心拍数が上がると、人はどうしてこんなにも落ち着かないんだろう。

 どうにも緊張が解けないせいで、深呼吸のように深い呼吸を繰り返した。あちこちに目配せしては、しかしあまり落ち着きのない姿を彼に晒すわけにもいかないと静かに俯く。膝の上に乗せた鞄をじっと見つめながら、昨夜眠りにつく前にした決意を胸の中で繰り返した。

 RX-7のエンジン音が久しぶりに止んだ車内で、私はひどく緊張している。

「少し歩くんですが、すぐそこなので」

 そう言ってシートベルトのロックを外す安室さんの姿に、慌てて自分も安全装置を取り外した。何がすぐそこなのか聞かずとも理解した私は、ぎこちなく返事をすることで精一杯で、ついに安室さんの自宅に足を踏み入れることになるのかと今更過ぎることを実感する。なんでもこの駐車場から彼が借りているアパートまで、三十メートル程度らしい。

「あの、運転ありがとうございました」

 緊張なんて何ひとつしてませんよ、という顔を必死に張り付けて安室さんに声を掛けると、彼は今日も変わらず爽やかな笑顔で「いえ」と首を振る。良くも悪くも、いつもどおりの素振りだ。

「(意識しているのは私だけなのかな)」

 そんなことを勘ぐっては、少し泣きそうになる。

「(でも、もし安室さんが今日何もしてこなかったら、私からいかなきゃ)」

 昨日から何度繰り返したか分からない決意を自分に言い聞かせるたび、ますます心臓は駆けるスピードを速めていく。よくよく考えてみれば私は待ってばかりで、自分から行動を起こしていない。でも絶対、それも今日で終わりにするんだ。

「(せ、せめてその、手くらいは繋ぎたい、し)」

 明らかに当初よりハードルが下がったことは、いかに私が小心者かを物語っている。二人揃って車を降りると、随分日が伸びたとはいえすっかり暮れていた空は、気付けば星が姿を現していた。肩に掛けた鞄の持ち手を、ぎゅっと握りしめる。

「鞄、持ちますよ」
「えっ!?」

 何気なく掛けられた声に分かりやすく声を裏返してしまった。まさか、あれもこれもと詰め込んだ結果、とても日常生活で持ち歩く鞄の重量ではなくなったことを、彼に悟られるわけにはいかない。

「だ、大丈夫です! あの、重た──ええと、軽いので!」

 馬鹿正直に告白したら最後、ますます「じゃあ持ちますよ」という展開になりかねない。それに下手をしたら「何をそんなに持って来たんですか?」と聞かれるような気がして咄嗟に誤魔化すと、あまりに私が必死な素振りを見せたからだろうか、安室さんは目をぱちくりさせながら、「そうですか?」と首を傾げた。不審に思われただろうか。

 内心冷や汗をかきつつ安室さんの元へ駆け寄るように横に並ぶと、それを確認した彼は「こっちですよ」と柔らかな声を掛けては駐車場を後にした。特に追及しては来ない安室さんに、ほっと胸を撫で下ろす。

「そ、そういえば、今の部屋って、住んでどれくらいなんですか?」

 何か話していないと落ち着かない。ひとまず咄嗟に思い付いた話題を振ると、安室さんは顎に手を当てて過去を思い出すような素振りを見せては、半年とちょっとくらいですね、と簡潔に答えた。

 少し、意外だった。

「勝手に、長く住んでるのかと思ってました」
「はは。実は、前に住んでいたところが更新月だったんです。部屋に不満はなかったんですが、まあ気分を変えるのもいいかなと思いまして」

 そういえば、よく引っ越しをすると言っていたな。ぼんやりと思い出しては、そうなんですか、と相槌を打った。もしかして家に何もないと言っていたのは、今後引っ越すことを見越して物を増やさないようにしているということだろうか。だとしたら、私も見習った方がいいのかもしれない。つい数ヶ月前に引っ越しで半泣きになっていた自分を思い出し、なんとも言えない気分になった。

「──ああ、着きましたよ」

 その声に肩を震わせ、顔を上げた。茶色いタイル──暗いから正確な色は分からないけれど──の外装をした三階建てのアパートが、ひっそりと建っている。築年数は結構経っていると聞いていたけれど、趣のある雰囲気は感じない。逸らすことなくじっと外観を眺めている私に、安室さんは「部屋は三階なので、階段がちょっときついですが」と笑った。その声に彼に視線を送ってはつられたように笑ったけれど、心臓は軽いパニック状態に陥っている。

