緊張の一瞬とは、このことを言うのだろうか。

 使い慣れたキーケースから取り出した真新しい鍵はやはり見慣れなくて、その持ち手部分を握りしめながらじっと視線を注いでみる。これで目の前のドアを開けることができるのか未だに実感が湧かないどころか、そもそも本当にこのドアの向こう側はこれから衣食住を過ごす部屋に繋がっているのかどうかすら疑わしい。

 しかし何度確認してもインターホンの上に設置されたプレートには、彼と共に住むことを決めた部屋の番号が記載されている。だから間違いなく私が持つ鍵で、このドアは開くはずなのだ。

 そもそも今日が彼との同棲初日と言うことには違いないけれど、今から一時間ほど前に、すでに荷物を搬入すべく部屋の中に足を踏み入れている。だから、これが初めてドアを開ける記念すべき瞬間というわけではない。とはいえそのときはとおるくんが開錠したので、私は鍵すら出していないのだ。

 だからこそ次こそはと名乗りを上げ現在に至るわけだけれど、結局のところ何を言ったところで、新居に足を踏み入れる私がやけに意識をして緊張しているだけの話であることに、なんら変わりはない。

 しかしいつまでもマンションの共有スペースである廊下で立ち尽くしているわけにはいかない。ついに覚悟を決めた私はごくりと唾を飲み込んで、手に握るそれをゆっくりと鍵穴に差し、右方向へと回した。カチャン、と無機質な音が耳に飛び込んでくると、あっ、と弾んだ声を溢した私は、隣の彼を見上げる。

「開いた!」

 まるで開かずの金庫でも開錠したかのような喜びようを見せる私に、とおるくんは、開いたね、と私から投げ掛けられた言葉をそっくりそのまま返しては、柔らかな表情を見せた。

「じゃあ、ついでにもう一つの鍵もお願いしていいかな?」
「あっ、はい!」

 すっかり舞い上がって忘れていたけれど、そういえばこの部屋のドアは鍵が二つあるのだった。そして私は一番上に位置する鍵を開けて満足してしまったものの、このまま持ち手を引いたところで中に入ることはできない。浮かれていることに気付かれたかもしれないと背が熱くなるものの、しかし頬はそう捉えてはいないようで、やけに口角が上がるままだった。

 まるでこの先に、知らない世界が繋がっているみたい。どきどきと高鳴る鼓動を聞きながら二つ目の鍵を開けると、ゆっくりとドアの持ち手を握り締めドアを引いた。すると真新しい玄関に、ちょこんと座る真っ白な犬の姿が目に飛び込んでくる。まるで、いらっしゃい、と言うかのように人懐こい鳴き声を一つ上げた彼に、歓喜の声を上げた。

「ハロー!」

 語尾が上がった甘ったるい声が喉から飛び出したものの、もう気に留めてなどいられなかった。迷うことなく駆け寄りできる限り視線を合わせようと屈むや否や、相変わらず瞳をキラキラと輝かせている送迎係は、ふわふわの尻尾を左右に振って歓迎してくれる。なんだか自分を待っていてくれたような気分になって、ますます顔がほころんだ。流石、専属セラピスト様は癒しの効果が違う。勿論ハロとも、つい先程会ったばかりだけれど。

「お留守番させてごめんね。さみしかった? でもお迎えありがとう。すごく嬉しい」
「アン!」
「ふふ。今日はおやつもあるから、楽しみにしててね」

 まるで白い毛並みを混ぜにするかのように両手で撫でると、揉みくちゃにされながらもハロは喜んでくれているのか、また一つ返事をした。

 いつまでもこうしてじゃれついていたいけれど、今日は引越し当日ということもあり、これからやるべきことは山ほど残っている。少なくとも未だに靴を脱がず玄関先でたむろしているのは、きっと得策ではない。ひとまず上がるべきかと腰を上げた。

「じゃあ、お邪魔します」
「──違うでしょ?」
「えっ?」

 間髪入れずに向けられた指摘に振り返ると、とおるくんは優しく目を細めていた。しかし自分がおかしなことを口走った自覚がなかったばかりに、私は目をぱちくりとさせるしかない。すると彼はそんな私の心を読み取ったのか、にこやかに正解を口にした。

「ここは君の家でもあるんだから、その挨拶はおかしいよね」
「あっ。う、うん……!」

 そうだね、とぎこちなく付け足した私は、自分の頬がすっかり熱くなっていたことに気が付いていた。なぜだか急に彼を直視するのが恥ずかしくなって、視線を下へ落とす。なんだか動いていないと無性に落ち着かなくて、顔の横の髪を耳に掛けた。

「ええと、じゃあ、その。……た、ただいま……」

 どうにも言い慣れない言葉はむず痒い。とおるくんの様子を伺うようにそっと顔を上げてみると、彼はどこか照れ臭そうにはにかんだ。

「おかえり」

 そのたった一言で、私の心は愛しさで溢れ返ってしまった。緩んだ頬は笑みを生み出すばかりでちっとも引き締まらない。あまり深く考えず流す程度がベストだろうに、どうにも冷静を装うことが難しかった。

 何気なくぶつかった視線にますます背中は熱くなり、頭はうまく回らない。逃げるように目を逸らし、誤魔化し程度に、ええと、と呟くも、その後に続ける肝心の言葉が出て来ず、ますます困難を極めてしまった。

 顔の熱は、一体どこへ逃がせばいいのだろう? そんな自分の体からの問いかけにも対応することができず、視線をあちこちへと動かした。肩を丸め、口元を右手で隠すように覆いながら、何とも言えない胸の温かさをありったけ抱きしめるように呟く。

「……うん」

 小さく頷いてから再び視線の先を彼へ向けると、とおるくんはそれを受け止めるように目を細めた。それがどうしようもなく嬉しくて、すっかり手のひら一つでは隠しきれなくなるほどの感情がどんどん膨らみ大きくなっていく。気が付いたときには私は、ふにゃっと緩んだ笑みを浮かべていた。

