これがドラマなら、きっと私は綺麗に微笑んで頷いたに違いない。だけどこれは現実で、決して綺麗な夢物語ではなかった。
泣きじゃくる私は軽い酸欠状態で頭が真っ白になって何も考えられなかったし、実際安室さんが口にした言葉もほとんど満足に覚えていない。むしろ残っている記憶の欠片も本当に現実に起こった出来事なのか疑わしいものとなっている。
ただ、サイドミラーに映った私の目や鼻が真っ赤に染め上がっていたことは間違いなく現実なのだろう。顔を見られるわけにもいかないと俯いたまま、いつの間にか差し出されたハンカチで鼻元を隠す。彼からハンカチを借りたのは、これで三度目のことだった。
私が泣き出してどれくらいの時間が経過したのか自分では分からない。ただひとつだけ分かっているとすれば、泣き止むタイミングが分からず困り果てているということだった。どうしよう、これはやはり私から話し掛けて沈黙を破り、それとなく話題を変換させる方向で動くしかないのだろうか。しかし私の数少ない記憶によると、告白めいたことを言われたような気がするけれど。
「……少し、ドライブしていいですか?」
唐突に、隣の彼が言った。私の返事を待つより先にシートベルトに手を掛け、エンジンを響かせる。無意識に「えっ」と動揺した声を溢してしまった私は、完全に脳の指令に体が追いついていない。そんな私を見越してか、安室さんは折角締めたシートベルトのロックを解除した後、おもむろに白い箱を差し出した。
「これ、どうぞ。持っててください」
あ、はい。そう言われるがまま頷いて受け取り、一体これはなんだと見つめてみる。見たところデザート類を購入した際詰められるケーキボックスのようだけど、その側面には今日私達が待ち合わせたコーヒーショップのロゴが印字されている。そこでようやく自分が残したチョコレートケーキであることを思い出した。そういえば彼はテイクアウト用に包み直してもらったと電話口で言っていた気がする。
「失礼」
短い言葉が聞こえるか聞こえないかのタイミングで、右側から接近する影があることに気が付いた。何気なく顔を向けてみれば、やけに真面目な目をした安室さんが、明らかに運転席のテリトリーを飛び越えて私に顔を近付けている。
「えっ」
これはもしかしてキスされる流れでは。でもそんな急に言われても、いや安室さんは何も言っていないけれど、せめてそういう雰囲気を作ってもらわないと、急に空気を察して臨機応変に対応できるほど私の頭は優秀には出来ていない。
これ以上ないほど、心臓が破裂しそうだ。完全にパニックに陥った脳の指令部は、ひとまず固く目を瞑れと指令だけ出して逃亡した。
「待っ──」
ってください。そう最後まで口にすることも叶わず全身を凍らせていたものの、どうしたことだろう、待てど暮らせど何も起こらない。流石におかしいと疑問を持った司令部はゆっくりと本部に再度集まろうとしている。
目を開けていいだろうかと許可申請を提出しようとしたところで、耳に入って来たのは何が擦れるような音と、カチッという無機質な音だった。これはどこかで聞いたことがある。むしろ数秒前に右横で全く同じ音を立てていたのを小耳に挟んだ記憶があった。
痺れを切らしてゆっくりと瞳を開けてみると、安室さんは何事もなかったかのように運転席に座り直している。そして右奥からシートベルトを引っ張り出して自分の胸の前をタスキ掛けするように流した後、左下のバックルへと突き刺した。そこでようやく理解した。今聞いたのはシートベルトを締める音であると言うことを。ふと自分の胸元を見てみれば、左上から右下に掛けて綺麗にベルト状の安全装置が設置されていた。
「(……あっ。そういう……)」
全身の力が抜けていく感覚だった。むしろ勘違いをした自分が恥ずかしい。安室さんも言ってくれれば良かったのにと八つ当たりのようなことを考えては俯いた。
車を走らせてから、彼は何も言わなかった。ラジオをつけることもなく、ただどこへ向かおうとしているのか私にはちっとも分からない大通りを走り抜けている。推理してみてくださいと、彼は言うのだろうか。しかし自分なりに予想しようと考えてみても情報がひとつもないこの状況では組み立てようもない。どうしたものかと考えつつハンカチを握りしめていると、車はコンビニへと立ち寄った。その店の前に設置された小さな駐車場で、久しぶりに車はエンジンを停止する。
