さぼり癖のある私が、うっかり見つけたアルバムや漫画を読みふけることなくそれらをダンボールへ詰め続けていられたのは、間違いなく“彼”の存在が大きかった。

 その人物は時より私に声を掛け指示を仰ぎながらも、一度確認するや否やてきぱきと役割をこなし、少なく見積もっても私の1.5倍のスピードで雑貨類をダンボールにまとめあげるという功績を見事に残した。もしもMVPを認定するとしたら、間違いなくその賞はとおるくんのものとなったに違いない。気付けばダンボールと家具類だけとなった部屋に、私はひどく感動していた。

 すっかり無機質になった部屋は隅にダンボールが積まれていて、なんだか自分の部屋ではないようだ。とても生活の色が感じられなくてちっとも落ち着かないものの、ここ最近では休みの日も、仕事から帰ってきた夜だって、いつもダンボールに向き合い続けていたからか、ようやく何かから解放されたような、晴れやかな気分になる。ずっと胸の奥にぶら下がっていた重りが急に消え去ったようだった。

「とおるくん、今日はありがとう! 本当に本当に、すごく助かった!」
「お役に立てたようなら何よりだよ」

 まるで挨拶を交わすかのようにさらりと答えたとおるくんは、にこやかな笑顔を見せる。それを見て、私の頬はまた締まりなく緩んだ。彼が笑ってくれることが何より嬉しくて、彼が差し入れにと持って来てくれたシュークリームを上機嫌に頬張る。カスタードクリームにたっぷりとバニラビーンズが入っているからか、一口かじっただけで甘い香りが鼻をくすぐった。おいしい、と誰に言うでもなく呟く。

 フローリングに座り込みローテーブルを囲むお茶会は、はたから見れば素っ気ないはずなのに、私の目にはきらきらと輝いて見えた。

「とおるくん、本当に引越し慣れてるんだね。すごく手際が良かったし」
「単純作業が得意なだけだよ。……あ、待って」
「うん?」

 またシュー生地を頬張ろうとしていただけなのに、目の前の彼が急にストップを掛けたものだから、そのままかぶりつく前に停止してしまった。なんだか、エサを前にして「待て」をされる犬の気持ちがよく分かった気がする。

 目をぱちくりさせながらとおるくんを見つめていると彼は、購入した際入れてもらった持ち手の付いた紙ボックス──洗い物が増えるからと、皿代わりにそのまま使っていた──にシュークリームを置くと、その上で軽く手をはたき、付いていた粉砂糖を払い落とした。その仕草を見て、流石の私も勘が働く。

「も、もしかして私、顔にクリーム付いてる?」
「ううん。そうじゃないんだけど、ちょっとこっちに来てくれる?」

 そうじゃないなら一体なんだというのだろう。クエスチョン・マークが次々と頭の中で繁殖されていくものの、好奇心から拒否することができない。とおるくんにならって食べかけのスイーツを並べるように置くと、膝立ちで彼の隣へと移動した。先程まで向かい合って座っていたからか、縮まった距離に心臓がときめき始める。

 しかしいざ隣に腰を下ろしてみたものの、「来て」と言ってきた割に彼はそれ以上何も口にすることはなかった。ただ優しく視線を絡めてくるばかりで、しかしそれが私にはくすぐったい。どうにもたえられなくなってゆるゆると視線が落としていると、ふいに指先を拾い上げて握りしめられる。突然触れる彼の体温に、小さく手が震えた。

 とおるくんの体温を吸い取っているのではないかと考えてしまうほどに急激に上がる熱に、小心者の心臓は飛び跳ねる。気付けばゆっくりと距離を縮められていたようで、彼は私の顔を必要以上に覗きこみ、照れてばかりの頬にキスを一つ落とした。反射で肩を上げてしまう私に、とおるくんはまるで内緒話をしているかのような小さな声で甘く囁く。

「びっくりしちゃった?」
「……うん」
「そっか。……じゃあ、“キスしていい”?」

 確認を取るのが遅いのではないだろうか、などと考えることはなかった。彼は過去のことを指しているのではなく、これからのことを尋ねていることに気付いたからだ。すっかり火照り始めた私の頬は筋肉を緩ませて、笑みを溢してばかりいる。彼の甘い視線から逃げるように目を伏せて、小さく小さく呟いた。

「……うん」

 まるで独り言のような声を、しかし彼は受け取ったらしい。指先を絡ませるように繋ぎ直した手が、彼の返事のように思えた。だけど吐息が掛かるその距離で見つめ合うのはやはり照れ臭い。だから私は逃げるように瞼を閉じてしまう。嫌じゃないですよ、という意思表示代わりに、繋いだ手をぎゅっと握った。

