目が覚めたら、まるで初めから自分の体温で包んでいたとばかりに彼は私を腕の中に閉じ込めていた。昨日の夜就寝したときは間違いなく私一人でベッドを占領していたはずなのに、いつの間にバイトから帰って来ていたのだろう。自分は小さな物音でもすぐに目が覚めるタイプの人間だとばかり思っていたのに、全く気付くことができなかった。本人には否定されたことがあるけれど、やはりとおるくんは忍者の末裔か何かなのかもしれない。

「(……おかえり)」

 心の声で、こっそりと呟く。ぼんやりとする視界でも分かるほど、彼は綺麗な寝顔を見せていた。基本的にとおるくんは寝ているとき微動だにしないから、息をひそめてじっと観察していないと、呼吸しているかどうかすら確認できない。それは、いっそ死んでいるんじゃないかと不安になるほどのものだった。

 彼と共に生活を初めて一週間。少し分かったことがある。私は、彼がそばで寝てくれているときが一番安心している。眠るときは必ず抱きしめてくれる彼が、朝、寝起きの少し掠れた声でおはようと言ってくれることがすきだった。だから夜中にバイト先から緊急の呼び出しが掛かっていた昨日のように、先に一人で眠るときは少しさみしい。……そんな子供じみた我儘、本人には口が裂けても言えないけれど。

 だから今はこっそり甘えていようと背中に腕を回そうとした矢先、指先がいつもと違う感触を覚えた。普段ならばもっとはっきりと感じるはずの彼の体温が、まるで何かに塞がれているかのようにほのかにしか感じない。何より手触りが、まるで布のようだ。

 勘違いをして掛け布団を触ってしまったのかと首を傾げ、何気なく彼の胸元を見やったところで気が付いた。普段ならば褐色の肌が直接私を包んでいるというのに、どうしたことか彼は、珍しくTシャツを着用したまま就寝しているらしい。なるほどだからだったのかと納得しつつも、しかしいつもは裸で寝てるのにと心が溜息をついた。

 普段は恥ずかしがっているくせに、こういうときに限って妙にさみしがってしまうというか、残念に思えてしまうのはなぜなのだろう。布一枚で遮られてしまった彼の体温が、妙に恋しくなった。いつもダイレクトに感じているからか、肌がさみしがっている。

 遅くまでバイトしていたから、疲れてそのまま寝てしまったのか。それとも秋口ということもあり肌寒かったのか。もしかしたら両方かもしれない。いや、そもそもこれを非難する理由など何ひとつない。そもそも私の心臓の都合上、こちらのほうが平常心を保てる。保てるのだけれど。

「………………」

 寝ぼけて脱いでくれないかな、なんてあまりにも非現実的なことを考えてみたものの、実際に本当にそんなことが起こったら、それはそれで色々と心配してしまう。却下だ。

 溜息を溢しそうになりそうになるのをぐっと飲み込んで、仕方なしに腕を彼の腰へだらりと回す。そして彼の胸元に顔を埋めて目を閉じたまま深く呼吸を繰り返していると、いつものとおるくんのにおいに混じった何かの存在に気が付き、片眉を上げた。

 煙草でもない。香水でもない。柔軟剤でも、石鹸でもない。そういう色っぽい香りではなく、独特の、ピンと張りつめたような、それでいて懐かしいようなにおいがする。どこかで嗅いだことがある気もするけれど、それが一体どこだったかが思い出せない。正解が喉元まで出ているものの、どうにも顔を出してくれなかった。

「(……なんだろう。絶対知ってると思うんだけど)」

 まるで警察犬のようにすんすんと鼻を押し付け、まるでクイズのように頭をフル回転させる。そこでひとまずの出た調査結果は、そのにおいは顔からではなく、Tシャツから滲み出ているということだった。勿論生乾き臭でも汗でもない。しかしどことなく小学生の頃を思い出すような、そんなにおいだ。

 こうなったら小学生というキーワードから記憶を遡り、何かヒントになるようなことはないかと思い出を紐解くしかない。さて、私は一体普段どんな生活をしていたか。家を出て学校へ通うところから脳内で再生し続け、帰宅後に友人と遊ぶとこまで流したところで、あっと思い出した。

「(病院のにおい?)」

 答えが絞り出されて初めて、そういえばと納得した。包帯や湿布、消毒液などの類いをひっくるめたようなにおいがする。小学生のときは友達の家が病院だったから、遊びに行ったときはよくこのにおいがしていたことをぼんやりと思い出した。だから少し懐かしいと感じたのかもしれない。

 ようやく正解に辿り着いたことでやけにすっきりした頭は、さあもうひと寝入りしましょうかと睡魔を派遣させる。お陰で思考回路が濁りぼんやりとしつつある頭の隅で、しかしどうして彼からこんなにおいがするのだろうかと疑問が浮かんでしまった。

「(バイト中にコップでも落として、指先を切っちゃったのかな)」

 しかし何度嗅いでみても、やはりTシャツからにおいがするように感じる。指と胴体はあまりにかけ離れた位置にあるから、においが移るにしては不自然ではないだろうか。それとも治療中に、消毒液でも溢したのだろうか。……だとしたら、着替えそうなものだけれど。