「すぐ戻ります」
彼はたった一言そう言い残して車を降りたかと思ったら、そのまま1人店内へと姿を消して行ってしまった。展開について行けず、私はただ呆然とそれを見送るしかない。しかし彼が戻ってきたのは、思っていた以上に早いものだった。店内の滞在時間は、せいぜい1分かそこらだろう。あっという間に戻って来た安室さんは、すでに運転席へと腰を落としている。一体何しに行っていたのか分からず、お金でも下ろしていたんだろうかと適当に予想する私に、彼は何かを手にした左手を差し出して言った。
「どうぞ」
それは、“コーヒー”とアルファベットで記載されている缶だった。他のものを手にしていないところからみると、どうやら彼はこれを買うためにコンビニに立ち寄ったらしい。もしかして私が泣きじゃくるから喉が渇いただろうと気を利かせてくれたのだろうか。それとも飲み物を調達しなくてはならないほど、これから長距離を移動するのだろうか。どちらの仮説が正しいのか分からず自信なく彼を見やると、安室さんは眉を下げて笑った。
「目を冷やしたいかと思って。……すみません。お酒以外の缶は、コーヒーしかなかったんです」
でもさんて、レモンティー派ですよね。何気ない一言に、反応が遅れてしまった。確かに私は店に入るとき、大抵レモンティーを選んでいる。決して「すき」だなんて伝えたことはないけれど、口にせずとも覚えてくれていたのだろうか。
「い、いえ。あの、ありがとうございます……」
小さく礼を告げて両手でそれを受け取ると、冷蔵コーナーでしっかりと冷気に当てられていたのかひんやりとしている。彼の優しさに口が緩みそうになりながら、肩瞼を閉じてそっと当ててみた。冷たい。しばらく左右交互に繰り返していると、彼はまたエンジン音を響かせた。どうやらここが最終目的地ではないようだ。数分滞在しただけの駐車場を出ると、これまでの進行方向を変えないまま真っ直ぐに大通りを突き進んで行く。
「あの、どちらに……?」
目的地なくただ闇雲に走らせているだけだろうか。どうも気になってようやく声を掛けると、安室さんは一度こちらに目配せした後すぐに正面を見据えて言った。
「僕等が初めて一緒に出掛けた場所です」
◆
すっかり常温となってしまった缶がハンカチと一緒に私の手の中で横になる頃、辿り着いたのは賑やかにはしゃぐ音楽を身に纏っていて、私にも覚えのある場所だった。中に入らずとも見える大きな観覧車が記憶に新しい。チケット売り場の横にイルカやペンギンのポスターが所狭しと言わんばかりに貼られていた。
チケット売り場で大人2人分の入場料を支払った安室さんは、そのまま私を園内へと引き連れて入場ゲートをくぐって行く。なぜ突然東都水族館へ行こうと思ったのか分からない私は、ただひたすら彼の背中についていくしかない。
彼が迷うことなく向かったのは、敷地内中央で存在感を主張する観覧車だった。「今なら待ち時間なしでお乗り頂けます」というスタッフの声はやけに空気を呼んでいる。気が付けば私達は、東都水族館に着いてわずか数分で観覧車に乗っていた。
ゴンドラ内は、相変わらず弾んだBGMが流れている。しかしどうにも無言を貫くこの空気はどうしたらいいのだろう。そしてなぜ安室さんは、突然ここに来ようと思ったのだろう。水族館なのに一直線に観覧車に乗ったということは、観覧車に乗ることに意味があると言うことなのだろうか。しかし観覧車に乗りたいのなら杯戸ショッピングモールのほうが近かったはずなのに。どうにも分からない。
身辺調査と称されたあのときのように無邪気に外の景色を眺めるのもどうかと思い、ガチガチに凍りついた体でまっすぐに座ってみるものの、高鳴る鼓動は明らかに緊張を主張していた。手がやけに冷たい気がして膝の上でぎゅっと握りしめる。隣に座る安室さんも腰掛けたまま何も言わない。顔すらこちらに向けていない。気付かれないようにそっと横目で確認して、また視線を自分の手へと落とした。
「(わ、私達、両思いってやつでいいんだよね……?)」
