小休憩がてら立ち寄った売店で購入したソフトクリームを片手に、二人並んでベンチに腰掛けていた。ずっと立ちっぱなしだったから、腰や足の裏が伸びて気持ちがいい。ついでに疲労回復がてら糖分接種と選んだデザートは正解だったようだ。

 口を開けばおいしいおいしいと繰り返す私に、とおるくんはまるで自分のことのように、よかった、と嬉しそうに笑う。彼の横には白いビニール袋が乗ったカートが停まっていた。中には、カーテンやカーペットなどが所狭しとばかりに詰め込まれている。

 土曜と言うこともあり、ショッピングモールは特に家族連れで賑わっているようで、フードコートは明るい声が絶え間なく響いている。しかしそこから少し離れたエスカレーターの横に位置するここは、雑貨や服屋の前ということもあり、随分と落ち着いていた。

「あと必要なもの、あったっけ」

 右隣に腰掛けるとおるくんに普段どおり話を振ったつもりだったものの、やけに弾んだ声が出て来てしまった。それは間違いなく、甘いものを食べているからという理由だけではない。ついにこにこと笑ってしまう単純な私は、二週間後に控えた新生活が日を追うごとに現実味を帯びていくことに胸を躍らせていた。そんな私に、彼は柔らかい笑みを見せる。

「大丈夫じゃないかな。家具類はそのまま持って行くし、カーテンは買ったから、どうにでもなるよ。足りないものは、二人で少しずつ揃えていこう」
「うん」

 彼の提案に頷く私は、すっかり緩み切った頬をしていることに自分自身気付いていた。しかしどうあがいても引き締めることができない。いっそ開き直った私は、上機嫌であることを包み隠さずさらけ出している。にこにこと笑ってばかりの私につられたように、彼は目を細めた。

 準備を進めるのが、とても楽しい。結婚した友人からは、色々と揃えるのは面倒だったし疲れたと聞いていたのに、私はむしろ、訪れる観光地を思い浮かべながら準備を進める旅行前日のような気分になっている。だけど同棲という単語にだけはどうにも慣れず、くすぐったい響きを感じているせいで、未だに口にできないままでいた。

「荷造りはどう? 進んでる?」

 思い出したように話を振って来た彼に、思わずどきりとした。お陰で一瞬反応が止まったものの、それを誇張するわけにもいかないと視線を泳がせ、思い出したように冷たいクリームを口に含む。

「まあ、うん。ぼちぼち……」

 まさか、あと二週間あるから余裕だろうと、ほとんど手に付けていない状態だなんて言えなかった。そういえば今の家に引っ越してきたときも、引っ越しの前夜に半泣きになりながらダンボールに詰め込んでいたような気がする。

「とおるくんは?」

 どうにかして自分から話題を逸らそうと話を返してみたものの、彼は迷うことなく、ぼちぼちかな、とにこやかに笑った。私の台詞から抜き取った答えを繰り返した彼は、おそらくきちんと進行させているのだろう。雰囲気から、なんとなく分かってしまった。

「(せめて、使っていない季節ものの服くらいはダンボールに詰めておこう)」

 そう心の内で決意して、クローゼットの中身を脳内で展開する。できるところから手を付けておかないと、後で自分の首を絞めるだけなのは分かっていた。それでもどうしても見張り番がいないとつい脱線してしまいがちで、学生のときは友人と共にテスト勉強をすれば割と真面目に取り組んでいたものの、家に帰ると途端に机に向かいたくなくなって、無意味に掃除を始めてしまうタイプの人間だった。

 そういえば前回の引越し時は、終盤になってダンボールが足りないことに気付き大変なことになっていたから、やはり今回は早めに行動に移すべきなのだろう。すきなことに関しては集中力と行動力があるんだけどなあとぼんやり考えながら、またアイスを一口頬張った。そこでふと思う。それは誰でもそうだな、と。

 何気なくとおるくんの横顔を覗き見ると、彼は透明なプラスチック容器に入ったアイスコーヒーを飲みながら、ぼんやりと行き交う人々を眺めていた。飲み込むたびに喉仏が動いて、少しどきどきする。