 短く唇を吸っては離れるたびに、ちゅっ、とリップ音を小さく落とす彼は、繋がれた指先で、私の手の甲を下から上へとなぞり込むように握りしめる動作を繰り返す。まるでもっと深く繋がっていたいみたいだ。私の中の何かを急かしてくるような感覚に、首の後ろがぞわぞわする。

 そういえば唇が離れたわずかな瞬間を狙って息を吸い込むせいなのか、いつの間にか火照っていた体が興奮しているからなのか、やけに呼吸が荒くなるのはどうしたらいいのだろう。

 緩く開いた口から侵入してくる舌先はこちらの様子を伺っているのか、やけに控え目に歯の境目をなぞっている。それがどうにもじれったい。おずおずと舌でつついてみると、まるでそれを待っていたかのようにぬるりと侵入してきた彼のそれは、舌根から先までくすぐるようになぞり上げる。思わず体を震わせた私は、また手を強く握り返した。繋がれた手がじわりと汗ばむ。

 どうしよう。彼が笑いかけてくれる度、触れてくれる度、キスをしてくれる度、私の中で安室透と言う人物がどんどん大きくなっていく。きっと本当は、彼がこっちに来てと言ったときからなんとなく何をしようとしているのか分かっていたような気がする。だけどそれに気付かないふりをして彼に甘やかされに行ったと告げたら、とおるくんはどう思うのだろう。

 呆れるだろうか。しょうがないなと笑ってくれるだろうか。それとも、喜んでくれるのだろうか。小心者の私がそれを彼に尋ねることはきっとないけれど、もしもそれを聞く日が訪れたなら、嬉しそうにはにかんでくれているといいな。

 だけどどれだけ二人で時を重ねても、飽きることなく求め合った唇が離れていくのはどうにも慣れない。さみしがる心を追い掛けるようにゆっくりと目を開けると、ぼんやりとしたその視線の先に、まっすぐに私を見据える、青い瞳を発見した。

「(あっ)」

 胸の奥がときめいた。まるで私の心臓を何度でも射抜こうとするような強い目は、いつも一瞬だけ姿を現す。キスを繰り返したときや肌を重ねたときの、ごく稀に見せる彼のぎらついた貪欲さは、私の心を離さない。まるで別人のようにも感じる強い意志を感じるそれは、出会う度に恋心を再熱させた。

「……大丈夫?」

 あまりに自分の世界に入りすぎていたからだろうか。上の空になっていたことを心配したらしいとおるくんは何気なく掛けた声にようやく我に返ると、慌てて頷いた。彼はすっかり柔らかな色を瞳に映している。

 すっかりいつもどおりの彼とはいえ、どうにも温かい視線がくすぐったくて、ほどいた指先で口元に触れたまま顔を伏せた。背骨に沿って、まだ熱が全身へと巡っている。ゆっくりと部屋全体を見渡すふりをしてそっと目を逸らした。なんだか今日は、いつもに増して心がふわふわしてしまう。

「(……この部屋最後のキスは、シュークリームの味……)」

 そんなことを考えてはますます体温を上げるものの、じわじわと込み上げてくる愛しさはどうしても隠せない。気を抜けば口角が上がってしまうことに気付き、唇をほんの少し噛んで隠そうと試みてみるけれど、ちっとも効果はないらしい。やけに楽しそうな明るい声で、「どうしたの? なんだか嬉しそうだけど」と尋ねられてしまった。

「えっ!? そ、そんなことないよ! ……いやそうじゃない、嬉しいんだけどなんていうか、あっ違うの変な意味じゃなくて、いや、変っていうか、うーん……!」

 声を引っくり返しながら、どうにかして誤魔化そうと頭をフル回転してみるものの、どうにもうまい返しが思いつかない。それどころか、どんどん墓穴を掘っているような気がしてならないのはなぜだろう。

「なんだい? 気になるなあ。僕にも教えてよ」

 そう尋ねるとおるくんは口ではこう言うもののちっとも問い詰める気は微塵にも感じないどころか、むしろすでに何かを察しているかのように表情は柔らかい。まるで、答えを知っているクイズに、わざと分からないふりをしているみたいだ。

 それに気付いた私は、見定めるようにじいっと彼を見つめてみる。とおるくんはとぼけたふりを続けるつもりのようで、にこにこと笑みを絶やさないままだった。音を上げたのは、やっぱり今回も私の方だった。

