目覚ましが鳴る前に夢から現実世界へ戻ってきたのは、間違いなく日常としてのタイムスケジュールが体の髄までしみ込んでいたせいだった。人はそれを体内時計というけれど、瞳を開ける前に分かる。もうすぐ起床の時間だと。
しかし下手に時計を見てしまえば、あと五分寝れたのに、という後悔の念が押し寄せるのは目に見えている。それに、もし三十分前後空いていたとしても、時計を見てしまったら最後、逆に時間が気になって眠れなくなってしまうことを分かっていた。
だから私はアラームが鳴らない限り起き上がらない。大丈夫、昨日の夜、目覚ましをセットしたことはしっかりと覚えている。何度も確認をした。ならばタイムリミットを主張されるまでもう少し、この心地のいい空間に包まれていたい。
さあまだ布団との時間を満喫するぞと意気込むように右へ寝返りを打っては、なぜ今日が平日なんだろうかと頭の隅でカレンダーを呪っていた。私は休日に、普段ならば起床している時間に目が覚めて、しかし二度寝を決め込むあの瞬間を、たまらなくしあわせに感じる人間だった。だからこそ、どうにかしてタイムマシーンに乗れないだろうかと現実逃避していると、ベッドの右側から、わずかながらにシーツの擦れる音がした。
「(…………なんだろう……?)」
ゆっくりと目を開けてみるも、コンタクトを付けていない今、裸眼で0.1も満足に見えない私では世界は全てぼやけて見える。だから結局のところ何も分からずまた眠りにつくのだろうと思っていたというのに、私が裸眼で判別できる距離を綺麗に保っていた人物のせいで、ただただ呆然とその彼と見つめることとなってしまった。
「あ。起きた。おはよう」
私を捉えた青い瞳は朝からやけに輝いていて、まるで宝箱の中を覗きこむ子どものような無邪気さを見せていた。しかし現状に頭がついて行かないせいで、投げ掛けられた挨拶に対応することができない。一人石のように固まっていると、まるで空気を読んだようなタイミングで、簡素な電子音が部屋中に鳴り響く。どうやらスマートフォンが、昨夜セットしたアラームを作動させたらしい。
とおるくんは朝っぱらからやけに弾んだ声で「すごいね。君は時間ぴったりに起きるんだなあ」と感心しているのかなんなのかよく分からない感想を口にしては、私の代わりに、起床時間を主張する端末を手にとった。すぐに電子音は消え去ったから、どうやら彼がアラームを止めたらしい。すっかり静かになったスマートフォンを私の枕元に戻すと、きっとぐしゃぐしゃになっているであろう私の髪を手ぐしで整え始めた。しかし今にも鼻歌でも歌いだしそうな彼とは対照的に、私の頭はひどく困惑している。
「と、とおるくん。もしかして、また寝てるとこ見てたの? いつから……?」
「さあ? 時計を見ていなかったから、分からないな」
そう言ってとおるくんはわざとらしくとぼけたふりをするけれど、これはつまり、時間が分からないほどの長い間、ずっと寝顔を見られていたということなのだろう。思えば彼はいつもそうだった。とおるくんは私が起きる前に、必ず目を覚ましている。
それならばそのまま二度寝なりなんなりすればいいというのに、彼は決まって私の寝ている様子を観察してくるからタチが悪い。寝ているときなんて、きっと間抜けな顔をしているに違いないというのに。
それとも逆に、間抜けだからこそ見ていて面白いということなのだろうか。しかし自分ですら把握していない一面を恋人に見られるのは、ひどく恥ずかしい。そもそも私は、どうして朝っぱらからこんなに体温を上げなくてはならないのだろう。彼と共に寝床へ着くと、いつもこんなことになっている。半泣きになりながら、もうやめてくれとばかりに顔を抱えるように手で顔を覆い隠した。
「恥ずかしいからやめてって、いつも言ってるのに……」
