「おいしい……」
自然と口から零れた声は、まるで信じられないと言わんばかりの響きを含ませていた。動揺のあまり左手に持っていた煮物鉢の中身を覗きこむ。淡い紺で描かれた十草模様の和食器の中に盛られていたそれは、昨晩私が食べたいと主張した煮込み料理であることには違いないというのに、どうしたことか私は、未だに事態を飲み込めないままでいる。
「えっ。あの、安室さん。すごくおいしいです!」
まるで馬鹿の一つ覚えのように、いや、まるでそれ以外のことは口に出せない呪いでも掛けられたかのように同じことを繰り返す私は、今度はその作り手である彼を見つめると、安室さんはどこか緊張がほぐれたような笑みを見せた。
「よかった」
お口に合ってなによりです。そう付け足した安室さんに、未だ興奮を抑えきれない私は、半ば感心するかのようにまじまじと肉じゃがを見やった。甘すぎずしょっぱすぎない絶妙な味付けと言い、しっとりとしたじゃがいもは味がしみ込むほど煮込まれているものの煮崩れを起こさせていない件と言い、お肉の柔らかさと言い、一口頬張っただけでつい笑みが零れてしまう。初めての安室さんの部屋に緊張して、正直味なんて分からないんじゃないかと思っていたというのに、料理と言うものは実に偉大なものだった。
「まるで、お店で売ってるものみたい。……え。これ、本当に安室さんが作ったんですか?」
「ええ、一応」
「すごいです……!」
「そんな、大袈裟ですよ」
謙遜をする安室さんは分かりやすく眉を垂れ下げたものの、どこか満更でもないような空気を身に纏っていた。なんだかそれが嬉しくて、「そんなことないです」と否定しながら豆腐の味噌汁が入ったお椀に持ち替えて、何気なく喉に流し込み、また固まった。
「どうしよう……。おいしい……」
「さん、そんな、気を遣わなくても大丈夫ですからね」
「いや、あの、本当に! 安室料理教室があったら通いたいくらい、すごくおいしいです」
力説すると、安室さんは目をぱちくりさせた後、目を細めて笑った。彼は笑うと少し幼くなる。それがなんだかかわいくて、私はとてもすきだった。
「こんなので良ければ、いつでもお教えしますよ」
「本当ですか?」
明るい声は随分とはしゃいでいて、喜んでいますと言っているようなものだった。それに先程から随分頬が緩みすぎているような気がして、誤魔化すようにグラスを手に取る。そのまま麦茶を流し込むと、安室さんはけろりとした顔で言った。
「ええ。手取り足取り、きっちりお教えしますから」
ちょうど飲み込もうとした拍子にそんなことを言われたものだから、すっかりむせ返ってしまった。大きく咳き込む私に、安室さんは目をまん丸くさせる。
「だ、大丈夫ですか?」
その声に答えるべく返事をしようと思うものの、どうにも咳が治まらず、声を出す暇がない。まさか、変な意味に聞こえて意識してしまったんです、なんて言えるはずもなかった。必死に頷いては「大丈夫です」と主張する。ああ、背中が随分と熱い。
「(は、恥ずかしい!)」
こんな、一人で妙な解釈をしてしまったことを安室さんは決して知ることはないのだけれど、それでも積み重なるこの罪悪感は一体なんだというのだろう。すっかり呼吸が落ち着いても、心配そうに見守る安室さんからの視線を捉えることができない。
さり気なく、他の話題を切り替えよう。
そう瞬時に判断した私の脳は、ひとまず喉を整えるべく咳払いをひとつした。今度こそ適切にお茶を喉に流し込み一息ついた後、まるで何事もなかったかのように箸を手に取りつつ口を開く。
「そ、そういえば、安室さんのすきなものってなんなんですか?」
あまりにも唐突すぎる話の振り方だっただろうか。しかし料理が苦手な私でも、すきな人の好物くらいは作れるようになりたい。今回は安室さんが作ってくれたから、次は私が作ってあげられたらいいな。そんなささやかな願望をこっそり織り交じりながら尋ねると、安室さんは目をぱちくりさせて言った。