「だ、だめ」

 短く、そして的確に答えを生み出すと、誤魔化すように食べかけのシュークリームを手に取った。そんな私に、とおるくんはまるで確かめるように繰り返す。

「だめなの?」
「うん。だめなの」
「そっかあ」

 一見、残念だなあと言わんばかりの反応を見せているものの、相変わらず人懐こい笑みを見せているから、間違いなく彼は真相に気が付いている。これだから探偵は油断がならない。私は彼に、隠し事ができる日は訪れるのだろうか。その問いは考えなくても分かる。答えはノーだ。

 だけど今、私はどうして顔がほころんでばかりいるのだろう。恥ずかしいと思っているのは確かなはずなのに、やけに心は弾んでいる。甘えるようなとろけた声で「だめ」なんて言っても、ちっとも嫌がっているように聞こえないのは分かりきっている。つまり私はこの状況を、本心では、決して嫌がっているわけではないのだ。

 ……ああそうか。私は彼と、じゃれ合っているような気分でいるのか。

 私の中で、すとんと落ちた気がする。そしてそれを確かめるように、こっそりと視線を彼に投げかけた。しかしどうしたことかしっかりとそれを受け止めた彼は、優しく目を細める。

「(わっ)」

 つい反射で顔を伏せてしまったものの、どうにも心臓は落ち着きそうにない。どうして彼はいつも、私からの視線に気付くのだろう。不意を狙っているはずなのに。

 熱くなる顔のまま、誤魔化すようにシュークリームを頬張った。まるで、別にあなたのことを盗み見しようとしたのではなく、なんとなく顔を上げただけですよ、という偽りの意思表示をするかのように。

「(……もういいかなあ。だめかなあ……)」

 なぜだか無性にとおるくんの顔が見たくなっている私は、早く顔を上げたくて仕方がない。でも目が合ったら、やっぱり少し照れてしまうかも。ぐらぐらと不安定に揺れ始める天秤は、一体どちらに倒れるべきなのか決めかねている。

「──。おいしい?」

 ふと投げ掛けられた問いかけに、自分でも驚くほどに素直に顔を上げた。そこには相変わらず嬉しそうにはにかむとおるくんが私を見つめている。その瞳を捉えた瞬間、温かい何かが全身を駆け巡ったような気がした。耳の奥まで甘く痺れるその感情は自分では決して生み出すことのできない何かで、だからか私は気が付けばすっかり彼への想いを乗せたような笑顔を咲かせてしまっていた。

「うん!」

 頬はすっかりふやけてしまった。気付けば心は溶かされて、にこにこと笑ってばかりいる。あんなに天秤をぐらつかせていたのはどこの誰だったか。今ではもう思い出せないほどに私は口角を上げてばかりだ。だって彼は表情を緩めて見つめてくれるから、それだけですっかり楽しくなってしまう。意味もなくじっと視線をぶつけ合っては、ふふ、と小さく笑みを溢し合った。

「あ、そうだ。明日の昼ごはん、どうする? 何か食べたいものがあれば、作っておくけど」

 思い出したように尋ねたとおるくんは、あっという間にシュークリームの最後の一口を頬張った。彼は基本的に、食べるのが早い。いつだったか、探偵はいつ調査対象者が動くか分からないからそういう癖がつくんだと言っていたから、これは一種の職業病と言うやつなのかもしれない。

 まあそれはともかく、投げ掛けられた質問に答えなければ。そう言い聞かせ脳内で話題を切り替えてみたものの、間食しているときに昼食の話をされても、というのが正直なところだった。お腹が満たされているときに食事のことは、どうにも考えられない。何が食べたいという具体的な案が思い浮かばなかった私は、ひとまず彼の負担をなくさなくてはと口を開いた。

「いいよ、そんな。明日ばたついちゃうだろうし、とおるくんも大変でしょ? 食べに行くか、コンビニで済まそうよ」
「……そう?」

 間を開けたとおるくんは、言わずともどこか納得していないとばかりの雰囲気で、どこかぎこちない。それに気が付いた私は、素直に頷いた。

「うん。それに本音言うとね、一緒に周りの散策もしてみたくて。だから、付き合ってほしいんだ。……あ。せっかくなら、ハロにも何か御馳走出してあげたいな。おやつ買って、あげてもいい?」
「分かった。いいよ。君が言うなら、そうしようか」
「やった! ……うーん、何がいいのかなあ」