「恥ずかしがらなくていいって、いつも言ってるのに」
まるでオウム返しのように言ってのける彼に、返す言葉が浮かばなかった。なぜならこのやり取りも、もはやお決まりのものとなっている。だからこそ、今日もまた彼は間違いなく反省をしていないし、今後も同じことを仕出かしてくるに違いないということが分かってしまったのだ。そうこうしているうちにとおるくんは私の手を掴むと、何を言うでもなく顔から離させた。要するに、隠すなということらしい。
しかし用はもう済んだだろうに、温度を確かめるようにぎゅっと握りしめてくる彼の手は、一向に離れようとしなかった。一体どれだけ私の心臓に負荷を掛ければ気が済むというのだろう。
「だって、目が覚めて隣を見たらすきな人がいるって、しあわせなことだと思わない? 君の可愛い寝顔を見ていると、温かい気持ちになれるんだ。しあわせだなって、心から思うよ」
「(えっ)」
なぜ私は朝っぱらから、しかもこんなにも至近距離で恋人に口説かれているんだろう。刺激が強すぎて、眩暈が起こりそうになる。耳の下から発生した熱はそのまま全身へと瞬間移動した。限界を迎えそうなほど大きく鳴り響く心臓の音は、今にも胸を破裂させてしまいそうだ。
「あ、あ、あの……」
甘い台詞にすっかり脳は指揮経路を壊され、しどろもどろになる。口籠ってばかりいると、とおるくんは先程捕まえたばかりの私の手を自分の口元へと持って来ては、ためらうことなく手の甲に口付けた。ちゅっ、と響いた小さなリップ音が、私の頭を爆発させたのは言うまでもない。完全にとどめを差されてしまった。反射で、ひゃっと間抜けな声を出してしまった私の喉は、今すぐ責任を取って時を巻き戻してほしい。
「ねえ。それでも寝顔を見ちゃ、だめなのかい?」
「…………あの、だ、だめじゃ、ない、です……」
「うん、ありがとう」
曖昧な視力でも認識できるにこやかな微笑みは、やけに爽やかなオーラを纏っていた。
とおるくんは、とてもずるい人だった。あんなことを言われて、こんなことをされて、私が「いいよ」と言わないわけがないと知っているのだ。顔を耳まで赤に染め上げて、どうしようとうろたえて、だけど甘い言葉に喜んでいると、彼は分かっていた。ちょろい奴だと思われているかもしれない。現にこんな風に丸め込まれることなんて、今まで何度あっただろう。でもだって、隣に私がいたらしあわせだなんて言われたら、頷くしかないじゃないか。
──……ずっと前から考えてたんだ。と一緒に暮らしたいなって。
昨夜言われたあの言葉が、突然頭の中で響き渡った。なんでこんなよりにもよって、密着しているときに限って思い出してしまったのだろう。今は非常にタイミングがまずいというのに。お陰でつい、意識してしまう。
おまけに、つい先程までにこやかに微笑みかけていたはずの彼はやけに真剣な眼差しでこちらを見つめてくるものだから、心臓はまるで和太鼓のように大きく全身に響き渡っていた。しかも妙に真面目な声で、あのさ、と声を掛けて来るから、もしや同棲の件について触れられるのだろうかと緊張が走る。
「は、はい……!」
本人には一度も伝えたことはないけれど、時より見せる、彼のまっすぐな目がすきだった。だからこそやけにときめきを隠せない声は、緊張を身に纏って震えている。もしかしてこの流れは、今ここで返事を求められることになるのだろうか。だけど私個人の希望としては、せめてちゃんと髪を整えて、メイクをして、寝間着代わりのスエットではなくきちんとした洋服を着ているときに返事をしたかった。決してこんな、ベッドの中で二人揃ってだらけているときではなく。
