なんだか目が張り付くように乾くから、コンタクトを付けたまま寝てしまっていたらしい。ぎゅっと目を瞑った後、瞬きを繰り返した。ぼんやりとする頭のままゆっくりと状況を確認する。妙にふわふわして寝心地がいいと思っていたら、どうやら布団の上で横になっていたようだった。そしてやけに天井との距離が近いから、どうやらここはベッドらしい。
何気なく右へ首を向けると、間隣りに転がっているスマートフォン──私がいつも使用しているカバーが付いているから、きっと私のだろう──を発見した。画面は下になっているから、それ以外の情報は分からない。もしかしたら寝落ちして、手から転がり落ちたのだろうか。
ありえるな、と頭の隅で考えつつ、ふとその携帯機器の向こう側に人の気配を察知した。ゆっくりと視線をその人物へと移したところで、見慣れた金髪と褐色の肌をした恋人の後ろ姿を発見する。こちらには背を向けていた。どうやら彼はベッドを背もたれ代わりにして床に座っているらしい彼は、白のパーカーを着ているらしい。しかしフードより下はベッドの死角となっているせいで、それ以外のデザインはこちら側からは確認できなかった。
そういえばこの空間は、天井の色と言い、窓に掛けられたカーテンといい、今ではすっかり見慣れたとある和室を連想させる。見慣れたとは言っても、それは私が借りている部屋ではない。付き合いだして二年になるとおるくんが借りている、小さなアパートのことだった。しかしここは、私が彼と恋仲になって初めて足を踏み入れたあの部屋ではない。彼はあれから一年後、この米花町に引っ越してきたのだから。
「(……なんだ。つまり私は、まだ夢を見てるのかあ……)」
付き合い始めたばかりの頃の夢を見ていたかと思っていたのに、こんなにも急に場面が切り替わるだなんて。もう少し、物語性というものを重視してほしい。急に一年後の設定にされても、頭がついて行けるはずがないのだ。まあ、夢に現実的なものを求める方が間違いなのだけれど。
「………………」
彼の首の付け根の辺りをじっと見つめてから向日葵色をした髪へと視線を移し、とおるくん、と心の中で呼びかけてみる。しかし勿論彼は超能力者ではないのだから、そんな声を拾い上げるわけもない。うんともすんとも言わない彼の代わりに、紙が擦れるような音が聞こえた。もしかしたら彼は今、本か雑誌を読んでいる最中なのかもしれない。
それが妙にさみしくて、相変わらずベッドに横になったままゆっくりと右手を伸ばし、フードの下へ指先を忍ばせた私は、彼の背骨の辺りをなぞってみた。しかし突然触ったというのにとおるくんは肩を震わせることもないまま、まるで声でも呼び掛けられたかのような素振りで上半身を捻じらせ、振り返る。少し、拍子抜けした。
「──ああ、起きた?」
その声の主は、目を細めて笑っていた。私はそれをじっと見つめては、ぼんやりとする頭のまま顔を伏せる。未だに瞬きを抑えられない目がしぱしぱした。眠いのか、まだ目が乾いているのか、どちらの設定なのだろう。
「うーん……」
しかし私の口から零れた寝ぼけた声は、まだ起きていませんという小さな主張だった。なぜなら、もう少しこの夢見心地を味わっていたい。そう願ってしまったのだ。だってこんなにも愛しい恋人が出てくれる夢なんて、早々見れるものではない。
ここで起き上がったら、現実世界の私も目が覚めてしまうような気がした。夢の続きは見ようと思っても見れるものではないから、できることなら一秒でも長く甘い夢に浸っていたいのだ。
「体、痛いところはない?」
「うん……」
なぜ彼がこんなことを聞くのかさっぱり分からないけれど、よくよく考えてみたら夢なんてそんなものだ。冷静になって考えたら首を傾げてしまうようなことばかりが起こる。だから、特に彼に理由を尋ねることはしなかった。もしかして、現実の私はとんでもない寝違え方をしているのだろうか。
そうとも知らないとおるくんは、何気なく手を伸ばしては私の髪を梳かすように頭を撫で始める。お陰で私は、ふわふわとした空間に一人浮かんでいるような気分になっていた。なんだか安心しきってしまって、また眠りの世界に誘惑されているようだ。夢の中でも眠いだなんて、自分が思っている以上に睡眠不足なのかもしれない。そもそも夢の中でも眠れるものなのだろうか。
