めていくものの、しかし、いくらめくってもお目当てのものは見つからない。もしかしたら、“彼”と一緒に写真は撮っていなかったのかもしれない。半ば諦めながらページをめくった瞬間、私の視線は一枚の写真に釘づけとなった。
「あっ……」
つい声が漏れてしまった私は、まるで金縛りにあったかのように動くことができなくなってしまった。息をすることすら忘れてしまったかのように、ただじっとそこに写る人物を見つめ続ける。心臓はますます音量を上げ全身を駆け巡るというのに、どうにも指先に力が入らなかった。
──本当に、見つけてしまった。
そんな、後悔にも似た感情がぐるぐると頭の中を駆け巡る。どうしたらいいのか分からず、しかし一周回って冷静さを取り戻した脳は、徐々に目から入る情報の分析を始めた。
ページで言うと、アルバムの三分の一程度進めたところになるのだろうか。右ページの左上のポケットに収納された厚手の紙に、金髪の少年が、無愛想に顔を逸らして小さく写っていた。褐色の肌は絆創膏が貼られている。懐かしいという感情よりも先に真っ先に思い浮かんだのは、恋人の姿だった。
「(……とおるくんだ……)」
面影がはっきりと残っている。しかし、やはり思い過ごしではなかったと胸を張ることはできなかった。写真の中で私の隣に写っている少年は、間違いなく私が当時すきだった男の子だというのに、どうしてこんなに胸がざわついてしまうのだろう。嫌な予感がする。
「ねえ、お母さん。この子、覚えてる?」
その写真が収まるページを広げて指差すと、突然話を振られた母は一体なんだと言わんばかりに口を開いた。
「えっ、何? 景光くん?」
男の子の名前を呼ばれたものの、しかしその名は彼のものではないと瞬時に判断した脳は、「そっちじゃなくて、ほら、こっちの金髪のほう」と否定して、私の隣にいる子と補足すると、母は「ああー」と心底懐かしそうな声を、まるで溜息のように漏らした。
「降谷さんのところの零くんね。かわいい顔してるのにいつも絆創膏貼ってたから、もったいないなあと思ってたのよね。お母さん、零くんは絶対イケメンになってると思うのよね。もこういう人連れて来なさいよ」
「うん。……ねえ。この子って、いくつだったっけ。よく似た兄弟がいたかとか、覚えてる?」
「どうしたの? 急に」
「こういう子を連れて来なさいって言ったのお母さんでしょ。今後の参考にしておこうと思って」
「ふうん」
流石に少し強引過ぎただろうか。なんだか不審がられているような気がする。しかしまさかこの“降谷さんのところの零くん”が、私の恋人と瓜二つなのに名前が異なる奇妙な現象が起こっていて、それを確かめたいからだなんてことは口が裂けても言えなかった。
せめて、よく似た兄弟がいたり、歳が違えば、やはり別人だったのかと笑い話にできるはずだと僅かな可能性を抱いていると、母はさほど時間を掛けることなく口を開いた。
「確か一人っ子でしょ。より、三つ四つ上だったとは思うけど」
何気ない言葉で、最後の仮説を破り捨てられた気がした。そっか、と小さく頷きながら、再び写真の中の彼を見つめてみる。なんだか早くあの家へ帰らなくてはならないような気がして、素早くアルバムを閉じた。きっと今頃ベランダで風に揺らされているハンカチを、一刻も早く回収しなければならない義務感が突如として生まれて来てしまったのだ。
「ありがとう。ちょっとこのアルバム借りてくね」
持って帰る際に使おうと持ってきていた紙袋を鞄から取り出すと、そそくさとアルバムを中へ押し込む。そのまま持ち手を掴み立ち上がるも、思っていたよりずっしりとした重量があり、底が破けないか心配になってしまった。もしかしたら紙製ではなく、きちんとしたトートバッグを持参するべきだったのかもしれない。
「何、もう帰っちゃうの? せっかく来たんだから、もっとゆっくりしていけばいいのに」
滞在時間が十分にも満たない私に、母は分かりやすく口を尖らせた。突然訪ねて突然帰っていく娘に不満を抱くのは、仕方のないことなのかもしれない。
「うん、ごめんね。これからちょっと、千尋と約束があって」
「あら、そうなの……? じゃあ、よろしく言っといてね」
「うん」
友人とのありもしない用事を作り上げて、母に嘘をついてしまった。しかし、静まることなく大きく身体中に響く心拍音が生きた心地がしない。逃げるように実家を出て、早足に駅へと向かうものの、頭の中はぐちゃぐちゃに書き殴ったメモ帳のように散乱していた。だけど二つ、分かったことがある。
まず一つ目が、小さい頃近所に住んでいた“ぜろくん”という金髪の少年は、“降谷零”という名前であると言うこと。これは私と母の記憶を擦り合わせ結果一致したのだから、紛れもない事実だろう。少なくとも、零という名前は合っているはずだ。
そして二つ目が、とおるくんは“ぜろくん”だということ。あまりにも似すぎているその顔を、他人であると否定するには現実的ではない。年齢もとおるくんと一致している。だからこれは、紛れもない事実だ。
こうなると必然的に安室透イコールぜろくんという方式が出来上がるものの、そうすると、明らかにおかしなことになる。何故ならとおるくんは、安室透と言う名前だからだ。決して、降谷零などではない。でも、とおるくんは間違いなくぜろくんだ。なのに、名前が違う。
──一体、どういうこと?