ああでも、かしこまらない方が私達らしいのかもしれないとあっさり手の平を返していると、とおるくんは、ずっと気になってたんだけど、と勿体ぶるように前置きをする。それがやけにじれったくて心拍数を上げる私は小さく、うん、と返事をすることで精一杯だった。
早く、早く聞いてほしい。昨日の返事は? って。もう答えは決まってるんだよ。だから尋ねてきてくれたら、私、素直に答えるから。ああどうしよう、これ以上ないというほど心臓が騒がしい。寝起きだからか緊張しているからなのか喉の奥まで乾き切っている私に、とおるくんはついに口を開いた。
「今日は抱き着いて来てくれないのかい?」
「えっ? ──しっ、しません!」
昨日の今日でそんな失態を繰り返してはたまるかと即座に否定する私に、とおるくんは拗ねた子供のように不満ありげな非難の声を上げた。おそらく、私は寝ぼけたときに甘える妙な癖があるから、そのことを言っているのだろう。あまりに身構えすぎていたのか拍子抜けした私は、溜息をつきそうになる。それになぜか、妙に気まずい。
意識しすぎてしまったことを恥じながら視線を泳がせていると、彼はそんな小さなことには気に留めないとばかりに、ますます顔を近付けてきた。一度も逸らされることのなかった甘い瞳は、私をじっと見つめている。
「……じゃあ、これは? 嫌?」
とおるくんは囁くように尋ねてきたけれど、何を、とは言わなかった。なので彼が何を指しているのかが分からず、うーん、とどっちつかずの返事をしながら、ひとまず彼の頭を撫でてみる。とおるくんの髪はさらさらしていて、触っていて気持ちが良い。
くすぐったそうに目を細める彼にゴールデンレトリーバーを連想していると、目の前の彼はそのまま距離を詰め、軽く唇を重ね合わせてきた。すぐ離れたものの、その瞬間、私の頭は二次爆発を起こす。あっ、と間抜けな声を溢してしまった。彼が何を確認しようとしていたかようやく理解したものの、すっかり体温を上げた体が「落ち着かない」と叫んでいる。
まっすぐに彼を見つめ返すこともできず、すぐさま目を逸らしてみるけれど、どうにも緩んでしまう口元に自分自身気付いていた。なんとかして誤魔化そうと布団を口元まで引っ張り上げ、顔の半分を隠しながら呟く。
「お、おはようござい、ます……」
しかしどうしたことだろう。視力の弱い私に変なところで気を遣っているのかなんなのか、とおるくんは離れることなく、相変わらず至近距離のまま顔を覗き込んでくる。まだ何かあるのだろうか。どうにも耐えかねておそるおそる尋ねると、彼は寝起きだというのに鼻歌でも歌いそうな穏やかさで目を細めては、飽きることなく頭を撫でて言った。
「今日もかわいいなあと思って」
前々から思っていたのだけれど、彼は私を褒めちぎらないと死んでしまう病か何かを患っているのだろうか。そんなことを真剣に考えてしまうほど、安室透という人物は、暇さえあれば私を甘やかそうとする。しかしその度私は顔を熱くさせてしまうのだから、いい加減勘弁してほしい。彼からの言葉は全て真に受けてしまう癖が、今でも消えてくれない。
「……あ、朝っぱらから、からかわないでってば……」
絞り出した返答は今にも掻き消されてしまいそうなほど弱々しい。そんな私の頭を撫でるとおるくんは、そんなことないよ、とやけに弾んだ声で言う。なんだか楽しそうだ。
彼はそのまま起き上がることなく頬杖をつき、ますます私を観察するかのようにじっと見つめて来ている。彼は寝るとき服を着ないから、肌が視界に入ってますます落ち着かない。視界はぼやけているというのに、褐色のせいで、布団に馴染んで背景と一体化してくれないのだ。
「……な、なに……?」
どうにも飽きる仕草を見せてくれないことに耐えかね再度声を掛けると、彼は相変わらず明るい声で、なんでもないよ、とにこやかに答えた。何もないなら見ないでほしいという私の心の声はきっと彼ならば拾い上げているだろうに、一向に気付いた素振りを見せてくれないから厄介だ。