「あの。とおるくんも、お、おかえり」

 すると彼は、まさか自分に言われるとは思ってもいなかったのだろう。目を丸くしたものの、すぐに人懐こそうな垂れた目元をますます下げて言った。

「……うん。ただいま」

 なんだか照れ臭いね、と困ったように眉を下げた彼の頬は、私と同じ色を差していた。それに気付いてしまったものだから、ますます体が熱くなる。目を伏せて控えめに首を縦に振っては唇の内側を小さく噛んでみたものの、たったそれだけで頬が引き締まるほど私は切り替えの早い人間ではなかった。

 ダンボールが積み込まれて間もない1LDKのマンションは、なんだか真新しい匂いがしてどこか落ち着かない。以前とおるくんが住んでいたアパートより一部屋分大きいであろうこの部屋は、内見時どうにも広すぎる気がしていたけれど、いざ荷物を導入するとさほど余裕が残らないのはどうしてなのだろう。

 三メートル前後の廊下の先にあるドアを開けると、当然ながら、一時間前と何も変わらない風景が広がっていた。万が一にでも倒れてハロが怪我をしないように極力積み重ねず直接床に置いているせいもあって、相変わらずなかなかのスペースをダンボールが占拠している。これらが完全に消え去るのはいつになるのだろう。そんなことを考えたら、胸の真ん中にずっしりとしたおもりが付いた気がした。

「ひとまず荷解きは、昼食を食べてからにしようか」

 そう言ってとおるくんはリビングのダイニング・テーブルにスーパーの袋を置くと、購入品を並べ始めた。このテーブルはもともととおるくんが使っていたものをそのまま持ち込んだもので、部屋の割に少し小さく感じなくもないけれど、なかなか慣れないダイニングの空間で唯一安心できるスペースとなっている。

 彼からの提案に頷いて何気なく袋の中を覗き込んでみると、お惣菜の品々に紛れて、空のプラケースが転がり込んでいた。その中には出来合いの食品は存在せず、折り畳まれたティッシュペーパー二枚だけが広々とスペースを使用している。

 そこには間違いなく、売り場のスタッフから「揚げたて」というフレーズに乗せられ見事にお持ち帰りを果たしたコロッケが二つ、眠っていたはずだった。そして確かにレジに通したはずなのに、どうやら姿を消してしまったらしい。

 と言っても真相は、冷めないうちに食べた方が良いんじゃないかという悪魔の囁きから、帰りの道中で私達の胃袋の中に納まってしまっただけなのだけれど。そのお陰で正午を回っている今でも、お腹は「さみしい」と訴えては来なかった。

 そのため残っているのは、サラダ、唐揚げ、イタリアンたこ焼きと明らかに栄養が偏っているラインナップになるわけだけれど、私は知っている。普段からきっちり自炊をこなす彼は、トマトとモッツァレラチーズ入りのたこ焼きを発見し、物珍しさからやけに弾んだ様子でそっとカゴに入れてきたことを。

 私は限定品に弱いタイプだけれど、とおるくんは新しいものに目がないタイプのような気がする。彼の場合、基本的に食事の面に関してはだけれど。それにしても今思えば、ちょっとお酒のおつまみのようなチョイスに偏りすぎていただろうか。スーパーにいるときには全く気付かなかったけれど。

 ひとまず手を洗ってから食事の準備をと対面キッチンに回り込み、手に石鹸まで付けたところでふと何かに気付いたとおるくんは、やってしまったとばかりに呟いた。

「……タオル出してなかったな」

 その声に、言われてみればと辺りを見回した。シンク横にポンプタイプの石鹸だけは置いていたものの、肝心の、濡れた手をぬぐう布を設置していなかったのだ。そういえば、このキッチンはタオル掛けが設置されていないタイプだから今度買わなくちゃねと話していたというのに、綺麗さっぱり忘れていた。彼はひとまず水で泡を洗い流したものの、この後はどうしたものかとばかりに手が止まっている。

 勿論タオル自体はどこかしらのダンボールを開けたら出て来ることに違いないけれど、作業前に食事をと決め込んだところでカッターを手にするのは少し面倒な気がした。ひとまずはこれで代用しようと先程まで肩に掛けていた鞄からハンカチを取り出し、彼に差し出す。するととおるくんは、じっとそれを見やり言った。

「いいの?」
「うん。今日はまだ使ってないし、後でタオル出すまではこれで代用すればいいよ」
「ありがとう」

 礼を言って受け取った彼の手を確認し、さて私も手を洗ってしまおうと水道のハンドルを上げたところで事件は起きた。私としては手が濡れる程度の水が出てくれれば、それで十分だったのだ。しかしどうやら思いのほか、ハンドルを上げすぎてしまったらしい。いや、より正確に言うと、滑りが良すぎて一気に最高点まで上げ切ってしまったのだ。

 お陰で蛇口からは勢いよく水が飛び出し、シンクに反射した水が飛び跳ねる。顔に掛かったせいで、ひゃっ、と間抜けな声を溢しながら、反射で目を瞑りハンドルを元に戻した。どうやら今まで住んでいたアパートと同じ感覚で使っていてはだめらしい。一つ賢くなった。

 そんな私をとおるくんは、まるで子どもの失敗を盗み見てしまったかのように、笑いを押し殺し肩を震わせていた。なんだか初っ端から仕出かしてしまった気がしてならない。恥ずかしいような悲しいような複雑な気分を味わっていると、彼は、顔にも掛かっちゃったねと言って、先程渡したハンカチで頬のあたりをぽんぽんと優しく押さえてくる。まるで親に世話される子どものようなむず痒い気分になって、頬を熱くしながら顔を逸らした。

「と、とおるくん。自分でできるよ……」
「いいからいいから。笑っちゃったお詫び」

 まるで、君が何と言おうとやめるつもりはありませんとばかりに弾んだ声でそんなことを言われても、ちっともお詫びになっていないような気がするのは私だけなのだろうか。しかしどちらにせよ、こうなった彼を止める術を私は知らない。

 ここは大人しくされるがままになっていようと白旗を上げたところで、ハンカチが前髪をかすめた。そんなところまで水が飛んでいたとは、私はどれだけ勢いよくハンドルを上げていたというのだろう。ひとまずハンカチが目に当たらないようにと目を閉じた。