だけど今はそんなことよりも彼にもっとずっと触れていてほしくて、相変わらず起き上がらないまま、膝と足を使ってベッドの端すれすれへと移動する。あと少し体を傾ければマットレスから落ちてしまいそうなこの場所は、しかし圧倒的に彼との距離を縮ませていた。満足した私は、催促するようにじっととおるくんを見つめる。すると彼はおかしそうに笑いながらも、また髪を撫でてくれた。それがたまらなく嬉しい。
「(……しあわせ)」
こんな夢なら、一生覚めなくていい気がする。そんな調子のいいことを考えた私は、頭を撫でていた彼の右手を掴まえると、手の平を合わせながら、お互いの指を絡ませるように握った。繋いだ手を見つめているだけで、分かりやすく頬が緩む。だけど何気なく視線がぶつかった瞬間、急に彼の体温が恋しくなった。
「……とおるくん」
思っていたより、甘ったるい声が出た。空いていた右手をとおるくんへと差し出すと、一瞬目をまん丸くした彼は、ふいにはにかんだ。なんとなく言いたいことは察してくれたようで、ベッドに手をついて顔を近付けて来る。ギシリとスプリングが軋む音がした。距離が縮まるにつれて感じる彼のぬくもりを逃がさないように、彼の背中へと腕を回す。とおるくんは風呂上りなのか、わずかに石鹸の香りが鼻をくすぐった。心臓が騒ぎ始める。
「……とおるくん。あのね」
「うん?」
「夢なのに、すごくどきどきする」
何気なく口にしたこの発言に反応した彼は、私の顔を覗きこんだ。そのきょとんとした大きな瞳は、分かりやすく彼の心情を表している。しかし二回続けて瞬きしたと思ったら彼は、僕もだよ、と小さく笑って満足気に目を細めた。その言葉にすっかり心を温かく溶かされた私は、ふふ、と上機嫌に口角を上げる。そっか、やっぱりこれは夢なんだ。そう思った。
自分から抱きしめてほしいとねだるだなんて、現実だったら絶対にできないことだ。しかしここは夢の世界なのだから、普段恥ずかしがってできないことも、それを考慮する必要はない。いつのまにか私は、躊躇なく行動に移せる夢の世界を謳歌していた。
夢は起きたらすっかり内容を忘れてしまうけれど、今回ばかりは絶対に何が何でも覚えていよう。そうだ、起きてすぐにメモを取ることにしよう。そう心に誓う私のこめかみの辺りをとおるくんは優しく撫でるから、まるで寝かしつけられているような気分になってくる。どんどん重くなってくる私の瞼は、明らかに瞬きの回数が増えていた。もしかしてこのまま眠れば、現実世界で目を覚ましてしまうのだろうか。
確か今日は久しぶりにとおるくんの家に泊まることになっていたし、そうだ、ハロの散歩がてら新しいリードを買いに行って、一緒にスーパーに行って、夕飯に二人でオムライス作って、お風呂に入って部屋でくつろいでいたら、そこで体力が切れてしまって……。
「(……あれ……?)」
どうしたことだろう。これはこれから起こる未来のことのはずなのに、やたら鮮明な記憶が蘇ってくる。まるでデジャブのようだ。ここまではっきりした映像が脳内で再生されているというのに、どうしたことかその後の記憶が一切ないものだから、一抹の不安がよぎる。これはもしかしたら、夢ではないのではないか、と。
そういえば、夢の中で五感は感じるものなのだろうか。石鹸のにおいとか、手の平が汗ばんだ感じとか、心拍数が上がる感じとか、こんなにもはっきりと認識できるものなのだろうか。いや、少なくとも私の記憶の限りでは、これまで一度たりともそんなことは起こっていない。──と、いうことは、やはり。
甘い夢心地から、一気に頭が醒めてしまった。すっかり私の首元に埋れていた彼の頭を引き剥がすように肩を掴んで引きはがし、再びその人物の顔を見上げる。透き通った青い瞳は、きょとんとしながら私を見つめていた。よくよく考えてみると、やはり夢と称するには明らかに映像がはっきりとしている。
先程とは違う理由で心臓を走らせながらそっと彼の頬に触れ、そして指先から伝わる彼の温度を確認した。そして何より、いくら触ってもざらつきも凹凸も一切ない、きめ細やかな肌質。数秒間見つめ合った後、私の頭は爆発した。
「と、とおるくん!?」
