安室さんは、優しい人だった。

 いつも笑顔が温かくて、一緒にいると私まで釣られて笑ってしまう、少し不思議な人だった。目が合うだけで優しく微笑んでくれるから私はそれが嬉しくて、しかし逆にそれが裏目に出ているのだろうか。

 初めて想いを伝え合ったあの日から約二ヶ月経つというのに、あれ以降、彼が私に触れることはなかった。その言葉の通り指一本触れてこないものだから、恋仲ではなかったときに行った水族館のほうが、よほど恋人らしい振る舞いをしていたように思えてならない。始めこそ、緊張してばかりの私に気を遣ってくれているのかと思っていたものの、手すら繋がれないこの状況に、流石の私も徐々に焦りを感じ始めていた。

「うーん……」

 シャワーを浴びた体をバスタオルで拭きながら、自分の体のラインを目で辿っては眉間に皺が寄る。それがすっかり日常と化してしまったのは一体いつからだったろう。今となってはすっかり記憶の彼方だけれど、まるで何かが私をじわじわと隅へ追いやってくるような感覚は、どうにもすきにはなれなかった。

「(私に魅力がないってことなのかなあ……。色気がないとか、そういうこと?)」

 安室さんが私に一切触れてこないのは、自分に原因があるのかもしれない。そんな着地点に辿り着いていた私は、特別大きくもないけれど小さくもないと思っていた自分の胸に、じっと視線を落とした。それとももう少し大きければ、それなりに魅力的に映るのだろうか。バストマッサージなるものを毎日やれば、多少は変わるのかもしれない。それは後で調べることにして、ほかには何をすればいいのだろうか。

 パックはドラックストアの安物だけれど週に二回はするようにしているし、ボディミルクを毎晩欠かさず付けている。髪もシャンプーを変えてみたら自分に合っていたようで、すこぶる調子がよかった。だらしないと思われたくなくて、爪は短く整えている。下着は全て新調した。思い当たることは全て実行してみたけれど、特にこれと言って効果はないらしい。しかしどれも手を尽くしすぎて、もう他の案は思い浮かばないから困ったものだった。

「(そもそも性欲がないとか……)」

 にこにこと笑っている安室さんの姿を思い浮かべ、ぼんやりと思う。否定ができない。あんな、紳士を具現化しましたみたいな人に、人間の三大欲求を感じることができないのだ。ああ、でも食べるのはすきみたいだから、食欲はあるのかな。なんて健康的なんだろう。

「(いやでも、ここまでくると非健康的だよ安室さん。一周回って全然健全じゃない……)」

 溜息をつきながら、コットンに含ませた化粧水を肌に馴染ませた。そしてもはや一連の動作とばかりに肌の手入れを全て済ませ蛇口をひねっては、基礎化粧品が馴染んでいる手を洗う。本当はそのままハンドクリーム代わりにしたほうがいいのかもしれないけれど、寝る前ならまだしも、手の内側がクリームでべたついているのはすきでなかった。

「(……安室さんは、私に触りたいって思わないのかな)」

 そばにいられるだけでしあわせだと確かに思っていたはずなのに、想いが実った瞬間欲深くなってしまった。お互い仕事があるし、安室さんは探偵業という仕事柄、いつも休みは不定期だった。それに調査依頼が後を絶たないらしく、何かと忙しそうにしている。

「(疑うことのない確かな愛情さえ感じられれば、会えなくても不安になんてならないのに)」

 溜息をついて、ユニットバスを後にした。なんだか最近の私はよく溜息をついている気がしてならない。しあわせが逃げると聞いたことがあるし、まずはここから改めるべきなのだろうか。

 先程まで体を拭いていたバスタオルで今度は濡れた髪を無造作に拭きながら、身に着けるものを求めてクローゼットを開ける。湿気で籠ったユニットバスと違い、部屋はやけに涼しく感じた。おそらく先程までつけていたクーラーの冷気がまだ残っているのだろう。

 もう初夏とはいえ、このままでは気温差で風邪を引いてしまうかもしれない。そういえばシャワーを浴びるたびに思うのだけれど、下着もきちんと用意してから入ったほうが湯冷めすることもなくていいのだろうか。