 こういうとき、とおるくんは決まって悪戯をする。

 いつも彼は隙あらばキスをして、顔を真っ赤にする私に無邪気に笑いかける人だった。ごめんねと口では言いながらも楽しそうにはしゃいでは、決して嫌がっているわけではない私の頭を撫でてあやすのが常なのだ。だからもしかして今もそうなるのだろうかと、体が身構えるのは自然のことだったのかもしれない。気が付けば、心臓もそれを期待して走り始めている。

 しかし待てど暮らせど、すっかり慣れたあの感触は、口にも頬にも額にも、どこにも降っては来なかった。

「(……あれ?)」

 流石に何かがおかしい気がしてそっと瞳を開けてみると、彼は私の顔を覗き込み、多分もう大丈夫じゃないかなとにこやかに笑っているばかりで、それ以上どうこうという素振りは一切見せてこない。ああ、うん。そう力なく頷く私は、いつの間にか視線を下ろしていた。特に何も起こらなかった展開に心がさみしがっていることなど、決して言えるはずもない。

「あ、ありがとう……」
「いーえ。どう致しまして」

 軽やかに笑う彼をじっと見つめてみるものの、勿論それで何かが起こるわけでもない。急に熱くなった背中は、まるで自分の思考回路を恥じているようだった。気分を切り替えるように今度こそ緩やかな角度を付けたハンドルは、明らかに先程の三分の一以下の水量を流している。大雑把に水で濡らした後、ハンドソープのボトルをプッシュした。

 今彼と向き合うのはどうにも気が引けて、指の間から爪先まで入念に泡で洗い上げることを口実に時間を稼いでいる。外に出そうになった溜息を飲み込んでいると、ふと左の背後から、ねえ、と声を掛けられた。

 まさか心でも読まれてしまったのだろうかとどぎまぎしながら、しかし無視するわけにもいかない。声に答えるように顔を左に向けると、いつの間にか右腰に手を添えられ引き寄せられている。瞬時に理解した脳は、きっととおるくんによく躾けられていた。

 斜め後ろから覗きこまれるように重ねられた唇は柔らかく、突然の行為に驚くより先に、心地よさから目を閉じてしまいそうになる。しかし挨拶程度にすぐに離れた彼のお陰でそうすることも叶わない。物足りなさを引きずりながら瞳を捉えると、彼は頭を撫でてくしゃりと笑った。

「また後でしていい?」

 火を付けられたかのように、首の後ろが熱くなった。音を真っ先に捕らえた耳は熱を籠らせすぎて、なんだか聞き間違えを起こしたかのような気分になってくる。嬉しさと恥ずかしさが混ざり合い、しかしわずかに前者が勝ってか頬が緩む。手は今石鹸がついているせいで、それを隠すことができなかった。

「…………うん」

 掻き消されそうなほど小さく頷いた私の声を、しかし彼はしっかりと拾い上げたらしい。ありがとうと囁くように渡された言葉は、甘い響きで妙に耳にこびり付く。首を横に振りながら、誤魔化すように泡を洗い流した。腰に回されていた手をゆっくりとほどいた彼は私にハンカチを渡すと、惣菜を温めようとダイニング・テーブルの元へと帰っていく。

 その様子をじっと眺めながら手元の水気をハンカチでぬぐっていると、ふと足元で、じいっと視線を注いでいる存在に気が付いた。ふとその人物を見やると、真っ白な毛並みの彼は、くりくりの目で何やら物珍しそうにこちらを眺めている。その瞬間、さあっと血の気が引いた気がした。

 今までハロの前ではそういう、いわゆる甘いやりとりはしないように心掛けてきたというのに、私は一体なんてことを。うっかり、もうちょっとだけしていたかったな、なんて片隅にでも考えてしまった私を殴ってやりたい。まるで子供に、極端に仲睦まじい様子を見られ焦る親の気分だ。もしかしてとおるくんもそれに気付いていたから、ああいう言い方をしたのだろうか。

「ハロ。ど、どうしたの、かなあー……?」

 冷や汗をかきながらしゃがみ込み、ハロの様子を伺ってみるけれど、どうにも頬が引き攣って仕方がない。ただ単にお腹が空いただけという展開を期待しながら心臓を駆けさせていると、相変わらず彼は何やら物珍しそうに見つめているばかりではあるものの、よく見てみると、その目は私の顔に向けられていないことに気が付いた。

 首を傾げながらその視線の先を探してみても、ハンカチ程度しか見つからない。再びハロへと目を向けると、やはりそれをじっと食い入るように見ている。

「(タオルハンカチが珍しいのかな……)」

 タオルくらいならよく見掛けていただろうけれど、小さいサイズの布はまた違うのだろうか。それとも、基本的にとおるくんのハンカチは薄手のものを使っているから、こういうタオル生地のものは見たことがないのだろうか。

 もしかすると、最初からハロの興味の対象はこれだったのかもしれない。そんなわずかな希望に掛けてハンカチを広げ、目の前に差し出してみると、ハロは鼻を近付けて様子を伺い始めた。

「いや、そんな熱心に嗅ぐようなものじゃないんだけど……」

 つい先程水気を切るために使用したお陰で、今はしっとりと濡れている。どうにも気が引けてハンカチから離すように立ち上がると、ハロは未だ調査中だったのか、つられて私を見上げた。上目使いがなんともかわいらしく、頬が緩む。

「どうかした?」

 重ねた惣菜を手に、キッチンへと戻ってきたとおるくんは、一体何をしているんだとばかりに声を掛ける。しかしまさか、自分達がいちゃついていたのを熱心に観察されていたのかと焦って確認していたんですとは口が裂けても言えなかった。

「ううん。なんでもない。ハロはやっぱりセラピストだなって思っただけだから」

 ハンカチを畳み、ひとまずまた使うかもしれないとシンクの横に置いていると、彼は私からの返答を特に疑問視することなく、そのままレンジに蓋を外した惣菜を入れ、スイッチを押した。ハロはその匂いを察知したのか、もしかしたら自分にも分けてもらえるんだろうかと落ち着かない様子でとおるくんの足元をぐるぐると回り始める。