えっ本物、という動揺の声を溢しながら、やはりこれは現実での出来事だったのだと把握して、顔が熱くなってしまった。改めて状況を把握しようと自身の周辺を見回すと、明らかに自分の体よりも大きいスエットを着こんでいて、袖が余っている。ズボンに関しては分かりやすく自分の脚よりも丈のほうが長く、足首の辺りで皺になって折り重なっていた。そういえば寝間着代わりにとおるくんの服を借りたことを思い出す。つまりこれはやはり、正真正銘の現実世界というわけだ。
ということは、私は夢を見ていると勘違いして、彼に抱き着いていたということになる。じわじわと押し寄せてくる羞恥の波が頂点に達するまで、そう時間は掛からなかった。顔どころか足の指の先まですっかり火照らせた私は、今も左手が繋がれていることに気付き、慌てて解いたのは言うまでもない。
そしていつまでも寝っころがっている訳にもいかないと上半身を起き上がらせ、なんとなく正座に座り直して愛しい恋人に向き合った。
「ご、ごめんなさい。私、すっかり寝ぼけてて」
「そうなの? 単純に、甘えてくれているんだとばかり思ってたんだけど」
その言葉に、背骨から炎が発生したような気がした。どんな顔をしたらいいのか判断がつかなくなって、分かりやすく視線を泳がせる。なんと返すべきか即座に答えが出て来ず、口籠った。
いつだったか、とおるくんが上機嫌に教えてくれた。現実と夢の境界線にいるとき、私はまるで現実のことではないような気分になって、体温に甘えるようにひっついてきたり、猫撫で声で彼の名前を呼んだりすることがある、と。つまり今回のことも、これが初めてというわけではなかった。しかしだからと言って、慣れるものでもない。主に、私の心臓が。
いつだってこれを“甘えている”と称してくるとおるくんは、どうやらこの行動を好意的に受け取ってくれているらしい。呆れられたり幻滅されていないだけよかったと安堵するべきなのかもしれないけれど、どうにも記憶が曖昧な自分には恥ずかしいことこの上ないのだ。そしてこの癖は簡単に直ってくれないらしく、一向に改善しようとしない。
まるで、自分は楽しく酒を呑んでいた記憶しかないのに、後日人伝えで「色々やらかしてしまったらしい」と聞いて死にそうになるような感覚だ。いや、実際私はそんなことを仕出かしたことは今のところないから、これはあくまで想像の話なのだけれど。
「(でもとおるくんは、嬉しいのかな)」
甘えてくれているという表現をした彼に、そんなことを思った。付き合いだして二年経つ今でも彼に恋心を隠しきれないせいか、私はどうも照れてばかりで、いくらとおるくんが積極的に来てくれても、いつも顔を熱くしてばかりいるから。
どうしたものかと考えていると、まるで構ってくれと言わんばかりの犬の鳴き声が耳に飛び込んで来た。ふと見やると、寝室のちょうど出入口のあたりに真っ白な毛並みをしたそれが、ちょこんと座り込んでいる、
彼の飼い犬兼弟分であるハロは、この家に招き入れられた一年前と比べて随分大きくなったけれど、相変わらず小型犬のままだった。ハロは私と視線が合ったことに気付くと目をキラキラと輝かせ、一目散に駆けて来ては迷うことなくベッドの上に飛び乗ってくる。そして正座している私の膝の上に顎を乗せると、相変わらず忙しい尻尾は休む暇もなく左右に揺れていた。
その真っ白な頭を撫でながら「あ、あの。私、どれくらい寝てたの?」とぎこちなく彼に尋ねると、とおるくんはぼんやりと天井を眺めながら、二十分くらいかな、と答えた。私はそんなにも長い間、部屋の主を差し置いてベッドを占領していたのか。
「……あ、あの。とおるくん──」
顔を上げ目が合った瞬間、まるでフラッシュバックのように彼の肌を思い出してしまった。心臓が大きく高鳴ると同時に、沸騰した血液は全身を火照らせる。妙な夢を見たせいで、真新しい記憶も共鳴するように引きずり出されてしまったのかもしれない。お陰で、映像が頭からこびり付いて離れなかった。急に顔を伏せて黙り込む私に、彼は不思議そうに、「何?」と尋ねる。
「あ、いや。……ベッド占領して勝手に寝てて、ごめんねって話です」
気まずさがひょっこり挨拶に来たせいで、どうにも目を見て話せない。本当は今すぐにベッドから降りたほうがいいのは分かるのだけれど、膝でくつろぐハロの邪魔をするわけにもいかず、立ち上がることができなかった。そんな私に、とおるくんはけろりとした顔で言う。