 疑問は尽きることを知らないものの、脳はそんなことより早く寝てしまいたいと急かしてくる。お陰で中途半端なところであっさりと思考を放棄した。

 しかしいつもと違う感触に相変わらず慣れない指先は戸惑ったまま、やはりどうしても彼の体温に直接触れたいと訴えている。仕方なく熱を探し求めるように手をうろつかせ、ふとしたところに布の途切れを発見した。何も考えることなくその中に手の平を滑り込ませると、指先にいつもの温度を見つけ出す。眠くても、嬉しいという感情は生み出されるようで、すっかり心は満たされる。気付けば手の平をべったりと彼の背中に張り付けていた。

 手の先だけでなく腕まで肌に触れていたくて、そのまま背骨に沿うように上へと向かう。すると彼の肩甲骨までたどり着いたところで、また彼の肌ではない何かが触れた。紙のように少しだけざらついたそれは幅は狭く、しかしどこまでも続いている。おまけにそれは一つだけではなく、ある程度の間隔が離れたところに複数あるようだ。

「(なに……?)」

 確かめるように指先でそれを撫でてみるものの、現実と夢の世界を反復横跳びしているような状態では、ちっとも頭が働かない。それに人間は目からの情報が九割と聞いたことがあるし、こんな状態で一人クイズをしていても分かるはずもないのだ。しかし珍しくとおるくんが服を着用して寝ていることといい、病院のにおいがすることといい、どうにも引っ掛かって解答を放棄できないままでいる。

 他に何かヒントになるようなものはないのかと更にその謎の感触の先を辿っていると、彼の肩の辺りにまた違う素材の何かが出現した。これは一体なんだろう? まるで薄い布のような感触に眉間に皺を寄せると、タイミング悪く、突然とおるくんは寝返りを打つ。そしてこちら側に体重を乗せて覆いかぶさってきたお陰で、横向きだった体勢を九十度転がされてしまった。

 背中にマットレスをべったり張り付けながら、もしかして起こしてしまったのだろうかと冷や汗をかく。随分と弄ってしまったから、くすぐったかったのかもしれない。

 バイトで疲れているはずなのにやってしまったという罪悪感と、なんだか自分がとても大胆なことをしていた実感から、首の付け根がやけに熱くなる。急に頭が覚めた私は、言い訳と言う名のこじつけを必死に考えるべく頭を回転させたものの、しかし肝心の彼はうんともすんとも言わない。

「(……とおる、くん……?)」

 小声で話し掛けたつもりが、寝起きで声が出にくいせいもあり、心の声となってしまったようだ。しんと静まり返る寝室で、真上にいる彼からは小さな寝息が聞こえてくる。どうやら起こしたわけではなさそうだと、ほっと胸を撫で下ろした。

「(こんなに熟睡してるだなんて、よっぽど疲れてるんだろうな……)」

 いつもならばすぐに起きて、悪戯っ子のようにちょっかいを出してくるというのに。まさか純粋に、ただ寝返りを打っただけだったとは思わなかった。とは言え下手に私が動いたら、今度こそ彼は目を覚めてしまうかもしれない。人形のように全身を固定させ、息を潜ませた。

 その甲斐あってか、とおるくんは寝やすい姿勢を求めて小さく腕が動かす程度で、今のところ起きる気配を見せてはいない。なんだか大きい子供みたいだなと笑みを溢していると、ふと、右の横っ腹の辺りに温かい何かが触れた。パジャマの上からではなく直に肌に触れるそれはくすぐったくて、小さく肩が震えてしまう。おそらくこれはとおるくんの手であることは、記憶と経験と感触からすぐに分かった。

 おそらく姿勢を整えたときにうっかり入り込んで触れてしまったのだろう。他意はないとはいえ心臓に悪いことこの上ない。とはいえこのままの状態で寝るのはできそうにないし、かと言って下手に彼の手を動かせば、今度こそ起こしてしまうかもしれない。どうしたものかと考え込んでいると、なぜかべったりと私の横腹部につけた彼の左手はゆっくりと上昇してくるではないか。

 くすぐられるようなぞわぞわとした感覚に耐えられず、反射で身を捻じらそうにも、ほぼ真上にとおるくんが被さってきているせいでろくに動けない。唇をぎゅっと噛みしめて顔を横へ背けた。

 一体何が起こっているのか理解することもできず、動揺する心臓はあっという間に心拍数を上昇させる。手が胸の真横まで来たところで、流石にこれはおかしいと私はようやく声を上げた。

「こ、こらあ……っ!」

 相変わらず喉は寝たがっているのか、まるで声を潜めているかのようだった。内緒話をするかのような声も、しかし彼はしっかりと耳でキャッチしたらしい。寝ぼけているにはやけにはっきりした声で言ってのけた。

「だってが悪戯してくるから、つい」

 笑いを含ませた彼の声はどこか弾んでいて、子どものような無邪気さを含ませていた。つまりとおるくんは器用に、寝ているふりをしていたということなのだろう。

 しかし私には、一体いつから起きていたのかが分からない。私が彼に触れる前からか、それともそれがきっかけだったのか。どちらにせよ先に仕掛けたのは私であることに変わりはない。ここれは素直に謝っておこうと先手を打った。