「(でも着替えを置くところもないし、どうせ部屋には誰もいないし、そもそもその一手間が面倒だし……)」

 こんな姿、絶対安室さんには見せられない。そんなことを片隅で考えていると、ふと、ベッド前にあるローテーブルの上で、スマートフォンが震えていることに気が付いた。

 よく行くショップからのお知らせメッセージでも届いたのだろうか。何気なく拾い上げ、あっ、と声を漏らした。画面には、安室透と記載されている。おまけにこれはメールでもSNSのメッセージ受信でもない、着信画面と来たものだ。

「(安室さん!)」

 つい反射で口角が上がってしまう。噂をすれば影というタイミングが、妙に心を弾ませた。そのまま呼び出しに応答しようと右手の親指でスマートフォンの画面に触れようとしたところで、やけに肌色が視界に入ってくることに気付き、はっとした。まさかこんな、素っ裸な状態で安室さんからの電話に出るわけにはいかない。慌てて端末画面を下に向けてテーブルへと戻した。

 テレビ通話ではないし、そもそも例えそうだったとしても通話に応答しなければこちらの姿は相手に見えるはずがない。そう分かってはいるものの、どうも安室さんに見られているような気になってしまったのだ。それに彼はとても鋭い人だから、電話越しとは言え、何かの拍子に、私が何も身に纏っていない姿であると気付いてしまうかもしれない。そんなことになったら、私は間違いなく恥ずかしさのあまり死んでしまう。

 おろおろと部屋の中を見回し、ひとまず開けっ放しにしていたクローゼットの中に収納されていたチェストから下着を引っ張り出した。普段寝る前はブラジャーはしたくないというタイプのはずなのに、何故か今、絶対に付けなければならないという謎の義務感に襲われている。しかしそちらはどうにも捻じれていたりホックに掛からなかったりと、なかなかに手間取ってしまった。

「待って待って、待っててください!」

 通話中になっていないのだから、こんなことをスマートフォンに向けて言ったところで安室さんに届くはずがない。しかしそうしなければせっかくの着信が切れてしまうような気がした。ベッドの隅に置いていたパジャマを掴むも、一秒でも早く袖を通そうと意識するあまり、逆にうまく着ることができない。特にズボンは中途半端に履いたところで立ち上がろうとしたせいで裾を踏み、うっかり転んでしまいそうになってしまった。

 ぐらつく体重移動をなんとか踏みとどまり、そのままようやくスマートフォンへと手を伸ばす。そして考える前に通話モードに切り替え、慌てて口を開いた。

「──も、もしもし!」
「ああ、さん。こんばんは」

 久しぶりに聞く安室さんの声に思わず頬が緩む。お待たせしてすみませんと謝罪すると、安室さんは気にする素振りを見せない、ゆったりとした口調で尋ねた。

「そんな、とんでもないです。僕が急に掛けたんですから。……今、忙しかったですか?」
「いえ。お風呂に入ってただけなので、大丈夫です」

 まさか、大慌てで服を着ていたのでちょっと忙しかったです、なんて馬鹿正直に暴露するわけにもいかず、その部分のみを隠したまま答えると、安室さんは少し間を置いて、そうですか、と小さく返してきた。まるで独り言のように絞られたボリュームに、彼にしては珍しい反応があるものだと首を傾げつつも、「それで、今日はどうしたんですか?」と尋ねる。すると安室さんはまた暫く沈黙を挟んだ後、特に用件はないんですが、と付け足して言った。

「……どうしても、さんの声が聞きたくなって」
「えっ」

 つい零れた声は、嬉しさと恥ずかしさと動揺が綺麗に混ざり合っていて、なんと返すのが正解なのかすっかり分からなくなる。「あ、ああ、あの」とどもった声しか出てこないお陰で、首の後ろが熱くなった。熱はそこからリンパに乗って、じわじわと顔へと侵食する。

 嬉しいというのは、愛しいということなのかもしれない。

 気を抜けば笑みを溢してしまう口元は、今この瞬間をきっと誰よりも楽しんでいる。どうにも落ち着いていられず、部屋の中をあちこち歩き回った。空いている左手はどうにかして言葉を生み出そうと、まるで脳にもっと働くよう催促するかのように無意味に動かしてみるものの、いまいち効果があるのかは怪しい。心臓の音を噛みしめるように胸元をぎゅっと掴み立ち止まっては、意を決して口を開いた。