これがなければ昔のすきだった人とまた巡り合えて恋仲になったというロマンチックなハッピーエンドを迎えられたと言うのに、何故こんな、現実にはありえないような行き違いが発生しているのだろう。私と母が二人揃って間違えて記憶していたなんて、そうそうあることではない。だとすると考えられるとしたら、例えば、とおるくんが私に嘘の名前を語っているとか。
「(なんのために?)」
確かにそう考えれば全て説明が付くけれど、そんな、サスペンスか何かの映画じゃあるまいし。じゃあ、新手の詐欺か何かの下準備のためとか。そういえば前にテレビで、ある程度信頼を築いてからお金を騙し取る手口がどうの、と見たことがある。
「(……お嬢様でもない女に、二年も掛けて?)」
しかも、名の通った大企業に勤めているならともかく、当時小さな車の整備工場の事務をしていたペーペーの社員に声を掛ける理由がない。流石にこの線はないだろう。
「(……そういえば私、とおるくんの何を知っているんだろう?)」
どの学校に通っていただとか、友人や家族の話ですら、彼の口から聞いたことは一度だってなかった──付き合う前に一度、「友人から映画のチケットをもらった」と言っていたことはあるけれど、それは本人が嘘だと言っていた。私を誘うための口実だったのだと──。
そもそも私も自分のことを積極的に打ち明けるタイプじゃないし、彼本人から言わないなら聞かない方がいいかと触れないでいたけれど、もしも言わないのではなく、何かの事情で言えないのだとしたら……。
「ただいま……」
未だ慣れぬドアの鍵を開け、誰に言うでもなく呟いた。確かとおるくんは今朝、帰りは夜になると言っていたから、ここにはハロ以外誰もいないはずだ。しかしいつもならば真っ先にお出迎えしてくれるはずのその愛犬の姿が見当たらない。どうしたんだろうと首を傾げつつ、ドアのロックを掛けた。
ふと視線を落とすと、見慣れた靴が一足、かかとを廊下側に向けるようにして綺麗に置いてあることに気が付いた。黒地に薄いグレーの靴紐が通されたこのスニーカーは、私は何度も見たことがある。そして記憶に新しい。何故なら今朝、彼が履いていったものだったからだ。
「おかえり」
突然の耳に飛び込んで来た声に、手から袋が滑り落ちてしまった。ガッと大きな音を立てて床に激突し、そのまま横にぱたりと倒れる。中身が零れ出ないよう慌ててしゃがみこみ、紙袋を拾い上げた。一瞬アルバムの上部が顔を出してしまったけれど、流石にそれだけでは中身までは分からないはずだ。
顔を上げると、つい先程写真で見た少年がやはりそのまま大人になったとしか思えない彼が、廊下とリビングを仕切っていたドアから顔を出していた。そして帰宅した私を出迎えるように、ゆったりとした歩調でこちらへやって来る。その腰には、紺のエプロンがつけられていた。どうやら料理の真っ最中だったらしい。
「と、とおるくん。早かったんだね。今日は遅くなるって言ってなかったっけ」
ドッドッドッと大きな音を立てて、心臓がせわしなく走り出した。それにつられてか随分と早口に声を生み出す舌に「落ち着いてくれ」と願ったけれど、それを聞き入れてくれる頃にはすっかり音を吐き出した後だった。とおるくんはそんな私に、驚かせてごめんねと苦笑する。
「クライアントとの打ち合わせがスムーズでね。予定より、ちょっと早く終わったんだ。……そうだ。夕飯のすきなマカロニグラタンだから、楽しみにしてて」
「本当? ありがとう。私、とおるくんの作ったグラタンが一番好き」
「はは。そう言ってもらえると作り甲斐があるよ」
まだ早いから、お腹が減ったらおいで。そう笑って、彼はリビングへと姿を消した。そこでようやく安堵の溜め息をつく。手元の袋を指差され、それは一体何なのかと尋ねられたらどうしようかと、ずっと気を張っていたのだ。