「こらこら。君の分はないからな」

 一刀両断したとおるくんの言葉は、はたして正しくハロの耳に届いたのだろうか。相変わらずつぶらな瞳の持ち主は、飼い主の横で、与えられるそのときを今か今かと待っているように思える。後でおやつあげるからねと心の内でこっそり呟いていると、電子レンジは遂に任務を全うしたらしく、時間を知らせる電子音を響かせた。小さなドアを開けると、なんとも香ばしい香りがふわりと鼻をくすぐる。

「いい匂いがする」

 釣られたように彼の隣へ駆け寄ると、ほのかに蒸気を上げたたこ焼きが食べ頃を主張していた。表面に乗せられたチーズがほんのり溶けていて、食欲をそそる。トマトも乗っているからさっぱり食べられそうだ。唐揚げもすっかり温まって、肉汁がパチパチと弾けている。すでに胃袋の中にはコロッケが入っているというのに、それを忘れているかのように食欲が顔を出してきた。

「これ、絶対おいしいと思うなあ」

 同意を求め彼を見上げると、とおるくんは嬉しそうに目を細めて頷いた。なんだかその優しい視線がどうにもくすぐったい。途端に緩みそうになる口元を隠すように俯いたものの、どうにも隠しきれそうにない。つい小さく笑みを溢してしまった。

「どうかしたのかな?」

 彼の柔らかな声は、そよ風のように心地が良かった。まるで愛しさを募らせているのは私だけではないと言われているかのように優しい。なんでもないと首を横に振るものの、相変わらず締まらない私の頬ではちっとも説得力がなかった。

 つい、目の前の彼の背中にべったり張り付いてみたくなった。だけどそんなことをする度胸はとてもないから、惣菜のプラ容器の蓋は取り皿代わりにしようね、だとか、お揃いのマグカップ使うの楽しみにしてたんだよ、だとか、とにかく彼に言葉を投げ掛けている。珍しくお喋りになった私の口は、突然何が起こったというのだろう。話題も内容もなんでもいいから、とにかく彼に構ってほしくなった。

 テーブルについてもふわふわとした心持ちは変わらず、彼が何か反応を返してくれる度ににこにこと笑ってしまう私は間違いなくはしゃいでいた。先日お揃いで購入したマグカップはすぐ使えるようにとダンボールには入れず、手持ちの袋で持って来てくれていたとおるくんの優しさが嬉しかった、というだけではない。

 いつもならこの楽しい空間もタイムリミットをカウントするように頭の隅に時計がぶら下がっているものの、今日からはそれは取り外していいのだ。そう実感したら、ますます舌は良く回る。逆に、だからだろうか。今日のとおるくんは、いつもに増してよく話してくれるような気がした。

「(だって、一緒に暮らすんだもんね)」

 いや、違う。もう暮らしているんだ。サラダを頬張りながら今更すぎることを実感して、つい両足をばたつかせたい気分になった。とおるくんも似たようなことを考えてくれていたらいいなと心を温めていると、突然膝下の辺りを何かにくすぐられる感覚に襲われ、肩を震わせる。

「ひゃっ!?」

 何の前触れもなく悲鳴を上げる私に流石のとおるくんも度肝を抜かれたようで、目をぱちぱちとさせていた。

「どうしたの?」
「や、なんか急に足が。と、とおるくん、何かした?」
「え? 別に何もしてないけど……」

 一体何事かとテーブルの下を覗き込み現場検証を始めるや否や、真っ白な犬がこちらを見上げていた。現行犯逮捕以外の何物でもない。一体そんなところで何をしているんだととおるくんと顔を見合わせたものの、ハロは再び私の足に頭を擦りつけた。もしかしたら私達ばかり食べて、自分には何もないというのが悲しいのかもしれない。つまりこれはハロなりのおねだりということなのだろう。

「本当に、すっかり懐いたなあ……」

 とおるくんは呆れたような、はたまた感心したようにじろりと弟分を見やり、苦々しく呟いた。

 いつもとおるくんはしっかりハロのカロリー計算管理をしているので、おやつや一日二回のごはんの時間以外で餌をあげることは滅多にない。しかし時より私が遊びに行ったときにはあまりにさみしそうなハロを見かねて「おやつをあげたい」と言い出すことがあるので、今回もそれを期待したのだろうか。まあその分、夜のごはんは少し減らされているのだけれど。

「僕としては、少し複雑なところだよ」
「うーん。今のは、完全におやつを期待してやったんじゃないかなあ。ほら。さっき玄関で、おやつあるって言っちゃったし」

 苦笑しながら複雑な心境を口にすると、とおるくんは、まあそれも多少はあるかもしれないけどと前置きして言った。

「多分ハロは単純に、君に構ってもらいたいんだよ。今朝久しぶりに会ったけど、荷物の搬入だかなんだかでばたばたして、その後すぐにお昼の買い出しに行ったから、ろくに挨拶もできなかっただろう? だから、遊んでほしいんじゃないかな」
「うーん。だったら嬉しいんだけど」

 思いもよらなかった推理に笑っていると、ハロはのそのそとテーブルの下から出て来ては再び私の顔を見上げる。そしてそのまま一直線にフローリングに置いていたトートバッグ──二、三泊程度の荷物が入るそれは日常的に使うには持て余すサイズではあるものの、ハロのエサなどを入れるには最適な大きさで、すぐ使うものはダンボールに入れずにまとめて入れていたのだ──の中を漁り出した。

 しかしハロは、とおるくんがきっちり躾けているのか、もともと賢い犬なのか、滅多に悪戯をしない。そんなハロが突然どうしたのだろうかと見守っていると、彼は早速お目当てのものを見つけたのか、バッグに突っ込んでいた頭をぴょこんと出してこちらに戻ってくる。どうやら五センチ程度の何かを咥えているようだ。白と黒の色から察するに、お気に入りのサッカーボールのように見える。一緒に遊ぶとき、私がよく選んでいるものだった。

 ハロはそのまま迷うことなく隣にやってくると、咥えていたボールを床へ置き、きらきらとした目で見上げてきた。そして相変わらずぱたぱたと揺れる尻尾から、声なきメッセージを受信する。ついにやけてしまう口を両手で隠し、えっ、と喜びの声を上げた。まるで、プロポーズでもされたような気分になってくる。