「あ、あの。私もちょうど、安室さんのこと考えてました」
「本当ですか? 一緒ですね」
「は、はい……!」

 一緒、という言葉に、つい小さく笑みを溢してしまう。なんだかふわふわした気分になって、頬は引き締まることを知らない。ああ、これが電話で本当に良かった。でなければ私は、安室さんにこんなにも間抜けに頬を緩ます顔を見せてしまうところだったのだから。

 ようやくベッドの中央に座り込んで落ち着くと、枕を引っ張って来ては胸の前でぎゅっと握りしめる。なぜだか無性に何かを抱きしめたい気分だった。いや、本当なら私は、この電話の主の体温を感じて、ますます深くなるしあわせに浸りたいと思っている。しかし今それができないから、私は代わりに枕を抱きしめるしかないのだ。

 だけどもし彼がここにいたら、自分から抱き着けるような気がする。そんな浮ついたことを考えてしまう程度には、私はすっかり舞い上がっていた。

「何か、変わったことは? 身の回りで妙なことが起こったとか、ないですか?」
「は、はい。大丈夫です」
「よかった。なによりです」

 もしかして、以前付きまとい行為をされていたことがあったから、私のことを心配してくれていたのだろうか。柔らかい口調が彼の優しさを物語っている。体育座りに座り直し、足の親指同士を擦り合わせた。安室さんの何気ない言葉が、とても嬉しい。

「そういえば、新しい職場はどうですか?」
「うーん……。覚えることがいっぱいだし、まだ慣れないことがあって大変ですけど、みなさんいい人ばっかりだし、なんとかなりそうです」
「それは良かった。さん、頑張ってるんですね」
「そ、そんな……」

 安室さんに褒められると、つい調子に乗ってしまう。お陰でやけに甘ったるい声を出してしまった。しかし単純な私は今、もっと仕事を頑張ろうと心に誓っている。ただどうにも照れていることを悟られるのは気恥ずかしくて、誤魔化すように彼に話題を振った。

「安室さんは? お仕事、忙しいですか?」
「ええ、もう少ししたら落ち着きそうなんですが。……すみません、全然会えなくて」
「い、いえ! そんなことは!」

 彼に謝罪されたことでようやく言葉の選択を誤ってしまったと強く実感した私は、どうしてもっとよく考えてから口にしなかったのだろうとひどく後悔していた。遠回しに、なぜもっと会えないのかと責めているように聞こえたのだろう。もちろん私は、決してそういうことが言いたくて口にしたわけではない。だからどうにかして誤解を解くべく、相変わらず浮ついてばかりの心を隠すことなく口を開いた。

「でも、忙しい中私のこと思い出してくれて、電話してくれて、あの、すごくうれしいです。ありがとうございます」

 おそらく私は、自分が思っている以上に調子に乗っていた。なぜなら、電話越しで相手の顔が見えないということもあって、普段ならば「恥ずかしい」と絶対に言わないであろうことを口にしている。絶対にこんなこと、面と向かっては言えなかった。だからもしかしたら私は、意外とこういう距離感のほうが合っているのかもしれない。

 だからこの際、聞いてみようか。安室さんは私に触りたいと思わないんですかって。直接は難しくても、今なら聞ける気がした。質問を投げ掛けるべく息を吸い、声と一緒に吐きだそうとした瞬間、それより先に彼の声が耳に飛び込んで来た。

「──会いたい」

 大きく心臓が飛び跳ねたことを皮切りに、音量を上げた鼓動が全身へと響き渡る。あまりにそのボリュームが大きくて、つられて手が震えてしまいそうだ。力が抜けてスマートフォンを落としてしまう気がして、慌てて左手で右手を支える。決して安室さんは今この部屋にはいないのに、なぜだか本当にこの場で言われたような気分になって、右の耳につけていたスマートフォン側へと視線を向かわせた。

「電話で聞けるならそれだけでもいいと思っていたはずなのに、やっぱり五分でもいいから会って、直接あなたの声が聞きたいです」

 会えないのは僕の都合なのにすみません。そう言った安室さんの声に、私はようやく我に返った。徐々に丸まっていく背中に、まるで枕に顔を押し付けるように埋らせる。すっかりどうして、顔が熱い。

 安室さんは、ずるい人だった。そんなことを言えば私はすぐに顔を真っ赤にしてうろたえてしまうことなど知っているくせに。どうにも反応ができないこの感情をどう言い表せばいいのか分からなくなって、深く息を吐く。

