紅茶から蒸気と共にレモンの甘酸っぱい香りが鼻をくすぐった瞬間、心は分かりやすく溶け出した。だけど、マグカップを受け取った私の頬が緩んでしまったのは、単に私のすきなものが出てきたからというわけではない。

 もしかして私がレモンティーを気に入っていることを知っている彼が、わざわざ“私のために”買っておいてくれたのだろうか。そんな、都合のいい思考が働いたからだった。だからか両手で包み込むようにマグカップを持っているだけで、すっかり満たされた気分になる。

 ゆっくりとそれを口の前まで運び、水面に小さく息を吹きかける。あまり上品ではないけれど、極度の猫舌ということに免じて許してほしい。マグカップに唇を付けてほんの少しカップの角度を傾けると、柑橘の香りと共に、すっきりとした甘味が口の中に広がった。

「……おいしい」

 独り言のように呟いた私に、向かいに腰掛ける安室さんは、よかったですと目を細める。それを見て、またひとつふわふわとしたあたたかい感情が芽生えた気がした。ふふ、と小さく笑みを溢す私に、彼はつられたように笑う。

 全く緊張を忘れたと言えば嘘だった。こうして彼の寝室で、ローテーブルを挟み畳の上に座る私の心臓は、未だに落ち着きを知らない。マグカップから離さない手はじわりと汗を滲ませていたのは、ホットティーだからという理由じゃない。

 私は今、ベッドを背に座っている。だからどうしても背後が気になって仕方がないけれど、先程よりは目のやり場に困らない。決してベッドを背もたれにすることなくピンと伸ばされた背筋は、緊張の糸でしっかりと固定されていた。

「──そういえば、さんて朝はパン派ですか? それともご飯派?」
「えっ?」

 突然なんだろう。訳が分からず顔を上げると、安室さんはけろりとした顔で私を見つめていた。腕を組むように膝をテーブルに付き、ほんの少し前のめりになるように私に質問を投げ掛けている。その様子は、いつもの世間話となんら変わらない。私は目をぱちくりさせながら、ええと、と言葉を繋いだ。

「パン、です……」
「そうなんですね。あ、食パン?」
「はい。ジャム付けて食べてます」

 私達は、一体何の話をしているんだろう。そんな気持ちが前面に出てしまったのか、やけに疑問符を含んだ声が隠しきれなかったものの、安室さんは特に気にすることなく、相変わらず明るい空気を身に纏っていた。

「いいですね、おいしそう。最近じゃ、季節限定のジャムとかも見かけますよね。変わり種のものもありますし」
「あっ。そう! そうなんです!」

 季節限定という単語に、思わず食いついてしまった。つい自分の興味の範囲内のことを話されると声が弾んでしまう癖は、なかなか直りそうにない。先程まで全身を凍らせていたくせに、それをすっかり忘れたように舌が動いでしまう。

「朝においしいもの食べると朝が楽しみになるような気がして、ジャムだけは結構遊んじゃうんです。唯一の贅沢って感じで」
「へえ。じゃあ、お気に入りとかもあるんですか?」
「うーん……。あっ。限定じゃないんですけど、プリンジャムはおいしかったです」
「そんなのもあるんですか。ちなみにもしかしなくてもさん、プリン好きですね?」
「ふふ。バレちゃいましたか」
「はい。バレちゃいました」

 和やかな空気は、きっと安室さんが作り出したものだ。この人の周りは、いつも柔らかい雰囲気で満ちている。気が付けば私の頬はほどけていて、自然と口角が上がっていた。声は心なしかはしゃいでいる。緊張は完全に消え去ってはいないけれど、それ以上に居心地の良さを感じていた。

 だからだろうか。気が付けば、せっかく淹れてくれた紅茶も忘れて、私達は会話を途切れることなく喋り続けている。学生時代に部活は何をやっていたのかとか、犬と猫どっち派かとか、どれも他愛のない話ばかりだったけれど、単純な私はどんどんしあわせを募らせていた。寝る前に飲むのは梅昆布茶がおすすめですよと真顔で言われたときは、つい笑ってしまったけれど。