「(な、なんだか、ついに来たって感じがする)」

 アパートの入り口すぐのところにある階段を一段一段上るたびに心拍数が上がるのは、きっと私の日頃の体力のなさだけではない。滑らせて転ばないようにと足元ばかりを見つめていた私は、前を進む彼の背中が妙に恋しくなって顔を上げた。

「(安室さんは、緊張してないのかな)」

 それとも、感情が顔に出ないだけ? いつもと変わらなすぎて、こんなに意識しているのは私だけなんじゃないかと不安になってしまう。だって、お付き合いしてる男女が自宅に行くって、つまりそういうことなんじゃないの? いや、もしかして世間では、安室さんのような反応が普通だったりするのだろうか。私が身構えすぎているのだろうか。つまり、私が欲求不満ということ?

「(そ、そうだけど、そうじゃないから!……た、多分!)」

 どうにも自信がなくなっていると、突然安室さんは振り返ってくる。まるで心の声を聞かれたような気分になって一気に体温が急上昇した私に、彼は立ち止まって尋ねた。

「大丈夫ですか?」
「え!? は、はい! あの、だ、大丈夫です……!」

 何が大丈夫なのかさっぱり分からなかったけれど、ひとまずここは穏便に済ませたほうが無難だろうと瞬時に判断した頭は慌てて頷いた。話を聞いてみると、どうやら三階まで階段で上がるのが体力的にどうかと気になったらしい。

「(わ、私、そんなに心配になるほど疲労した顔してたのかな……)」

 仕事終わりだからなのか、それとも単に安室さんの優しさから出た言葉なのか、一体どちらなのだろう。ひとまず口角を上げることを意識した顔を向けると、安室さんはしばらくじっと視線を注いだ後、「あとちょっとですから、ゆっくり上りましょうか」と綺麗な笑みを見せてきた。

「は、はい……!」

 ほにゃっとした緩み切った顔になってしまったのは、間違いなく安室さんに笑いかけられたせいだった。どうも彼に微笑まれると無条件で頬が緩んでしまう。疲れが一気に吹き飛んでしまった。これは一体、どうしたものだろう。

 再び安室さんが背を向けたことを確認した後、両手を頬に当てては、頼むからもう少し締まった顔をしてくれと自分自身に頼み込むしかない。

 三階分の階段を登りきると、四つの扉が壁側に一直線に並んでいた。どうやらここは各階四部屋の、合計十二部屋で構成されているらしい。物珍しさからきょろきょろと辺りを見回しながら、彼の背中についていく。なかなか立ち止まらないなとぼんやり考えていると、安室さんは廊下の一番奥のドアの前でようやく足を止めた。どうやら角部屋だったらしい。

 慣れた手つきで鍵を開ける彼の横顔を、見ているだけで緊張が高まってくる。ガチャン、と開錠された音に思わず肩を震わせた。ゆっくりとドアを開き、廊下に設置されたわずかな照明で照らされた玄関がぼんやりと姿を現す。靴は一足も出ていない。使わない靴はしまう主義なのだろうか。

「(ちゃんと整理整頓してそう……)」

 まだ足を踏み入れてすらいないというのに、すでに彼の一面を垣間見た気がしてくすぐったい気分になる。

 安室さんはドアを最大まで開けて固定させると、そのまま迷うことなく玄関へと足を踏み入れる。その背中を見つめながら彼の行動を見守っていると、安室さんはすぐに壁側に手を伸ばした。カチッと無機質な音が耳に入るとほぼ同時に、室内を明るい光が照らしだす。どうやら彼は照明をつけたらしい。

 すっかりクリアになった視界には、これまで確認できなかったダイニングテーブルの姿を発見する。どうやらこの家は、玄関を入ってすぐのところに台所があるらしい。デーブルがあるということは、食事は部屋ではなく、ダイニングで食べているのだろうか。

 そしてよくよく玄関を見てみれば、一人暮らしには十分すぎるほどの備え付けの靴箱が設置されていた。扉が付いているから、何がどのように入っているのか、その中身は確認できない。

 加えて玄関の床のコンクリートは、まるで今まで一度も汚れたことがないと主張しているかのように、素材そのものの色しか広がっていなかった。チリや落ち葉ひとつない空間は、間違いなく彼の几帳面さを物語っている。

「どうぞ」

 その声に、はっと我に返った。彼が私に背を向けて靴を脱いでいたことをいいことに、あちこちを観察しすぎていたのだ。気付けば安室さんはすっかり外靴からスリッパに履き替えている。