「ハロ、遊んでほしいの?」
「アンッ!」
「ふふ。そっかあ、そうなんだねえ」

 元気よく肯定したハロに、すっかり骨抜きにされてしまう。甘ったるい声で目尻を下げていると、「……だから複雑だって言ったんだ」と半ば投げやりのような声が聞こえてきた。ふと声の主を見やると、何やら眉間に皺を寄せ、頬杖をついている。

「(そういえば、ハロは私より一年早く、とおるくんと一緒に住んでたんだよね)」

 ということは、今日からとおるくんと一緒に暮らし始める私は、ハロの後輩になるということなのだろうか。つまり、セラピストだからいっそ先生と呼ぶべきかと考えていたけれど、実際には先輩が正しいということになるのかもしれない。そんな結論に達したらなんだか気軽に名前を呼ぶのもおこがましいような気分になって、ピンと背筋を伸ばした。

「ハロ先輩、後できっちり遊ばせて頂きますからね」
「えっ、何。突然どうしたの?」

 聞き慣れない呼称をしたからか、とおるくんは聞き間違えかとばかりに尋ねている。しかしこれは完全に私個人の問題なのだから、彼が気に留める必要はない。気にしないでと首を振ると少々複雑そうな顔こそされたものの、それ以上追及されることはなかった。

「……ちなみに」

 何かを補足するかのように言葉を結んだ彼は、手慣れた様子でたこ焼きを取り分けている。一体なんだろうかとぼんやり考えている私をよそに、とおるくんはまるで世間話でもするかのようにさらりと言ってのけた。

「分かってるだろうけど、その後で、ちゃんと僕にも構ってね」

 体内に体温メーターがあったら、その針は間違いなく振りきれているに違いない。それほどまでに、私の細胞と言う細胞は熱を大量発生させていた。彼にしては珍しく甘えるようなことを口にされ、慣れない頭は完全にパニックに陥っている。彼のにこやかな笑みは自信に満ちていて、まるで私が拒否しないことを知っているかのようだった。

 しかし素直に頷くのは恥ずかしたがる唯一残された本能が、ぎりぎりのところでストップを掛ける。お陰でどうにも返答を渋っていると、それに気付いたのか、とおるくんはまた大きな瞳でじいっと見つめてきたかと思ったら、小首を傾げて言った。

「……だめ?」

 よく天使が矢を放ってハートのど真ん中に命中させる絵があるけれど、今ならあの意味が分かる。なぜなら私は今まさに、自分の意思がどうこうというわけではなく、ただ本能的に、考えるより先に、心を鷲掴みにされてしまったのだから。

 そこに自分の意思など無意味で、ゆえに抗う余裕など存在しない。あったとしても、コンマいくつの世界なのだろう。そんな素早い反応を見せられるほど、私は反射に優れた人間ではなかった。

 だけどこの、どうしようもなく落ち着かない高揚感が愛しくて、だから私はどうしても、彼からの問いを否定したくはなかった。気が付けば口の中の水分が綺麗さっぱりなくなっていて、やけに喉が渇く。とおるくんと目が合えばきっと心臓は破裂してしまうと俯いて、右手に握る箸をじっと見つめてみた。気付けばすっかり力が抜けていて、今にも転がり落ちてしまいそうだ。慌てて強く握り直しながら、震える喉は声を吐き出す。

「……あ、甘えてもいいなら、い、いいよ……?」

 頬は緩みたいのか、泣きそうなほど引き攣りたいのか、さっぱり意思が分からない。きっと私ははたから見れば、ぎこちないことこの上ない表情をしているのだろう。熱くなる顔は、まるで自分の小心者な性格を呆れているようだった。何かが喉の奥に引っ掛かっているような気がして咳払いをしてみるけれど、もはやこの行動すら不自然に思えてくる。わざとらし過ぎただろうかと背を丸めた。

「それなら問題ないかな。元よりそのつもりだからね」

 その声の真偽を問うようにこっそり顔を上げてみると、とおるくんは楽しそうに頬杖をついて、慕うような眼差しでうっとりと見つめている。何かが込み上げてくる感覚に、眩暈がしそうになった。慌てて顔を伏せながら、左手で口元を覆い隠す。

「うん……」

 小さく繋いだ声は、驚くほどに甘ったるく感じた。なんだかすでに愛に包まれて溶かされているような気さえしてくる。じわじわと背中を侵食する熱が急かされながら、どうにかして話を逸らせないかと必死に頭を回転させた。

「……そ、そういえばとおるくん、今日はバイトって言ってなかったっけ。何時からなの?」

 顔を上げるにはまだ心拍数が落ち着いておらず、取り分けたサラダを観察する素振りを見せながら箸でつつく。今たまたま思い出しましたというニュアンスで尋ねたつもりだったというのに、やはり私立探偵にそんな小細工は通用しなかったのだろうか。明らかに話題を替えようとしていることを察したのか、とおるくんは小さく笑う。

「十八時からだね。……ごめんね、初日早々バタつかせちゃって」
「う、ううん! 全然……!」

 しまった、話題のチョイスを誤ってしまっただろうか。熱くなる背中に、慌てて顔を上げて首を振った。どうにかして明るく和やかな空気に戻さなくてはと、再び頭をフル稼働させながら箸を置く。

「今は、バーでバイトしてるんだよね? バーテンダーって言ってたけど、こう……やってるの?」

 丸みを持たせた手の平同士合わせ、そのまま耳横で小さく振る仕草を見せると、とおるくんは私が言いたいことを察したのか、柔らかく頷いた。これは我ながら、なかなか自然な流れで話題変更できているのではないだろうか。しかしあともう少し、駄目押しの一手がほしい。

「前から思ってたんだけど、あれってなんで振ってるの? マドラーとかで、普通に混ぜるだけじゃだめなの?」
「それでも問題ないこともあるけど、混ざりにくいお酒や飲みものを組み合わせてカクテルを作ることもあるからね。シェイカーを使った方が馴染みやすいんだよ。あとはカクテルを冷やすためとか、お酒の角を取って飲みやすくするためとか、色々理由はあるんだけど」