「(私、やっぱりこの人のそばにいるのがすきなんだな)」

 そんなことを考えたら、また頬が緩む。

「(……どうしようかな)」

 急に芽生え始めた好奇心のせいで、普段なら恥ずかしいと言うであろう行動を、つい起こしたくなった。テーブルを挟んだ場所ではなく、もっと近いところで彼を見つめてみたくなった。距離を縮めれば、心も近づくような気がして。

「(隣に座っちゃ、だめかな……?)」

 彼の肩に寄りかかって、無性に甘えてみたくなった。だけど何も言わず急に移動するのも不自然すぎる気がする。何か口実はないものか。例えば、それとなく何かを安室さんに渡すとか。……渡すって、何を? お土産のプリンはとっくの昔に渡してしまったし……。

「(……あっ!)」

 人は何かをひらめくと、心まで軽くなるらしい。ついでに、まるで照明でもついたかのように目の前が明るく見える。まるで世紀の大発見をしたかのように清々しい気分だ。そうと決まればと珍しく行動力を発揮した私は、迷うことなく彼に声を掛けた。

「安室さん! あの、実は私、この前猫カフェ行って来たんです。すごくかわいかったので、写真見てください!」

 そう宣言するとほぼ同時に腰を上げた私は、テーブルの端に立てかけていた鞄の前へと移動する。そしてサイドポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。心臓がまたうるさくなってきたせいか、指が震えてしまう。がんばれがんばれと自分を奮い立たせながらフォトアルバムを起動し、該当の写真を見つけると、そのまま先程まで座っていた席へ戻ることなく彼の右隣へと腰を落とした。

 変に思われていないだろうか。自然な行動だっただろうか。

 どうも演技に自信のないせいで、背中にじわりと汗が滲む。そして「これです」とスマホを差し出すと、素直に受け取った彼は何気なく画面の中を覗き込んだ。

「ああ、本当だ。かわいいですね」

 猫が日向でのんびりと寝ている写真を見た安室さんは、分かりやすく顔をほころばせた。その反応に、ほっと胸を撫で下ろす。多分、不審には思われていない。指で画面を横へスライドさせ写真を送りながら、時より「この子はすごく人懐こい子だったんです」と解説する。

「おやつもあげたんですよ。そしたらもう、みんな寄って来ちゃって……」

 口では猫カフェのことを話して平常心を装っているつもりでも、頭はタイミングを計りかねて焦ってばかりいた。だって、急になんだって思われたらどうしよう。そんなことばかりが頭の中を支配している。

「(でもがんばれ。大丈夫。だって安室さん、私のことすきだって。かわいいって。もっと知りたいと思ってるって言ってくれてたから、大丈夫だよ。安室さんはきっと、私に嘘なんてつかない)」

 不安要素を吹き飛ばそうと必死に自分に言い聞かせるものの、どうにも尻込みしてしまう小心者の私は消えることはなかった。もうこうなったら、いち、にの、さん、の、さん、のタイミングで行こう。そう決意してみても、なかなか実行に移せない。

「(……どうしよう、せっかく隣まで来れたのに)」

 どうにかして察してくれないだろうか。安室さんの方から肩を引き寄せてくれないだろうか。そんな都合のいいことばかりを考えてはそっと彼の横顔を見つめるけれど、勿論そんな願望が安室さんに届くはずがなかった。

「(や、やっぱり私から、いかなきゃ)」

 隣の彼に気付かれないように深呼吸をしては、少しでも体の硬さを緩和させようと意識する。唇をぎゅっと噛みしめて俯いた。

「なんだか楽しそうですね。僕、猫カフェって行ったことないから、なんだかこういうの新鮮です」
「じゃ、じゃあ……」

 もう、今しかない。そう直感した私は俯いたまま、体勢を斜めへ傾けた。そのまま安室さんの右肩に体重を預けたものの、全身に引き渡るこの心臓の音が、触れているところから伝って彼にも聞こえてしまうような気がして、ますます顔が熱くなる。