「そ、それは、ごめん……。その、服着てるの珍しいなあって思って……」

 肌が恋しかったんです、ということまでは流石に言えなかった。言葉に詰まり、随分と簡略化された理由を述べるととおるくんは、ふうん、と納得しているのかしていないのかいまいちわからない反応を見せる。そして相変わらずくすぐるように肌を撫でてくるものだから、全く反省をしていない。牽制するように彼の手を掴んだ。

「だ、だーめ。くすぐったいから……!」

 だめと言いつつ口元は笑っていることに自分自身気付いていた。説得力の欠片もない。きゃっきゃとはしゃぎながらじゃれつき合い始めるも、ふとベッドから離れた壁側から小さな物音が耳に飛び込んできた瞬間、二人揃って全身を凍らせた。

 おそるおそるその音の発信源へ顔を向けるものの、真っ白な毛並みのセラピストはすよすよと寝息を立てて静かに眠っている。安堵の溜め息をついていると、ふととおるくんと視線がぶつかった。小さく笑みを溢し合ったところで、ようやくじゃれつきは終結する。

 いつの間にかパジャマの中から脱出していた彼の左手は、まるで寝かしつけようとばかりに私の頭を撫でていた。相変わらずとおるくんに頭を撫でられるとなんだかふわふわとした気分になって、上機嫌に頬を緩ませながら目を細めてしまう。

「……ねえ」
「うん。何かな?」

 とろとろに溶かされた声は今にも夢の世界へ転がり落ちてしまいそうなほど不安定なものだった。しかしだからか、やけに何かをねだるような甘えた音となってしまう。それが逆に彼にはお気に召したのか、いつもに増して声が柔らかい。それが嬉しくてつい笑みを溢しながら、あのね、と続きを口にする。

「どこか怪我、してなあい……?」

 瞬きが増える世界はぼんやりとしていて、細い糸でかろうじて繋ぎとめているようなものだった。なんとかそれを手放すまいとするものの、ついには目を開けることすら億劫になってしまった。もともとコンタクトを入れていない視界ではほとんど見ることができなかったけれど、今瞼の向こう側で、彼はどんな顔をしているのだろう。

「……してないよ」

 小さく呟かれるように彼から紡がれた言葉は相変わらず優しかったけれど、なんだか少しだけ、張りつめているように聞こえた。それがどうにも引っ掛かったけれど、すぐにいつもの色に戻した彼は言う。

「くすぐったかっただけだし、君も引っ掻いてはいないしね」

 ああ、なんだか誤解をされているような気がする。そう思った。

 私は決して、自分が好奇心から彼の背中へ腕を回した際に怪我をさせたかどうかを尋ねたのではなく、すでに傷を負っていたのではないかという意味で聞いたつもりだった。

 病院のにおいといい、とおるくんの肩についていた紙や布が、ガーゼや、それを止めている医療用テープのようなものならば、全てが線で繋がる気がした。しかし真意を尋ねる前に、ついに私は限界を迎えてしまう。手放した真っ暗な意識の向こうで、おやすみと囁かれた気がした。



 ふと気が付くと私は、全体的に白っぽく、やけに素っ気ない風景の中で立っていた。空がないからおそらくどこかの室内であるということは分かるものの、どこかぼんやりとしているせいで、細部まで把握することができない。

 ここは一体どこなのか辺りを見渡していると、目の前に、色素の薄い髪色をした人物が一人立っていることに気が付いた。こちらに背を向け、かつ白衣を着用しているため一見誰なのかは分からないものの、謎の確信を得ていた私は、迷うことなくその人物の元へと駆け出す。

「せんせー! あけみちゃんは!?」

 先生と呼ばれたその人物はくるりとこちらへ振り返ると、私の視線に合わせるように屈み、そして微笑んだ。どうやらこの人が巨人なわけではなく、今の私自身が小学生のように背が低いらしい。

 この女性の顔もまるで霧がかかったようにぼんやりとしてたものの、なぜか喜怒哀楽程度は読み取ることができる。そんな少ない情報の中でも、私ははっきりと確信していた。この人を私は知っていると。そして、姿を見つけたら走って行くほどに、彼女のことがすきなのだと。先程の、やけに弾んだ声がその証拠だった。

「ごめんね。明美は今日遠足で、まだ帰って来てないの」

 はしゃいだ気分でいる私とは対照的に落ち着いた口調でそう告げた彼女は、だから今日は帰ってくるのが少し遅くなるかもと補足した。なるほど、“あけみちゃん”はいないらしい。しかし目当ての人物は不在だというのに心は沈まず、むしろそれを知っていたかのように平常心を保っている私は、まるでそれを口実にやってきて、別の誰かに会いに来たかのようだった。

「そっかあ。うーん。そうなんだね」

 すんなりと事実を受け入れ、きょろきょろと辺りを見回しては姿の見えない誰かを探していると、それを察したらしい白衣の人物は、まるですべてお見通しとばかりに言う。

「彼なら、今日は来てないわよ」
「うえっ」

 見事に引っくり返った声が、動揺を物語っている。どうしてそれをとばかりに口籠り、先程とは違う理由であちこちに視線を泳がせた。しどろもどろになりながら必死に誤魔化そうと口を動かす。