 しかし、あまりに視線を注ぎすぎてしまっていたのだろうか。彼は何かを察したように突然こちらに顔を向けてくるから、思わずソフトクリームを手からこぼしそうになってしまう。しかしそんな私の事情など知るよしもないとおるくんは、ストローの刺さったコーヒーを差し出した。

「飲む?」

 どうやら彼は、私がコーヒーを飲みたがっているがためにじっと見て来ていたと考えたらしい。しかしまさかそこで、違うんです、と馬鹿正直に答えるのも気が引ける。大丈夫だよと愛想笑いを張り付け返すと、彼は不思議そうに首を傾げた。

「アイスばっかりで、喉乾かない?」
「うん、平気。ありがとう」
「そう?」

 じゃあなんで見て来たんだろう、と言わんばかりの顔をしていることには流石の私も気付いている。しかし、一体どう言えば誤魔化せるのか、なんと返すのがベストなのか、その答えが出てこないのだ。ひとまず言われたら返す、という会話のキャッチボールの定番を選んでおけばいいのだろうか。

「と、とおるくんは? アイス食べる?」

 そう言って彼に冷たいデザートを差し出したものの、おそらく断るのであろうことは予想がついていた。なぜなら彼は、時よりスイーツを頬張る私を前にすることがあっても、いつも優しく見守っては、楽しそうに眺めているだけなのだ。その都度視線を注がれる中食べるのも忍びないと一口どうかと誘ってみても、彼は一度たりとも首を縦に振ったことはなかった。

 そういえば以前、おいしそうに食べてるところがいいよね、だったか、そんな類いのことを言われたことがある気がする。だから今回も私がこう言ったところで、きっととおるくんはいつものようににこやかな笑顔で首を横に振るのだろう。そう思ってばかりいたのに、今日の彼は違っていた。

「じゃあ、もらおうかな」

 予想外すぎる展開に、えっ、と間抜けな声を出したのは私の方だった。一体彼の中で何があったというのだろう。そう思わずにはいられなくなるほど、初めて聞いた台詞に脳はひどく困惑した。もしかしたら聞き間違いでもしたのではないかと、つい疑ってしまいそうになる。

「た、食べるの?」
「うん。だめ?」
「いや、だめじゃないけど、なんか珍しいなって……」
「そうかな。そういう気分だったんだよ」

 今まで一度だって味見したことなんてなかったというのに、今日は一体どうしたというのだろう。それとも疲れたから、甘いものが食べたい気分なのだろうか。そういえば彼は私と合流する前にハロの散歩──と称するにはあまりにもハードな走り込み──をして来たらしいし、ここに来るために車も出してくれた。おまけにずっとカートを引いてくれていたのだから、少しは労わってあげなくては。

 とおるくんもお疲れなんだな、とのんびり考えながらソフトクリームを彼の手元へ持って行くと、彼は綺麗に口角を上げ、コーヒーをベンチの隅へと置いた。

「ありがとう」
「ううん」

 必死に平然を装いながら首を横に振るものの、鼓動はちっとも止みそうにない。中学生でもないんだから、間接キスを意識してはだめなのに。

「(あんまり、見ないようにしよう)」

 ひとまず、彼が受け取ったのを確認してから手を離すことにしよう。そしてさり気なく暇を持て余しているとばかりに、適当にどこかのお店の様子を遠巻きに眺めているふりをしよう。これで完璧のはずだ。

 よし、と心の中で自分に言い聞かせていると、とおるくんはアイスを受け取るどころか私の手を重ねるように両手で掴んできては、そのまま口元へと近付けている。私の完璧な行動表には一切予定のなかった行動に、反応を示す余裕すらない。

 てっきりバトンタッチをするように彼が一人で持つとばかり思っていたのに、いや、そのつもりで手元に差し出したというのに、なぜ彼は私の右手を握りしめて来ているのだろう。急に包まれた彼の体温に、心臓は分かりやすく焦り始めた。