「大丈夫だよ。それに、僕も本を読んでたしね」
その言葉に何気なくローテーブルの上を見やると、なるほど新書サイズの本を一冊発見した。しかし私が起きたこともあってかページは開かれておらず、表紙を上にして閉じられている。しかしこの表紙のデザインは見たことがある。発売されるといつも話題になる、有名なミステリー作家の新作小説だ。そういえば先日テレビで取り上げられていた記憶がある。どうにも頭を使うような話が苦手な私は、読み終ったら内容教えてねと、冗談交じりに彼にお願いしたことを思いだした。
「隣、いい?」
ふと、柔らかい声が聞こえてきた。声の主へと視線を移すと、とおるくんは私の返事を待つ前にベッドの隅に腰掛けてくる。それを見守りながら、うん、とぎこちなく返事をしたものの、はたして私に拒否権があったのかどうかもあやしい。そもそも隣に移動してきた後に私が答える必要性はあったのだろうか。いや、あまり意味はなかったのかもしれない。
そんなことを頭の隅で考えていると、とおるくんは優しい瞳に私を映し出す。そして「寒くないか」と尋ねては、私が布団も被らずに寝ていたことを気に掛けてきた。
夏は通り過ぎ、少しずつ秋色に染まりつつある今日は、昼ならばまだ汗ばむこともあるけれど、夜になると急に肌寒くなる。カーテンで仕切られた窓の向こう側の世界は月や星の光が空を彩り、車のエンジン音ひとつ聞こえない静寂に包まれていた。
「う、うん。大丈夫。ありがとう」
小さく頷くと、とおるくんは、そう、と小さく答えた。それ以上は何も言わない。だからこそ、私は膝の上でぎゅっと自分の手を握り締めていた。寝ぼけていたことや肌を重ねていた夢を見ていた罪悪感がみるみるうちに膨れ上がって、まるで、今にも破裂しそうな風船を抱えているような気分になっていたのだ。今は何か、なんでもいいから話していたい。この場を誤魔化したい一心で口を開いた。
「そ、そういえば、さっきとおるくんが夢に出てきたよ!」
全ての音を吐き出してから、話のチョイスを間違えたことに気が付いたのは言うまでもない。今一番触れてはいけない話題のはずだというのに、なぜ自ら口にしてしまったのだと自分の頭と舌を呪った。やってしまったと分かりやすく青ざめる私に、とおるくんは妙に興味を示したらしい。「へえ、どんな?」と何気なく尋ねられ、死を直感した。全身から汗が噴き出してくる。彼の視線から逃げるように目を逸らした。膝でくつろいでいたハロに構っている場合ではないと、そっと抱きかかえ、布団の上へと移動させる。
「…………内容までは、その……。忘れました」
「うん、嘘だね」
間髪入れずに見破ったとおるくんは、眩しいほどの笑顔を見せている。そして隙がない。洗面所にでも逃げ出そうと体重移動したところで見事に捕まってしまった。しっかりと掴まれた肩をそのまま引っ張られ、ソファーに座り込むようにとおるくんの膝の上に座り込む。そして、まるでシートベルトのように腕を回され、完全に捕獲されてしまった。
「誤魔化されると、逆に気になるな」
「そ、そんな、とおるくんに話すようなものじゃないよ」
「こらこら。忘れてた設定にするなら、ちゃんと貫き通さなきゃ」
またやってしまった。馬鹿正直な舌に封をするように、右手で口を押させた。素直なのは君の長所だけどねと笑うとおるくんは、明らかに私を逃がす気はない。爽やかな笑顔が逆に恐ろしかった。
「ツボ押しとくすぐり、どっちがいい?」
究極の選択に、私は思わず、ヒッと声を漏らした。
彼は健康通なのか単純に知識の引き出しが豊富なのか、手や足のツボを熟知しているらしい。以前興味本位でやってもらったときには、あまりの痛みに悶絶した。彼の力が強いのか、はたまた私の疲労がたまっていたのか、「目が疲れてるね」なんてにこにこと笑いながら足の裏を押した彼の姿が今でも忘れられない。あの日以来、ツボ押しという単語を聞くだけで恐怖心を抱く、一種のトラウマのようなものを植え付けられてしまった。
「な、なんでもない! 本当になんでもないです!」
「じゃあ、健康にいいけど痛いのと、呼吸困難に陥るくらい笑わされるのどっちがいい?」