だからきっと、変に勘ぐらなくてもいいんだ。そう分かってはいるものの、そういえば私はちゃんと安室さんに「すき」と言っただろうかと記憶を遡る。多分、いや、確実に口にはしていないような気がするのだけれど、大丈夫だろうか。「他の女の子の話をされるのはつらいからやめて」とか「諦めなくちゃと思っていた」とは言ったものの、イコール「あなたのことがすきなんです」という意味だと、ちゃんと伝わっているのだろうか。
子どもじゃないからきっと分かってくれるに違いないと思う自分と、しかし安室さんは変なところで変化球判断してスルーしてくるから分からないぞと脅してくる自分が脳内でバトルを繰り広げている。──ええい考えていても始まらない本人に直接聞いてしまえと、思い切って安室さんに声を掛けた。
「あ、あの! ……な、なんで観覧車に?」
やっぱり聞けなかった。見事なオチがついたところで自分で自分が嫌になる。こんな1人コントみたいなことをして、一体何をしているんだろうか。背中を随分と熱くしていると、一方の安室さんは気まずそうに目を逸らし、どこかバツの悪そうに小さく呟いた。
「……観覧車はロマンチックだって、言うから……」
……誰が? 目をぱちくりさせながら曖昧に相槌を打つ私は、時々安室さんが分からない。世間的に観覧車といえばそういうイメージがあるから、ということなのだろうか。彼はかわいいところがある。ついまた笑みが零れそうになってしまったのを必死にこらえていると、ふと彼が私の名を呼んだ。もしかしてまた“かわいい”と思ってしまったことを咎められるのだろうかと考えつつ顔を向けると、彼は真面目な顔をしている。その姿に、あっ、と息を飲んだ。
「(きっと、“そういう”話をするために来たんだ)」
瞬時に察知した私は小さく返事をして背筋を伸ばした。
「──僕はあなたに、いくつも嘘をついてきました」
唐突に言った安室さんは、どこか少し淋しげに笑って、ほんの少し目を伏せた。
「ありもしない身辺調査だなんて言って水族館に誘ったのも、ああでも言わない限りあなたと外で会う口実が出来ないと思ったからです。デートに誘って断られることを恐れて、嘘をつきました。映画館の前売り券も、あなたが興味があると聞いて自分で用意したもの。すきな人がいると言ったのも、どうしても僕を意識してほしかったから。……あなたはいつだってまっすぐに僕を見てくれていたのに、僕は嘘を重ねて来たんです」
なんと答えたらいいのか分からず、ただじっと安室さんの話に耳を傾けることしか出来ない。今私が口を挟むのは何かが違う気がした。しかし安室さんが告白するのは、一見どれも恋を成就させるために誰もが行う駆け引きというものにしか聞こえない。
それを嘘と称するのはいささか大袈裟な気がしてならないけれど、なんとなく安室さんが言おうとしていることはそういうかわいらしい話ではなくて、そのずっと奥の片隅に誰にも見つからないように隠している何かを指している気がしてならないのだ。私はそれが何なのか皆目見当もつかないけれど。
彼はゆっくりと目を瞑りそして開くと、今度は私を見据え、視線を逸らすことなく続きを紡ぎ始める。
「でも、あなたのことがすきだということは嘘じゃない」
信じてください。まるでそう訴えているかのような声は、どこか必死にしがみつこうとしている子供のようだった。
「僕はこんな職業だから、急に入った仕事を優先してしまうこともきっとある。調査のために、何日も連絡が取れなくなることも珍しくないでしょう。あなたを全ての中で一番には考えられないかもしれない。淋しいと泣かせてしまう日が来るかもしれない。それでも傍にいたいと願ってしまった僕の我儘に、付き合ってもらえますか?」
その目は随分と弱気な色を映し出していた。私の中で安室透と言う人物は落ち着いていて優しくて、でも時々拗ねたようにムキになる。からかったり真面目な顔をすることはあっても、不安に揺れていることはなかった。彼は一体、何を恐れているのだろう。まるで失うことを怖がる子どものような必死さを見せた彼に、私は言葉を探した。
──なぜ彼は、“我儘”に“付き合ってもらえるか”という言葉を選んだのだろう?