「(そもそも付き合い始めてから今まで、外で触れてきたことなんて一度もなかったのに)」

 私自身人前でいちゃつくのはどうにも抵抗があるタイプだったから何の問題もなかったけれど、今日は本当に、どうしたというのだろう。手を繋いで歩いたことすらないのに。嬉しいのか恥ずかしいのか、それとも驚いているのか、自分の今の感情を正しく表現することができない。

 大きく高まる鼓動を抱えながら、しかしどうにも彼から目を逸らすことができず、ただただ口を半開きにしたまま固まっている自分は、はたから見たらひどく滑稽な姿をしているのだろう。冷たいクリームを舐めとる赤い舌にどきどきした。つい顔を逸らすことも忘れて凝視していると、ふいに青い瞳は私を捉える。思わず肩を震わせてしまう私に、彼は爽やかな笑みを見せて顔を離した。

「ありがとう。おいしかった」
「う、うん……」

 よかった、と付け足した声は随分と弱々しい。すっかり火照る頬は重く、俯き気味になりながら視線を落とす。未だに握られたままの体温に、気付かないはずがなかった。じっと包まれたままの右手を凝視してしまう私に、とおるくんは、ああ、と言って、まるで今初めて気が付いたとばかりに手を離した。

「下手に受け取ったら落としちゃいそうだなと思って。突然ごめんね」
「あ。う、ううん」

 小さく首を横に振り、どうにかして平常心を生み出さなくてはと必死に頭を切り替えようとするものの、そんな手段があるのであれば、私は彼の前で今まで赤面することも、慌てふためくこともなかった。

 つまりは解決法など思い浮かぶわけがなく、しかし緩んでしまう口元にどうしようもない温かな感情が浮かんでくる。様子を伺うべく、あちこちへ泳ぎそうになる視線をゆっくりと彼へ向けた。するとどうだろう、まるでそれをずっと待っていたとばかりに青い瞳が私を捉え、はにかむように笑うから、心臓は分かりやすく飛び跳ねる。

 ついに隠しきれなくなって、ふふ、と小さな笑みを溢してしまう私に、彼はどう思ったのだろう。アイス溶けちゃうよと指摘した声は、随分と甘く柔らかかった。それが余計に私の頬を緩ませる。調子に乗った脳は恋人によってでろでろに溶かされてしまった。

「あ、あのね、とおるくん。実は、ひとつだけお願い聞いてほしいことがあるんだけど、いいかな……?」

 緊張を主張する心臓は、やけに楽しそうに弾んでいる。全身に血液を運ぶポンプの音を聞きながらそれとなく尋ねると、彼は「何かな? そんな改まって」と言って、私の大袈裟な態度をくすくすと笑った。しかしその視線は決して私を馬鹿にするようなものではなく、むしろ柔らかく優しさに満ちていたものだったから、まるで何を口にしても頷いて、いいねと肯定してくれるような気分になる。

「えっとね、大した要件じゃないんだけど、その……」

 そこまで口にしたはいいものの、その続きはなぜか喉の奥がひっついて、なかなか続きを口にすることができない。今更、何を緊張することがあろうか。二年も一緒にいて、あまつさえ一緒に暮らそうとしているというのに、どうして私の心臓はこうももろいのだろう。一向に続きを紡ぎ始めない私に、目の前の私立探偵は言った。

「荷造り、手伝いに来てほしいとか?」
「……えっ?」

 突然の推理に顔を上げて彼を見やると、とおるくんは大きな瞳をじっと私に向けながら、まるで、違う? と尋ねるような色をしていた。一方の私は思いもしなかった予想に目をぱちくりとしていたものの、しかし手伝ってもらえるに越したことはないと、おずおずと頷く。

「えっと、お、お願いします……?」
「分かった、任せて。……なんだ。そんなことなら、もっと気軽に言ってくれればよかったのに」
「──いや、そっちじゃなくて!」
「……違うの?」