「ど、どっちもいやだよ……!」
言い方が変わっているだけで、選択肢はちっとも変っていない。なんだかやけにテンションが高い彼は、一体どうしたというのだろう。まるで楽しいおもちゃでも見つけたかのように目を輝かせていた。
「(変なスイッチ押しちゃった気がする)」
こうなったら最後、彼は私が口を割るまで徹底的に、とことん追求してくる。いつだったかとおるくんは私のことを「気になったことはとことん追求しないと気が済まないタイプ」と称してきたことがあったけれど、それは間違いなくとおるくんも同じであると認識している。ああ、でも彼は探偵だから、一種の職業病のようなところはあるのだろうか。
とはいえこの状況、これまでにも似たことが度々起こったことがある。しかし毎度それに音を上げていたのは私だから、おそらく今回もそうなるのだろう。考えずとも分かるのが悲しい。ならば無駄な抵抗はせずに大人しく降参してしまえと、早々と白旗を上げた。
「……む、昔の夢」
「昔?」
「と、とおるくんと付き合い始めた頃の。多分、二年前って設定の夢だったと思います……」
「ふうん。……で?」
「え?」
素直に告白したというのに、一体何が不満なのだろう。決して嘘は言っていないというのに、まるで、まだ情報あるよね、とでも言わんばかりの問いかけだった。
「君が敬語になるときって、何かを隠したかったり、気まずく思っているときだよね」
「そ、そんなことは」
どうにも彼の目を見ていられなくなって、視線を泳がせる。まさか、あなたと初めて体を重ねたときの夢を見てました、なんて、口が裂けても言えなかった。そんなことになったら、私は間違いなく爆発してしまう。例えツボ押しされて痛い目を見ても、どれだけくすぐられて酸欠状態になろうとも、絶対に、これだけは守り通さねばならない。
じいっと穴が開くほど見つめる彼に、まるで心を見透かされているような気分になる。誤魔化すように、相変わらず尻尾を振ってくるハロに構うふりをした。
「……うーん。でもまあ君がそう言うなら、懐かしい夢を見ただけってことにしておくね」
彼は持ち前の洞察眼で何かを察したのだろうか。にっこりと綺麗な笑みを見せてくるとおるくんに、素直に頷くことができない。むしろ、ますます顔を熱くする私は居心地の悪さすら感じてしまう。お風呂に入ったばかりだというのに汗をかいてしまった。
これ以上この話を続けるのは非常によろしくない。どうにかして話題を逸らしたい一心で目を泳がせていると、ふと視界に入ったハロとぱちりと目が合った。
──これだ!
そう直感した私は、慌てて口を開いた。
「そっ、それにしても、とおるくん、毎日こんなかわいい子と一緒に暮らしてるだなんて、いいなあ。人懐っこいし、お出迎えもしてくれるし、もふもふしてるし、絶対癒されてるでしょう?」
真っ白でふわふわとした頭を撫でながら必死に口を動かすも、心臓のスピードにつられてか、どうにも早口になって仕方がない。これははたして効果はあるのだろうかと自分自身疑問に思うところはあるものの、しかしここまできたら貫き通さなくてはならないのだ。しかしあまりにも急な話題変換過ぎて、誤魔化す効果はあまり期待できないかもしれない。
「──じゃあ、一緒に暮らす?」
突然耳に飛び込んで来た彼の声に、私は一瞬息をするのを忘れてしまった。けれど、きっと私の聞き間違いだろう。そう結論付けたのは、あまりにも突拍子のないタイミングで聞こえたからだ。聞き間違いにしてはやけに明確に聞こえたけれど、笑いを一切含まない真剣な声に、少しどきどきした。
「(……びっくりした)」
一緒に暮らさないかと言われているように聞こえてしまったのだけれど、実際彼は、なんと言ったのだろう? 寝起きで素直に聞き取れなかったと答えるべきかと考えていると、しかしそうさせるより先に、彼が再び口を開いた方が早かった。
「……いや、ハロを口実にするのはちょっと違うな。君がもし、もっと僕と一緒にいたいと思ってくれているならってこと」
そう言って、彼は私の右手をとった。指先を包まれるように握られる。今まで撫でられていた手が突然なくなったことで、ハロは目をぱちくりとさせていた。きょとんとした目で私ととおるくんを交互に見つめている。そしてすっかり緊張を走らせた私は、彼の温もりを感じる右手を凝視した後、様子を伺うように顔を上げるしかない。頬が熱くてたまらなかった。
