すっかり綺麗に平らげてしまったお皿を前に、私達は攻防戦を始めていた。シンクに置かれた食器類は身綺麗にされるときを今か今かと待ち構えているというのに、私が安室さんを引きとめたせいで、彼らは未だにそのときを迎えられないままでいる。
「あの。私、お皿洗いますよ」
何度口にしたか分からない提案を口にした私は、流しの前に立つ安室さんを見上げては、やる気の塊のように両手を胸の前で軽く握り締めている。しかしこの家の主は気にする素振りを見せることなく、軽やかな笑みを浮かべては、慣れた手つきで作業台の上に水切り用の食器籠を設置した。プラスチック製のそれは、随分と軽いらしい。
「いえ、大丈夫ですよ。さんはお客様なんですから」
「で、でも」
必死に食い下がる私をなだめる安室さんは、「気を遣って頂いて、ありがとうございます」と綺麗な笑みを見せる。しかしきっと、安室さんの対応は正しい。もしも私が逆の立場で安室さんが「皿を洗う」と申し出てくれたとしても、じゃあお言葉に甘えてなんて展開には間違いなくさせることはない。むしろ私のこの申し出は、きっと彼にとって迷惑でしかないことくらい分かりきっていた。しかしそうだとしても、場所が場所なだけに引き下がることができないのだ。
私達が食事を済ませ、自然な流れでテーブルの上を片付けようかと席を立ったところまではよかったものの、シンクへと食器を置いた私に、安室さんは礼を言って何気なくこう案内したのだ。
すぐ片付けるので、和室の方でくつろいでてください、と。
その瞬間、皺ひとつないベッドを思い出してしまったがために全身凍りついてしまった私は、急激に上がった体温に戸惑っていた。あの、どこを見たらいいのか分からず、ただ落ち着かなかったあの空間に一人戻ることになるのか。そう考えたら、突然頭が真っ白になってしまった私は、無我夢中で口を開き、こう言い放った。「私、お皿洗います」。予想外の提案に、安室さんは目を丸くしていたのは言うまでもない。
「あの、突然こんなこと言ってごめんなさい。でもなんだか、一人で部屋にいるとそわそわしちゃって。だから、その……な、何でもいいから手伝いたいです! 勿論、お皿は割らないように気を付けるので……!」
体温が脳まで侵食してしまったのか、なんだか自分が何を言っているのか分からなくなってくる。必死に口を動かした私は、心臓の音が五月蝿くて自分の声すら拾えないままでいた。安室さんは呆れているだろうか。反応すら返ってこないことが、それを物語っているのかもしれない。自分が我儘を言っているだけということは自覚している。
「うーん、そうですね……。じゃあお言葉に甘えて、洗い終わった後のお皿、拭いてもらってもいいですか?」
「は、はい!」
自然と口角が上がった私は、分かりやすく明るい表情をしていることが鏡を見なくても分かってしまう。
「すぐ洗うので、少しだけ待っててくださいね」
「はい!」
弾んだ声で返事をしつつ頷くと、安室さんは小さく笑った。スポンジを手に取った彼の左隣に陣取った私は、鼻歌を歌ってしまいそうなほど笑みを隠すことができない。
手持ち沙汰となり、じっと安室さんの手元を見つめる。スポンジを握る手は、相変わらず指が長くて綺麗だ。ふと手筋に浮かぶ血管が目に入って、つい凝視してしまう。そのまま辿るように手の甲から腕へと視線を流したところで我に返り、体勢を戻してまっすぐに正面を見つめた。無意味に上に目をやって、照明を見つめる。その後なんとなく視線を落として手元のふきんを綺麗に二つ折りにした。
ちらちらと安室さんの横顔を盗み見て頬を緩ませてしまう私は、はやる心を抑えきれない。右膝をほんの少し折り曲げて、つま先は床に付けたまま踵(かかと)だけを浮かせては、小さく上げ下げを繰り返した。
分かりやすく上機嫌にしていたからだろうか。安室さんは「なんだか楽しそうですね」と笑いを含んだ声で言う。まるで、遠足を楽しみにしている子どもをなだめる親のようだ。しかしそう口にした彼もまた優しい目をしていることに気付いていた私は、「すみません」と断りを入れながらも、決して咎められてはいないことを分かっていた。だからこそ、笑みを隠すことなく素直に告白をする。
「なんだか、家庭科の調理実習みたいだなと思って」
ふふ、とまた笑みを溢すと、安室さんは自分の手元から視線を流し私を捉えると、なるほど、と頷いた。
「確かにそうですね。僕はてっきり──」
何かを言いかけてそのまま口を閉じてしまった安室さんに首を傾げつつ、彼をじっと見つめてみると、その視線に気付いたのか、彼はいつもどおりの優しい笑顔を見せては、なんでもないと首を振った。勿論すぐに引っ掛かりを感じた私は、流すことなく追及をしたのは言うまでもない。
「なんでもないなら言ってください。気になります」
「さんて意外と、気になったらとことん追求しないと気が済まないタイプですよね」
その追及対象が今自分へと向けられていることは彼も分かっているだろうに、まるで他人事のように状況を把握している安室さんは、眉を垂らすことも、慌てる素振りを見せることはなかった。ゆったりとした口調は普段どおりを貫いていて、笑い声も、ありふれた世間話の中から生まれたような雰囲気を纏っている。
泡立ったスポンジを蛇口横のステンレス製ホルダーに置いた彼は、そのまま水で皿についた洗剤を流し始めた。すっかり新品同様になったお茶碗を水切り籠へと収める安室さんに、慌てて自分が今握りしめている食器用ふきんの存在を思い出す。追いかけるように濡れた食器を手に取って、隅々まで水気を拭きとった。