靴を脱ぎ、ひとまず先に手を洗ってしまおうと洗面所へ顔を出すと、紙袋を床に置き、濡らした手に泡石鹸を擦りつけた。なぜ私が慌てなくてはならないんだろうとわだかまりを感じながら、泡を洗い流した手の水分をタオルでふき取る。
「(……タオル……)」
何かを忘れているような気がしてじっと眺め、数秒掛けたところで脳内に小さな布が浮かび上がった。血の気が引いた気がした。
「──ごめん、洗濯物!」
廊下を駆け、勢いよくリビングのドアを開けると、突然大声を上げて入室したからか、ハロはその小さな体をびくりと震わせ、一体何事かと慌てたように辺りを見回していた。どうやらソファーの下に置かれたお気に入りのクッションの上で、昼寝をしていた最中だったらしい。
一方のとおるくんはというと、キッチンのコンロでホワイト・ソースを煮詰めている最中だったらしく、木ベラで深底のフライパンを混ぜているようだった。
「どうしたの?」
さほど驚いた様子は見せない彼は私を見つめながら尋ねるも、決して手は止めていなかった。リビングに入ってすぐ左側にキッチンがあるため、ドアの前にいる状態でもシンクまで様子を伺うことができる。相変わらず要領のいい彼は、とても調理中とは思えぬほど綺麗に片付けていた。
しかしどうしたことだろう、彼はやけに落ち着いているから、私がこんなにも慌てていることが逆におかしなことなのではないかと思わずにはいられない。つい気後れしてしまった私は、まさか本当の理由を伝えるわけにはいかないと、オブラートに包んで答えることにした。
「いや、あの、ええと。私、洗濯物干しっぱなしで出掛けちゃって。その……」
──そこに、東都水族館のハンカチも一緒に洗って干してたんだけど、とおるくん見ちゃいましたか。
語尾を濁す言葉の意味は、つまりはそういうことだった。彼に見つかるわけにはいかないことはなんとなく察していたと言うのに、私の詰めの甘さが浮き彫りになったと言うべきか、最後の最後でしくじってしまった。
とおるくんはいつも、洗濯物が乾いたことに気付いたときや雨が降りそうなとき、何も言わずに室内に取り込んでくれている。おまけに、まるでショップ店員のような手際の良さで綺麗に取り畳まれた服は、まるで最初からその姿でしたと言わんばかりのものだった。
それはともかくとして、今は午後五時前であることから察するに、彼は間違いなく洗濯物を室内へ入れている。となると、例のハンカチの存在にも気付いてしまったのだろう。
やってしまったと体温が急上昇させる私に、しかしとおるくんはまるで言われて初めて気が付いたとばかりに、えっ、と意外そうな反応を示した。
「ごめん、すっかり忘れてた。すぐ取り込むから……」
「えっ! いやあの、いいです! 大丈夫です!」
予想外の展開に声を裏返してしまった私は手を大きく左右に振り、決死の思いでそれを阻止する。しかし動揺のあまり敬語が飛び出していることにようやく気付いた私は、慌てて弁解をした。
「その、ほら。干したの私だし、今も夕飯作ってもらってるし、わ、私がやるから……!」
「……そう? じゃあ、お願いしようかな。ありがとう」
「う、ううん!」
彼が素直に引き下がってくれたことに胸を撫で下ろしつつ、しかし悠長なことは言っていられないと足早にベランダへ繋がる窓へと駆け寄った。レースカーテンを開けると、物干し竿には、午前中に私が干したままの状態で洗濯物が風に撫でられている。どこからともなく安堵の溜息が零れ落ちた。この、首の皮一枚繋がったような感覚はなんなのだろう。
窓の鍵を開け、突っ掛けを履くと、真っ先に淡い水色のタオル・ハンカチに手を伸ばした。そのまま室内からの死角であるベランダの隅にこっそり移動しては小さく折り畳み、スカートのポケットへ押し込む。ここでようやく緊張の糸が切れたように、どっと疲労が押し寄せてきた。