 強く否定してしまったことにはっと我に返った私は目を伏せて、ごにょごにょとぼかしながら呟く。

「いやあの、て、手伝いに来てくれるのはすごく嬉しいし助かるんだけど、でも今私が言いたいのはそのことじゃなくて、その……。わ、笑わないでね」

 するととおるくんは頷いて、まっすぐに私を見ては、じっとその答えを待っている。ぜったいだよ、と更に念を押すと彼は、勿論、と口元に弧を描いた。それを確認した私は、また緩む口元を引き締めるように下唇の内側をほんの少し噛んでは、そっと目を逸らす。私の喉と舌は未だに緊張の糸が絡まったままほどけてくれない状態だというのに、どこか楽しそうに上がる口角は、この状況を一人楽しんでいた。

「えっとね、本当に大したことじゃないの。お願いっていうか、むしろ私の勝手な憧れみたいなものなんだけど、実は──」
「……あ」

 何かに気が付いたような、短いとおるくんの声が被さって聞こえた。もしかして、私が答える前に察したのだろうか。どきどきと心臓を高鳴らせながら彼を見やると、とおるくんは何やらズボンの後ろポケットからスマートフォンを取り出している。バイブレーションを纏わせているそれは、その振動からブーッ、ブーッという音を生み出して、何かを主張していた。

「(……あ)」

 嫌な予感がした。胸の奥が、急にざわつき始める。その持ち主は画面を一目見た後、すぐににこやかな笑顔を私に向けた。

「ごめん。ちょっと待ってて」
「うん」

 私は気にしないから大丈夫だよ。そう口にする代わりに、社会人経験から身に着けた笑顔を張り付け頷いた。相変わらずバイブが止まらないところから察するに、どうやら電話らしい。クライアントからだろうか。

 ぼんやりと予想を付けて、駆け足で離れていく彼の背中をじっと見つめてみる。こういうことが起こるのは、今回が初めてのことではなかった。

 五分、十分離れているときもあれば、すぐに戻ってくるときもある。ただ大体後者の場合は急な依頼が入ったとかで、そのまま解散となることが多い。いつだったか、デートそのものが突然キャンセルになったこともあった。

 だからいつも私は、彼に着信が入るとうまく笑えなくなる。まるで真冬に長時間北風に当たっていたときのように頬が固まって、口角がちっとも上がらなくなるのだ。だからきっとさっきの私も、ぎこちない笑顔を張り付けていたに違いない。

「(……戻って来るの、今日はゆっくりだといいなあ……)」

 そんな自分勝手な都合を心の中で祈りながら、握りしめていたソフトクリームへ視線を落とした。ゆっくりと味わっていたからか、それともコーン部分をずっと持っていたからか、肝心のアイス部分はすっかり液状へ戻りたくて仕方がないという主張をしている。溶け始めた箇所を進んで選んでは、舌が救出へと向かう。とおるくんと間接キスだと喜ぶはずだった心は、どこか遠くへ旅立ってしまったらしい。

 彼が去って行った方向を何気なく見つめてみると、二十メートルほど離れた店の角で、恋人の後ろ姿を発見した。なんだか私の知らない背中のように思えて、胸の奥が締め付けられそうになる。慌てて視線の先を手元のソフトクリームに固定しながら、もくもくと消費に勤しんだ。

「(ここのはコーンがクッキーになってて、おいしいんだよね。ラングドシャってやつ)」

 半ば無理やり軌道修正するようにそう自分に言い聞かせては、コーン部分の端を齧る。早く胃の中に収めてしまおうと、そのままくるくると回しながら食べ進め、少しずつ円周を小さくしていった。

「(……そういえば)」

 買い物が終わり小腹が空いたと何気なく溢した私に、ソフトクリームがあったよととおるくんは真っ先に提案してくれたけれど、アイスクリームのチェーン店もあったというのに、あえて前者を挙げたのは何か理由があるのだろうか。どちらかというとソフトクリームのほうがすきだと、彼に教えた記憶はおそらくないと思うのだけれど。それとも私は、また無意識に見てしまっていたのだろうか。とおるくんは、まるで私を幼いころから知っているのかと疑ってしまうほどの洞察力と推理力を発揮するから。