 上機嫌を未だに引きずっている私の喉は、やけに弾んだ声が出る。しかし実際のところ、 今までハロが食べてきたドッグフードはいつもとおるくんが買ってきていたものだから、私はちっとも犬用フードに詳しくない。ジャーキーとか、そういうのがいいのだろうか。それとも猫のおやつでよく見る、液体状のおやつがあるのだろうか。

 すっかり心を躍らせながら、最後の一切れを口の中に放り込む。最後までカスタードがぎっしり入っていて、食べごたえのあるシュークリームだった。

「とおるくん、ごちそうさま。おいしかった」
「よかった。ここのシュークリームおいしいよね」
「うん!」

 ……しまった、また間抜けなほどに緩んだ顔を見せてしまった。別にシュークリームがおいしかったから笑ってしまった訳ではなく、ただ単にとおるくんにつられて笑ってしまっただけなのだけれど、先程の件と言い、もしかしたら彼には食い意地が張っているなと思われたかもしれない。しかしいざ誤解を解こうにも、じゃあなんであんなに嬉しそうな顔をしたのと尋ねられては、私はもう何も言えない。この件はそっとしておこうと、わざとらしく咳払いをした。

 さて無事に食べ終わったことだし、お皿代わりに使っていたケーキボックスをゴミ袋の中に入れて、手も綺麗に洗わなければ。そう頭では分かっているものの、お腹が満たされてかどうにもやる気が起きない。厳密に言うと、立ち上がりたくない。

 横着を選択した私は、ローテーブルの隅に置いていた白いプラスチックのケースを視界に入れた。中央に同素材のボタンが設置されている。迷うことなくそれを押し、蓋を開けると、そこからウェットティッシュを一枚引き抜いた。そのまま素早く手を拭き小さく畳むと、同じくシュークリームで多少手が汚れているであろう彼に、そっとプラスチックのケースを差し出した。するとその意味を汲み取ったらしいとるくんは、私と同じようにティッシュを取り出す。

「ありがとう」
「ううん。ちょっとね、のんびりだらけたい気分なの。とおるくんも付き合って」
「ふふ。そっか」

 そんな、小さく笑いを含ませた声で彼が頷いたことを確認した後、ベッドを背もたれにするように座り直した。そしてすっかり固くなった体をストレッチするように、両手を天井に向かって大きく伸ばす。そして深く息を吐き出しながら腕を重力に従って下ろしていると、隣に座る彼から、「疲れた? 少し昼寝する?」と尋ねられてしまった。

「ううん、大丈夫」

 迷うことなく首を横に振ったものの、疲労感を否定することはできなかった。すっかり瞼が重たくてつい瞬きを繰り返してしまう私に、きっと彼は気付いたのだろう。確かに体や脳は休息を求めているけれど、それに素直に従えば、きっとあっという間に日は暮れてしまう。私は昼寝と称して三十分程度で起きるようなタイプの人間ではないのだ。つまりここで寝てしまったら、とおるくんとの時間がぐっと少なくなってしまう。

 そう直感した私は、意地でも寝るわけにはいかない。こんなことを本人には口が裂けても言えないけれど、少しでも長く恋人との時間を満喫していたいのだ。まるでこれは、修学旅行の夜のよう。自分が眠った後に楽しいことが起こることが嫌で、だから意地でも現実世界にぶら下がり続けている、あの感覚にほんの少し似ている。

 眠ることなく疲れを癒してくれる魔法使いが、ここにいてくれたならいいのに。そんなことを考えたら、まっしろでふわふわの毛並みをなびかせて、尻尾をまるでメトロノームのように大きく左右に揺れ動かす、つぶらな瞳の持ち主が脳内に姿を現してしまった。ああ、そうだ。彼ならきっと、すぐにこの疲労も吹き飛ばしてくれるに違いない。

 今ひとりでお留守番をしているハロは、一体今頃何をしているのだろう。とおるくんは散歩をしてきたと言っていたから、もしかしたら疲れてお昼寝をしている最中なのかもしれない。

 ハロは、私が誕生日──実際にハロが生まれた日は分からないから、とおるくんが飼い始めた日になるのだけれど──にあげたクッションを随分と気に入ってくれたようで、暇さえあればそこに寝っ転がっている姿を度々見たことがある。触り心地のいいビーズが入っているからか、寝心地が良いらしい。もしかしたら、今もそこにいるのかもしれない。