「べ、べつに、──くんのことなんて、さがしてないよ」

 確かに自分の口を動かしたはずなのに、肝心の人物の名は、音にした瞬間水に滲んだかのように溶けて消え去ってしまった。お陰で誰を探していたのかさっぱり分からない。しかし“先生”の耳にはしっかり届いたらしく、まるで微笑ましいとばかりにますます笑みを深くする。

「私は一言も、──くんなんて言ってないわよ」
「ひゃっ!」

 墓穴を掘ってしまったと肩を震わせ、これではもう言い逃れできないとばかりに目を伏せた。胸の前で手を握り締め、せめて最後の悪あがきと頭を捻るも、どうにも彼女には誤魔化せない気がして小さく唇を噛む。

「な、ないしょだよ。ゆびきりして……!」
「はいはい」

 差し出した小指に躊躇することなく自身の指を絡ませた彼女は、自ら進んで歌を歌いながら繋いだ手を小さく上下させ、リズムを取っている。だからか私も段々それが楽しくなって、あれだけ必死になっていたのが嘘のように大きく手を振り、指切った! と弾んだ声を重ねて指を解いた。

 民謡を一緒に歌っただけなのに随分と上機嫌となった私は、これで秘密が漏れることはないと安堵したらしい。一度ばれてしまえば同じことだと、でもねせんせえ、とこっそりと相談を持ち掛けた。

、──くんにきらわれてるの」
「あら。どうしてそう思うの?」

 随分と落ち着いた印象だった彼女も目を丸くしたから、これは予想外の展開だったのだろうか。しかしそのまっすぐに注がれる視線を見つめ返すことがどうにも忍びなく、だって、と小さく呟いていると、じわりと視界が歪んだ。喉の奥にぐっと力を込めて、込み上げてくる何かと必死に戦いながら声を絞り出す。

「──くん、と目も合わせてくれないし、そ、それになきむしは、き、きらいだって……」

 今にも泣いてしまいそうな不安定な声は、まるでこの世の終わりだと言っているようだった。泣き虫は嫌われる要因らしいというのについに耐えきれなくなった涙は、ぼろぼろと零れてしまう。すがるように抱き着くと、彼女は背中を優しくさすりながら、大丈夫大丈夫と暗示のように繰り返し言い聞かせてくれた。

「あなたにはそう言っても、彼も感情的に泣いてしまうタイプだし、きっとちゃんがかわいいから、つい意地悪を言ってしまっただけよ」

 そう優しく慰めてくれたものの、当の私は泣くことに必死で、その言葉はなかなか耳に入ってこない。しかし唯一かわいいという単語だけは聞き取れたようで、鼻をすすり、小さく首を横に振った。

、せんせえみたいにびじんじゃないもん……」

 だからきっと駄目なんだと絶望に浸っていると、彼女はそんな私をしばらく見つめた後、まるで何かに耐えられなくなったとばかりにケタケタと笑い飛ばした。先生がここまで表情を出すのは珍しい。私は真剣に悩んでいるのにと呆気に取られ、ぽかんと眺めていると、その視線に気付いたのか彼女は、ごめんごめんと謝罪を繰り返した。

「本当、ちゃんは小さい頃の私にそっくり。人見知りが激しくて恥ずかしがり屋で」
「えっ、ほんとう……? せんせえもそうだったの?」

 似ていると言ってくれるのが嬉しくて、つい数秒前までこの世の終わりだとばかりに落ち込んでいたことが嘘のように明るい声が出る。そんな私に答えるように、彼女は力強く頷いた。

「ええ。だから、もし私のこと美人だって思ってくれているなら、きっとちゃんも美人になれるわよ」
「うん! ふふ、やったあ!」

 ぴょんぴょん飛び跳ねた私は、まるで今ならばなんでも夢を叶えることができるような気分となっていた。普通に考えてみれば彼女の“美人になれる説”は全く筋が通っていないというのに、今の私にはそんな冷静さは持ち合わせていないらしい。身長だけではなく、思考回路も子どもになりきっているようだ。

「……ああ、ほら。噂をすれば来たわよ」

 彼女はそう言ってこっそり耳打ちして知らせてくれたけれど、しかし肝心の“誰”が来たのかを読み取ることができない。首を傾げながら彼女が見やる方向へ顔を向け、あっ、と声を溢した。

 やはりその人物の顔もぼやけていたものの、背格好や服装から、おそらく小学校の中、高学年くらいの少年だろう。しかしどうしたことか、その赤いポロシャツに膝丈のズボンを合わせたその人物を見つけるや否や、みるみるうちに全身が固まっていく。胸の奥がぎゅっと締め付けられた気がした。

 どうしたらいいのか分からず助けを求めて先生へと視線を向けるも、つい先程まで確かに隣にいたはずの彼女は、忽然と姿を消している。まるで自分一人でなんとかしてみせろと言われているような気がして、目を伏せたまま、ぎゅっとスカートを握り締めた。深く息を吸い込んで覚悟を決め、顔を上げて彼の名を呼んで駆け寄る。

「ぜ、ぜろくん!」



 目が覚めたのは、すっかり太陽が街を照らし始めていた頃だった。カーテンの隙間から、僅かに明るい世界が零れている。朝か、とぼんやりと理解した頭で、左手を横へ伸ばした。ベッドの横に置かれていたサイドテーブルに、スマートフォンが眠っているはずなのだ。