「こ、今度一緒に、い、行きません、か……?」

 震える声は、今にも泣き出してしまいそうな不安定さを引き連れていた。左手でぎゅっとスカートを握り締めても、手の震えは止まってはくれない。瞬きばかりを繰り返し、視点を一点に定めることすらできなかった。騒がしい心臓に、いっそ殺されてしまいそうな気分になる。

 何か、何か言ってほしい。何でもいいから安室さんの声が聞きたかった。反応が返ってこないことが、今の私にはひどくおそろしい。私が寄り添っていることには触れなくていいから、猫カフェ楽しみですね、とか、そういう言葉だけでいい。だってきっとそれだけで、私はどれほど救われることだろう。

 しかし彼は何も口にしようとしない。それがどうにもじれったくて、思い切って手も握った方がいいのだろうかと次の一手を必死に模索しているところで、突然右肩を掴まれた。どうやら彼が手を回したらしい。

 もしかして、このまま抱き寄せてくれるのだろうか。淡い期待が膨れ上がり、ますます心拍数を上げていく私に、しかし彼は自分に寄り掛かっていた私をゆっくりと、まるで引きはがすかのように距離をとる。あっという間にただ隣に座っているだけの関係性に戻った私は、呆然と彼を見やった。

「(何が、起こったんだろう)」

 現状を理解できない頭は、状況を整理しようと必死にフル回転している。私は何をして、安室さんはそれをどうしたんだ。ただそんな単純なことすら飲み込めないでいる脳は、きっと深刻な酸欠となっていた。

 安室さんの隣に移動して、そっと肩に寄りかかって、そしたら……。

「──そろそろプリン、食べましょうか」
「……へ?」
「待っててくださいね」

 にこやかな笑顔を見せて立ち上がった安室さんは、そのまま部屋を後にした。すぐに冷蔵庫を開けるような音がしたから、どうやら彼は本当に食後のデザートの準備をしに台所へ行ってしまったらしい。取り残された私は、スイーツの登場に喜ぶ気にもなれない。まりに予想外の展開に、その背中を呼び止める選択肢すら浮かんでこなかった。

「(……もしかして、拒絶された……?)」

ぼんやりと部屋の入口を見つめ、そして俯くように自分の手元へ視線を落とした。まるで鈍器で殴られたような気分だ。

「(猫カフェ、本当はそんなに興味なかったとか。それとも猫アレルギーとか)」

 全く働かない頭でそんなことを考えては、まるで自分に非はなかったように思い込みたくて、必死に理由をかき集めようとする。

 でも確か、彼にアレルギーはなかったと記憶している。そして安室さんはどちらかというと犬派だとさっき聞いたけれど、だからと言って猫嫌いというわけではないらしい。つまりこれは猫カフェがどうのという話ではなく、単純に避けられたのは私に理由がある、ということになる。

 そんなことに気付いてしまったものだから、心臓の奥が締め付けられるように苦しい。

 だって私達、お付き合いしているんじゃなかったの? それとも、私から行くのがだめだったってこと? はしたないって思われた? かわいいと言われて調子に乗っちゃった? でも、だって、私、安室さんに触りたくて。触ってほしくて。もしかして、それが気持ち悪かった? 引かれちゃった?