ひとまずテーブルの上に置いておいてくださいという安室さんの声に従って、先程まで食事を並べていた机へ移動する。その繰り返しの作業だった。安室さんは、口は動かしつつも手は一切止めることなく黙々と皿洗いを進めるから、私もまた着々と身綺麗となった食器の量産に勤しむ。
「僕も少しずつさんの反応が分かるようになってきたので、言わない方がよろしいかと」
「大丈夫ですよ。私、怒りませんから」
「はは。それは頼もしいなあ」
どこかお茶らけるように笑い声を上げた安室さんは、なんだかちっとも本気で思っていないように聞こえる。いや、きっと彼は、教える気などさらさらないのだ。だからこんな、他人事のような素振りを見せているのだろう。
「でもやっぱり、今は言いません。いつか教えてあげますね」
「今じゃだめなんですか? いつかって、いつですか?」
「え? うーん。そうですね……」
分かりやすく駄々をこねる私に、安室さんは何気なく視線を上へと向けた。そしてすぐに視線を戻し、爽やかな笑みを見せる。
「僕と同じことを、さんが考えるようになったらですかね」
「それ、私がそれを思ったって、安室さん分かるんですか?」
「分かりますよ。あなたのことですから」
さらりと舌に乗せられた安室さんの言葉に、うっかり手を滑らせて皿を割らなかったのは、ちょうど拭き終わったお皿をテーブルへ置いた直後だったからだった。代わりに、姿勢を正すように背がピンと伸びてしまう。えっ、と小さく漏れた声は、安室さんの耳まで届いてしまっただろうか。緊張と焦りで、背中にじわりと汗をかく。
ゆっくりと振り返ると、安室さんは何事もなかったかのように相変わらず食器類を水で洗い流していた。私は今安室さんの斜め後ろにいるから、彼が今どんな顔をしているのかは確認できない。しばらく背中を見つめてみたものの、無言を貫く彼になんと声を掛けたらいいのか分からなくなって、すっかり火照った頬に戸惑うように瞬きを繰り返しては目を伏せた。
「僕は、誰よりあなたのことを理解している人間になりたいと思って、あの日想いを告げたんですよ」
ふと、シンクに当たる水の音が途切れる。どうやら蛇口を締めたらしい。すっかり無音の空間となったこの場所は、やけに声が響いて聞こえた。
彼の隣に戻ることは、きっと簡単なことだった。振り返って、一歩前に進めばいいだけ。何も特別な動作はない。お皿だって彼は洗い終えたのに、私はまだ拭き終えていない。自分から手伝いたいと名乗り出たのだから、手際よくこなさなくてはらないことくらい分かっている。しかしどうしても今、私は彼の横に並ぶことはできなかった。
まるで、初めて告白されたあの日に戻ったみたい。
あっという間に熱を籠らせた顔は、もう上げられない。一人俯いたままぎゅっとふきんを握りしめて、大きく鳴り響く心臓の音に急かされるように緊張を全身へと走らせていた。
「は、はい……」
絞り出すように返事をした声は、自分が思っていた以上に震えていたものの、決してそれがいやではなかった。むしろ心が満たされていて、しあわせで溢れていることに私自身気付いている。恥ずかしくてくすぐったくて、でもそれが嬉しい。だからこの感情を伝えたくて、震える口で必死に言葉を紡いだ。
「……あの、でもそう思ってるのは安室さんだけじゃ、な、ないですから、ね」
一見まるで張り合うような台詞だというのに、ちっとも凄みを含まないのは、きっと私が俯いてばかりいるせいだ。心拍音がうるさくて、手が震えてしまう。
「わ、私、だって、あ、安室さんのこと……」
そう口にしたまではいいものの、これ以上言葉にしたらきっと私は爆発して死んでしまう。そんな錯覚に捉われてしまうほどに心臓は根を上げていた。だからこんな状況から少しでも脱却したいというのに、まだこの空間に浸っていたいと思う矛盾した心のお陰で、もう何も言うことができない。
安室さんの声は聞こえないのにまるで呼ばれたような感覚になって、おそるおそる背を向けていた彼を盗み見るように振り返る。するとタイミングがよかったのか悪かったのか、ほぼ同じ行動に出ていた彼の青い瞳が私を捉えた。その瞬間、どうしたことか全身が動かなくなる。唯一泳げる視線だけが逃れようとつい目を逸らそうとしてしまうけれど。
「さん」
「は、はい!」
突然呼ばれた名前に肩を震わせては大袈裟なまでに反応してしまう。余裕はどこかに置き忘れてしまった。だけどどうしたことだろう、安室さんは分かりやすく視線を外し、珍しく歯切れの悪い口調で場を繋いでいる。こんな姿を見せるのは珍しいような気がして、私は逆に目が逸らせない。ますます大きくなる心臓の音が彼に聞こえないことを祈りながら、じっと彼を見つめていた。
今私の頭は彼のことでいっぱいだというのに、安室さんの何気ない素振り全てがじれったく思えている。
「僕はあなたのこと、もっと知りたいって思ってます。だから……」
どこか遠慮しがちな音を含んだ彼は、しかし視線を私へとぶつけた。向けられているまっすぐな瞳は、私の心を離さない。全身の力が抜けそうになるのを必死にこらえながら、彼の言葉の続きを待っていた。しばらく間を開けてから彼はふわりと表情を緩め、目尻をますます垂れさせて言った。
「少しお話、しませんか?」
安室さんのどこかぎこちない照れ臭そうな声は、まるで私からの反応を待っているようだった。いつの間にか辺りを覆っていた甘い空気に、つい酔ってしまいそうになる。火照る頬のままゆっくりと目を伏せ、小さく頷いた。
20190323