「と、とおるくん? もしかして、私の反応を見て遊んでるの……?」
「まさか。僕は本気だよ」
彼はその声同様、まっすぐな目で私を射抜いていた。この顔は、冗談なんて言っていないものだと知っている。もしかして、私ばかりハロに構ってもらっていたから、珍しく不貞腐れてしまったのだろうか。ただ、“一緒にいたい”という単語だけは唯一頭に残っていた私は、それを拾い上げて必死に言葉をつむいだ。
「わ、私、とおるくんと一緒にいるときは、いつだってすごく嬉しいよ」
「じゃあ、一緒に暮らさないか」
今度ははっきりと聞こえた提案に、流石の私も何かがおかしいと気付いている。相変わらず固い表情をしているとおるくんに、どうしたの、と小さく呟いた。だって今までこんなこと、冗談でも話したことなんて一度もない。
「……ずっと前から考えてたんだ。と一緒に暮らしたいなって」
突然の告白に、私に思考回路は遮断された。今彼は何を言っているのだろう。彼が生み出す文章は耳から受信こそしているものの、脳は正しく処理出来ていない。しかし心臓だけは何よりも先に理解したようで、ドッドッドッと大きな音を立てて体中に存在を主張している。
「君が今の生活を気に入っていることも、こんなことを急に言われても困るのは知ってる。でも、二人で一緒に部屋を借りて一緒に生活できたら素敵だなって、ずっと思ってたんだ」
氷が溶けるようにじわじわと言葉の意味を飲み込めてきた私は、少しずつ体温を上昇させていた。もう彼の顔は見れなくなって、ゆっくりと視線を手元に落とす。相変わらず握られた手は、離されることなく重なっていた。
──これはつまり。
「(同棲しませんかってことだよね……)」
まさかそんなことをとおるくんから言われる日が来ようとは、夢にも思ってなかった。金曜日は夜更かしして、お風呂に入るのも面倒臭がって、入ったら入ったらで髪を乾かすのが億劫になって、そのままテレビをつけて眺めていたらそのまま寝てしまっていた、ということなんてザラな、私のぐうたら生活がついに彼にバレてしまうのか。
だけど私も日中は仕事だし、とおるくんも探偵業で忙しそうにしているみたいだ。去年よりは大分落ち着いたみたいだけど、いつも朝早くから夜遅くに帰ってくることは変わっていない。だから一緒に住んだからと言って毎朝顔を合わせ、毎晩一緒に寝るということはできなさそうだ。でも、一緒に住むのとそうでないのは根本的なところで違う。何が違うと聞かれても困るけれど、きっと何かが今までと違う。例えば結婚を意識してしまうところとか。
「(……私の早とちりだって分かってるけど)」
とおるくんはそんなことまで考えて言っているわけじゃないと分かっている。でもとおるくんも三十だから、そういうことを考える歳でもおかしくない。私だってそうなったら素敵だなって思ってたけど、きっととおるくんはそういうことに興味がないとも思ってた。
それに今の時代、結婚だけが全てじゃない。しあわせの形はたくさんある。だけどそれをどう選んでいくのか、今、選ぶときになったということなのだろうか。
「別に今すぐにどうこうってわけじゃないから、少しだけ、考えておいて」
「……う、うん……」
「よろしく」
そう言って彼は視線を絡め取ると、軽く唇を重ね合わせた。すぐに離れたから、これは別にお誘いの合図ではなく、いつもの彼のコミュニケーションの一種なのだろう。
とおるくんと付き合い始めて分かったことがある。とおるくんはキスをするのがすき。久しぶりに顔を合わせたときも、何気なく目が合ったときも、寝る前も、起きたときも、別れる前も、彼はキスをねだってやってくる。
「今日は随分付き合わせてしまったから、疲れただろう? ほら、コンタクト取っておいで」
そう言って私の頭をひと撫でした彼に、私は遠慮しがちに頷いていた。全てがパンク状態で、何も考えられない。気が付けば私はぼんやりとしたまま、洗面所で鏡の中で見つめている自分と向かい合っていた。無自覚でコンタクトを外していたようで、目元には眼鏡が光っている。
「(とおるくんと、一緒に……)」