「……うっ……」

 今まで必死に抑え込んで来たものが、ここにきて一気に崩壊した気がした。零れ落ちた涙を必死に拭うものの、ちっとも収まってくれる気配がない。メイクが崩れないようにと目頭近くの下瞼の辺りに人差し指を置いてみるものの、次から次へと溢れ出てくる。

 少しでも安室さんにかわいいと思ってもらいたくて必死に外見を整えても、ちっとも意味がなかった。今だって、私なりに勇気を振り絞って頑張ったつもりだった。がんばったよ。がんばったの。

さん!?」

 ぎょっとした声が飛び込んできた。どうやら早くも安室さんに発見されたらしい。顔を上げると、トレーの上に私がお土産で渡したプリンの容器を二つ乗せた安室さんが立っていた。ああ、私はバストアップの方法ではなく、涙腺を鍛える方法を検索した方がよかったのかもしれない。そんなことを今更ながら気付いては、視線を逸らすように俯いた。

「どうしたんですか!」

 慌てたような声で尋ねては、安室さんはすぐさま私に駆け寄って膝をついた。トン、という音が聞こえてきたから、お盆をテーブルの上に置いたらしい。しかしその、何気ない言葉が更に涙腺に火を点けてしまった。分かってくれないのがまた悲しくて、ぐすりと鼻をすすりながら震える声で言う。

「……あ、安室さんは……私より、プリンのほうが大事なんですね」
「え?」

 まるで、何の話ですかとばかりの反応をする安室さんから次の言葉を投げ掛けられる前に、必死に口を動かした。

「わ、分かりますよ。プリンおいしいし、食べたら癒されるし、なんかもうプリンなら仕方ないかなって思いますよ。だってプリンだし」
「お、落ち着いて……」
「──安室さんは」

 彼の声に被せた声は、まるで安室さんからの言葉を拒絶したみたいだ。一方的に自分の意思をぶつけている子どものように、私はただ闇雲に感情を吐き出している。だけど自分が抱いている感情が“悲しい”なのか、“さみしい”のか、“情けない”のか、判別をすることができない。ただひとつ分かっていることは、胸が締め付けられるように痛いということだけだった。嗚咽を止めたいとばかりに口元に右手を置いて、絞り出すように言った。

「わ、私に触りたいって、思ってくれないの……?」

 初めて声にした私の本音は、音になった瞬間まるでそれが間違いない真実のように思えてしまって、また大粒の涙が零れ落ちた。

 ああ、私は何度この人の前で泣けば気が済むのだろう。もっと冷静に物事を判断して、客観的に分析して、論理的に話せる人間になりたい。これ以上泣き顔を見られたくなくて俯いていると、彼はどこかひりついているような声が聞こえた。

「……思っているに決まっているでしょう」

 穏やかな彼にしては珍しく張りつめた声に、ゆっくりと顔を上げた。そこには瞬きひとつしない安室さんが、じっと私を見つめている。しかし、言っていることと実際起こっていることに矛盾を感じてしまった私は、すぐに視線を逸らして「もういいです」と小さく呟いた。

「何が、いいんですか」
「そんな気を遣ってくれなくていいです。いっそ、思いませんって言ってくれた方がすっきりしました」
「なんで僕が嘘をついていることになっているんです」

 いつもより低い彼の声は、心なしか口調も早い。まるでいらつきを抑えられないとばかりだ。私はすぐにそれに気付いていたけれど、自分の感情を吐き出さずにはいられなかった。

「だって安室さん、キ……キスどころか手も繋いでくれないし、い、今だって逃げちゃったじゃないですか」

 キスと口にするのがなんとなく恥ずかしくて、その単語だけが妙に声のボリュームが絞られてしまった。こんなときに、何を照れているのだろう。

「それって、私に対してそういう気が起きてないってことでしょう……? だから安室さん、すきって言ってくれたけど、昨日も会いたいって言ってくれたけど、すごく嬉しかったけど、ほ、ほんとなのかなって……」