それだけ聞くと、まるで後ろめたさがあるかのように低姿勢を見せているか、全て自分が主導したい意思があるかのどちらかのように思える。勿論、もしかしたら両方の意味で言ったのかもしれない。それでも今彼が言いたいのは前者であると捉えてしまうのは、あまりに彼の瞳が不安で揺れていたからだった。
「……安室さんの言うそれが我儘なら、安室さんも私の我儘に付き合ってください」
どう答えるのが正解なのかは分からない。だから頷くことも首を振ることも今の私には出来なかった。彼が求める答えがもしも分かったとしても、これから向き合っていくのは自分自身なのだから、飾り付けた私はもう見せられないのだ。
「私はこう、マイペースというか1人の時間を大事にしてるタイプで、だからその、これまでのやりとりで分かってるかもしれないですけどメールの返信とか結構遅くて」
「……ええ、知ってます」
まるでどこか懐かしむような声で相槌を打った安室さんは、何かを思い出すように小さく笑みを溢していた。
「そのくせ割とこう、甘えたがりというか、構ってほしいときとそうじゃないときの差が激しいと言うか、気まぐれなところがあると言うか」
「それも知ってます」
「……なんで知ってるんですか?」
話の流れでつい肯定してしまったのだろうか。メールの件はともかくとして、甘えたがりでうんぬんというのは彼の前で見せたこともなければ話したこともないはずだ。すると安室さんはなんでもないと言わんばかりにはにかんだ笑みで言った。なんだかそれは、子どものように幼く見える。
「単なるイメージです」
「いめーじ」
「そう。イメージです」
他意はないですよと言うように繰り返した彼は、まるでもうこう話はおしまいと言わんばかりに私の左手を手に取った。指先を包み込むように握りしめながら、安室さんは目を細めた優しい顔で言う。
「……それに、待つのは嫌いじゃないですよ。これまでのことを考えたら、そんなものかわいいものです」
これまでとはどれくらいのことを差しているのだろう。私達が初めて出逢ったのは2年前だというのに、まるでもっと長い期間温め続けているような声をしている。愛しそうに指を撫でられるせいで鼓動を高鳴らせながら、まるで緊張を隠そうとするかのように口を開いた。
「……あ、安室さんて、時々不思議な言い方をしますよね。なんだかずっと昔から私のことを知っているみたい」
「ふふ。そう聞こえますか?」
また含みのある言い方をされた。ますます首を捻る私に、彼は小さく笑う。そして距離を縮めて来た彼はふとした拍子に横の顔に掛かった髪を耳に掛けた。くすぐったくて肩に力を入れてしまう。火照る頬が隠しきれないから、どうか今すぐ日が暮れてはくれないか。
ゴンドラ内は明るいBGMが鳴り響いていると言うのに、ぼんやり遠くに聞こえた音楽が、幻想的な雰囲気をかもし出している。じっと見つめる彼の瞳に吸い込まれていると、彼は甘い声で言った。
「──でも教えてあげません。だって僕は、“安室透”だから」
「よ、よく、分からないです……」
「そうですよね。すみません。独り言だと思って聞き流してください。つまりはあなたのことがかわいくて仕方がないと言う話ですから」
かわいいという単語に思わず顔に熱を集中させてしまった。目を合わせることも出来なくなって、つい視線を下ろしてしまう。すきな人から褒められるようなことを言われて聞き流すことなんて出来なかった。すぐに真に受けようとする心臓は分かりやすく走るスピードを速める。
「あの。そ、そういう冗談は、わ、私、すぐ勘違いするのでやめてください」
「どうして? 勘違いしてください。存分に。だってそれが曲げようもない事実なのだから、うぬぼれるべきです」
「そ、そんなの……」
事実でもなんでもなく、ただの冗談を言って私をからかっているんでしょう? そう確かに思っているはずなのに、熱が邪魔をして口にすることが出来ない。本心であることをどこかで願っているのかもしれない。ただただ口籠る私に、彼はついに額をくっつけ合ってくるからもう逃げられない。そんなに急に距離を縮められても、私は慌ててしまうだけで、ロマンチックな言葉など何ひとつ生み出せないと言うのに。