「え? あなたですけど」
まるで挨拶を交わすかのようにさも当然とばかりに答えた彼は、そのまま特に気に留めることなく食事を再開させていた。大きな手で器用に掴まれた箸がじゃがいもを一口大のサイズに切り、その一切れを口の中へ運んでいく。自分の耳を疑っていた私は、そんな彼の一連の動作を瞬きすることなく眺めていた。
時間を掛けてじわじわと頭が真っ白になっていったかと思ったときにはすでに全身の力が抜けていて、お陰で指から箸が零れ落ちてしまった。その後すぐにカラン、と無機質な音が耳に飛び込んできたから、おそらくテーブルか床に着地してしまったのだろう。しかし私はすぐにそれを拾うこともできず、ただ呆然と私の正面に腰掛ける金髪の青年を見つめることしかできない。
ただ、彼の耳にも異変の音が届いてしまったらしい。身を乗り出すように床を見つめ、何となく事態を把握したらしい安室さんは、体勢を元に戻して、おずおずと口を開いた。
「……さん?」
「えっ? あっ。すみません……!」
なんと答えたらしいのかが分からず口籠ってばかりの私は無意味に辺りを見回して、誰か助け舟を出してくれる人はいないものかと探してしまったけれど、冷静になって考えてみればこの部屋には安室さんと私の二人しかいないのだから、そんな都合のいい人物存在するはずがなかった。それに気付いた私は、いつの間にかすっかり熱くなった顔を隠すように俯く。
「あ、あの。わ、私、料理苦手だけど、安室さんの好物なら、が、頑張って作れるようになりたいなと思って、聞いたんです……けど……」
まるで独り言を呟くような小さな声は、目の前にいる安室さんの耳まで届けることをどうにも渋っていた。つまり私は料理の話を振ったつもりだったのに、そこへ自分への好意を返されるとは夢にも思っていなかったのだ。予想外の出来事だったということと、そういう投げ掛けに不慣れなことも相まって、すっかり体の芯から温まってしまう。
そこで安室さんはようやく自身の返答が噛み合っていなかったことを悟ったのか、あっ、とどこか気まずそうな声を漏らした。妙な沈黙がダイニングに広がっていく。身を縮ませ体を小さくまとめあげては、高鳴る心臓の音をじっと聞いていた。
「……すみません、変なことを言ってしまって」
「い、いえ……!」
彼からの謝罪の言葉に背中を丸めながら、小さく左右に首を振った。まだ顔は上げられない。顔に掛かった右の横髪を耳に掛けながら、あちこち視線を泳がせる。もしかしたら、重いだとか、頭が固すぎると思われてしまうだろうか。普通に話すときはなんでもないのに、どうして恋愛感情が絡むと慌てふためいてしまうのだろう。
一体私はどうしたらいいんだろう。これくらいのことくらい適当に流せられればいいのに真に受けて、分かりやすく照れてしまっている自分がひどく恥ずかしい。安室さんだって、もしかしたら冗談で言ったかもしれないのに。
「……あの、す、すみません。私、全然そういう冗談通じなくて。もっとユーモアを持って視野を広く持ちたいなって、思ってはいるんですけど……!」
「そうですか? さんが謝る必要なんてないと思いますけど」
まるで、なんでそんなことを考える必要があるのかとばかりに、心底不思議そうな目が私を捉えている。てっきり肯定の反応が返ってくるとばかり思っていた私は、えっ、と動揺の声を零してしまった。
「だってそれって、いつだって真剣に僕を想ってくれてるってことでしょう? さんのそういうまっすぐなところ、僕はすごくすきだし、僕もあなたにそう思ってもらえたらいいなっていつも思っていますよ」
ああこの人は、私のだめなところも、全部受けとめてくれる人だ。そう直感した瞬間、急に目頭が熱くなった。口を開きかけたものの、喉の奥がひくついてまともに声が出ないことを察し、そのまま唇を噛みしめる。滲み出す視界を悟られたくなくてほんの少し目を伏せた。