まさかこんなことを言われる日が来るだなんて、夢にも思っていなかった。だからか今でもまだ噛み砕けていない。もしかして実はまだ夢の中にいるのではないかと頬を抓って見るけれど、痛みはきちんと感じるから、やっぱりこれは現実のようだ。だからこそ、一体どんな顔をして彼の元へ戻ればいいのかが分からない。
「取れた?」
「ひっ!?」
突然の部屋の主の登場に肩を震わせ振り返ると、とおるくんは、そんなに驚くとは思わなかったと言わんばかりに目をぱちくりとさせていた。
「ごめん、大丈夫?」
「う、うん。ごめんね。ちょっとぼうっとしてて」
もしかしたらまだ眠いのかも。そう言い訳に捉えてくれるように祈った言葉を付け足すと、彼は疑うことなく、そっか、と頷く。嘘ついてごめんねと、心の中でこっそりと謝罪の言葉を送っておく。
「ハロは先に寝ちゃったよ。僕等も今日はもう寝ようか」
ね、と綺麗に微笑むとおるくんは、まるで先程のやりとりを忘れたように普段どおりを貫いていた。以前よりも無邪気に笑うことが増えたり、分かりやすく拗ねる姿を見せてくれるようにはなったけれど、マイペースなのは変わらない。同棲しようと言ってから数分も経っていないというのに、こんなにも飄々としていられるものなのか。自分勝手な恋心が少しもやついた。
◇◇
ベッドの壁側は、私の定位置だった。どこにいても、隅が一番落ち着く。一足先に布団に潜り込みふと右へ顔を向けると、彼は背中を向けたままベッドの隅に腰掛け、スエットを慣れた手つきで脱いでいた。ボクシングが特技と言う彼は、よくハロの散歩に走り込みをしたりトレーニングを重ねているらしい。
その甲斐あってか背中だけ見ても明らかに美しく引き締まっていて、間違いなく一日二日でできる代物ではなかったし、実際私は彼に出会うまで、シックスパックなんてものの実物は見たことがなかった。
とおるくんはつい先程まで身に着けていた上下のスエットを畳み、畳の上へ置くと、その途中ふと視線に気付いたのか、うっかり目が合ってしまった。
「ん? なに?」
「えっ!」
じっと盗み見ていることに気付いた彼に何気なく声を掛けられ、体を熱くしてしまった。まさか「あなたの体を見てました」なんて言う訳にもいかず、言葉を探してみたものの、どうにもうまい誤魔化し文句は浮かばない。視線を泳がせながら「ええと、ええと」と声を漏らす私に、遂に彼は噴き出した。呆気に取られる私に、彼は笑いを含ませながら「ごめんごめん」と謝ってくるものの、明らかに形だけを取っている言葉に頬を膨らませる。
「とおるくんひどい。絶対分かってて言ったでしょ」
「ごめん」
「もう知りません」
すっかり不貞腐れた私は素早く眼鏡を外しベッドの角に置いていたケースへ乱暴に戻した後、頭まで布団をかぶり、顔を隠した。そんな私に、彼は笑いながらまた繰り返し言う。ごめんごめん。布団をめくられる気配を察知して、ふいっと顔を壁側へ背けた。右隣からシーツの擦れる音がする。きっと彼がベッドの中に入ったのだろう。
「恥ずかしかったんだよね。機嫌直して。ね?」
「う……」
「一日の終わりに君の顔を見れないなんて嫌だな。どうしたら許してくれる?」
彼は私の機嫌を取るのがとてもうまい。背を向けてばかりの私の頭を撫でて、こっちを向いてくれと主張していた。すっかり普段と変わらない姿を見せる彼に思うところがあり、じゃあ、と、か細い声で言う。
「き、キスしてくれたら、いいよ……?」
心地よく高鳴る鼓動は、私を調子に乗らせてしまったようだった。だけど少しくらい、とおるくんも困ればいい。焦ればいい。そんな、ちょっとした悪戯心だった。
「いいよ。じゃあ、こっち向いて?」
「…………」
「ちゃん? さーん」
一向に反応を示さない私の背中に、とおるくんは冗談交じりに呼びかける。しかし、なんだか自分がとんでもないことを口にしてしまったような気がして、私は動けないでいた。だってこんな、あっさり了承されるだなんて思わないじゃないか。
存在が小さくなるように身を縮めていたものの、このままでは埒が明かないと勢いよく寝返りを打って、彼が何をする前に彼の胸元に抱き着いた。
「こらこら、離してくれないとキスできないよ」