「……だから僕のことも、めいっぱいうぬぼらせてくださいね」
黙り込んでしまう私に、彼は呟いた。距離に反比例して随分小さくなったその声に心臓はますますスピードを上げる。こんなにも絞った声でも聞き取れてしまう距離は、まるで2人だけの秘密と言われているような甘い雰囲気を纏わせていた。
「ど、どうやって……?」
すっかり酔わされてしまった私の声は、安室さんに引っ張られたのか随分ボリュームを絞ったものだった。自信なさげに泳がせていた視線の照準をゆっくりと彼の瞳に合わせると、安室さんは満足そうに目を細める。
「……うん」
私の質問には答えずただ囁くように相槌を打った彼に、ますます翻弄されてしまう。言わなくても分かるでしょう? そう言われているかのような錯覚に溺れてしまったのだ。息が掛からないように呼吸すらゆっくりと細く繰り返す私にも、この距離ですることはひとつであると解っている。彼はきっと、そのことを言っているのだろう。
私から目を、閉じるべきなのだろうか。
心臓が破裂しそうなほど心拍音を全身に響かせているから、つい息をするのも忘れてしまいそうだ。安室さんの視線ひとつでこうも甘やかされるから、そっと目を伏せては瞳を閉じる覚悟を決めようとしていたというのに、彼はそれを待つ前にゆっくりと距離を取ってしまった。頭が真っ白になる。
今までの2人の他人行儀な距離を考えれば今でも随分と近いことには変わりないのだけれど、つい数秒前まで額をくっ付けていたのだからどうにも遠く感じてしまう。私はそれが悲しくて、さみしかった。まるで自分を拒絶されたように思えて、恥ずかしがらずにとっとと目を瞑ればこんなことにはならなかったのかもしれないと後悔ばかりしている。そんな私に、彼はやけに慎重な面持ちで口を開いた。
「……一応確認しておきたいんですが」
こんなときに? 拍子抜けした頭は未だ飲み込めず、しかし心臓を走らせ続けている。「は、はい」と力なく頷くことしか出来ない私に、安室さんは相変わらず大真面目な顔で言った。
「先程もお伝えしたように、僕はあなたのことがすきなんです」
「え!? あっ。は、はい……!」
突然改まって言われたせいで、背筋がピンと伸びてしまった。うっかり弾みで「ありがとうございます」と言いそうになってしまった程度には私の脳内は大混乱している。
「それで、その……。さんも同じだと解釈してもいい、んですよね……?」
ぶわあっと再度熱が全身に広がった結果、私は金魚のように口をパクパクとさせるだけで何も言うことが出来ない。安室さんは相変わらず真剣な目で考え込んでいる。
「こんなこと改まって聞くことではないとは分かっているのですが、どうも僕1人だけ浮かれて、勝手にいいように解釈しているだけじゃないかと思えてならないんです。もしそうなら、強制わいせつ罪になりますし……」
きょうせいわいせつざい。まさかこれを日常生活で、しかも想い人の口から聞くことになろうとは夢にも思わなかった。安室さんは真面目すぎるのか変なところで空気が読めないのかどちらなのだろう。ぽかんとしてしまう私に、まるでそれを察したように「すみません順番が逆で」と口にされては何も言えなくなる。「いえそんな」とやけにたどたどしく返すけれど、どうも喉の奥が渇いてうまく舌が回らない。
「わ、私……分かりにくくてごめんなさい。でもあの、お、同じで大丈夫です」
「つまりさんは僕のことをすきということで、よろしいですか?」
「う」
ますます体温が上がってきては、私の思考回路を遮断される。同じだと言ったのに、何故改まって聞き返してくるのだろう。心臓はもう勘弁してくれと泣いている。俯いてひたすら頷くと、安室さんは「……そうですか」と返事を寄越すだけで黙り込んでしまった。
「(な、なんだろう。この時間)」
どうにも落ち着かない。私は一体どんな反応を取ればいいのだろうか。ひとまず安室さんの出を見るしかないのかなとこっそり顔を上げると、当の本人は口を覆うように手で押さえたまま斜め下に視線を落としている。その先には何も存在しないというのに、やたら瞬きをしながらどこか居心地が悪そうにしていた。頬がどことなく赤い。そんな彼を見ていたらどうしようもなく込み上げてきた感情が、そのまま血液に溶けて全身へ駆け巡る。心臓は早く脳へ届けと急いだせいで過剰に運び過ぎたその溢れんばかりの温かい何かは、暴走を起こしたように口を開かせた。