「……すみません。もしかして、僕、また間違えました?」
なかなか反応を示さない私に、安室さんはどうにも不安に駆られたのだろう。覗き込むように私の様子を伺っている。小さく首を横に振る私はどうしても想いをしまいきれなくなって、隠し通すことができない。
「……ありがとうございます」
心が満たされると、ふわふわした、しあわせな気持ちになる。もらってばかりではなくて、この感情を誰かに分けてあげたくなってたまらない。私が今温かな気持ちになっていることを安室さんに伝えたら、彼もまた嬉しく思ってくれるのだろうか。
「(思ってくれると、いいなあ)」
少しでも何かをしてあげたくて、でもこんなのは、自己満足だろうか。急にこんなことを言われても、安室さん困っちゃうかも。どうしたものかと様子を伺うように彼を見やると、視線に気付いたらしい安室さんはくすぐったそうにはにかんだ笑みを見せるから、その瞬間、私の心臓は鷲掴みにされた。気付けば私は彼の名を呼んでは、高鳴る心臓を抱きしめたままふわふわした何かを彼に渡そうと必死になって言葉を探している。
「あの、実は私、仕事とかうまくいかなくて落ち込んだとき、安室さんが言ってくれたこと、時々思い出してるんです。その度に、頑張ろうって思えてくるんです。だから安室さんてすごいなって。私もそういうふうになれたらいいなって、お、思っ、て……」
私は一体何の話をしているのか。段々自分が恥ずかしいことを言っていることに気が付いて、口を閉ざしてしまった。最後までだなんて、言えそうにない。じわじわと込み上げてくる羞恥心のせいで、熱くなった背中に汗をかいた。
「や、やっぱりなんでもないです! 忘れてください!」
突っ込まれないように素早く予防線を張ると、気まずさを誤魔化すように再びグラスを手に取った。そのまま麦茶を二口ほど一気に流し込んだものの、どうにも正面の彼からの視線が熱い。一体どうしたらいいのか場のやり場に困っていると、安室さんは、もしかしたら、と呟くように言った。
「僕達は、似た者同士なのかもしれませんね」
「……似た者同士?」
思ってもみなかった単語の登場に顔を上げ、つい復唱してしまった。安室さんは、ええ、とひとつ頷く。
「僕も以前、言ったでしょう? あなたが笑ってくれると頑張ろうと思えるって。だから、似た者同士なのかなと。だとしたら、僕達は思ってた以上に相性がいいのかもしれませんね」
「えっ!」
反射でつい喜んでしまったことに気が付いて、はっと我に返った。無邪気に喜んだ声をどうにかして取り戻したい後悔の念を抱きながら、頬に熱を集め顔を伏せる。そんな私を見つけた彼は小さく笑うから、なんだか恨めしい。
「わ、笑わないでください」
「すみません。あなたは本当に、かわいい人だなと思って」
「なっ!」
突然投げ込まれた形容詞に、瞬く間に体温は再び急上昇した。そのせいか舌は回らず口篭もり、まともに声を発することができない。たった一度耳にした言葉が、何度も頭の中を駆け巡る。安室さんは優しい瞳を私に向けて綺麗に微笑んでいるから、今の私はその視線で殺されてしまう。緩みそうになる口元を右手で隠すように押さえたまま、目を逸らし、絞り出すように言った。
「だ、だから、そういう冗談もすぐ真に受けちゃうって、前に、い、言ったじゃないですか……」
「でも僕も、あなたのことがかわいくて仕方がないと、事前お伝えしてあるはずなので」
「えっ。あ、あれ、本気だったんですか……?」
「むしろ、冗談だと思われていたんですか?」
目をまん丸くする安室さんは、まさかそのまま受け取られていなかったとは思っていなかったらしい。しかし逆にそんなことを問われても、私はもうなんと返せばいいのか分からないのだ。だって、とか、ええと、だとか、そんなたどたどしい言葉を繰り返し、うろたえるように無意味に辺りを見回す私に、安室さんは、緩やかに目を細めて言った。