「──ごめん、お待たせ」

 聞き慣れた声に顔を上げると、眉を下げたとおるくんが立っている。慌てて首を横に振るも、思っていたより随分と戻りが早かったことに気付いた心臓は、妙に勘ぐってしまう。お陰で急に鼓動が早くなった。

「電話、大丈夫だった? もしかしてその、今日はもう……」

 どうしてだろう、徐々に視線が下がってしまう。しかし言わんとしていることが伝わったのか彼は、大丈夫だよ、と簡潔な答えを差し出した。驚いたように見上げると、とおるくんは「ただの問い合わせだったから」と言って、私の心を拾い上げたように返してくる。その瞬間、頬の筋肉がほぐれていったのが自分でも分かった。

 そっか、と短く頷いた後につい、よかった、と口から零れそうになり、誤魔化すようにコーンにかじりついた。そんなことを言ったら、まるでデートの途中で解散になったときの彼を遠回しに責めているように思えたから。

 とおるくんはベンチに置いていたコーヒーを手に取ると、先程と同じ場所に腰を落とし、何気なく私の手元を見やった。そこで、明らかに先程より二分の一まで高さが縮んでいるコーンに気付いたのだろう。ゆったりとした口調で言った。

「急いで食べなくても、ゆっくりで大丈夫だよ」
「うん。でもほら、溶けちゃうから」

 すると、そっか、と短く答えた彼は、自分の手元のアイスコーヒーを右手に持ったまま、じっと私の横顔に視線を注ぎ込む。しばらくはそのまま様子を伺ってきていたものの、いっこうに話そうとしない私に痺れを切らしたのかとおるくんは、それで、と前置きをして言った。

「さっきの話の続き、聞いていいかな。僕にお願いがあるってやつ」

 話を巻き戻した彼の質問に、背中が熱くなった。一瞬間を置いて噛み砕いたクッキー・コーンを飲み込む。ごくん、と小さく喉が返事をした。

「あ、うん。えっとね、その……」

 語尾を濁しながら、目を泳がせた。なんだか、そういう雰囲気ではなくなってしまったことに自分自身気付いている。さっきはどことなく甘い空気だったから言えるような気がしたけれど、今は少し、違うのだ。

 コーンの最後の一口を、口の中に放りこむ。それまで円周を覆っていたペーパーを小さく織り畳み、それをぎゅっと握りしめた。特に今でなくてはという話ではないし、忘れたということにして、折り合いを見て話を振ろうか。

 それに、もし彼が途中で席を外したことを罪悪感のようなものを感じていたとしたら、私が何を口にしても頷いてしまうような気がした。そんな、義務感で聞いてほしいお願いではない。そんなことを考えていたら、いつの間にか天秤は徐々に傾き始め、口は一文字に結ばれていた。

 ふいに名を呼ばれ右へ顔を向けると、とおるくんは、まるで挨拶でも交わしているかのような爽やかな笑みのまま、私の頬を両手で挟んだ。そのまま軽く円を描き、顔の筋肉をほぐすマッサージでもするかのように人の顔で遊んでいる。このままではファンデーションやチークが落ちてしまうと、首を横に向けて嫌がる素振りを見せ、彼の手首を掴んだりしてみたものの、一向に彼は手を離そうとはしなかった。

「と、とおるくん、なに! なにーっ!」
「ふふ。かわいい」
「絶対遊んでるでしょう!」
「だって、なんか遠慮してそうな雰囲気だったから」

 その言葉に咄嗟に脳は反応することができず、代わりに心臓が、図星ですと主張する。しかし黙り込んでいてはますます肯定しているように思われてしまうと、そんなことないですよ、とようやく声に変換した。しかし、にもかかわらずとおるくんは、まるでおもちゃで遊ぶ子どものような無邪気な笑顔で、相変わらず顔面マッサージを続けている。