 指先の感覚だけを頼りに、触り慣れた材質と大きさからそれらしいものを見つけると、充電コードを抜いた。そのまま顔の目の前へ持ってきてはサイドボタンを押し、画面を表示させる。時刻は午前六時三十七分を指していた。しかし時刻の下に表示されている日曜日という曜日から、どうにもすぐに起きる気力が生まれない。

 スマートフォンをテーブルに戻すことすら億劫となり、ひとまずそのまま胸の位置まで下げながら、何もない天井を見上げた。視力補正のない状態では、真っ白な色であること以外何も分からない。目を瞑り、ゆっくりと息を吐き出す。

 確かに夢を見ていたはずなのに、その内容を少しも思い出すことができない。そういえば夢を見るときはきちんと深い睡眠をとれていないと言うけれど、肝心の内容だけを覚えていない場合はどうなのだろう。

 とおるくんに聞いてみようかと考えたところで、何気なく顔を右へ向けた。本来であればそこに彼が寝ているはずだというのに、今ではすっかりもぬけの殻となっていて、まるで深夜のやりとりも本当にあったことなのかすら怪しい。

 なんとも言えないさみしさを訴える心臓を誤魔化すように、上半身を起き上がらせた。まるで私一人置いて行かれたような、どうしようもない虚無感に襲われてしまうのだ。先程のサイドテーブルから眼鏡ケースを手探りで見つけ出し、中身を耳に掛ける。

 そこでようやくある程度状況を把握できる視力を整え、寝室全体を見渡すと、どうやらとおるくんのみならず、ハロの姿も見当たらないことに気が付いた。二人して、起こしてくれればよかったのに。半ば八つ当たりのようなことを考えながら、ゆっくりとベッドから降りる。ギシリとスプリングが軋む音を気にすることなく、そのまま部屋を出た。

 おそらくはリビングにいるのだろうと何の根拠のない推測から廊下を歩いていると、その中央で、骨型のおもちゃで遊んでいるハロの姿を発見した。夢中で噛み続けていたものの、私がやって来たことに気付いたらしく、おもちゃを放り出して駆け寄ってくる。

「ハロ、おはようー」

 膝を付き、間延びした声で挨拶すると、どうも喜んでくれたらしい。尻尾を左右に振ってくれるものだから、こちらとしてもどうも頬が緩んでしまう。頭を撫でながら、「とおるくん知らない? もう出ちゃったのかな?」と尋ねると、ハロはきりっとした顔を見せた後、つい先程まで座っていた場所に戻っていった。

「アンッ!」

 相変わらず尻尾をぱたぱたと揺らしたまま、やけに頼もしい顔でこちらを見つめている。ハロが座っていたのは、洗面所のドアの前だった。つまり、ここにとおるくんがいるということなのだろうか。

 前々から思っていたのだけれど、ハロは随分と知能が高いというか、警察犬顔負けなんじゃないかと思う節があるのだけれど、とおるくんは一体どれだけ熱心に躾けたというのだろう。もともとハロも賢い子なのだろうけれど、とおるくんはドッグリーダーにも転職できそうだなとぼんやりと考えた。恋人があまりにも多才すぎる。

 閉じられたドアをじっと見つめたところで、そういえば私が寝る前は開けたままにしていたことを思い出した。にも関わらず今はきっちりと閉まっていることから察するに、なるほど本当にとおるくんはここにいるのかもしれない。勿論、とおるくんが帰って来てから閉めたという可能性もあるのだけれど。しかしひとまず試しに三回ノックをしてみるも、特に返事が帰って来ることはなかった。

「とおるくん? いないの……?」

 ドアを開け、そっと中を覗きこんでみると、確かに浴室は明かりがついていて、水が流れる音がする。なるほど、ハロ探偵の言うとおりだった。どうやら彼はシャワーを浴びているらしい。ほっと胸を撫で下ろしたところで、そういえば、と思い出した。辺りを見回し、洗濯籠の中を覗きこんだところでそれを発見する。

 ありふれた白いTシャツは、おそらく彼がつい先程まで着ていたものなのだろう。昨晩、確かにここから病院のような──つまり消毒液のにおいがしていたと思ったけれど、それが本当だったのか、はたまた夢の中の出来事だったのかを確かめるには今しかない。しかし恋人のものとはいえ、人様の服を、しかも脱いだもののにおいを嗅ぐのは限りなくアウト案件な気がしてならない。

 睨めっこをするようにじっと視線を注ぎ、考えていても仕方がないと手を伸ばした。

「──呼んだ?」
「ひゃっ!?」

 咄嗟に悲鳴を上げてしまった。振り返ると、やはりシャワーを浴びていたらしいとおるくんは、目をぱちぱちとさせている。どうやら私の声に気がついてわざわざ浴室から出てきてくれたらしいけれど、まさかここまで驚かれるとは夢にも思わなかったらしい。彼は水分を含んだ前髪が邪魔なのか、後ろへ流していた。

 バレてしまっただろうか。私がTシャツのにおいを確認しようとしていたこと。あろうことか、張本人に。

 まるでサウナにでも入ったかのように背中に滝汗が流れていく。みるみる上昇していく体温は私の思考回路を鈍らせた。あまりに固まっている私を、とおるくんは不審に思ったのだろうか。大丈夫かと声を掛けられた瞬間に我に返った私は、罪悪感と羞恥心と緊張で何かが崩壊した。