 震える右手を押さえつけるように左手で掴むけれど、ちっとも効果なんて出てはくれなかった。泣きすぎているのか、目が熱い。

「普通、すきだったら触りたいって思うものなんじゃないんですか……? 現に、すきって言ってくれてから安室さんが私に触ってくれたことなんて、ぜ、ぜんぜん、……っ」

 ついに理性より、込み上げてくる感情が勝ってしまった。最後まで口にすることも叶わず、肩を震わせて嗚咽を漏らして泣いてしまう自分がひどく情けない。自分に非があることを認めたくなくて全ての責任を安室さんに押し付けていることに、私自身気付いていた。

 苦しいのは泣いているせいなのか、それとも悲しいからなのか、一体どちらなのだろう。

「……すみません、誤解をさせて」

 安室さんの優しい声が振って来たかと思ったら、丸まってばかりいる背中をさすられた。付き合って初めて触れられる彼の手が、こんな状況でなんて。嬉しいのか悲しいのか、ちっとも分からない。泣き止む気配を見せない私に、安室さんはまるで子供をあやすようなゆっくりとした口調で話し掛けてきた。

「僕は本当に、あなたのことがすきなんです。前にも言いましたが、何より大事にしたいんです。誰より優しくすると、心に誓ったんです。だから、その……。引かないで聞いて頂きたいんですが……」

 まるで気まずそうに語尾を濁した安室さんに、私は呼吸を整えることだけを意識しながら、おそるおそる彼を見上げる。安室さんは視線を横へ流し、まるで言おうか言わまいか悩んでいるように一瞬ためらった後、呟くように言った。

「……距離を、掴みかねていたんです」

 言葉の意味を飲み込めず反応を示すことができない私に、安室さんは続ける。

「以前、僕のことを優しいと言ってくれていたでしょう? そう思ってくれているあなたにがっついた姿を見せたら、怖がらせて泣かせてしまうような気がしたんです。……少しでも、あなたの理想の安室透でいたかったんです。だからさっきのも、本当は嬉しかったんです。でも、これ以上触れたら絶対に我慢できなくなるのは目に見えていたので、ずっと距離を」

 でも、結果的に泣かせてしまえば意味ないですね。そう困ったように眉を垂れ下げた彼に、私は俯いた。そして落ち着きなく視線を泳がせ、まるで独り言でも呟くように小さな声で言う。

「……あ、安室さんになら、泣かされたってよかったのに」

 すっかり頬が熱かった。どこを見るわけでもなくただ視線を落とし、何もない畳をじっと眺める。いつの間にか涙は止まっていた。頭がぼんやりするせいで現実のことではないようだけれど、心臓だけは大きく響き渡っているからこれはきっと夢の世界の話ではない。

 彼の目を見つめ返すことができず、ただ恥ずかしさを隠すように瞬きを繰り返す私は、ふと、背中をさすっていた手が止まっていることに気が付いた。そのままゆっくりと離れていく彼の体温にまた俯きそうになる。そんな私の頬をそっと撫でた安室さんに、思わず肩を震わせた。驚いてつい顔を上げてしまう私に、まるで小さく囁くように言う。

「そんなことを言ってしまって、いいんですか?」

 大きく飛び跳ねる鼓動に、体温が急上昇する。まるで私の真意を問うかのようなゆったりとした口調に、つい甘えてみたくなった。それは、押してはいけないと教えられたボタンをつい押してみたくなる、あの感覚に似ている。

「……だ、だめなんですか……?」

 正しいことを破ってみたくなる衝動が、やけに甘い声を出させた。安室さんにつられたのか私の声も音量が絞られて、まるで内緒話をしているような感覚になる。たったそれだけで私達だけの世界が作られたような気分になった私は、完全に雰囲気に酔わされていた。安室さんはじっと私の瞳を見つめたまま曖昧な返事をしては、柔らかく目を細める。