「(それにしても、あの几帳面なとおるくんが忘れることもあるんだなあ……)」
何気なく頭に浮かんだ印象を掘り返しては、洗濯バサミに吊るされ干されたままの靴下やタオル類の回収に勤しむ。いつもびっくりするくらい周りを見ていて先回りをするタイプだというのに、今日に限って見過ごすだなんて。いや、逆に、今までその優しさに甘え過ぎていたのかもしれない。もっと私がしっかりするべきなのだ。例えば慌て過ぎて、洗濯籠を準備することを忘れていたことなんてことは、もっての外だった。
ひとまず両手で抱える程度に持って往復しようと、第一陣を部屋の中へ放り込むと、私の姿を捉えたらしいとおるくんが突然名を呼んでくるから、思わず声を引っくり返してしまった。
「なっ、なあに……?」
どぎまぎしながら尋ね、背中に汗を滲ませる。持ち前の洞察力で、何か気付かれてしまったのだろうか。分かりやすく心拍が上昇する私に、とおるくんはけろりとした顔で言う。
「僕のは畳まずに、その辺に置いといてくれればいいからね」
──私立探偵の底力で、ハンカチの存在に気付かれたのかと思った。ああ、うん。そう必死に頷く私の頬は、はたして自然なものだったかは怪しい。
普段ならばついでだからと断っていたであろう私も、今回ばかりは早く確認したいことがあると先走っていたばかりに、素直にお言葉に甘えることにした。バスタオルは脱衣所に持って行くねと断りを入れて、そそくさとリビングを後にする。ドアを閉めた瞬間、また溜息が零れた。
両手いっぱいに洗濯物を抱えたまま寝室を通り過ぎた私の足は、迷うことなく洗面所へ直行する。そして洗面台の下に自ら置いていった紙袋を確認し、ほっと胸を撫で下ろした。なんとなく、目を離した隙に消え去ってしまいそうな非現実的な現象が起こってしまいそうな気がしたのだ。それに部屋に寄っている間に、万が一とおるくんが洗面所へ行ってしまったら、アルバムの存在に気付いてしまうかもしれない。
色違いのバスタオルをタオル掛けに吊り下げると、そのまま一息つく間もなく紙袋を手に寝室へと急いだ。ドアを閉めると、迷うことなく洗濯物をベッドの上へ放り出す。そしてその横に腰掛け、片付けも後回しにアルバムを取り出した。どきどきと騒がしい心臓をそのままに、ゆっくりと表紙を開く。
記憶を頼りに大雑把にページを進めると、さほど時間を掛けることなく先程発見した写真を発見した。やはり何度見ても、この金髪の少年はとおるくんにしか見えない。動揺や緊張で見間違えたのかもしれないとも思ったけれど、私の目は正常だったようだ。
そして写真をよくよく見てみると、どうやらこれは、町内会で東都水族館に行ったときのものらしい。館内に入ってすぐにあるフォトスポット──階段の側面に海の中で泳ぐ水色とピンクのイルカが描かれているもので、その中にトウト・アクア・ミュージアムとアルファベットで記載してあった──で、大人子ども合わせて二十名ほどが二列になって並んでいた。
みんな笑顔で写っていると言うのに、私と彼だけは妙にぎこちない表情で浮いている。幼い私はなんだか今にも泣きそうな情けない顔をしているし、彼に限ってはへそを曲げたように眉間に皺を寄せ、どこか不貞腐れているようだった。
「懐かしい……」
ぽつりと独り言が零れた。
だけど少しずつ、思い出してきた。当時私は彼に恋心を抱いていて、どうしたら話せるのかといつも頭を抱えていた記憶がある。だいすきだったのに彼を前にしたら頭が真っ白になって何も話せなくなり、いつも泣いてしまっていた。だからか彼はいつも私に対しては無愛想にしていて、いつもそっけない態度ばかりとっていたような気がする。きっとあまりにどんくさい行動ばかり取っていたから呆れて、嫌っていたのだろう。