「なんかとおるくん、朝からテンション高くない……?」
「そう? でも、うん。そうかもね。昨日はよく眠れたし」
「そ、そう。よかったね」
普段はよく眠れてないのだろうか。頭の片隅でそんなことを考えるも、今下手なことは言わない方が賢明だと蓋をした。そして無難な返答をする私に、彼は何故か、ますます上機嫌に笑みを深くする。
「うん。……ふふ。なんだか楽しいね」
「私は恥ずかしいよ……」
どうにも耐えかねて布団の中へ頭の先まで入り込むと、ああ照れちゃった、とにこやかな声が聞こえてきたからきっと彼は反省していない。それどころか彼は台詞のとおり、きっと心底この状況を楽しんでいる。つまり私は、朝っぱらから遊ばれているという訳だった。
「シャワー浴びてくる。も、出社までまだ時間あるだろう? ゆっくり起きておいで」
そう言って彼は頭の上に被っている布団をぽんぽんと撫でてきた後、ベッドシーツが擦れる音とスプリングの軋む音を生み出した。ついでに駆け寄る小さな足音が数回と一緒に、元気な犬の鳴き声がベッドの下から聞こえてくる。きっとハロが、目を輝かせて朝の挨拶にやって来ているのだろう。
「おはようハロ。朝から元気だなあ」
とおるくんの反応から全てが分かる。予想通りだ。だけど明らかに離れてしまった音源が、少し淋しかった。自分から恥ずかしいと逃げておきながら、勝手なことだとは分かっている。昨日昔の夢を見たからか、一緒に暮らそうと言われたからか、どうにも心が落ち着かない。独占欲が顔を出した。
「……あ、あの!」
「ん?」
慌てて上半身を起こし声の位置から彼がいるであろう場所を見てみたものの、相変わらずピンボケしたカメラのような視界は何も識別することができない。ベッドの片隅に追いやっていたメガネケースから慌てて中身を取り出し耳に掛ける。そして髪がぼさついているような気がして慌てて手ぐしで整えて、朝一ということもありなかなか声が出ない喉をわざとらしく咳払いして言った。
「と、とおるくんも、きょ、今日もその……か、かっこいいよ」
こんなこと、面と向かって言ったことがなかった。なるほどこれは思っていた以上に恥ずかしい。みるみるうちに顔は熱くなってしまうし、緊張のあまり口はうまく動かない。おまけに本人の顔すら見れなくなって、俯いたまま口走ってしまった。こんなことを、彼は日常会話に織り交ぜて私に言ってきていたのか。
しかしとおるくんもジョークか何かだと適当に受け流して予定通りシャワーを浴びてくればいいものを、どうしたことか一切その気配を見せてこない。むしろ何を思ったか、彼はバスルームとは正反対に位置するこちら側に再び足を踏み入れ、やってくるではないか。顔を伏せたままでも、視界の端に彼が入ってきていることには気付いている。耳の後ろがすこぶる熱い。おまけに背中の中心も、まるで火が燃え広がっているような感覚に捕らわれてしまった。
「──それ、ほんとう?」
私の視界に入るように膝を折り、しゃがみ込んだとおるくんは、下から覗き込むように見つめている。その目は、逃げずにきちんと答えてねと言っているような気がした。ますます体温を上げられた私は、つい顔を逸らしたい衝動に駆られてしまう。
「と、とおるくん。シャワー浴びて来るんじゃなかったの」
「そんなものよりとても重要な証言が飛び込んできてしまったから、本音なのか冗談なのか、探偵として確かめないと」
「それ探偵関係ないよ……!」
即座に否定したものの、とおるくんは、そうかな、なんておちゃらけるようにへらりと笑った。なんだか妙に楽しそうに見えるのはなぜなのだろう。彼はそれ以上何を口にするでもなく黙り込み、微動だにせずじっと私に視線を集中させている。無言の圧力が、ますます体温を上昇させた。