「あ、あ、あの! ご、ごめんなさい! なんでもないんです!」

 そう無我夢中で言い放つと、彼から反応が返ってくる前に逃げるように洗面所を飛び出した。頭が真っ白で、もう何も考えることができない。気が付けば私はキッチンの水回りで息を整えていた。まだ心臓が大きく鳴り響いている。

 ──やってしまった。ついにやってしまった。

 いや、Tシャツに触れる前だったから、彼には気付かれてはいないのかもしれない。だとしても、私が気にして死んでしまう。こんなのただの変質者だ。素直に事情を話そうかと考えたものの、もしも逆の立場だったなら、いくら怪我をしていないか心配になったと言われても、流石の私もきっと引いてしまうだろう。つまりこれは却下だ。つい裸に動揺した、ということにしておこう。頭がパニックになって、せいぜい上半身程度までしか見てないけれど。

「(そういえば、怪我はしてなさそう、だったかも……)」

 まじまじと人の体は見るものではないと、さほど見ないようにしていたから確信は持てない。それでも明らかに分かりやすい痣だとか傷があれば目に留まるはずだというのに、正面から見た限りはそれがなかった。ということは、病院のにおいがするというのは私の気のせいだったのだろうか。

「(でも背中だったら、分からないなあ)」

 何気なく考えたところで、物騒な説を振り払うように首を振った。恋人に怪我だなんて、ない方が良いに決まっている。例え何かあったとしても、きっとうっかり寝違えたとかで、湿布を貼っていた程度に違いない。そう自分に言い聞かせ、ひとまず気分転換に喉でも潤そうかとコップを片手に、水道のハンドルに手を掛けた。

 その瞬間、まさにその瞬間だったのだ。まるでタイミングを見計らったかのように背後からハロが吠え、飛び上がった小心者の心臓は反射で肩を震わせたと同時に、右手を大きく上へ持ち上げた。その結果勢いよく上げられたハンドルは大量の水を蛇口から投下し、そして見事にシンクで跳ね、結果、まるで引越し初日を沸騰させる結果を忠実なまでに再現してしまった。

 勿論すぐに水を止めたものの、それでもやはり大きく顔に掛かった水はぽたぽたと垂れ落ちる。こんなにもずぶ濡れなのに、何も入っていないコップが虚しい。重い溜息をついた。

 そして流石のハロも、まさかこんなことになるとは夢にも思っていなかったのだろう。呆然と立ち尽くす私の周りを、右往左往している。その顔は明らかに、やってしまったどうしよう、と書いてあるように見えた。

 おそらくハロは、私が突然走り出したから、一体何事だと追い掛けて来てくれたのだろう。そして心配して声を掛けた結果、私が勝手に驚いてずぶ濡れになったというわけだ。おまけに耳を垂らしてうろたえているから、責任を感じているのかもしれない。

「えっと……。びっくりさせちゃってごめんね、ハロ」

 しゃがみ込み、大丈夫だからと言い聞かせたところで、ハロはまるで何かを思い出したように背を向けて、一目散に廊下へ去って行ってしまった。罪悪感から逃げてしまったのだろうか。ハロには悪いことをしたなと反省しつつ、タオルハンガーからタオルを抜き取る。

「(あー、びっくりした……)」

 まさかこんなにも短いスパンで同じことを繰り返すことになろうとは。とおるくんには内緒にしようとひっそりと心に決め、タオルを顔に押し当てる。前髪も随分濡れてしまったから、このままブローしたほうがいいのかもしれない。そういえば、まだパジャマのままだたし、早く服に着替えてしまおう。

 タオルを戻し、今度こそコップに水を溜める。今日は家で大人しくしていた方がいいかもしれない。やれやれと喉を潤しコップを洗ったところで、ハロが廊下から戻ってきたことに気が付いた。振り向くと、迷うことなく足元に寄ってくるハロは、口元に何かを咥えている。

 ひとまず屈み、じっとハロが持ってきたものを観察してみると、どうやら小さなタオルらしい。何気なく視線をハロの目へ向けると、まるで、これを受け取ってくれと言っているかのようにじっと見つめ返していた。

 手を差し出し受け取ってみると、それは二十センチ四方ほどの大きさであろう、タオル生地のハンカチであることが判明した。薄い水色の生地に、可愛らしいアップリケが付いている。おそらくラッコだろうか。それに随分と布がくたびれているから、年季が入っているものらしい。

「……えっ? もしかして、これを取りに行ってたの?」
「アンッ!」

 元気よく帰ってきた返事は肯定しているかのようだ。どれだけ賢い子なんだと舌を巻くしかない。感動のあまり、ありがとう、偉い、賢いをひたすら繰り返し褒めちぎりながら頭を撫でてやると、みるみるうちに尻尾が元気を取り戻し、いつもどおり大きく左右に揺れ動かした。

 濡れたから拭くものを持って来なくてはという思考回路が働く犬なんて、世界中に何匹いるというのだろう。また水を被ってしまったことはとおるくんには秘密にしなくてはと思っていたけれど、これは伝えなくてはならないエピソードとなってしまった気がする。