「す、すきです」
何を考えるでもなく、自然と零れ落ちた言葉は間違いなく自分が生み出したものだった。ただこの人が愛しいと心から思ってしまったのだ。恥ずかしいとか自分はそんなこと言うようなタイプじゃないとか、そんなことがどうでもよく思えてしまうほどに、今彼に伝えたいと心から思ってしまったのだ。
「わ、私、安室さんのこと、だ、だいすきですからね……!」
安室さんは突然の投げかけに目を丸くした。じわじわと耳を赤くさせた後、力が抜けたように手が口元から落ちる。そして何か言いたげに口を開いたものの、何か思うところがあったのかそのまま目を逸らして閉じてしまった。また手の平で封をして何やらバツの悪そうな顔をしていたものの、私からの好奇の視線に気付いたのだろう。気まずそうに私を見やった後すぐに目を逸らして言った。
「……僕だって照れることもあります」
どこか不貞腐れたように呟いた安室さんは、まるで拗ねた子供のようだった。先程までの余裕はどこへ消え去ってしまったと言うのだろう。つい笑みを溢してしまう私に彼は何も言わないけれど、いつの間にかじろっと恨めしそうに見つめる目が私を捕えていた。
「すきな人にすきと言われて、嬉しくない人間なんていません」
今度は私が体温を上げる番だった。すきな人にすきと言われて、というところで見事に反応してしまったらしい。緩みそうになる口元を誤魔化そうと唇の内側をほんの少し噛んでみるけれど、一向に収まる気配は見えないどころかむしろ悪化の一途を辿っている気がしてならない。
「(そっか、嬉しいって思ってくれたんだ。そっか)」
俯きながら、ずっと触れられていた左手で、そっと彼の指を握り返した。──私もそうでしたよ。そう念じてみたけれど、これは彼の心まで届くことが出来たのだろうか。残念ながら超能力者ではない私では、きっと難しいかもしれない。だからきっと安室さんも分からない。現に私は想いを伝えられるまで彼の好意に微塵も気付いていなかったし、逆もまた然りだった。つまり口にする以外で伝える方法など、今の私達には持ち合わせていないのだ。だから私は今、ここで言葉にする。
「わ、私も、嬉しかったですよ」
一拍置いて、彼もまた繋がれた手をぎゅっと握った。視線を交え、はっきりと答える。
「はい。僕もです」
その表情は安堵しているような、しあわせに満ち溢れているような、どこか緊張しているような、なんとも言い表せないものだった。ほんの少しぎこちないまま口角を上げる彼に、私もまた不自然に緩んだ口元を見せてしまう。
お互いの顔を見合ってはどこか違和感のある相手に笑みを溢していると、彼は突然空いていた左手で私を引き寄せ抱き締めては、そのまま背中に腕を回してきた。これにはたまらず動揺の声を上げる。
「えっ! あの、あ、安室さん!?」
「──絶対大事にします!」
大きく宣言をした彼が今、どんな顔をしているのかは分からない。それでも必死な色を滲ませた声に気付いてしまったから、私は彼の腕の中でただ愛しさを募らせるしかなかった。さっき「安室さんも人間だったんですね」と言ったのは感情を上下させないイメージが強かったからだったのだけれど、今この瞬間、初めて感情の根幹のようなものを見せてくれたような気がした。それがたまらなく嬉しい。
「私も大事に、します」
なんだかふわふわしている空間は温かくて優しいけれど、少し照れ臭い。ゆっくりと音に変換した声がちゃんと彼の耳に届いていますようにと願いながら、右手でそっと彼の背に触れてみた。ずっと細身だと思っていたのに、思いのほか肩幅もしっかりしている。それを受けてか安室さんはますます距離を無くそうとするかのように回した腕に力を入れて言った。
「……夢みたいだ……」
彼が呟いた震えた声はまるで今にも泣いてしまいそうなほど小さく、すぐに空間に溶けては跡形もなく消え去ってしまった。だけどそこに隠されていた愛しさを拾い上げてしまったから、私はまたこっそりと笑う。
私達は今日この瞬間、恋人という名の関係が生まれた。

20181228 See you next stoRy.