「そ、その。ほら……」
どうにかして誤魔化せないものかと頭をフル回転させてみるも、高速で心臓のポンプを起動させることに全身が集中しているらしく、まったく脳は働かない。とおるくんからのまっすぐな視線は一度も途絶えることなく注がれ続け、根を上げたのは案の定私の方だった。
「…………わ、私、とおるくんに嘘なんてつかないよ……」
絞り出した声は随分と頼りない。座り込んだまま自分の膝をじっと見つめていたものの、どうにも五月蝿い心臓のせいで落ち着かなかった。自分の手を胸の前で握りしめ、無意味に右の親指で左の手の平を擦りつける。顔は、にやけたいのか緊張したいのか、よく分からなかった。ひとまず目のやり場に困ったことを指摘すべく、おずおずと口を開く。
「も、もういいでしょ……? だからその、は、早く服着て……」
「下着は履いてる」
「そういう問題じゃなくて……!」
あまりにもあっけらかんとした彼の返答に、間髪入れずに突っ込んでしまった。まるで、こんなにも意識してしまう私のほうがおかしいと言われているような気分になる。まともに動かない頭は決死の思いで、風邪引いちゃうよ、というなんとも的外れな返答を生み出した。
「風邪? 風邪ねえ……」
「だ、だから、とおるくん、早くシャワー浴びたほうがいいと思うな。ほら、頭もさっぱりするし、うん、それがいいよ!」
彼からの反応を聞くのが怖くて、塞ぐように声を被せた。それはまるで早送りにしているかのように、息継ぎすら存在しない。とおるくんは私の勢いに圧倒されながらも、不満ありげとばかりな声で「ええ? でも……」と口にしては食い下がってくる。
しかし私はそれを拾い上げることなくベッドから降り、彼を180度回転させ体の向きを変えると、そのまま大きな背中に手の平をついて前へ押す。ほら立って、と半泣きになりながら催促すると、とおるくんは渋々なのか流れを読み取ったのか、足の裏を畳へつける。それを確認した私は体重を前へ移動させては、強制的に舵を取った。
「ほ、ほら、早く早く!」
「はいはい」
いつの間にか笑いをこらえるような声を出すようになっていたとおるくんは、すっかり面白がっている。動揺していることを悟られていることが恥ずかしい。熱が下がらない顔に手を焼きながら、半ば押し込むように恋人を脱衣所に放り込んだ。そしてダイニングとの間を締め切るようにドアを閉めたところで、ようやく緊張から解放されたことへの安堵と疲労から、重い溜息をつく。
なんだか、朝からどっと疲れた気がする。
私はこれから仕事なのだけれど、きちんと業務をこなすことができるのだろうか。週の始めから、どうにも集中力が続くか自信がないのだけれど。妙なミスを連発してしまいそうだと頭を抱えていると、唐突に、先程閉めたはずのドアが隙間を生み出していることに気が付いた。勿論きっちり閉めたと記憶しているのに何事かと凝視していると、この家の主が、ねえ、なんてかわいく呼び掛けながら、ひょっこり顔を出してきている。
「な、なに? どうしたの……?」
首を傾げ、はたから見たらかわいらしい顔をしてきているというのに妙に身構えてしまう私は、長年の付き合いからなんとなく展開を察知していた。今にも背を向けてこの場を離れてしまいたくなるのをこらえながら、じっと彼からの返答を待つ。心拍音が緊張を主張する私とは対照的に、とおるくんは相変わらずけろりとした顔で言った。
「も一緒に入る?」
予想通りの発言に、しかし私の顔はみるみるうちに熱くなる。ようやく体温が落ち着いてきたと思っていたのに、なんということだ。金魚のように口をぱくぱくさせながらも、しかしなかなか声が出てこない。それが、彼に動揺を晒しているかのようで恥ずかしかった。