「そ、その言い方は、ずるいです……」

 ゆっくりと顔を枕から離し、小さく呟いた。

「あんまり考えないようにしてたのに、あ、会いたくなってきちゃうじゃないですか……」

 触れてくれないのは私に魅力がないからじゃないかとずっと悩んでいたというのに、こんなことを言われては、愛されていることを実感してしまう。愛しさが募ってしまう。急に押し寄せてくる波に、ぐすりと鼻を啜った。気付けば視界が滲んでいる。

 ──疑うことのない確かな愛情さえ感じられれば、会えなくても不安になんてならないのに。

 そう思っていた数分前の自分に言ってあげたい。私は間違いなく安室さんに愛されていると。それとも私は、愛されているからこそ触れたくなって、会いたくなってしまうのだろうか。だとしたら、まるで終わりの見えない追いかけっこをしてるようだ。

「──さん。明日、何か予定はありますか?」
「え? あ、明日……は。ええと……」

 卓上カレンダーを見やり、今日の日付を探す。明日は第3金曜日。枠内は真っ白のままだった。その旨を彼にも伝えると、そうですかと返事が返ってくる。

「よかったら明日の夜、会えませんか?」
「えっ?」

 私の耳が正常に機能していたのであれば今、会えませんかと聞かれただろうか。じわじわと込み上げてくる何かが表に出て来るまで数秒のタイムロスを発生させながら、前のめりになりながら尋ねる。

「い、いいんですか!?」

 思いもよらなかったお誘いに、つい大きな声を出してしまった。はっと我に返り謝罪すると、電波の向こう側で彼の嬉しそうな笑い声が聞こえた。すっかり熱くなる体に、身を縮み込ませるように背を丸める。まるで自分だけがはしゃいでるようで俯いていると、「楽しみですね」と柔らかい声が聞こえてくるから、単純な私はすっかり手のひらを返してしまった。気が付けば私は、はい、とこれまた甘えきった声で返事をしている。

「あの。ごはん、一緒に食べたいです」
「ええ。おいしいもの、食べましょうね」

 緩み切った口元のまま真っ白な天井を見つめ、そのまま流れ込むように横へと倒れ込んだ。衝撃をふとんに受け止められた後、そのままベッドの上を転がりたい衝動をぐっとこらえる。背を丸めながら枕に抱き着き、ゆっくりと目を閉じた。

「(……しあわせ)」

 すきな人にすきと言ってもらえて、会いたいと言ってもらえて、こんなにしあわせなこと、他にあるのだろうか。緩んでばかりの口元を左手でそっとなぞっては、ますます笑みを深くした。

「どうしましょう、さんの職場に近いところのほうがいいですよね? 何か食べたいものはありますか?」
「あ……」
「ん? なんです?」

 つい口から漏れそうになった願望に気が付いて慌てて引っ込めたものの、安室さんはそれに気付いてしまったらしい。綺麗に拾い上げた彼の声に、しかし素直に答えるのはいかがなものかと「いや、あの、ええと」とぎこちない反応を返した。

「なんです? 遠慮なさらず、言ってもらって構いませんよ」

 温かい声は、きっと本心から言っているのだろう。しかし脳裏に浮かんだものを本当に口にしていいものなのかが分からない私は、相変わらず渋ってはどうにも遠慮してしまう。すると安室さんはしばらく考えるような声を出した後、もしかして、と呟いた。

「逆に、職場に近いのは嫌ですか? それか、夜景の綺麗なところがいいとか」
「い、いえ、そういうんじゃなくて! そ、その……」

 寝っ転がりながらお気楽に話すようなことではない気がして、慌ててベッドから上半身を起き上がらせ正座するも、相変わらず枕は胸元で抱きしめられたままだった。心臓が緊張の音を主張する。

 ……言って、いいのだろうか。調子に乗っていると思われたりしないだろうか。引かれたりしないだろうか。

 様々な色の「もしも」を考えてはどうにも口にすることをためらってしまうけれど、今なら少し、言っていい気がする。むしろ、今だから言える気がする。先程のやり取りで後押しされた私は、ゆっくりと口を開いた。