「ハロは本当に賢いねえ」

 感心したように溢しながらハンカチをよくよく見てみると、「トウト・アクア・ミュージアム」という筆記体の刺繍が、「2thアニバーサリー」の文字と一緒に施されていた。私の持ち物ではないから、きっとこれはとおるくんのものなのだろう。

「(トウト・アクア……。て、これ東都水族館のハンカチなんだ)」

 とおるくんが初めて行った二年前のことを思い出し、自然と顔はほころぶ。確かそのときが二十周年だったから、単純に考えて、これは二十年前のものなのだろう。

「(……てことは、とおるくんが十歳のときかな)」

 捨てずに置いてあると言うことは、よほど思い入れがある物なのだろうか。そういえば、小さい頃にすきだった子と一緒に水族館に行ったと聞いたことがある。もしかしてこれは、そのときの思い出の品なのだろうか。あのときは冗談みたく誤魔化していたけど、やはり本当のことだったのかもしれない。

 とおるくんも思い出は大事に取っておくタイプなんだなとぼんやりと考えつつ、縫い付けられたタグを見つけ、そして止まった。そこにはおそらく油性ペンで書いたのであろう、縦長の丸印が滲んでいる。しかしこれは丸ではないと、私の頭は瞬時に理解してしまった。そう、これは記号でもアルファベットでもない。数字のゼロなのだと。

 その瞬間、幼い頃のゼロと呼ばれていた少年の存在を思い出した。彼はよく自分の名前を書く代わりに、好んで数字の“0”を書き記していた記憶がある。そういえば町内会で行った東都水族館で、私があげたハンカチにもそれを書いてくれていたような……。

「(……ハンカチ……)」

 記憶を遡る手助けになるかと、こめかみを押さえ顔を伏せた。

 流石に記憶は曖昧だけれど、そういえばあのときのハンカチもこんな感じのものではなかったろうか。詳細なデザインや色までは覚えていないけれど、ラッコの絵柄か何かが入っていたことだけは間違いない。なぜなら彼がラッコがすきだと聞いて、慌てて土産屋に駆け込んで探したのだから。

 ──お気に入りには無くさないように、ちゃんと自分の名前を書くんだぞ。だからこれにも書いてやる!

 そう言って彼はハンカチの隅に縫い付けられた布製のタグに、油性ペンで“0”と書き込んだのだ。そう、そうだ。間違いない。少しずつ鮮明になっていく記憶に、ハンカチを握りしめる力が強くなっていく。

 偶然同じものを買ったり貰ったにしても、ここまで一致することは確率的にありえることなのだろうか。つまりこれは、あのときあの少年にプレゼントしたものと考えるのが自然だろう。だとしたら、どうしてそれがここにあるのか。いや、そもそも、なぜとおるくんがこれを持っているのだろう。

「(二人は友達で、その子からとおるくんが貰ったか、借りて返しそびれたとか)」

 どちらもあり得る話だ。明らかに先程の、「たまたま同じハンカチを手にして、たまたま同じマークを同じ場所に記入した」というものよりよほど信憑性がある。なのに何故だろう。そう思うことができない。それは、以前とおるくんから言われた言葉が頭を駆け巡っているからだ。

 ──もしかしたら本当に会っているかもしれませんね。あの整備工場で会うより前に、気付かないうちにどこかで。例えば街ですれ違っていたり、子どもの頃に会っていたのかもしれない。

 しかし例えそうだとしても、どう考えてもとおるくんは“彼”じゃない。だって“彼”の名前は“透”ではなかったからだ。そう、確か“ゼロ”は名前に由来したあだ名で、だから多分、名前は“零”と言っていた気がする。苗字はもう覚えていないけれど、それは間違いない。だから二人は同一人物ではないことだけは確かだ。

 そうであるはずなのに、頭の中で何かが引っ掛かっている。何か大事なことを忘れている気がしてならないのだ。

 当時はあんなにだいすきだったはずなのに、今ではもうその“彼”の顔も思い出すこともできない。しかし記憶の奥でうっすらと残っている日本人離れした容姿は、天使みたいな子だと何度も思ったことがある。その理由は、なんだったか。

 フィルターを何重にも重ねたかのようにぼやけて全く鮮明な映像にはならない。二十年前の記憶なんてそんなものだろうと普段ならば早いところで切り上げるものの、どうしても手放すことができないでいる。なんだかとおるくんとの類似点があるような気がして。

「……あ」

 脳内で恋人の姿を思い浮かべた瞬間、それまで厳重に施されていたフィルターが消え去った気がした。と言ってもどんな顔だったかまではやはり思い出せない。しかし確実に、白黒だった思い出が色付いた。まるで、ずっと見つけられず空白のままだったパズルがカチッと音を立てて見事に当てはまったような、そんな気分だ。

 私の記憶の中の少年の髪に付いた色もまた、金色だったのだ。

「(そう、そうだ)」

 芋づる式に掘り起こされていく記憶に一人同意するように、うんうんと頷いた。

 太陽に照らされるとキラキラと光る向日葵のような髪色が、当時子どもだった私には珍しくて、とても印象的だった記憶がある。青い瞳が綺麗で、確かご両親のどちらかが外国の方だと誰かに聞いたことがある。くりっとした大きな目がかわいらしい外見とは裏腹によく喧嘩をしていて、しょっちゅう友人宅の病院で姿を見掛けていた。