「そっ、そん……! 朝っぱらから、何……!」
「朝じゃなかったらいいんだ?」
クスクスと笑うとおるくんに、やってしまったと自分の舌を呪ったのは昨夜に続き二回目だ。時間があればお供したとでもいうような発言に、耳まで熱くなってしまった。また言葉を間違えてしまったことが、学習能力のなさを物語っている。これ以上何か口にすれば、ますます墓穴を掘ってしまうような気がして口をつむいだ。
もう彼を直視することもできず顔を熱くしたまま目を伏せていると、とおるくんは「ごめん、からかいすぎた」と謝罪の言葉を投げ掛けてくる。不貞腐れた私は何気なく視線を彼にぶつけてみるも、しかしその顔は、相変わらず面白がっているようにしか見えなかった。
……ちっとも反省していないじゃないか。
眉間に皺を寄せていると、そんな顔しないで、と眉を下げて笑いながら頭を撫でられた。
◇◇
ダイニング・テーブルに置かれた朝食は、まるで一流ホテルに出て来る朝食のようだった。一目見ただけで整った味を連想した私は、おいしそう、と小さく呟く。
レタス、トマト、アボガド、コーンに海老と、やたらおしゃれなオーラを感じる色鮮やかなサラダには、カッティングされたチーズが乗っていた。コーンポタージュスープはやわらかな湯気を立て、ヨーグルトにはブルーベリージャムが彩っている。これも彼お手製のジャムであることを私は知っていた。
そしてなにより、この中央に置かれたお皿がすごい。イングリッシュ・マフィンの上にベーコン、ポーチドエッグ、オランデーズソースが乗っている。エッグ・ベネディクトなんて店でしか見たことがなかったがために、つい食い入るように見いってしまった。そんな私に気付いてか、それを調理した張本人は花が咲くような笑みを浮かべている。
「ありがとう。少し予定を変更してみたんだ。大して手間はかかってないけど、おしゃれに見えるよね」
「うん。すごい……」
そう言って、相変わらず芸術品を観察するかのようにテーブルの上に視線を注いでいる私は、これは家で作れる代物だったのかと半ば感心していた。はー、と感嘆の声を漏らす私をよそに、彼はご満悦の様子で紙パックのオレンジジュースをグラスに注いでいる。昨日一緒にスーパーで買い込んだものだった。
「そうだろう? 僕は単純な男だから」
「そうなの……?」
何かいいことあったのかなと頭の片隅で考えていると、調理した本人は、「あれ、分からない?」と上機嫌な明るい声で尋ねてきた。しかし分かるも何も、私に自分と同じレベルの洞察眼があるだなんて思わないでほしい。並々注がれたオレンジジュースを私の手元へ置く彼を見つめてみるも、やはりちっとも見当がつかず、首を傾げるしかない。するとその視線に気付いたとおるくんは、これまた爽やかに微笑んで言った。
「すきな人に褒められたら、僕も調子に乗るんだよって話」
「うぐっ」
喉に何かが詰まったような、変な声が出た。思わず右手で口を押えながら背中を熱くしている私とは対照的に、とおるくんは涼しげな笑みを浮かべて、まあ座りなよ、と着席を促す。どうにも釈然としないものの、このまま立ちっぱなしでいるわけにもいかず、そっと椅子を引いた。そのまま腰を落としたものの、正面に座るとおるくんの顔は見れない。なぜなら彼は、まるで映画のワンシーンを振り返っているかのような弾んだ口調だったからだ。
「もう一回聞きたいなあ。“今日もかっこいい”って台詞」
「……い、言いません」
しどろもどろになりながらも必死に断る私に、とおるくんはわざとらしい非難の声を上げた。
「どうして? もうかっこよくない?」
「──そ、そんなことないよ!」
つい間髪入れずに否定してしまったものの、またやってしまったと後悔したのはいうまでもない。現に彼は、ふうん、とどこか満足気な様子で頬杖をついている。