「あっ。えと、は、はい!」

 ようやく玄関に足を踏み入れ、しかし玄関が開けっ放しであることを思い出した私は、引き返すようにドアノブに手を掛けた。早く閉めなければとどれだけ引っ張ってみても、マイペースな鉄の扉は開閉する速度が決まっているのか、ゆったりと、かつ一定の速さでしか動いてはくれないようだ。今の私にはそれがやけにじれったい。時間を掛けようやく外の世界から隔離されたことを確認し、小さく息を吐いた。振り返ると、ずっと見守っていたのであろう部屋の主とぱちりと目が合う。

 その瞬間、ここは安室さんのプライベートの空間であることを改めて認識し、じわじわと背中に熱が集まった。やけに意識するせいか、つい視線を下へ逸らしてしまう。まるで、靴を脱ぐからと、そんな言い訳を主張するかのように。

「あの、じゃあ、お、お邪魔します……」

 随分弱気な声は緊張をまとわせたまま、喉の外へと吐き出された。脱ぐ手間を取らないよう、ストラップも何もついていないシンプルなパンプスを選んできて正解だった気がする。お陰ですぐに足から離れたそれを、かかと部分を室内へと向けては壁側の隅に寄せた。ストッキングから伝わるフローリングがすこし冷たい。

 そうだ、朝や会社を出る前にきちんとにおいケアしてきたけど、大丈夫だろうか。靴を脱いだ瞬間、自分ではどうにも分からなくて不安になる。ひとまず、今朝開封したストッキングに電線や穴は確認できないようだけれど。

「そのスリッパ、よかったら使ってくださいね」

 その、という連体詞と、スリッパという単語から、ふと足元に視線を落とすと、そこにはなるほど安室さんが今履いているものと同じものが私の間隣りに鎮座していた。どうやら彼はこれを履けと言っているらしい。来客用にも出しておいてくれたのだろう。

 礼を言ってそれに足を滑らせるように入れたものの、この白い室内用スリッパはまるで新品のように、汚れや使い古した跡が感じられない。足の裏に当たるふわふわとした触感が、下ろしたてであると主張しているように思える。使用頻度が低いのか、たまたま買い換えたのかどちらなのだろう。どちらにせよ、うちの使い古されたものとは大間違いだ。

「(……今度買い換えよう)」

 心の内でこっそりと決意しつつじっと足元を見つめた後、何気なく顔を上げて改めて室内を見回してみる。入ってすぐの台所はガスコンロが二つ付いており、サイズは違えども鍋が全て占領していた。私が安室さんの手料理を食べてみたいと我儘を言ったから、準備をしてくれていたのだろう。

 しかしそれ以外の調理器具は片付けられており、シンクや調理台には何ひとつ置かれてはいない。換気扇の下にはフライパン類がフックで取り付けられている。流し台の横に白い冷蔵庫が設置されていたものの、その真上に電子レンジが直置きされているのを発見し、妙な親近感を抱いた。

 いつも彼はここで寝て起きて、ごはんを食べて過ごしているのか。まるで宝探しをする子どものように胸を躍らせてしまう。物珍しそうに辺りを見回してばかりの私に、安室さんは「恥ずかしいから、そんなに見ないでください」と笑った。

「す、すみません。……あ。あの、これ」

 このタイミングで渡すのはどうにも忍びなかったものの、二十四時間営業のコンビニチェーン店の袋を差し出した。安室さんは、目をきょとんとしながらそれを見つめている。

「コンビニので申し訳ないんですけど、このプリンすごくおいしくて、最近のお気に入りなんです! だから、よかったら一緒に食べようと思って」

 すると安室さんはどこか納得したように、ああ、と頷いてビニール袋を受け取っては、何気なく中を覗きこんだ。濃厚とろけるプリン、とシンプルに印字された小さなカップ二つと顔を合わせた後、私を目で捉え、ありがとうございます、とにこやかに微笑みかける。

「あ。い、いえ……」

 ここが安室さんの部屋だからだろうか。何気ない仕草も、いつも以上にくすぐったく感じて仕方ない。笑顔ひとつでさえ、どうにも心臓が騒がしかった。落ち着きなく視線を泳がせた後、しかしこれでは不審にしか思われないと気付いた私は、取り繕うように口を開く。