 ……どうしよう。赤の他人と言うにしては、あまりにとおるくんとの共通点が並びすぎている。

 もしかして、親戚か、兄弟だろうか。……いや、いつだったかとおるくんは一人っ子だと聞いたことがある。それに小さい頃から親戚とも疎遠だったらしいし、血縁者という可能性は低いのだろうか。それじゃあ一体、二人の関係性はなんだというのだろう。

 ──子どもの頃に会っていたのかもしれない。

 再び彼の言葉が脳内で響き渡る。気が付けば私は、ハンカチから視線を逸らすことができなくなっていた。じっと見ていたら何かが分かるような気がしたものの、一向に正解は浮かび上がっては来ず、代わりに、やっぱり二人は同一人物だったりして、と冗談のようなお茶らけた説が浮かび上がるのみだった。

「(……まあ、そんなわけないかあ。名前違うし……)」

 まるで自分に言い聞かせるように頷いて、もう考えるのはやめようとハンカチを折り畳んだところで気が付いた。これは一体どうするべきなのだろう。いや、どうするも何も元に合った場所に戻すべきだということは分かってはいる。

 しかしこれは、水を拭いてこそいないものの、ハロが咥えて持ってきた。ということはつまり、洗ってから戻すべきなのだろうか。なんとなく引っ掛かりを感じてしまうから、できればとおるくんには気付かれずに済ませたい。つまり私はこっそりと洗濯機を回し、そして乾かせた後でないとスタート地点にすら立てないのだ。そもそもこれはどこにあったものなのか、私は知らない。……一体、どこに返せばいいのだろう?

「(難易度が高すぎる……)」

 素直にハロが持ってきたことを打ち明けたほうが穏便に進むような気がしないでもないけれど、なぜだか本人にだけは知られてはならないと脳の司令部が警報を鳴らしている。ような気がする。勿論これは確証なんて何もない、ただの勘でしかないのだけれど。

、お待たせ。洗面所使っていいよ」

 廊下からとおるくんの声が投げ掛けられ、思わず肩を震わせた。よくよく耳を澄ませてみると、なにやら足音もこちらに近づいて来る。

「(どうしよう、どうしよう!)」

 握り締めるハンカチを片手にあちこちに視線を泳がせ、どこかいい隠し場所はないかと必死に頭を回転させる。キッチンの引き出し──は、とおるくんがよく使うからすぐに見つかりそうだ。リビングに収納棚はない。ぐるぐると回る頭は、これという案が浮かばない。ならやはり、本人に直接手渡しで返した方が──。

?」

 一向に返事を寄越さない私を不思議に思ったのか、とおるくんはついにキッチンへと顔を出した。シャツを着ている彼は肩に白いタオルを掛け、濡れた髪からしたたる水をその袖で拭いている。慌てて立ち上がり振り返る私に、彼は目をぱちくりとさせた。

「……どうかした?」
「う、ううん! 別に、何も」

 首を左右に振り否定すると、とおるくんはじっと見つめて来るものだから、持ち前の洞察力を発揮されてしまうのではないかと恐れた体温はじわじわと上がる。私立探偵である彼に隠し事が成功した試しなど、今まで一度もなかった。しかしここは、どうにかして気を逸らせなければならない。

「そ、そういえば、朝ごはんどうしよっか」

 苦し紛れの話題を振りながら、自然な会話に聞こえますようにと必死に願うしかない。しかしそんなことを祈っているとは夢にも思わないとおるくんは、思い出したように口を開いた。

「ああ。今、ご飯炊いてるんだ。僕が作るから、和食でいい? もうすぐ炊けると思うから」
「う、うん……! ありがとう」

 乾いた笑みを浮かべるものの、背中に回された両手は汗が滲んでいた。

 ──つい反射で、ハンカチを背後に隠してしまった。なんだか自ら首を絞めているような気がしないでもない。

 炊飯器の残り時間を確認すべく近づいて来る彼に、心臓はひどく緊張している。まるで何か罪を犯してしまった犯人のような気分だ。彼にハンカチを見つかってはいけないと、常に正面を向けることを意識したまま蟹のような横歩きでそろりそろりと回り込み、廊下へ通じるドアの真ん前まで移動する。果たしてこの行動が自然なものに写るかどうかは分からないが、それ以上に一刻も早くこの場から離れたかった。

「あ、あの! 私、着替えてくるね!」

 彼の目を見ることもできず、ただ中途半端に視線を泳がせたまま、逃げるように廊下へ出た。そのまま例のハンカチを胸の前で握りしめ、迷うことなく寝室へ駆け込みドアを閉める。そこでようやく緊張から解放されたと深い溜め息をついた。閉まったドアに寄り掛かったまま、ふと手元を見やる。相変わらずタグにはゼロの数字がしっかりと書き記されていた。

「(どうしよう……)」

 このタグに気付かなければ、とおるくんの昔の思い出の品ということで微笑ましいエピソードで終わったというのに。妙な勘が働いて、まるで私の過去とリンクしているような気分になってしまう。ひとまず下手なところに戻すわけにもいかないと、自分の鞄の中へと押し込んだ。

 ──なんだかひどく、落ち着かない。


20190602