「“そんなことない”んだ?」
「……う、うん……」
「ふうん」
意味深な笑みを浮かべるとおるくんがにやにやと私を眺めているせいで、これ以上ないほどの居心地の悪さを感じている。あんなこと、言うんじゃなかった。わざとらしく咳払いをしてオレンジジュースを一気飲みする。そして半分ほど飲み干したところでグラスをテーブルへと戻した。そんなことよりも、大事な話があるのだから。
身を引き締めようとピンと背筋を伸ばしたものの、まるであちこちを走り回ってきたように心臓の音が五月蝿い。お陰で、あまり集中できそうになかった。
「……それで、とおるくん。あの、き、昨日の話なんですが」
「ん?」
話を振るのがあまりに唐突すぎただろうか。とおるくんは、何の話と言わんばかりに私を見つめている。しかしこちらから声を掛けておいてなんだけれど、はっきりと口にするのはどうにも体が固くなってしまう。お皿の上に鎮座するサラダへと視線を泳がせた。
「あの、い、一緒に暮さないかって、やつ、です」
「……ああ。うん」
そんなこと言ったなとばかりの淡泊な反応に、あれ? と小首を傾げた。あまりにも薄いリアクションに、もしかして私はまた対応を間違えてしまったのかと不安に駆られてしまったのだ。
「えっ。もしかしてあれ、冗談だった……?」
「いや、そんなことはないよ。ただ、思ってたより返事が早かったなと思って」
せめてもう二、三日は掛かると思ってたから。そうあっけらかんと言ってのけたとおるくんは、私が都度臨機応変に即答していくタイプではなく、一度受け止めて時間を掛けて答えを出すタイプだと知っていた。だからこそ、翌朝に話題に出してくるとは予想していなかったのだろう。
しかしいくら私でも、あまり先延ばしにするべきではない話だということくらい分かっていた。だからこそ、テーブルの下で自分の手を握りしめながら、「あの」と自信なさげに切り出す。
「わ、私も、とおるくんと一緒に、く、暮らしたい、です」
「本当?」
「う、うん」
必死に頷くことしかできない私は、きっと語彙力の著しい低下が発生している。なぜだかどうにも、言葉が浮かんでこないのだ。しかし明るい表情を見せた彼に、ほんの少し肩の荷が下りた気がした。その笑顔がなんだかくすぐったくて、足の指先をこっそり擦り合わせる。
「じゃあ、いくつか部屋の候補探しておくよ。こういうところがいいっていう希望はある?」
昨日は「今すぐの話ではない」と言っていたのに、と思ったものの、急に現実味を帯びた話題への発展には、つい口元が緩みそうになる。お風呂とトイレが別だといいな、と呟くように答えて、またグラスを手に取った。
ゆるやかな角度をつけて柑橘の酸味を喉に流し込んだものの、未だに引き締まらない頬に気付いていた私は、迷うことなく再度傾ける。主食にはまだ手を付けていないというのに、オレンジジュースだけはすでに三分の二減っていた。
「あ。でも、私がここに来てもいいよ。とおるくんもお金掛かっちゃうし……」
このアパートが同棲可の物件かどうかは知らないけれど、もしも問題ないならば、住み慣れたところのほうが、何かと都合が良いような気がした。ここには行き慣れたスーパーもあるし、土地勘もある。しかし一方のとおるくんは最初からその考え自体を持ち合わせていなかったのか、うーん、とぎこちない言葉を挟んだ。
「確かにそれが一番手っ取り早いけど、セキュリティもちゃんとしっかりしているところじゃないと、安心して君を住まわせられないからね」
「そんな大袈裟な……」
過保護な親じゃないんだからと苦笑する私に、とおるくんは冗談を一切含まない顔で言った。
「二年前、君の身に何が起こったのか思い出してください」