「ねえ。ハロは元気にしてる?」

 何気なく彼の飼い主に尋ねると、とおるくんは突然飼い犬の名前が出てきたことに驚いたようで、「ハロ?」と聞き返した。

「元気だよ。……なんだい? 早くおやつあげたくなっちゃった?」
「うん。そんな感じ」

 首を縦に振ると、とおるくんは、そっか、と相槌を打った。そしてぼんやりと天井を眺めていたかと思っていたら、ゆっくりとこちらへ視線を戻し、私と一直線に並ぶように彼もまた座り直した。

「君は、本当にハロがすきなんだね」
「うん。それもあるけど、ハロは私のセラピストだから……」
「セラピスト?」

 突然何の脈絡もなく出てきた単語に、彼は聞き返すように繰り返し言った。勿論、きっととおるくんのことだから、その意味は当然知っていることだろう。つまり目をぱちくりさせているのは、突然どうしたんだ? という単純な疑問からに違いない。そう解釈した私は、詳細を補足した。

「アニマルセラピーって言って、動物に触ってると癒されるんだって。だからハロは、私のセラピストなの」
「そういうことか。癒しねえ……。確かに動物を見たり触れ合っているときはオキシトシンが分泌されるから、その効果はあると思うけど」
「お、おき……?」

 聞き慣れない単語が飛び込んで来たものの、全てを正確に拾い上げることができず、眉間に皺を寄せた。一体それは何を意味するのか、見当もつかない。口にした本人にじっと視線を注いでいると、とおるくんはその意味に気が付いたようににこやかな笑みを見せた。

「オキシトシン。脳の下垂体後葉っていう部分から分泌されるホルモンで、分かりやすく言うと、幸せホルモンってやつだよ。それが多ければ多いほど、人は幸福に感じるんだ」
「へえー!」

 感心したような反応を出したものの、下垂体後葉って脳のどこにあるんだっけ、などと考えているだなんて決して彼には言えない。むしろ日常会話で初めて耳にした単語に、とおるくんは相変わらずよく知っているな、という感想しか浮かんでこないのだ。つまり私は、彼がせっかく説明してくれたにも関わらず、ひとまず動物に触れ合うと幸せホルモンが出る、という簡易的なまとめでしか理解できていない。

「──でもね」

 突然逆接を挟み込んで来た彼の瞳は、私をまっすぐに捉えている。しかしとおるくんはいつもどおりの人懐こそうな笑みを浮かべているというのに、どことなく身構えてしまうのはなぜだろう。その理由が分からぬまま見つめ返していると、彼は先程の豆知識披露の延長戦のような口調で言った。

「知ってるかい? ハグでストレスの三分の一が解消されるんだよ。これもオキシトシンの効果なんだけど、これも癒しじゃない? しかも、人間である僕にしかできないよね」
「え? あ。う、うん。そうだね」

 急に二文字の横単語を挙げてくるものだから、思わず意識して身を固くしてしまった。どもってしまう自分の口を呪いながら、気恥ずかしさを感じて目を逸らす。そのままこの場を逃げてしまおうと、お茶のおかわり用意するねと早口に彼に投げ掛け腰を上げたものの、そうさせまいと私の腕を掴んだのはとおるくんだった。

「こらこら。逃げない」
「に、逃げてないです。ちょっと猛烈に、温かい紅茶が飲みたくなっただけで」
「気まずさを感じると敬語が出てくる癖は、なかなか直らないよね」
「そんなことない──よ」

 つい語尾に「です」と付けそうになったのを慌てて修正したせいで、ぎこちない発音になってしまった。これはやってしまったかもしれないと考えていると、とおるくんはまるで「ほらみたことか」と言わんばかりに、悪戯っ子のような意地の悪い笑みを見せる。

「もしかして、恥ずかしいとか」
「そ、そんな、ことは」

 ──大いにある。しかし付き合い出して二年にもなる上に、明日から同じ部屋で暮らそうとしている人間が、恋人に対して、今でも会うたびに惚れ直しているだとか、触れられるだけで心臓が爆弾のように大きく鳴り響いていることを素直に言えるはずがなかった。ゆえに見栄を張って否定してみると、とおるくんは「そっか、そうだよね」とこれまた綺麗な笑みを見せる。嫌な予感がした。

「じゃあ大丈夫だよね。はい、ハグしよう」
「(しまった……)」

 これは完全に選択を誤ってしまったようだ。いや、勿論決して嫌なわけではない、嫌なわけではないのだけれど、先程も言ったように、どうにも私は彼の体温に触れると途端に心拍数を上げてしまう癖が抜け切れていないのだ。

 勿論触れられるのはとても嬉しいことだし、そもそも彼が私にとって安心できる存在であることは間違いない。けれど、未だに心臓は彼に対して免疫ができているかというのは別の話なのだ。だけど、会うたびにとおるくんに恋をしていることだなんて、きっと彼もとっくの昔に気付いているだろうに。