困り果てた私はいつも彼の親友のひろくんに泣きついて、何かと相談に乗ってもらっていたような気がする。だから多分総合的に考えるとぜろくんと話した時間より、ひろくんと話した時間の方が圧倒的に長い。
しかしそのページの後ろをいくらめくってみても、金髪の彼が写っているのはその一枚のみで、あとは他の友人達と笑顔を見せているものばかりだった。そういえば彼は私と一緒に写真を撮ることを、ひどく嫌がっていたような気がする。
「(だから心から嫌われてるんだと思って、落ち込んでたっけ……)」
何気なく前のページへと戻ってみると、宮野病院で目を真っ赤に腫らした小さな私が、白衣を着た女性の足元に引っ付いて写っている。彼女はカメラの前では面白いほどに表情が硬くなる、かわいい人だった。
「せんせえ。私、なんだか分からなくなってきたよ……」
私と彼が出会うきっかけになった女性にすがるように問い掛けたものの、勿論返事が返ってくるはずがない。とおるくんのことは今でもだいすきのはずなのに、どこか不信感に似た何かが心の隅に集まり始めている。
──とおるくんによく似た男の子を見つけたんだけど、実はとおるくんだったりする?
ありふれた世間話のように明るい口調で尋ねたらすんなり解決できることかもしれないけれど、相変わらず私の中の何かがその選択肢だけはやめておけとばかりに警報を鳴らしている。まるで、そのことに触れてはならないと主張しているかのようだった。
◇
私好みに合わせてたっぷり入れられたマカロニとチーズは、お手製のホワイト・ソースが絶妙に玉ねぎや鶏肉の調和役となって、味を引き立てている。グリルで焼かれたお陰でついたチーズの焦げ目が食欲をそそった。おいしいと笑うと、とおるくんは嬉しそうに目尻を下げる。それがどこか幼くて、どうしようもなくかわいかった。
「この間お店で食べたんだけどね、やっぱりとおるくんが作ってくれたやつの方が私は好きだった」
「店のはこんなにマカロニ入ってないからね。、マカロニ好きでしょ?」
「うん。あと、このホワイト・ソースも好き」
「よかった」
そう言って穏やかに目を細める彼に、私もつられて頬を緩ませる。ふふ、とお互い笑みを溢し合ってから、スプーンでマカロニとソースをすくい上げた。少しでも熱を冷まそうと息を吹きかけ、湯気がおさまったところでいざ口に運ぼうとしたものの、正面の彼が気になり途中で止まってしまう。こっそり視線だけ送ってみると、彼もまた熱いグラタンを頬張っていた。
「(…………)」
彼がスプーンを口に運んだのを見届けてから、視線を落とす。ぼんやりとチーズの焼き目を眺めながら、スプーンをグラタン皿へと落とした。
「……何かあった?」
「え?」
ずばり言い当てた彼に、分かりやすく反応してしまった。冷や汗をかきながら否定するものの、とおるくんは納得がいかないようで心配そうに眉を下げている。
「な、なんでそう思ったの?」
「元気がないみたいだから。あんまり食べてないみたいだし」
「そんなことないよ。も、もしかしたら外出して疲れちゃったのかも。最近体力落ちたんだ」
彼はまるで見定めるかのようにじっと私を見つめた後、そっか、と簡潔に呟いた。ほっと胸を撫で下ろしながらも、しかしこれ以上この話を続けていれば勘付かれてしまうかもしれないと、話題替えを試みる。
「心配してくれてありがとう。……あ。お皿は洗っとくから、置いといてね」
「いいよ、これくらい僕がやるから。それに、疲れてるんだろう? 今日はもうゆっくりした方が良いよ」
「そんな、大丈夫だよ。体力が落ちたって言っても、おばあちゃんじゃないんだから」
明るい声を意識して言ったはずなのに、彼は分かりやすく難しい顔をしている。付き合い始めて知ったことだけれど、とおるくんはかなりの心配性で、そして頑固だった。