「発言には、責任を持たなくてはいけませんから」

 責任、と何気なく頭の中で繰り返していると、突然肩を抱かれたかと思ったら、安室さんはそのまま流れ込むように私を自分の胸元に押しやった。これにはたまらず「えっ」と大きな声を漏らしてしまう。状況を飲み込めず、しかし自分は今間違いなく彼に抱きしめられている。確かに安室さんに触れたいと思っていたし触れられたいと願っていたけれど、いざ実現すると、頭は真っ白になって何も考えられなくなってしまった。

「あ、あの……!?」
「この際ですし、いい機会でしょう。思っていること、全部押しえてください」
「お、思ってることって……」

 大きな音を立てて存在を主張する心臓に、ますます全身を固まらせてしまう。私は安室さんの体温に触れると、それを体内へと溶け込ませ、みるみるうちに温度を急上昇させる体質の持ち主だったらしい。特に首の後ろや背中が、燃えるように熱くなっている。

 生きている心地がせず、せめて何か口にしようと思えば思うほど、絡まる糸のようにこんがらがる頭は、打開策を生み出せないでいた。「あの」と言っては口籠り、「ええと」と続けては目を泳がせる。

 中途半端に放り出された言葉はひどく滑稽で無様だったろうに、安室さんは都度相槌を打っては私の顔を上から覗きこんでくるから、私はますます言葉を紡げないままでいる。視線を絡ませれば絡ませるほど、慌てふためき動揺している心を読まれるような気がして、逃げるように顔を背けた。こんなにも緊張しているのは私だけだと知られることが、何より恥ずかしいのだ。

「ほら。……ね?」

 催促する台詞に反して、声は柔らかなものだった。抱きとめる彼はしっかり私の背中に腕を回して、決して逃がそうとはしなかった。わずかな隙間さえも生まれることを許さないとばかりに密着させ、より一層力を込める彼に、私の脳はぐるぐると回る。何が何だか分からなくなって、しかし何か言わなくてはという謎の義務感から、考える前に口を開いた。

「あ、あの。ファンデーション、付いちゃいます」

 すると彼は間を置いて、おかしそうにケタケタと笑った。おそらく予想していたこととは正反対なことを言ってしまったからだろう。やってしまったとばかりに、私はすっかり顔を熱くして身を縮めるしかない。

「深く考えなくてもいいんですよ。ほら、スーパーにもあるでしょう? お客様のご意見ボックス、みたいなの。ああいう、お気軽な感覚で良いですから」

 そう言って彼は右手をゆっくりと移動させると、私の髪をとくように頭を撫でた。それだけなんだかふわふわとした気分になって、つい調子に乗ってみたくなる。先程まで泣いてばかりいたのに、まるで手のひらを返したかのように満たされていく心は現金だった。

「あの、じゃあひとつ、お願いがあって……」
「ん? なんです?」
「そ、その……」

 遠慮がちになる私に彼は腕の力を緩めると、今度は顔の横の髪を撫でた。それがまるで、顔を見せてくれと言っているように聞こえたけれど、泣いたばかりの姿を晒すのはどうにも気が引ける。触れられた側と逆の向きへ小さく首を向けると、まるでその意図を組み取ったのか、耳の横に手を置いて、ゆっくりと顔を上げさせた。久しぶりに目を合わせる安室さんはやけに近くて、息すら当たってしまいそうな距離にますます体温が上がる。

「ほら、言って?」

 甘い瞳は優しく私を捉えて、まるで内緒話をするかのように囁かれた声は耳の奥まで沁みこんだ。本当にこれは、安室さんなのだろうか。ついさっきまで私に一切触れようとしなかったのに、こんなにも積極的なところを見せられたら私、今まで以上にすきになってしまう。

 どうしたらいいのか分からなくなって困惑しているのも事実だけれど、それ以上に安室さんの体温が嬉しくて、全身が溶けていくような感覚になる。彼の服の袖を小さく掴みながら、私はおそるおそる口を開いた。