 とおるくんはずるい人だった。ひとつずつ選択肢を減らしていって逃げ道を無くし、気が付いたときには私をどこにも逃げられない隅へと追いやっている。何を言えばどう反応するかというのをしっかり把握しているらしい。それでも私が本気で嫌がることには一切踏み込んで来たことはなかったから、彼は私がプライドと羞恥心から躊躇しているのを後押ししているだけというのも分かっていた。

「(でも、自分からいくのはやっぱり恥ずかしいな……)」

 普段とおるくんが率先して引っ張ってくれているから、私から彼の胸元に収まりに行くというのはなかなかハードルが高い。何かきっかけや理由があればいいのだけれど。どうしたものかと必死に頭をフル回転させていると、それを見かねたのか、とおるくんは随分と明るい声で言った。

「実は僕も、最近仕事が立て込んでてね。荷造りもあったし、疲れたなあと思ってたんだ」
「……そうなの?」
「うん、そうなの」

 とおるくんが私の言ったことをそのまま繰り返すときは、大抵何かしら裏に考えがあったり丸め込ませたいときであることを私は知っている。頭の回る彼にしては雑すぎる誤魔化し方だけれど、もしかしたら故意的にそうしているのかもしれない。その証拠に、私はどこか納得したような心持ちでいる。

 とおるくんの疲労のストレスを半減できるなら、いいんじゃないかな。だってとおるくん、色々忙しいみたいだし。そんな、分かりやすく手の平を返した免罪符を作ってしまったのだ。だから私は、相変わらず床に腰掛けている彼の真横に、再び腰を落とした。そして向かい合うように座り直すふりをして、そっと距離を縮める。

 それを見てかとおるくんの手は私の手首から腕を伝い徐々に上昇して来るけれど、どうにもくすぐったい。身を縮ませていると、ふいに視線が絡み合う。なんだか随分とぎこちないやりとりがおかしくて、小さく笑みを溢した。

 ついに肩に到達した彼の大きな手は、そのままゆっくりと背中へ回されている。私はまるでその勢いに押されたかのように振る舞って彼の胸の中に納まったけれど、実際彼は背中に手をやっただけでひとつも力を加えられたりはしていなかった。

 体温が上がっていく。心拍数もせわしない。背中にじわりと汗をかく。でもこの体温に包まれるのはすきだった。つい緩んでしまう口元はそのままにこっそり目を瞑って、私も真似をするように手の平で彼の背中に触れてみる。すると何やら笑いを堪える声が振ってきた気がした。もしかして、くすぐったかったのだろうか。

 ぎゅっと抱きつきつつ尋ねてみると、どこか嬉しそうな感情を滲ませながら彼は否定した。なら、何故彼は笑っているのだろう。まるでとおるくんの体温を嬉しがっている自分の姿を見ているようだった。……というのは、流石に調子に乗りすぎだろうか。

「ああ。そういえば、正面からと後ろからと、どちらがより効果的なんだろう? 違いはあるのかな」

 彼は突然思い出したように、しかしやけに大真面目な声でそんなことを言い始めたものの、そんなことを私が知っているはずがない。まるで、どう思う? と言わんばかりの口調に、ますます頬を緩ませてしまった。

「……こっちの方が二人一度で済むから、きっと一石二鳥だよ」
「それもそうか」
「うん」

 だからこのままでいようね。そう口にせずとも伝えたメッセージを受け取った彼は相変わらず私を抱きしめたまま離すことはなかった。まるで内緒話をするかのように息をひそめ、口を開く。

「そういえばね、新しい紅茶があるよ。季節限定だって。アップルティー」
「それは楽しみだな」
「うん」

 楽しみと言いつつ全く動く気配を見せないまま、私達はぽつぽつと他愛ないことを話した。そっちの進捗はどうだとか、引っ越しの日は晴れるといいねとか、どれもありきたりな話題ばかりだったけれど、最終的にそのままお互いの体温に酔いしれるように口をつぐんでしまった。

「ところで、“これ”の効果はどう?」

 ゆったりとした空間の中、ぽつりと尋ねてきたとおるくんは、要するにハグするとストレスが解消される、ということの真偽を問いているのだろう。しかしそれを今ここで肯定すれば、「じゃあ良かったね、終わろうか」と終幕を告げてしまうかもしれない。まだこのぬくもりに包まれていたい私は嘘をついた。