「いいから。……グラタン、食べれそう? 無理しないでいいからね」
「うん、大丈夫。食べたい」
口角を上げてみたものの、果たしてそれが自然な笑みとして彼に映っていたかは定かではない。間髪入れずに、スプーンに乗せたままになっていたマカロニを口の中に放り込んだ。
しばらくしてすっかり完食された食器達は、宣言通り彼の手で片付けられてる。一方の私はリビングのソファーを背もたれ代わりにしながらカーペットの上で両足を抱えて座り込み、電源の付いていないテレビ画面をぼうっと眺めていた。横に転がっているハロの頭を撫でながら「すぐ横になると、犬じゃなくて牛になっちゃうよ」と悪態をついてみるけれど、彼は意味を理解していないようで、小首を傾げている。
……どうも、写真に写った少年の存在が消えてくれない。
顔だけ横へ向け、食器を片づける彼の姿をこっそり眺めてみる。どうやら今は、皿に付いた洗剤を洗い流しているらしい。蛇口から出る水がシンクに当たる音と小さな雑音が耳に入って来た。新しいシンクにもすっかり慣れた様子で、ぎこちなさは一切感じない。
目を伏せながら手元に視線を集中させている姿をしばらく見つめていたものの、ふと思い立ち、ゆっくりと腰を上げる。そのままふらふらと彼との距離を縮めていったものの、とおるくんは皿洗いに夢中で気付いていないのか、それとも単に気にしていないだけなのか、私が立ち上がっても視線をこちらへ向けることはなかった。
そんな彼の背後までたどり着くと、迷うことなく腕を伸ばし、背中にべったりと張り付く。そのまま彼の腰に腕を回して抱き着くと、流石のとおるくんもついに反応を見せた。
「こらこら」
笑いながら「洗いにくいだろう」と注意するけれど、明らかに満更でもない声はどこか嬉しそうだった。一向に離れない私に「君が抱き着いて来るなんて珍しいね」と尋ねてくるけれど、私は、うん、と小さく呟くだけで、それ以上は何も言わない。
とおるくんのまっすぐな目がすき。この温かな背中も好き。これは私が知っている、だいすきなとおるくんのものだ。この体温は間違いなく私のだいすきなとおるくんのものだ。そう、とおるくんの。
「……とおるくんて、昔……」
「ん?」
なに? そう優しく尋ねる声は間違いなく私がよく知る彼のもので、だから何も言えなくなってしまう。開きかけた口をつぐんで、甘えるように彼の背中に頭をぐりぐりと押し付けた。
「ううん、なんでもない」
「そう?」
「うん」
それきり、彼は追及してこなかった。だから私も何も言わない。けれど、本当はここで言うべきだったのかもしれない。とおるくんは、ぜろくんと何か関係があるの? と。私、アルバム見ちゃったんだ、と。だけどやはりそう口にしたら最後、何か大切なものが崩れ落ちてしまうような気がして、臆病な私は喉の奥にしまい込んでしまったのだ。
「……ねえとおるくん。あのね、今日……だめ……?」
ぎゅっと抱き着く腕に力を入れながら尋ねると、彼は「え?」と小さく反応を示した。どこか困惑した色を見せている。全てを言わずとも察した彼は、私から誘うなんて珍しいと思っているのかもしれない。
「僕は構わないけど、疲れてるんだろ? 大丈夫?」
「うん」
「そう? じゃあいいよ。お風呂早めに入れようか」
「うん」
そう言うと、ちょうど食器を洗い終わったらしい。彼は水を止め、濡れた手をタオルで拭いてから、抱き着く私の手に指先を重ねてきた。
「ねえ、一回手を解いてくれる? 僕も君を抱きしめたい」
「だめ」
「けち」
そう小さく笑ったとおるくんは、手を重ねたまま動こうとしない。目の前の彼に、私は恋をしている。今だってそう。心臓が外に出てしまいそうなほどに緊張しながら彼に抱き着いている。だから私は知りたくてたまらない。確かめたくてたまらない。
──あなたは、誰?
20190921