「あ、あの。あ、安室さんのごはんが食べてみたい、です……」

 あまりに弱々しく自信なさげな声は、明らかに緊張を身に纏っていた。本当は「安室さんの家に言ってみたいです」と告げるはずだったのに、どうにもストレートすぎるような気がして言葉を選んだのだ。しかしそれはそれで、安室さんの面倒ばかり増えてしまうことを催促している。それに気付いたのは、残念ながら全てを口にしてからのことだった。

「……そんなので、いいんですか?」
「は、はい」

 ぎこちなく頷いたものの、私にとっては“そんなもの”で分類されるにはあまりにも贅沢なものだった。だから本当は訂正をしたかったのだけれど、それより先に、なぜ唐突にこんなことを口走ったのかを補足しなくてはならないような気がして、彼からの返答を待つ前にその説明を追加する。

「ほら、安室さん前に言ってたじゃないですか。料理するのがすきだって。前に送ってもらった写真もいつもおいしそうだったし、いつか食べてみたいなって思ってて。あの、私料理苦手だから勉強にもなるかもですし、でも急にこんなこと言われても迷惑だっていうのも分かってるし、安室さんも大変なので、あの、次に機会があればで、全然」

 しどろもどろになりながら必死に言い訳をかき集めるけれど、自分が今何を言っているのか理解することができない。普通彼女が料理を振る舞うんじゃないかとか、なんて面倒な女なんだと思われているかもしれないし、現に私もそう思っている。だってこんなの、安室さんへの負担が一方的すぎた。そんなことは分かっていたけれど、どうしても言いたかったのだ。例え直接的には言えなくても、安室さんの家に行ってみたいと、そう伝えたかったのだ。

「──じゃあ明日、うちに来ますか?」

 何気なく投げ掛けられた誘いに、頭が真っ白になった。今、彼はなんと言っただろうか。確かに聞こえたはずの声は、まるで幻聴のように、すっかり記憶の彼方へと吹き飛んでいた。しかしまるでそれを察したかのように、安室さんは補足を口にする。

「大したものは作れませんが、それでもよければ」

 その言葉に、やはりこれは聞き間違いではなかったとやっと実感することができた。まるで全身の力が抜けるかのような感覚になる。耳の後ろに移動したかのように心臓の音が騒がしい。急に喉が張り付くように乾いてしまった。自分から言い出したというのに、いざ本人から提案されるとどう返せばいいのか分からなくなる。

「……あ。えっと……」
「ああ、すみません。お世辞を真に受けてしまって。久しぶりですし、やっぱりちゃんとしたお店の方がいいですよね」
「い、いえ、そんな!」

 これを逃したらきっともう二度と彼の自宅に足を踏み入れるチャンスはない気がして、慌てて引き留めた。

「ご、ご迷惑でなければ、安室さんのおうち、行ってみたいです!」
「ええ、構いませんよ」

 その声に、私の口角はみるみる上がる。しかし今の言い方ではまるで料理ではなく家に行くことがメインになっていると思われてしまうと、慌てて「あの、安室さんのごはん楽しみです」と付け足した。プレッシャーを掛けないでくださいと、彼は笑う。

「そうだ。何か食べたいものはありますか? リクエストとか」
「え? ええと、ええと」

 なんでもいいです、というのは明らかに無責任すぎる。だからこそ何かを挙げようと即座に決意したものの、こういうとき何を選べばいいのかさっぱり分からない。おそらく相手の負担にならないような簡単な料理がいいのだろうか。いやしかし、明らかにお手軽レシピすぎるのも逆に失礼なのだろうか。料理下手な私にとっては、包丁を出した時点でその料理は全くお手軽ではないのだけれど。

 しばらく考え込んだ後、絞り出すように言った。

「……に、肉じゃが、とか……?」

 正解を探るかのような、様子を伺う口調となってしまった。微妙な反応をされたらカレーやハンバーグに変更しようと心に誓いながら、まるで賞金を懸けたクイズに挑戦する回答者のように心臓を大きく高鳴らせる。だから彼から「分かりました」と受け入れられた声が聞こえたときは、ほっと胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。

「じゃあ、会社を出たら待っててください。車で迎えに行きますから」
「そんな、大丈夫ですよ。ただでさえこんな面倒な我儘聞いてもらってるのに。それに、もしかしたら残業だってあるかもしれませんし、待たせてしまうかも……」
「……一秒でも早く、あなたに会いたいんです」