「まだ、分かんないな」

 本当は今、しあわせに満ちている。だから実験は大成功だと伝えるべきだったのかもしれない。とおるくんをずるい人だと言ったけれど、訂正しよう。きっと私もそうだった。だから“まだ”なんて副詞をわざわざ付け足したのだ。まるであたかも実験の途中であるかのように見せかけるために。腕に力を入れてなお一層密着しようとする私に彼は、うん、と優しい音色で呟いた。

「そうだね、僕もだ。……もう少しこうしていよう」
「うん」

 うっとりとした空気に寄り添いながら頷いた。ああ、私達はきっとお互いを手放すつもりがさらさらない。この心地のいい温度を、一体なんと言い表せばいいのだろう。心臓はどきどきと高鳴って、しあわせを誰より噛みしめているのに、少し落ち着かない。それでも確かに落ち着けるこの場所は、目を閉じているとつい夢の世界に旅立ってしまいそうだ。

 だけど起きていようとすればするほど少しずつ瞬きが多くなって、うつらうつらと意識が遠のいてしまう。いつの間にか背中をぽんぽんと一定のリズムでやさしく触れる彼の手が更に拍車を掛けてしまった。

 しかし実際には眠ることなく現実世界に留まり続けることとなったのは、まるで心の声を読み取ったかのようなタイミングでとおるくんは自分の背後へと体勢を傾け、ころんと倒れ込んだからだった。

 当然彼の腕は私の背中に回されているのだから、私もそのまま巻き添えを食らい、フローリングと私の間に、とおるくんをサンドイッチしてしまう。その拍子に、ひゃあ、と間抜けな声を出してしまったものの、まるで遊園地のアトラクションを楽しんでいるかのようにケタケタと笑い合った。

「なあに?」

 とおるくんの上で寝っ転がった状態になった私は、とおるくんの顔を覗きこんだ。突然どうして倒れ込んだのかと冗談交じりに尋ねると彼は、ごめんね、とやはり笑いを含んだ声で言う。

「なんだか君、寝そうだなと思って」
「だったら寝させようとしないで」
「うん、ごめんね。リラックスしてくれてるんだなと思ったら嬉しくて」

 小さく笑いながら頭を撫でる彼に、まるで溶かされるように目を細めた。なんだか猫になった気分だ。高鳴る鼓動が心地いい。ふふ、と間抜けな声を漏らしながら、すっかり緩み切った頬は引き締まってくれない。

「まあその割には、今も顔は赤いけどね」
「とおるくん!」

 そういうことは言わなくていいの! そう抗議するかのように強く名前を呼ぶと、彼はちっとも反省していないような素振りで「ごめんごめん」と口にした。彼が二回繰り返すときは、大抵心が込もっていない。不貞腐れたようにべったり張り付いて顔を隠す私の頭を撫でる彼は、まるで機嫌直してと言っているかのようだった。

「……ねえ、

 暫く間を開けた後、囁くような小さな声で呼んだ彼は、相変わらず私の髪を梳かす手は止めない。しかし先程のこともありどうにも気恥ずかしくて少し不貞腐れたように短く返事をする私に、とおるくんは静かに口を開いた。

「すきだよ」
「え!? う、うん」

 つい反射で見上げてしまった程度には度肝を抜かれてしまった。大きな声で反応してしまっては、動揺していますと言っているようなものだというのに。

「ど、どうしたの。急に」

 大きく響き渡す心臓の音に急かされて、体は急激に熱くなる。こんなことを改まって言われて平常心を保っていられるほど、私の心臓はタフではなかった。

「特に深い意味はないけど、なんとなく言いたい気分だったんだよ。……だめ?」
「だ、だめじゃ、ないけど……」

 どうにもこの手の会話は慣れることができない。つい口籠るように小さな声になってしまうから、きっと彼には聞き取りづらいに違いない。だけど急にやってきた甘い空気が私を酔わせるから、あちこち目を泳がせては瞬きを繰り返すしかない。気の紛らわし方法なんて、ちっとも思い浮かばないのだから。

「……?」

 突然黙り込んだ私に、とおるくんは様子を伺うように声を掛けて来るものの、顔は見せまいと必死に彼の首元に張り付いているものだから、きっと彼からは私が今どんな表情をしているか分からないに違いない。ああ、でもこんなにも体温が熱いから、もしかしたら耳まで赤くなっているのかもしれない。それを見つけられたらおしまいだ。だから私は、ぎゅっとしがみつくように彼の体温を離さない。