明らかにまんざらでもない声で笑うとおるくんは、私の行動などお見通しだったのだろうか。大した驚きを見せず背中をトントンと優しく叩いた。
「や、やっぱり、いい」
「もしかして、自分で言って照れちゃったのかな?」
「ね、眠いだけです」
「ふうん、そう。眠いだけですか」
誤魔化そうと咄嗟に出た敬語は、動揺を隠そうとしましたと自ら言っているようなものだった。それをとおるくんも分かっているから、わざとらしく復唱したのだろう。ひっついている私の頭をひと撫でした後、簡易なリモコンを手にボタンを押した。お陰で部屋は外と同じ暗さに変化する。照明を落とされた中で、彼は私の腰にだらりと腕を回し、囁いた。
「……で、眠いだけなんですか?」
どうやらまだ彼は引きずる気らしい。また同じ台詞を繰り返しては小さく笑った。顔を熱くする私は肯定すると、ふうん、となにやら意味ありげな相槌が聞こえてくる。
「そう? じゃあ、おやすみ」
「お、おやすみなさい」
なんとか窮地を脱することができたのだろうか。相変わらず走り続けている心臓は疑い深かった。しかし彼はおやすみと口にしているし、現に部屋も暗くなっている。これ以上追及することはないだろうと安易に考えた私は目を閉じた。
ゆっくりと腕の力を弱め、もう少し寝やすいように彼と距離を取ろうとすると、まるでそれを待っていたかのようにとおるくんは顔を近付ける。そしてわざとらしくリップ音をひとつ立ててキスを落としてきたものだから、私は驚いて硬直してしまった。そんな私に、彼は呟く。
「もう一回」
彼がわざわざそう口にするのは、今度は君からして、という合図だった。いつの間にかそれを理解するようになった私は、寝る前になんてことさせようというんだと、いっそ布団の中に隠れたい衝動に駆られている。しかし、このままほとばしる心臓を置いておけばきっと眠れるはずもない。
「…………」
ぎこちなく距離を詰めて、顔を近付ける。そしてほんの一瞬だけ彼の口元に触れさせた唇に、また体温が上昇した。ふわふわした気持ちよさとか、愛しさとか、それよりも恥ずかしさが勝ってしまっていたのだ。
しかし照れたような、満足したような、どちらにも取れる笑い声を小さく溢した彼は、腕の力を強めては、相変わらず私を抱き枕にしている。ちっとも離れる素振りを見せないまま、また「おやすみ」と少し掠れた声で囁かれた。つい口元が緩みそうになる。しかしどうしたことか、おやすみ、と返そうとしたはずなのに、喉から声が出てこない。脳より先に就寝してしまったのだろうか。瞬きが多くなりながら小さく頷いて、彼の胸元で目を閉じた。
「(……しあわせ)」
おいしいものを食べるとしあわせ。欲しいものが買えるとしあわせ。お気に入りの曲を聞きながらのんびりするのがしあわせ。とおるくんのそばにいれることがしあわせ。
出会ったばかりのときはずっと話してばかりいたけれど、今では会話が無くてもゆったり安心出来る空気が心地よかった。彼と一緒にいるときが多分、私の心は何より満ちている。一日の終わりにすきな人から「おやすみ」と聞けて、一日の始めをすきな人に「おはよう」と言える。こんな素敵なこと、きっと他にはない。
──ずっと前から考えてたんだ。と一緒に暮らしたいなって。
ぼんやりと、とおるくんの言葉を思い出した。回された腕を、そっと触れてみる。
「(……ずっと前から、考えてくれてたんだ)」
ずっと前って、具体的にいつだろう? それを聞いてみたくなった。それとも、なんとなく使っただけで深い意味はないのかな。だけどもし本当に時間を掛けて真剣に私のことを考えてくれていたのだとしたら、私はなんてしあわせ者なんだろう。
「(一緒に暮らしたら、私も、もっとそういう気持ちをとおるくんにあげられるのかな)」
あなたと一緒にいれてしあわせですという想いを、小さな言葉や行動で彼に返してあげられるのだろうか。とおるくんがうれしいと思うことを、しあわせだと思える空間を手助けすることが、私にも出来るのだろうか。私と一緒にいるときがしあわせって、少しでも思ってくれるだろうか。
「(……………)」
ゆっくりと恋人の腰の辺りに腕を回した後、甘えるように彼の胸元に収まった。また小さく笑みを溢す彼は、一時的に緩めていた腕で再び私を抱き寄せてはもう一度囁く。
──おやすみ。
20190406