「あっ。はい。すみません」
それを引き合いに出されては、私はもう何も言えなくなる。きっと彼は、付きまとい被害にあっていたあのことを言っているのだろう。すっかり小さくなってしまった私に、とおるくんは「そういえば」と思い出したように続けた。
「今の職場、緑台駅だよね? 出来るだけ通勤時間が掛からないところで探して送っておくから、時間があったら見ておいてくれる?」
「う、うん」
「よろしく」
そこへ、アンッ! と、私に変わって元気よく返事をしたのはハロだった。つい先程まで、彼はフローリングに置かれた器に盛られていた朝ごはんに食いついていたはずなのに、今では真っ白な尻尾を大きく左右に振ってこちらを見上げている。ふと皿の中を見てみると、ドッグフードはまだ残っているようだった。いつもならば完食するまで夢中になって食べていると言うのに。まるで自分のことを忘れないでくれと会話に入って来たかのようなタイミングに、とおるくんと顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。
「心配しなくても、お前も頭数に入ってるからな。当たり前だけど、ペット可の所で探すから」
頭を撫でられ嬉しそうに目を細めるハロは、先程よりもスピードを上げた尻尾が、千切れんと言わんばかりに左右に揺れていた。それを見たとおるくんもまた緩んだ笑顔を見せていて、私までつられて口角が上がってしまう。
「ほら、後で遊んでやるから、先にごはんを食べるんだぞ」
「ふふ。なんだかとおるくん、ハロのお兄ちゃんて言うよりお父さんみたいだね」
「ん?」
きょとんとした目がじっと私を見つめた後、彼はおもむろに横に目を逸らして「まあ、そうかもしれないね」と答えた。
「ハロは、僕らの子どもみたいなものだって思ってるから」
ぼくらの、こども。首の後ろに火を点けられたように一気に熱が体中を駆け巡る。僕らの、というのは私ととおるくんという認識でいいのだろうか。合っているのだろうか。そんな、どこか愛しさが含ませた目で突然そんなこと言われても、どう反応していいのか分からない。
「……あっ。う、うんっ」
ぎこちなく頷いてそのまま俯いたものの、どうにも不自然であると言うことは自分でも分かっている。そして彼がそんな反応を見逃すはずがなく、少し間を置いて遠慮しがちに尋ねてきた。
「重かった? それとも、ハロが子どもじゃ嫌?」
「う、ううん!」
必死に否定するものの、顔に集中する熱が邪魔でうまく笑うことができない。じんわりと滲みそうになる視界に困惑しながら、思い出したようにナイフとフォークを手に取った。
「……うれしい」
小さく小さく呟いてすぐ、逃げるように「いただきます」と口にしては、とろとろの黄身にナイフを突き刺した。そのままパン生地までナイフを通し、一口サイズをこしらえたあと、たちまち溢れ出るそれをたっぷり絡めたまま頬張る。こんな、まるで言い逃げをしたかのような私に、とおるくんは何も言わない。ただじっと視線を注ぎ続けては、小さく笑うように言った。
「そっか」
優しい声は独り言だったのか、それとも私への返事だったのか分からない。彼はそれきり何も言わず、同様に朝食を取り始めた。珍しく会話のない食卓なのに、こんなにも温かくしあわせな空間なのはなぜなのだろう。タイミングを見計らってこっそりとおるくんを盗み見ては、すぐに手元のナイフへと視線を落とした。
「……おいしい」
溢すように口にした声を、しかし彼は拾い上げた。よかった、と穏やかな空気を身に纏い返された、たった一言の言葉に、なぜか私は頬が緩んでしまう。だってとおるくんと一緒にいるといつも嬉しさと愛しさが混ざり合って、つい笑顔が零れてしてしまうの。
20190412