「君は昔から嘘をつくのが下手だよね。でもごめんね、もう見逃してあげないって決めてるから」

 結果的に話の腰を折ったのは僕だけどね。そう言って彼は、ようやく私の頬を開放した。しかしその代わりに、彼の手首を掴んでいたはずの私の手をいつの間にか捕らえられている。そのまま膝の高さになるまでゆるゆると下降させると、そのまま握りしめられた。じわじわと指先から腕、肩と体中に広がっていく熱に、なんだか泣きそうになる。繋がれた両手に視線を落とし続ける私に、彼はしれっと言ってのけた。

「でもこう見えて僕も気は長い方じゃないから、五秒以内に言わないとキスするよ」
「ええっ!?」

 突然とんでもない爆弾を仕掛けられ、思わず顔を上げた。ついでに裏返った声が出たのは、決して私の臨機応変力のなさだけではないと思いたい。なんて強行突破なんだ。いや、さっきのソフトクリームのときは例外だとしても、基本的にいつもTPOをわきまえている彼が、たくさんの人で溢れ返っている土曜日のショッピングモールで本当にそんなことをするとは思えないし、おそらく私の反応を見ているか、単に焦らそうとしているだけなのだろう。

 しかし彼は時より、冗談なのかそうじゃないのか、いまいち判断しかねるときがあるから分からない。もしかしたら裏をかいて本当かもと困惑する頭は、まるで手元のカードを読もうとするギャンブラーのようだ。

「はい。いーち、にーい」
「ま、ま、待って!」

 突然の展開と、時計の秒針よりも明らかに早いカウントに抗議の意を込めてストップをかけたものの、当の本人はそんなの聞こえないとばかりに数字を進めていくから厄介だ。おまけに、まるで私には何の害も与えませんよとでも言うかのようににこにこと人懐こい笑顔を張り付けている。

 ぐるぐると頭を回しながら、しかしまともに機能しないお陰でどうしたらいいのか分からず、ええと、ええと、と意味のない言葉ばかり繰り返す。そんな私をよそに、三のカウントが聞こえた瞬間、このままではいけないと、訳が分からないまま口を開いた。

「──お、お揃いのマグカップが欲しいの!」

 まるで早口言葉の選手権か何かに参加しているようなスピードで吐き出した私は、気が付けばすっかり顔を熱くしていた。そんなことかと、ついに呆れられたかもしれない。とおるくんからの返答を待つ前に、慌てて口を開いた。

「ほ、ほら、食器類とか、やっぱり多少は統一性があった方が何かといいんじゃないかな。見栄えとか! だから、お手軽にマグカップとかいいんじゃないかと思ったりなんかして。風水的にも、なんかよさそうだし。た、多分……」

 舌が回る限り必死に動かしては適当に積み重ねた言い訳を声に変えてみるけれど、ちっとも説得力がない。だからか徐々に自信なさげにボリュームが絞られていく。どうしたらいいものかと何気なくとおるくんを盗み見し、目が合った瞬間に、見栄はどこかへ消え去ってしまった。

 ごめん、嘘です。

 そう小さく呟きながら、左手の中に握りしめ続けていた、コーンの周りに巻き付いていたペーパーをいじくり倒す。小さく折り畳んでいたそれを開き、また折ることを無意味に繰り返した。すっかりよれた紙を、今度はぎゅっと握りしめる。

「単純に私が、とおるくんとお揃いのもの、ほしくて……。昔見たドラマでね、やってたんだ。同棲するカップルが、お揃いのマグカップ買うところ。だから、いつかそういうのしてみたいなあって思ってて……。でも、お願いって言っちゃったけど、とおるくんの気持ちを無視してでは買いたくないなって考えちゃったら、なかなか言い出せなくて……」

 まるで取調べで自白をした容疑者のように肩を落とした。力なく頭を下げていると、いいよ買おうか、とやけにあっさりとした声が耳に飛び込んでくる。思わず彼を見上げてしまった。なんだか拍子抜けしてしまう。