「えっと……て、手を洗ってもいいですか?」
「ああ。洗面所、左です」

 方向を指差され、その先を追うように顔を向けると、なるほど木製の引き戸が空間を仕切っていた。

「自由に使ってもらって構いませんから。照明のスイッチは上の方です。ああそれと、お手洗いも洗面所の奥ですから」

 上の方? 奥? 首を傾げそうになりつつも、分かりましたと素直に頷いて、相変わらず鞄は右肩に掛けたまま、横開きの扉を横へとスライドさせた。その間安室さんは早速プリンを冷蔵庫へ収納しているようで、特にこちらのことは気に留めていないようだ。その様子を横目で確認した後、何気なく視線を今まで仕切られていた部屋へと戻す。そして照明をつけるとほぼ同時に中へ足を踏み入れ、何気なく出入口横を見て固まった。

「(ど、独立洗面台がある……!)」

 都内の一人暮らしの賃貸でお目に掛かることなんて早々ない代物の登場に、私はひどく動揺していた。距離を縮め、まじまじと眺めてみる。水垢も抜け落ちた髪も一切ない綺麗なシンクは、見ていて気持ちが良かった。

 ふと、その正面に位置する謎の部屋の存在に気付き、じっとその扉を見つめてみる。中の様子が一切伺えないこの擦りガラスのようなドアの素材から察するに、間違いなくお風呂場なのだろう。そして安室さんは、奥がお手洗い、と言っていたから、洗面台の右奥にあるこの引き戸がそれということになる。つまり単純に考えて、これはユニットバスではない、ということになる。それは私が、家賃の関係から泣く泣く断念したものだった。

「(いいなあ……)」

 時々物件検索で見かけた、シャワーだけのタイプなのだろうか。それとも普通に浴槽が? じっと扉を見つめながら、確認してみたい衝動がふつふつと湧いてくる。

「(安室さんが毎日使ってる、お風呂……)」

 そっとドアに手を伸ばそうとして、はっと我に返った。

「(か、勝手なことしちゃだめだって)」

 思い出したように180度体を回転させバスルームに背を向けると、洗面台の蛇口をゆっくりと上げる。注がれる水に両手を濡らしながら、やけに背中が熱くなっていることに気付いた。

 邪念は捨てなければとゆっくりと息を吐き出すと、ふと蛇口横に置かれているポンプ式の容器を発見する。白く無駄のないシンプルな作りをしているそれは、商品名はおろか文字一つ書いてはいなかった。おそらく彼が、シンプルな容器に詰め替えたのだろう。

 水を止めて手を伸ばしたところで、これは実はハンドソープではなく洗顔フォームというトラップもあるのだろうかと一瞬固まった私は小心者なのだろうか。もしもそうだった場合、なんとも申し訳ない気分になる。しかし蛇口の横にただひとつ置かれているのだから、おそらくは私の目的の代物である確率の方が圧倒的に高い。

 洗顔料だったらごめんなさい、と心の内で呟きながら、そっとポンプを半プッシュした。人様の家でしっかり一回押す気には、どうしてもなれない。手の平はもちろんのこと、爪と指の間まで念入りに洗い込んだ後、水気を切った手を右横のタオルでふき取った。

「(……布が、薄っぺらくない……)」

 それどころかある程度厚みもあるお陰か、ふかふかとしている。水分の吸い取り具合もやけに早かった。そういえばダイニングは少なく見積もっても五畳はあったし、この部屋の家賃は一体いくらなんだろう。

「(私が思っているより、探偵って儲かるものなの、かな……?)」

 部屋は和室だと言っていたから、さほど高くはないのだろうか。それとも、リノベーションはしてあるけれど築年数は経っているからという理由でお手頃価格とか? 勿論私は不動産屋ではないのだから、詳しい見積もりが瞬時に出せるはずがない。

 安室さんの経済事情がどうにも分からず、ひとまずの着地点として私もお仕事がんばろう、とひっそりと決意したところでダイニングへと戻ると、その当人は冷蔵庫から麦茶らしきものを取り出し、グラスに注いでいた。どうやら彼は、台所で手を洗ったらしい。

 声を掛けようか悩んでじっとその姿を見つめていると、私からの視線に気付いたらしい安室さんは、おかえりなさい、とにこやかに微笑んだ。

「あっ。は、はい」

 おかえり、と言われるほど離れてはいなかったものの、むず痒くなる何かのせいで、無条件で頬が緩んでしまった。下唇の内側をほんの少し噛みながら心を温かくしていると、「荷物、適当にそこの部屋にでも置いといてくださいね」という声が投げ掛けられる。そして彼が指を差したのは、この部屋の一番奥にある、畳の部屋だった。