 まさか適当に振った質問に、しっかり答えられるとは夢にも思わなかった。感心したような相槌を打ちながら、そのシェイカーを使ってカクテルを作る彼の姿をぼんやりと想像してみる。

 制服がどんなものかは知らないけれど、無難にワイシャツなのだろうか。スーツベストも着用しているのかもしれないと、ひとまずは適当に見繕った制服を着ているとおるくんの姿を思い浮かべた。この時点で花丸を贈呈することが確定したものの、そこへ更に薄暗い店内の背景を追加してみる。慣れた手つきでシェイカーを振る恋人の姿は、想像上とはいえ、様になっているを通り越して板についている気がした。

 なんだかかっこいいね、とうっかり呟きそうになるのを寸前でせき止めて、色んな理由があって面白いね、と答える。そこで、カクテルだけではなくウイスキーも色んな飲み方があって面白いんだよと教えてもらったところで、小耳に挟んだ豆知識を思い出した。

「そういえばウイスキーって、おつまみにはチョコレートが合うって聞いたことあるよ。いいなあ。とおるくんのところもそうなの?」
「それ、どちらかというと惹かれてるのはチョコレートの方じゃない?」
「……気付いちゃいましたか」
「うん。気付いちゃいました」

 小さく喉を鳴らして笑うとおるくんは、おかしそうに目を細めた。だけどその色があまりに優しいから、私の頬もつられて上がる。

「でも君、ビターじゃなくて、甘いチョコレートのほうがすきなんだよね?」
「うん。ミルクとかホワイトとか。……えっ。もしかして、おつまみのチョコレートってみんな苦味のあるものばっかりなの?」

 そんなことを考えたら、カカオ99パーセントの味を舌が思い出してしまった。思わず眉間に皺が寄る。あれはなかなか私の口には合わない代物で、健康上はいいらしいと小耳に挟んだことはあるものの、どうにも舌が受け付けないのだ。

「そういうわけでもないよ。まあ、合う合わないは銘柄にもよるけど」
「じゃあ、おすすめってある?」
「甘いチョコレートに合うウイスキーってこと?」
「うん」

 好奇心から尋ねてみると、とおるくんは顎を緩く掴むように手を当て、視線を上げた。

「……そうだなあ。それならやっぱり無難なのはバーボ──。……いや、カナディアン・ウイスキーとかかな」

 途切れた言葉を誤魔化すように上書きをした彼は、にこやかな笑みを浮かべている。それはまるで、当初なんと言おうとしていたのかは聞かないでねと言っているように思えたから、私は口を開くことができない。じっと彼を見つめていると、とおるくんは綺麗に微笑んだ。

「今度チョコレートの詰め合わせ買ってくるから、今はそれで我慢してね。ウイスキーは、もう少しだけお酒に耐性ができてからのほうが、もっと楽しめるんじゃないかな」

 それはまるで、私が酒に呑まれるタイプであると言われてるように聞こえ、小さな違和感を覚えた。チョコレートを買ってきてくれる点は嬉しいけれど、そもそも私は一口二口飲んだだけで顔を真っ赤にするような、分かりやすい下戸タイプでもないのだ。

「別に私、特別お酒に弱いタイプじゃないよ? そりゃあ、とおるくんほど強くはないけど、平均じゃないかな」
「うーん……」

 相変わらず困ったように眉を垂れ下げ渋い反応をした彼に、はたして私はそんなに彼に気を遣わせてしまうほど酒で失敗したことがあっただろうかと記憶を遡り、そこでようやく合点がいった。おそらく彼は、以前二人で居酒屋に行ったときのことを思い出しているのだろう。

 付き合い始めて間もない頃、料理がおいしいという評判を聞きつけ、個人営業の居酒屋へ一緒に飲みに行ったことがある。それは、私から提案したものだった。彼はいつも涼しい顔をしているから、そういう、極端に弱くなったところを見てみたくなった。そんな、ちょっとした悪戯心と好奇心だった。

 しかしどれだけ酒を酌み交わしても、外見は勿論思考回路や歩く足取りすらちっとも変わらないとおるくんに、最終的に私の方がとろけて終わってしまった。この、私にとってなんとも苦々しい思い出は、きっと彼の中で根強く残っているのだろう。

 だってつい、嬉しくなってしまったのだ。じっと見つめてくれるその瞳が、まるで愛を囁いているかのように思えて。それが照れ臭くて愛しくて、目についたジョッキを傾けることでしか誤魔化し方が分からなかったのだ。

 そう。つまりあれは、特殊な条件下だったがために不幸にも起こってしまっただけで、通常時ならば、あんな無残なことにはならなかったはずなのだ。更に言うならば、あれから二年も経っているのだ。流石にあの頃よりはとおるくんに対して免疫もできている。と、思うのだけれど、そういえばさっきも目が合っただけで照れていたことに気付いてしまった。もしかしたら、今でも怪しいのかもしれない。

「(でも、楽しかったなあ)」

 ぼんやりとした記憶しか残っていないけれど、仕事終わりのサラリーマンや友人の集まりであろうグループで溢れる賑やかな店内で、カウンター席に肩を並べて座っていた私達は、逆に声を潜め合いながらこっそり言葉を交わして、まるで内緒話をするかのように、何でもない世間話をくすくすと笑い合っていた。

 お互いの声が聞こえるようにといつもよりほんの少し詰めた距離にいられることが嬉しくて、いつも以上に頬を緩ませていた記憶がある。そんなことを思い出したら、無性にまたあの空間に行きたくなってしまった。

「ねえとおるくん。また一緒に飲みに行きたいって言ったら、付き合ってくれる?」

 やけに弾んだ声は、まるで遠足を楽しみにしている幼稚園児のようだった。しかしもともと私にお酒の免疫がないと思っている彼からしたら、思ってもいなかった提案なのだろう。おまけに元々酒好きという訳でもないことを知っているからか、彼は目を丸くしていた。