「では改めて、不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
「えっ。あっ。よ、よろしくお願いします!」
彼につられるように慌てて頭を下げたものの、もう何が何だか分からない。ゆっくりと上半身を起き上がらせると、自然と顔を見合わせた。お互いをじっと見つめ合う。なんだか堅苦しい挨拶を交わした雰囲気がくすぐったくて、なんだかおかしい。噴き出すように表情を柔らかくしては、小さく笑い合った。
「食事も再開しましょうか。新しい箸、お出ししますね」
「あっ、すみません。ありがとうございます」
「いえ。お洋服、汚れてないですか?」
「ええと……。だ、大丈夫、です」
トップスの胸元やスカートへと視線を落とし、あちこち見渡してみるけれど、幸いなことにそれらしいものは発見できない。ほっと胸を撫で下ろしながら、床で寝ている箸を拾い上げた。いつの間にか席を立っていた安室さんは、棚の一番上の引き出しからその代用品を取り出している。彼は私の手に握られている二本一組のそれを受け取ると、取り出した箸を私に手渡した。使えなくなったものはそのまま迷うことなくシンクへと直行し、そのまま向かいの席へと戻っていく。どうやら後でまとめて洗うつもりらしい。
代理の箸を受け取ったこともあり礼を言うと、安室さんは、とんでもないです、とにこやかな笑みを見せる。そして彼は、テーブルに並べられた皿を見つめながら、そういえば、と続けて言った。
「料理もすっかり冷めてしまいましたね。温め直しましょうか」
「え? うーん……」
その提案に、ふと小鉢の中を覗きこむ。じっとそれを見つめた後箸を伸ばし、一口頬張ってみると、確かに先程に比べて明らかに熱は逃げていた。しかしすっかり落ち着いた温度になっているお陰で、より味をしっかり感じることができる気がする。冷めたとは言っても粗熱が取れた程度で、食べられないほど冷たくなっているわけではないのだ。うん、とひとつ頷いて顔を上げた私は、迷うことなく即答した。
「今も十分おいしいから、大丈夫です!」
すっかり上機嫌な顔になってしまったのは、やっぱり彼の作った肉じゃがが私好みの味だったからに違いない。私もがんばったら、こういうものを作れるようになれるのだろうか。そうしたら、安室さんも喜んでくれるのかな。そんなことを考えつつちらりと正面の彼を見やると、どうしたことか、安室さんは心ここにあらずとばかりにぼんやりと私を眺めていた。
「……安室さん?」
どうにも気になって声を掛けると、まるでそこで初めて我に返ったとばかりに反応を見せた彼は、なんでもないと語尾を濁した。そう言われては、私はもう何も追及することができない。しかし、妙に視線を感じるのはなぜなのだろう。言ってることとやってることがあまりに矛盾している気がしてならない。時よりちらちらと彼を盗み見ると、安室さんはまるで興味津々な子どものようにじっとこちらに視線を集中させていた。
「(もしかして、口元に何かついているのかな……)」
それなら言ってくれればいいのに、とどこか責任転嫁のようなことを考えつつ、空いていた左手でぺたぺたと口周りを触ってみる。しかし、それらしいものはどうにも発見できない。首を傾げながら再び正面へと視線を戻してみると、やっぱり上機嫌に私を眺めている安室さんがいた。このまま食事を再開するには、あまりに心臓の負担が掛かりすぎる。私はついに耐えかねて、おずおずと声を掛けた。
「あの、な、なんですか……?」
「いえ。なんでもありません。気にしないでください」
安室さんは先程と同じ台詞を返してきたものの、今度はお椀を手に取ってお味噌汁を啜り始めた。どうやら謎の観察タイムは終了したらしい。一体なんだったのだろうかとますます首を捻りながらも、しかしそんなことを推理できるほど、私は洞察に長けているわけではない。すぐに白旗をあげては、目の前の食事を楽しんだ。
20190323