 あっ、と思った。

 なんでもない顔を必死に張り付けて、分かりましたと相槌を打ったものの、急に存在を主張し始める心臓が騒がしい。誰に言うでもなく「お邪魔します」と小さく呟きスリッパを脱いでは、畳の空間へと足を踏み入れた。

 どうやら部屋はこの和室のみのようだから、寝室として利用しているのだろう。何気なく全体を見渡す前に、入ってすぐの隅にベッドが置かれていることに気付いてしまった。何を考える前に、つい凝視してしまう。はっと我に返り、慌てて顔ごと逸らして背を向けた。しかし心臓は分かりやすく駆けている。

「(……また変なこと考えちゃった……)」

 皺ひとつなく整えられたベッドメイキングに彼の几帳面さを垣間見たものの、どうも頭から離れてくれない。綺麗にされていたのが逆に、なんというか。

「──さん」
「ひゃあ!?」

 突然背後から声を掛けられ度肝を抜かれた私は咄嗟にしゃがみこみ、おそるおそる首を回した。するとそこには目を真ん丸とさせた安室さんが、お盆を片手に立っている。

「すみません。驚かすつもりはなかったのですが」
「い、いえ……」

 ドッドッドッ、と大きな音を響かせる心臓に、どうか落ち着けと胸に手を当ていると、部屋の主は、私と同じ目線になるように膝を折った。

「今準備しますから、お茶でも飲んで待っててください」

 そう言って彼はローテーブルの上に黒いコースターを1枚敷いた後、そこに、透け感のある茶色い液体が注がれたグラスをひとつ置いた。おそらく麦茶なのだろう。もしかしたら先程彼が淹れていたのはこれだったのかもしれない。一連の動作を見守った後、慌てて体勢を整え座り直した私は、ありがとうございます、と小さく頭を下げる。

 そして彼の言う準備というものが何を指しているのかすぐに理解した私は、立ち上がりすぐに台所へと戻ろうとする安室さんをすかさず引き留めた。

「あ、あの。私、手伝います」

 後を追うように体重を前へ移動させ、つま先を畳に付けたところで、しかし彼はそれを制止させるかのようなにこやかな笑みで言った。

「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。もう作ってあるので、温め直すだけですから。すぐ終わります」

 できたら声を掛けますね。そう付け足した安室さんは、今度こそキッチンへと戻っていった。そう言われては、私はもう何もできない。しばらくはその背中を眺めていたものの、しかしいつまでもそうしているのも気まずさを感じ、体ごと向きを変え視線を逸らした。そのまま麦茶の入ったグラスを視界に入れると、ひとまずその前に座っておけばいいのだろうかと、膝立ちでローテーブル前へ移動する。

「し、失礼、しまーす……」

 まるでこっそり忍び込んでいるかのように小さく呟いては腰を下ろした。間隣りに鞄を立たせるように置くものの、どうもバランスが取れずに横に倒れてしまう。しばらく格闘していたものの、申し訳程度にテーブルに寄り掛からせ固定した。小さく溜息をつく。

 しかし実際、待っていてくれと言われても、どうにもくつろぐ気にもなれない。スマートフォンを取り出す度胸は私にはなかった。正座をしながら、あちこち泳がせてしまう視線はどうにも浮足立っている。極力ベッドを見ないようにしようと無意味に床の畳を撫でながら、畳の目を数えて気を紛らわしていようかとぼんやりと考える。

「(でもこの部屋、なんにもないんだな)」

 ベッドとローテーブル以外に目ぼしい家具が、一切見当たらない。本当に彼はここで生活を送っているのだろうか。そう心配になってしまうほど、彼の色を見つけることができなかった。そういえば、テレビも見当たらない。寝て食べるだけだから、必要ないということなのだろうか。でもその割に、彼は世間の流行や行政関係の話題にすこぶる強い。スマートフォンか何かで、電子新聞でも読んでいるのだろうか。

「(……私、まだまだ安室さんの知らないところ、たくさんあるんだな)」

 私自身、積極的に自分のことを話すタイプではないと自覚している。加えて詮索されるのはすきではないから、彼に対してもさほど聞かないようにしていたけれど、恋人らしいことをしたことがない事実も相まって、妙な焦りを感じ始めていた。急に胸の奥が締め付けられる。

 付き合っているからと言って、別に全てをさらけ出さなくていいと思っている。だけど今日、ほんの少しでも彼のことを知ることができるだろうか。楽しみのような、どこか不安のような、少し怖いような、いろんな感情が混ざり合って分からない。でも気付けば頬はすっかり緩んでいるから、私はきっと宝箱を開ける子どものように、無邪気にはしゃいでいるのだ。


20190323