「君、そんなにお酒に興味があったっけ」
「ううん。そういうわけじゃなくて」

 指先同士を擦り合わせ一人手で遊びながら、二年前の日のことを思い返し、しあわせな記憶に笑みを溢した。

「前に一度だけ、外でとおるくんとお酒を飲んだことがあるでしょう? なんだか新鮮ですごく楽しかったの、思い出しちゃって。また二人で行きたいなって」

 今度はちゃんと、一、二杯で済ますからと補足したのは、遠回しに、心配を掛けるようなことはしないと言いたかったからだ。本当のことを言うと、酔ったふりをして甘えてみたい気もしたものの、そんなことを今口にしたら、きっと彼は頷いてくれないことを分かっていた。

「ね。おねがい」

 深く考えずなんとなく口にした一言だったのに、なぜか効果は覿面(てきめん)だったらしい。一瞬肩を震わせたとおるくんは眉間に皺を寄せ、分かりやすく横に視線を逸らしたかと思ったら、口元に手を当てて俯いた。

「……あんまり飲み過ぎないって、約束してくれるなら」
「うん! ありがとう」

 了承の声をもらえたことですっかり晴れやかな気分に浸りながら、マグカップに手を掛けた。まだまだ頬の緩みは治まらない。日程はいつがいいだろうか。やっぱり引越しが落ち着いた頃がいいから、もうしばらく先のお楽しみになりそうだ。なんだか荷解きを頑張れる活力を得たような気分になる。人間ご褒美があると頑張れるようになるというのは本当だったようだ。

「(……あ。お酒と言えば)」

 お茶を一口分喉に流し込んだ後、そういえば肝心なことを聞き忘れていたと、思い出したように口を開いた。

「そういえば今日、帰ってくるのどれくらいになりそうなの?」

 十八時からシフトが入っているというのは聞いたけれど、肝心の帰宅時間を確認することをすっかり失念していた。あまりバーには縁のない生活を送っていたから平均的な営業時間やシフト時間を想像することができないけれど、私は明日も休みだし、夜更かししても問題はない。彼が帰ってくるまで待っていようかとぼんやり計画を立てていると、とおるくんは眉を下げ、なんとも歯切れの悪い返答をした。

「はっきりとは分からないんだ。もともと土日は午前三時まで営業してる店だからね。片づけもあるから、まあ、日の出が昇る前には帰って来れると思うけど」
「えっ、そんなに……」

 想像以上にハードな現場に、胸の奥がぎゅっと締め付けられた気がした。でも確かにチェーン店の居酒屋は早朝まで営業しているし、バーも昼間ではなく夜に営業しているだろうから、時計の針は上を向いているかもしれないとは思っていたけれど。

「(でも確か、明日も朝から出るって言ってたのに……)」

 そんな状態では、睡眠時間なんてろくにとれないんじゃないだろうか。倒れたりしないだろうか。なんだか私の方が泣きそうになってしまう。もしかしたら、構ってもらえる時間がないと淋しがるべきところなのかもしれないけれど、私は彼の体のことばかりが気になって仕方がなかった。

「とおるくん、大丈夫? 無理してない……?」
「そんな顔しないで。大丈夫だよ。……あ。勿論、君は先に寝てるんだよ」

 自分が思っている以上に情けない顔をしていたのだろうか、とおるくんは優しい笑みを浮かべながら、慰めるように頭を撫でる。普通、応援する側の私が彼にしてあげるべきだというのに、なぜ逆に励まされているのか。うん、と力なく頷くも、ちっとも笑ってくれない頬が嫌になった。いつも彼の前では緩んでばかりいるのに、肝心なときには動かない。

「……ねえ。じゃあせめて、仮眠取ったほうがいいんじゃないかな。荷解きは私がやっておくから、とおるくんは食べ終わったら寝てて」
「うん、ありがとう。でも本当に大丈夫だよ。こうしてと一緒にいるほうが癒されるから」

 きっといつもの私であれば耳まで赤く染め上げていただろうに、今は舞い上がることができない。なんだか気を遣われているような気がして、ますます泣きそうになってしまった。

「……ほんとう……?」

 嘘ではないか尋ねても、きっと彼は勿論と答えるに決まっている。そんなことは分かっていても、どうしても口にしなくては気が済まなかった。おそらく形だけでも聞いて、私自身が安心したいのだろう。

「うん。本当。……ほーら、箸止まってるよ。食べて食べて。はい、あーん」

 食べて、と自ら箸を進めることを施したというのに、彼は問答無用とばかりに私の口の前へたこ焼きを一つ差し出した。勿論とおるくんが箸で摘まんだものなので、これはつまり、食べさせてあげるから口開けて、と言っていることになる。

 故意的に明るい声を出して場の空気を和まそうとしていることに気付いていたけれど、思うところがあって、この展開にはなかなか対応することができない。じっと箸の先を見つめてから様子を伺うようにとおるくんへ視線を移すと、彼はにこやかに笑いながら、ほらほら、と催促をした。

 再び差し出されたたこ焼きを見やり、ぎゅっと口を一文字に結ぶ。そして覚悟を決めたようにおそるおそる口を開けると、彼はその隙間を掻い潜り、ひょいと舌の上に乗せた。離れた箸を見送りつつ、すっかりいっぱいになった口元を隠すように手で覆い頬張っていると、とおるくんはまるで鼻歌でも歌いそうな顔で言う。

「それ、おいしいよね。似たようなの、今度作ってみようか」

 まるで工作か実験を心待ちにしている小学生のようだ。人懐こい笑みはやけに楽しそうで、少し幼く見えた。彼の提案に頷いてみると、とおるくんはますます笑みを深くする。そんな彼に、一つの考えが浮上していた。

「(……帰ってきたら、めいっぱい甘やかしてあげたいな……)」

 いつも彼の優しさに包まれてばかりだから、今度は私がそうしてあげる番であるような気がした。具体的にどうしたらいいのかも、果たしてとおるくんもそれを望んでいるのかどうかということもさっぱり分からないし、これも自己満足の世界なのかもしれないけれど。

 じっと彼を見つめていると、その視線に忍ばせていた感情に気付いたのか、とおるくんとぱちりと視線がぶつかり合う。お仕事、やっぱり大変? 思い切ってそう尋ねてみようと口を開けたものの、私が空気を言葉に変換するより先に、彼の声が生まれたほうが早かった。