「えっ。本当にいいの? 嫌じゃない?」
「ああ、勿論。僕も好きだよ、そういうの。むしろ、なんで断られる前提なんだい?」
「いや、えっと、な、なんとなく……。ほら、もうマグカップは持ち合わせがあるからいらないんじゃない? とか、いい年してそんなの恥ずかしくない? とか……」
「僕は、そんなに頭の固い男じゃないつもりだよ。それに、実はなかなか言い出せなかったけど、僕もずっと欲しかったものがあるんだ。一緒に買ってもいいかい?」
「えっ、そうなの? なに? なに?」

 突然立場が一転し、彼もまた似たような立場だったことを知ったお陰で、手のひらを返したように明るい声が出てしまった。まるで飼い主に懐く犬のように随分とはしゃいでいる。ほんの数秒前までふさぎこんでいたのが嘘のようだ。早く教えてと催促するように彼の袖口を引っ張りながら、一体彼は何を欲しがっているのかと予想をしてみる。

 マグカップと一緒に、ということだから、おそらく傾向としては雑貨類だとか、そういうものなのだろう。もしかしてランチョンマットとか、箸置きとかかな。色々種類も豊富だし、見ているのも楽しそうだとぼんやり考えていると、とおるくんはまるで芸術品のように完璧に整った笑顔で、さらりと言ってのけた。

「夫婦茶碗」

 その瞬間、妙な勘違いを起こした心臓は見事に爆発を起こした。そのショックで全身への信号も途絶えてしまったらしい。見事に固まって身動き一つとれない私は、しかし耳まですっかり熱くなっていた。首を動かすこともできずただ茫然と目の前の彼を見つめていると、とおるくんは悪戯っ子のように笑っては私を覗きこみ、小首を傾げて言った。

「一緒に使おうね」

 ──とおるくん、そういうとこある!


◇◇


 ショッピングモールから帰宅した今でも、私の頬は引き締まることを知らなかった。移動している車中でも、無意味に左右に揺れたくなるのをぐっとこらえながら、しかし相変わらずにこにこと上機嫌な笑みを隠すことなくさらけだして、かれこれ二十分は経過している。もしもこれがミュージカルなら、今頃間違いなくポップなイントロが流れ始めているに違いない。

「(お揃い。とおるくんと、お揃い。買っちゃったあ)」

 色違いのサイズが一回りずつ異なるお茶碗と、白を基調としたシンプルなマグカップを思い浮かべ、ますます笑みを深くする私に、とおるくんは何も言わない。むしろそれを眺めては、まるで陶酔感に浸っているように目を細めている。

「マグカップ、今日おろしてもよかったんだよ」

 そう言って私の顔を覗きこんでは頭を撫でるとおるくんは、おそらく帰りの車中で、私が早く使いたくて仕方がないとばかりにずっと紙袋の中を覗いていたことに気が付いていたのだろう。

 ローテーブルの上には、すっかり使い古されたマグカップが二つ並んでいた。どちらも柄は違えども、点数シールを集めてコンビニで交換してもらった景品で、ポップなくまが描かれている。それをとおるくんは意外と気に入っているらしく、私がお茶を淹れようとすると、自ら進んで棚から出してくるようになっていた。自分の家にはないものだから、どことなく新鮮らしい。

 ベッドを背に二人で並び、ラグの上にそのまま腰掛けていたものの、珍しくレモンをまとわせない紅茶本来の香りが部屋に広まり始めていた。相変わらずほわほわとした顔のまま、左隣の彼に、それじゃだめなの、と注意する。

「あれは、ちゃんと引っ越してから、あの部屋で使いたくて買ったんだから」
「そっか。うん、そうだね」

 小さく笑いを含ませた声は、砂糖を溶かしたように甘く響く。だからか何故か愛を囁かれたような気分になって、耳がくすぐったくなった。うん、と何かに掻き消されてしまいそうなほど小さな返事をしながら、火照る頬のまま小さく頷く。どきどきと高鳴る鼓動が、今日も彼への愛しさを主張した。だからだろうか、ただ隣に座るだけでは物足りなくなってきてしまっている。