「な、名前で呼んじゃ、だめですか……?」

 小さく尋ねた声は恥ずかしがっているのか、それとも甘い空気に酔っているのか分からない。だけど安室さんが愛しそうに目を細めてじっと私を見つめてくれているから、むしろ何を口にしても受け入れてくれるような気分になっていた。かわいいお願いですね、と穏やかに微笑む彼に、また背中が熱くなる。

「いいですよ、の好きに呼んでもらって構いませんから」
「えっ」

 聞き間違いだろうか。今、私のことをと呼んだ気がした。今まで頑なに敬称を付け続けた安室さんが、初めて私を呼び捨てにしたように聞こえたのは、私の空耳か何かだろうか。だけどそれにしてはどうもはっきりと聞き取れたから、きっと幻聴などではない。大きく鳴り響く心臓の音に手を焼きながらも、自ら安室さんに顔を近付けるように前のめりになって言った。

「あ、あの。も、もう一回……」
「“好きに呼んでもらって構いませんよ”」
「…………」

 繰り返し聞きたかったのはそっちじゃない。分かりやすく視線を落とす私は口をつぐんだ。

「……

 甘い響きが耳をくすぐる。今度こそ、きっと聞き間違いなんかじゃない。慌てて彼を見上げると、「すみません、意地悪をしました」と悪戯っ子のような笑みを見せた。なんだかその笑顔が妙に眩しくて、どうしようもなく愛しい。だけど聞き慣れない呼び名はどうにも照れ臭くて小さく笑ってしまうと、ふと柔らかい何かが口元に当たる。これが何か気付くより先に離れたそれは、ゆっくりと声を発した。

「他には? お願い、ありますか?」
「──え? ……あ。ええと、ええと。あ、あの……」

 突然の出来事に頭がついて行かず、むしろ幻だったのではないかとさえ思える。しかし徐々に理解し始めた脳は全身の熱と言う熱を上昇させた。俯いて、どこを見たらいいのか分からず目を泳がる。しかし間違いなく温度と感触が残っている唇に右手で触れてみては、やはり幻ではなかったのだと思い知った。

「(……今、キスされた?)」

 ようやく状況を把握し始めた頭のお陰で、胸の奥がじんわりと温かくなる。彼の様子を伺うように一瞬視線を上げ、安室さんの顔を捉えるとすぐに俯いた。次第に緩んでしまう口元を隠しきれない。

「そんなに嬉しそうにされたら、たまらないな」

 そんな声が振って来たから、私の体は一気に過熱された。いつもと違う口調に、心臓は分かりやすくときめいている。だからだろうか、どうしても彼の名前を呼びたくなって仕方がない。“安室さん”なんて他人行儀な呼び名でなくて、もっと距離を詰めた響きを口にしたかった。でも、さん付けで呼ぶにはまだ距離を感じる。呼び捨ては私には難易度がまだ高い。火照る頬すら隠すことなく口を開いた。

「…………と、とおる、くん」

 初めて音にした呼び名は言い慣れなくて、どうにもくすぐったい。自分から彼の胸元に収まりに行っては、顔を見られまいとべったり張り付いた。そんな私の突然の行動に、安室さん──とおるくんは小さく笑って、はい、なんでしょう、と柔らかく返す。それがたまらなく嬉しくて、また頬が緩んだ。

「なんでも、ないです」

 まるで、悪戯を隠す子どものような気分だ。すきですという想いを変換して、誤魔化してしまった。でもなぜか私の心は、慌てることも後悔することもなく満ち足りている。それをとおるくんも、何か感じ取ったのだろうか。彼は呆れる素振りひとつ見せることなく私の頭を撫でている。なんだか夢見心地になりながら、ゆっくりと瞼を閉じた。

「……とおるくん」
「ん? なんですか?」
「やっぱりもうひとつ、お願い聞いてほしいです」
「はい。なんでもどうぞ」

 迷うことなく受諾した彼は、まるでなんでも聞いてあげると言わんばかりのものだった。もしも私がとんでもないことを言いだしたらどうするつもりなのだろう? それとも私の考えていることなんてお見通しなのだろうか。