「あ、あのね。私、こんなに人をすきになったの、とおるくんが初めてなの。だから、わ、笑わないで聞いてほしいんだけど……」

 ぽつりぽつりと呟いた声は随分とぎこちなくて、時より震える喉が言葉を詰まらせる。緊張しているのか、それとも恥ずかしがっているのか、それとも両方なのか、なぜだか視界がじわりと滲むから厄介だ。

 だけど時より彼は誰よりも柔らかい響きで、うん、と相槌を打ってくれる、その声が愛しい。当たり前のように抱き締め返してくれるその腕が愛しい。私を受け止めてくれるその体温が愛しい。いつでも想いを包み込んでくれる、その心が愛しい。

「私、とおるくんと出会ってから、毎日がすごく楽しいの。だから、私のことをすきになってくれてありがとう。一緒に暮らそうって言ってくれて、すごく嬉しかった。……私、今が人生で一番しあわせな気がするの。とおるくんに会えてよかったって、いつも思ってるよ。だから、その……」

 語尾を濁しては、まるで独り言のように、「あの」だとか「なんていうか」だとか、そんな繋ぎ合わせの言葉を挟み込んでみるものの、すっかり全力疾走している心臓に急かされて、どうにもうまく声にできない。何を口にしても、きっととおるくんなら受け止めてくれるに違いないというのに。

「つ、つまり、何が言いたいのかっていうとね、その、い、いつも言ってもらってばかりで、全然伝えられてないけど……」

 勿体ぶって話すことではないと頭では分かっているというのに、どうして覚悟を決められないのだろう。でもここまで言っておいてやっぱりやめておきます、というのは締まらない。それに、たった一言が伝えられないままじゃ、きっとこの先絶対苦労する。なぜなら一緒に暮らすのだから。そう、だから私はもう、やっぱりやめたというカードは破り捨てなければならない。

「(今、言わなきゃ)」

 だって私はとおるくんに想いを告げられて、これ以上ないというほどしあわせと愛しさを感じていたのだ。だから今度は私の番。いや、順番ではなく、単純に私が今、伝えたいと思ってしまったのだ。だから大きく息を吸い込んで、ぎゅっと目を瞑る。そしてありったけの愛情を込めて想いを吐き出した。

「──だ、だいすき……!」

 頭の中をぐるぐると回る感情を必死にかき集めて作り上げた言葉は、情けないほどに緊張を巻きつかせていた。しかしようやく声に変換できたと胸を撫で下ろしたもの束の間、てっきりすぐさま、僕もだよ、なんて同意の言葉が返ってくるとばかり思っていたというのに、それどころか一つも反応を示してくれない彼に首を傾げてしまった。

 とおるくんはいつだって私を甘やかしてくれるからつい調子に乗ってしまったけれど、もしかして、発言があまりに子供過ぎただろうか。寒いと思われたのかもしれない。

「とおるくん? も、もしかして引いちゃった? あの──」
「……違うんだ、ごめん。そう言ってもらえて、すごく嬉しいよ」

 否定こそされたものの、その声の色はいつもと少し違っていることに気付いていた。普段とおるくんは温かくて、全てを包み込んでくれそうな柔らかさを持っているというのに、どうしたことか妙に緊張をまとっているようにすら思う。何かがおかしいと顔を覗こうとする私に、まるでそれを阻止するかのようなタイミングでますます抱きしめる腕の力を強めてくる彼に、わっ、と声を漏らした。

「とおるくん、どうしたの? もしかして、甘えたい気分なの……?」
「……そうだね。そうかもしれない」

 まるで、何かを必死に引き留めようとしているみたいだ。迷子になった子どもみたい。こんな彼の姿は初めてで、だから私は困惑してばかりいる。いや、きっと初めてではない。いつだったか一度だけ、彼は私に見せたことがある。確かあれは、私達が想いを通じ合わせた観覧車の中だった。

 ──それでも傍にいたいと願ってしまった僕の我儘に、付き合ってもらえますか?

 そう口にしたときの声と、随分と似ているような気がする。そんなことを考えたら、急に胸の奥が締め付けられたような気がした。

「……なあ。僕は君に、釣り合えているのかな」
「え? なあに、それ。とおるくん、相変わらず私を過大評価しすぎだよ」

 明るい声を意識して笑う私に、彼は、そんなことないよ、と呟く。その声はすっかりいつもどおりのものだったから、まるで全て私の気のせいだったような感覚にすらなるけれど、本当のところはどうなのだろう。彼は私を強く抱きしめてばかりでちっとも顔を見せてくれないから、今は何も分からないけれど。


20190430