 自分の手の甲を撫でて誤魔化そうとしてみるけれど、勿論効果は存在しない。なんだか動いていないと落ち着かない気分になって来て、マグカップを手にとっては一口紅茶を飲んでみる。そしてこっそり息を吐き出しながら、じっと水面を見つめた。何度か瞬きを繰り返してからカップを元の位置に戻し、そっと彼と視線を交える。目が合うだけで途端に顔が緩んでしまう私は、調子に乗っているのだろうか。

「ねえとおるくん。今日、たくさん買い物したでしょう? 二人で一緒に選ぶのって、すごく楽しいね」
「ちなみに僕は、君と一緒にいるときはいつも無条件で楽しいよ」
「そっ…!?」

 分かりやすく声が引っくり返ってしまった。お陰でとおるくんはけたけたと笑うから、私はまた素直すぎる喉を恨み、俯く。こんなんじゃ私は、二週間後から始まる生活で間違いなく死んでしまう。しかしどうしたことだろう、一向に肩の震えが止まない彼に、一つの仮説が浮かんできてしまった。

「ねえ。前々から思ってたんだけど、とおるくん、私で遊んでない……?」
「そんなことないよ」

 綺麗な笑顔で言われても、ちっとも説得力がないんですが。そう主張するかのように眉間に皺を寄せる私に気付いてか、彼はまるで飴玉でも拾うかのような軽いのりで、ひょいと私の左手をすくい上げた。突然の温もりに瞬時に上がる体温は、体内温度の許容範囲をつかさどるメーターが振り切れ、壊れてしまうようにさえ思える。

「あ、あの、と、とおるくん……!?」

 確かに隣に座ってるだけじゃ足りないと欲望が顔を出していたのは事実だけれど、いざ急に来られても、私はどう反応していいのか分からなくなる。心臓は、少しは休ませてくれと思っているに違いない。しかし私のような動揺とはまるで無縁とばかりの顔で、とおるくんはさらりと言ってのけた。

「今日はね、これを渡すつもりだったんだよ」

 これ、とは。ちっとも話の展開について行けない私にはちんぷんかんぷんな指示語だ。おまけに彼は私の左の手の平を上へ向けさせたから、どうやら手を皿代わりにして、何かを渡そうとしているらしい。そうこうしているうちにとおるくんはシャツの胸ポケットから何かを取り出すと、そのまま私の手の上に着地させた。彼の指先の影から姿を見せたそれは、銀色を身に纏った小さな金属のように思える。全体像を捉えた瞬間、あっ、と声が漏れた。それには、ありふれた形の鍵がひとつ、横になっている。

 この部屋のものでも、はたまたとおるくんの家のものでもないこの鍵は、一体どこのドアの恋人なのか。そんなこと、言われなくても分かってしまった。案の定彼は丁寧に、僕等の家の鍵だよ、と補足を付け足してくれるから、私の仮説は間違ってはいなかったのだと心が弾み出す。まるで宝石を眺めるかのようにじっと見つめてしまった。

 手の平の上にこじんまりと乗っていたそれはどこにでもありそうな鍵だったというのに、妙に光り輝いて見える。落とさないようにぎゅっと握りしめては、彼を見つめた。たったそれだけでしあわせを噛みしめてしまう単純な私は、それを顔に出さないでおくことなど最初から不可能なのだ。

「大事にするね!」
「うん。僕も大事にする」

 とおるくんは新居の鍵のことを言っているのに、まるで自分のことを言われているような感覚になってしまった。……ああでも、私のことを絶対に大事にすると、本当に言われたことがあったな。緩んでしまう頬は、どうあがいても喜びを隠すことができない。

 だけど彼もまた幸せを刻んでいるように笑ってくれているから、きっと同じ心を抱いているように思えてならないんだよ。だから勇気を出してその指先に触れるから、そしたら私のことを、ちからいっぱい抱き締めてくれますか。


20190412