 またゆっくりと背中に回されていた腕がほどかれて、とおるくんは私の顔を覗きこんだ。どうやら本題に入るときは顔を合わせたい主義らしい。しかし彼との至近距離に免疫がない私は、分かりやすく目が泳ぐ。つい焦って走りがちな舌を必死に抑えながら、おずおずと口を開いた。

「あの、敬語、も……」
「やめてほしいですか?」

 遠慮しがちに頷くと、彼は「そうですか」とどこか納得したように静かに相槌を打った。

「敬語を使えば簡単にタガが外れることもないんじゃないかと。……言わば、自制のつもりだったのですが」

 まあ今更ですけどね。そう苦笑したとおるくんを、高鳴る鼓動を必死に隠しながらじっと見つめていると、彼はまるでその意図を拾い上げたかのような柔らかい笑みを見せる。そして彼はそのままお互いの額を当て合いっこするかのように顔を近付けて言った。

「うん。……でも、そうだね。僕も君には、もっと素の口調でいてほしいかな」

 了承と願望を混ぜ合わせた言葉は、いつの間にか私を頷かせていた。分かりやすく動揺した心臓がまた駆け出す。なんだかこの数分の間に、色んなことが目まぐるしく変化しすぎて、少しでも気を抜けば眩暈が起こって倒れてしまいそうだった。

「それじゃあ僕からもひとつ、君に言わなきゃならないことがある。聞いてくれるかい?」

 にこやかに微笑んだ彼はやけに爽やかで、私はまるで親の言うことを聞き入れる子どものように、何も疑うことなくまた首を縦に振った。なんだか頼まれ事をされているような気分になって、胸が弾む。一体なんだろう?

 中身を予想しながらプレゼントを開ける感覚になっていた私は、じっと彼からの言葉を待つ。そしてまるでくすぐるように耳横の髪を梳かされ、たまらず目を瞑っていると、その瞬間素早く頭の後ろに手を回されたかと思ったら、突然唇を重ねられてしまった。つい先程にも体験した柔らかい感触に全身が固まった私は、動揺のあまり目を開ける。しかしあのときと明らかに違う。彼は何かを確かめるように、一向に離れようとしないのだ。そのまま体重を乗せられたお陰で、いとも簡単に視界はひっくり返る。

 畳の上に寝かせられてもなお止まることのないキスの嵐に私の脳は完全に溶かされていた。ぼんやりとしてくる頭は全身の力を入れることすら出来ず、口すらまともに閉じられない。その隙を掻い潜ってか、ぬるりとした触感が口内を侵食する。ひっそりと息をひそめて隠れていた舌に執拗に迫られ、どうすればいいのか分からない。内部の上側をなぞられるのがくすぐったくて、つい身をねじらせた。その拍子に、小さく声が漏れる。

 だけどぞくぞくするこの感覚が嬉しくてしあわせで、だからどうしてもやめないでほしくて、まるで彼に全てを委ねるように目を瞑り、ゆっくりと彼の背中に手を回す。絡まる舌の唾液が混ざり合う音がやけに生々して恥ずかしい。

 久しぶりに自由に酸素を吸えるようになった頃には、私はすっかり肩で息をするようになっていた。ぼんやりとする視界の中、彼が今まで見せたことのないほどに瞳の奥をぎらつかせていたことに気が付いて、胸がぎゅっと締め付けられる。目が逸らせなくなって、心臓が大きく響き渡った。

「……今夜は君を帰すつもりはないけど、いい?」

 安室透という人物はいつもにこにこしてて、優しくて、温かい人だった。だから性欲なんて欠片もないかもしれないと思っていたことすらあるというのに、なんということだろう。彼はこんなにも野心を持っていたというのだろうか。

 見下ろす彼の表情に、まるで選択肢がないことを悟った私は小さく頷いた。


20190330