 だめですか? そんなことを言われては、私はもう拒否なんてできない。いえそんな、と小さく呟くだけで精一杯だった私は、俯きながら無意味に座り直した。

「(今日の安室さん、すごくぐいぐい来てる気がする)」

 いつも積極的に言ってくるタイプではなかったと記憶しているのに、今日はどうしたというのだろう。いや、決して嫌ではない。むしろ嬉しいのだけれど、安室さんへの免疫がないこの心臓では生きた心地がしないのだ。彼は明るい声で、ありがとうございます、と言っているから、うっかりつられて全く同じ言葉を繰り返しそうになってしまった。間違いなく私の脳は、正常に機能していない。

「楽しみにしてますね。それじゃあ、また明日」
「は、はい。おやすみなさい」

 何気なく言われた「また明日」というフレーズに顔をほころばせた。明日、彼に会えるんだ。「また今度」じゃない。「いつか」ではない確定された約束が、きらきらと輝いて聞こえた。そして何より、私に会えるのを心待ちにしてくれていることが嬉しい。だから就寝の挨拶のたった一言に、これ以上ないほど愛しさを詰め込んだのは生まれて初めてのことだった。

 通話が終了した端末を見てみると、見慣れたトップ画面が表示されている。またじわじわと込み上げてくる温かい感情に口元が緩む。そのままスマートフォンを胸元に抱き寄せては目を瞑り、そしてまたベッドの上でぱたりと横へ倒れこんだ。

「(安室さんのおうち……)」

 行くのはこれが初めてだ。一体どんな部屋で生活しているのだろう? 確か以前、和室のアパートだと聞いたことがあるような気がする。そのとき、なんだかインテリアにもこだわってそうですねと言ったら、別に何も置いてないですよと苦笑していたけれど。

 だけどどんな部屋であろうとも、安室さんが普段暮らしている部屋に足を踏み入れることが重要なのだ。今まで見えていなかったプライベートをも覗き込むような気がして、少し緊張するけれど。

「……あ」

 思い出したように上半身だけ起き上がらせては、ふと思った。

「(こ、これって、お泊りなのかな)」

 だとしたら、それ相応に荷物をまとめなければならない。しかし、「泊まって行くか」とは聞かれなかったし、私も安室さんの作ったごはんが食べたいとは言っただけだった。つまりこれは本当に夕飯を一緒にとって終了、気を付けて帰ってくださいねコースである可能性はゼロではない。勿論一般的な流れと真逆のものであることは重々承知している。

 しかし、相手はあの安室さんなのだ。お付き合いすることになってもキスどころか手も繋いで来ず、パーソナルスペースには一切入り込んでこない、あの、安室さんなのだ。

「(で、でも、流石に……)」

 いくら鈍感で紳士な彼でも、流石に察してくれるんじゃないだろうか。そうだ、一応持って行って損はないだろうし、最低限のものだけ持って行こうか。ええと、下着とシャンプーと化粧品類、それに眼鏡とコンタクト……。しまった、コンパクトに収められる自信がまるでない。

 もし安室さんに、「なんでそんなに大荷物なんですか?」とでも聞かれたら、私はきっと死んでしまう。しかし準備を一切して来なければ逆に、なんで泊まりなのに何も持って来なかったの? と思われる可能性もある。

「(ど、どうしよう!)」

 一体これは、どうするのが正解だと言うのだ。答えを求めて部屋の中を見回すも、もちろんそんなものが隠れているはずがない。ベッドの上に鎮座しているスマートフォンを見つけ慌てて手に取るものの、まさかつい先程まで通話していた人物に確認を取るわけにもいかなかった。

「ええと、ええと」

 ひとまず使う使わないは置いておいて、荷物だけまとめておこうか。仕事用のA4サイズの鞄に入るくらいのものを厳選すれば、不自然ではない気がする。まずはリストでも作って洗い出すところから始めて……。ああでも、まずは髪を乾かしたほうがいいのかな。そうだ、明日の服は何にすれば。

 どうしたことか、優先順位がつけられなくなってしまった私は、部屋を右往左往と歩き回る。時より思い出したようにスマートフォンを見つめては首を振り、慌てたようにクローゼットの中を引っ掻き回した。

 今日はゆっくりと眠れる自信が、まるでない。


20190323