「本当言うと、シフトが出る前はさ、今日、ちょっと期待してたんだ」

 ふと、彼が言った。しかし私には、伏せられた目的語には一体何が当てはまるのか皆目見当もつかない。予想するという選択肢を放棄して尋ねると、彼はたこ焼きを一つ取り皿へと移動した。

 味もさることながら、トマトとチーズがイタリアンでおしゃれな雰囲気をかもしだして、すっかり気に入ったらしい。とおるくんはじっと目を合わせた後、なんでもない世間話をするかのように言った。

「夜、君といちゃつけるかなあって」

 突然の告白に、私の体はすっかり固まってしまった。みるみるうちに背中を熱くする私はすっかり思考回路をやられてしまったらしい。「え、あの」とぎこちない音を口から溢しながら、急速に上昇する体温を少しでも下げようと、咄嗟にお茶を喉へ流し込んだ。

 どうにも目を合わせるのが気まずく思えてならない。テーブルに並ぶお惣菜にばかり視線を注ぎ背を丸めて黙り込んでいると、彼はそんな私に思うところがあったのか、あろうことか、「はそうでもなかった?」と追い打ちを掛けてくる。まさかそんな質問を投げられるとは夢にも思っていなかった私は、咄嗟に顔を上げてしまった。

「えっ!?」

 そんなことを聞かれてもと、声はすっかり裏返る。先程お茶を飲んだばかりだというのに、口の中はすでに乾き切っていた。お陰で舌がうまく回らない。まさか、もしかしてそういうことになるのかなと考えて下着を二着新調し、うち一着をすでに身に着けていることなど、口が裂けても言えるはずもなかった。

「あ、あ、あの、ええと、な、なんというか……」

 じっと逸らすことなく注がれる彼からの視線は、まるでレーザーのような気さえしてくる。直接目にすれば間違いなく私は蒸発してこの世から姿を消してしまうに違いない。一人こっそりと、膝の上で手を握った。

「わ、私は、と、とおるくんさえよければって感じ、だ、だったかな、と、も、申しますか」

 私は生まれてこの方日本から出たことがないし日本語しか話せない人間だというのに、なぜこんなにもたどたどしい母国語しか口にすることができないのだろう。まるでハンドクリームを塗り込むようにひたすら手を弄り倒していると、ありがとう、と柔らかい声が聞こえてきた。おそらく正面の彼は、今頃目を細めて口元に弧を描きながら、頬杖をついているに違いない。

「別にね、初日だからどうのって話じゃないとは分かってるんだけど」
「う、うん……っ」

 どうにもこの手の話になると口数が減ってしまう癖は今の健在のようで、お陰で私はどんな顔をすればいいのか分からなくなっている。いや、恋人同士なのだからこれはとても大事な話なのかもしれないけれど、どうしても顔が熱くなって仕方がないのだ。いっそのこと、この場から逃げ出したいと考えてしまうほどに瞬きを繰り返し、目を伏せる。

「(ど、どうしよう)」

 とおるくんだって、私がどうも恥ずかしがってしまうことなんて知っているだろうに。いや、それでも話に出したということは、よほど重要なことだと考えてくれているのだろう。それに、もしかしたら私にも気を回して言ってくれたのかもしれないということは分かっている。分かっているのだけれど、こんな真っ昼間から、しかも甘い雰囲気でもないときに言われても、やっぱり対応に困ってしまうのだ。

「(でもここで素っ気ない態度を取ってしまったら、それはそれでとおるくんに失礼な気がする)」

 まるで、出口のない迷路にでも迷い込んだようだった。そして彼は相変わらずその迷路を作り続けてばかりいる。妙案が思い浮かばず、助けを求めるようにハロに目を向けても、つい先程まで確かに隣にいたはずの彼は、いつの間にか一人ボールを転がして遊んでいるせいで、こちらの視線になんて目もくれない。

 ゴム製になっているそれは噛むと音がするからか、時より、プピィ、と少し間抜けな音がした。なんだかそれが、自分でどうにかしてくださいと言われているような気分になる。

 ぐるぐると回る頭で必死に打開策を考えるも、どれが最適な選択なのか判断することができない。しかし相変わらず話を続ける彼についにキャパオーバーを起こした私は、ろくに考えをまとめられないまま身を乗り出した。

「──とっ、とおるくん! ……あ、あの。き、気持ちは嬉しかったけど、今は食べませんか。その……さ、冷めちゃう、し」

 冷や汗をかきながら提案した声は上ずっていて、できるだけ明るい声を意識したはずなのに、どうにも固く収まっていた気がした。いっそ両手で自分をあおぎ、体温を下げたい気持ちでいっぱいになる。どうか不自然に思われませんようにと願いながら彼からの反応を待つものの、やけに沈黙が長い気がしてならない。頼むから何か言ってくれと祈っていると、彼はいつもどおりの爽やかな笑みを見せた。

「それもそうだね」

 その一言にようやく胸を撫で下ろした私は、ゆっくりと力が抜けたように背もたれにもたれ掛った。そして久しぶりに箸を取っては、これおいしいね、とありふれた台詞を舌に乗せる。そしていつの間にか、荷解きはどれくらい進められるかという話題に切り替わった頃、ふと気が付いた。

「(そういえば私、バイトのことについて聞こうとしてたんじゃなかったっけ)」

 すっかり話を逸らされていたことに気付かなかった。いや、とおるくんも意図してやった訳ではないのだろうけれど。

「(……まあそうじゃなくても、きっと触れられたくはないよね)」

 私は私で会社で仕事をしているように、とおるくんはとおるくんで、自分で選んだ仕事をしているのだから。恋人でも、他人がどうこう言うことじゃない。勿論体力的に心配は尽きないけれど、決して危ない仕事をしているわけでもないんだし、こんな風にハードスケジュールになるのも、ごく稀なことなのかもしれない。

「(あんまりお仕事のこと、聞かないようにしようかな)」

 疲れただとか、何か愚痴を言ってくれるようになったら聞いてあげればいい。疲れたときは休める場所になってあげればいい。まずはその一環として、抱きしめてあげよう。だってそうすればストレスを減らせると、昨日とおるくんが言ってたから。


20190517