浮足立っている心はいつまでも夢見心地で、だからあれから数日経った今でも、私は現実に起こったことなのかいまいち実感が湧かないままでいた。スマートフォン片手にベッドの上で寝転びながら求人サイトを見て回るけれど、どうにも集中出来ない。

「(……また会ってくれますか、だって)」

 思い出すたびに緩んでしまう口元は、もう隠しきれないでいた。

 しかしこれまでの安室さんの発言の傾向から言って、きっと恋愛感情だとかそういうことではなく、単純に「また遊んでくださいね」という意味で口にしたのだろう。そう何度も自分に言い聞かせてみても、もしかして少しくらい可能性があったりするのだろうかと能天気に考えてしまうからどうしようもない。ただどちらにしても彼は、少なからずまた顔を合わせてやってもいいと思う程度には私に好感を持ってくれているようだ。

 あの日から私達は、ほんの少し変わった。

 なんでもないことでメールのやりとりが始まったし、チューリップが綺麗だと写真を送ったら一緒に見に行きませんかと声を掛けられるようになった。だから調子に乗ってルノアールの展示会を開催している美術館に誘ったら二つ返事で応じてくれたことを、飛び跳ねるくらい喜んだのを今でも覚えている。そういうことが少しずつ重なって、特にこれと言う用はなくとも気軽に顔を合わせるようになったある日、待ち合わせたコーヒーチェーン店で開口一番に報告をした。

「転職先、決まりました!」

 意識せずとも口角が上がってしまった私につられたのか、安室さんは、ぱっと明るい表情を咲かせる。壁側のカウンター席に2人並んで腰掛け始めてすぐのことだった。

「内定決まるの、早かったですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます。やっと肩の荷が下りました。これも、安室さんに相談に乗ってもらったお陰です」
「いえ、僕は何も。全部、さんが頑張ったからですよ」
「ふふ」

 いつもなら謙遜をするところを、上機嫌が幸いして否定することが出来なかった。親でも友人でもなく、絶対に一番に安室さんに伝えようと決めていた私は、まるで自分のことのように喜んでくれる彼の反応が嬉しかった。

「じゃあ、何かお祝いしないといけませんね」
「そんなそんな、いいですよ。チョコレートケーキが食べたいだなんて、ほんの少ししか思ってませんから」

 明らかに普段よりテンションが高い私に、安室さんはおかしそうに笑った。馴れ馴れしいお願いもすんなりと受け入れた彼は、むしろ「それだけでいいのか」と尋ねる。そして首を縦に振る私に、彼はまたにこやかな笑みを見せた。

「じゃあ、待っててくださいね」

 まるで駄々をこねる子供をなだめるような口調は優しい。カウンターへ向かう彼の背中をこっそり見送った。レジを待つお客さんは安室さんの前に2人いるようだから、少し時間が掛かるかもしれない。相変わらず安室さんから視線を外すことなくじっと見つめていると、何かに気付いたのかふとこちらを見やった彼と目が合ってしまった。ずっと見ていたことを勘付かれてしまっただろうか。誤魔化す手段を探し出すより先に、安室さんはにこやかに目を細めては小さく手を振ってきた。

「(……あっ)」

 ぽんっと何かが小さく音を立てて弾けたような気がした。温かく居心地のいいそれは、私の頬を緩ませる。しかしもしかしたら私にではない他の誰か、そう、知り合いが偶然店内に居合わせて、その人に向けたものなのかもしれない。きょろきょろと辺りを見回してみたものの、どれもスマートフォンを弄っていたりお喋りに夢中になっていたりで、彼に視線を送ってる客はいないように思える。

「(……私?)」

 改めて彼を見つめると、なるほど視線は間違いなくぶつかっている。しあわせに高鳴る鼓動を聞きながら遠慮しがちに振り返した手を、安室さんは満足そうに微笑んだ。そしてレジの方へと顔を戻したところでちょうど店員に声を掛けられていたから、おそらく注文を聞かれているのだろう。

 また彼と目が合えば言い訳が出来なくなると、座ったままくるりと丸椅子を回転させてはテーブルの上のレモンティーへと視線を落とした。円を描くようにストローを回し、無意味に氷を回転させる。氷が擦れる音が小さく聞こえた。

 ……今が一番、しあわせかもしれない。

 相変わらず私達の関係を名前で言い表すことは出来ないままでいるけれど、何気ない会話で笑って、楽しいと思えることを分け合える。それってすごく素敵なことなんじゃないだろうか。安室さんと恋仲になる想像はちっとも出来ないけれど、これからも何も変わらないのであれば、今の関係が続いてもいいのかもしれない。変化がないならば、それで。だってこんなにも一緒にいて楽しいと思える男の人なんて、私にとってはきっと希少な存在だ。

 ふと空席となった右隣を見やる。テーブルの上には、一口分減っただけのブラックコーヒーがソーサーに乗っていた。安室さんが口を付けていたカップの飲み口を見つめ、はっと我に返る。

「(何を、考えていたんだろう)」

 気を紛らわせるようにまたグラスに浮かぶレモンの輪切りへ視線を戻しては、そっと指先で口元を触れてみた。

「──お待たせしました」
「ひゃあっ!」

 気配なく突然聞こえた彼の声に、大袈裟なまでに肩を震わせてしまった。まるでお化け屋敷で驚かされたときのように大きな音を立てた心臓が、分かりやすく動揺を主張している。

 どうにか落ち着いてくれと言わんばかりに胸に手を当てつつ声の主を見やると、安室さんはきょとんとした顔で、大きな目をぱちぱちとさせていた。右手には、私の要望に応えたデザートを乗せた、白いお皿を持っている。

 店内が賑わってくれていてよかった。奇声を発した私の声も、多少は馴染んで消えてくれている。勿論怪訝そうに眉をひそめるお客もいたけれど。

「ま、前々から思っていたんですが、安室さんて実は忍者の末裔か何かなんですか……?」

 冗談ではなく真剣な質問のつもりだったのに、彼はケタケタと笑い飛ばしてしまった。その反応は「そんなわけないじゃないですか」と言っているように見える。まあそりゃそうですよねと1人で納得しつつテーブルの上に置かれたチョコレートケーキへ視線を移すと、転職活動が終わった解放感からなのか、それとも安室さんが私のために買ってきてくれたからなのか、何やら光り輝いて見える。久しぶりに丸椅子に腰かけた安室さんは、そんな私を頬杖をついて眺めていた。

「本当に欲がないですね、あなたは」
「そんなことないですよ。今すごく、チョコケーキが食べたい気分なんです。だから今ケーキを食べると、きっとすごくしあわせになれると思います」

 さっきまで「これを食べたいだなんてほんの少ししか思っていない」と言っていたくせにと思われたのだろうか。しかしあれは言葉の綾というやつなので、出来れば掘り返さないで頂きたい。

「安室さん、ごちそうさまです。いただきます」
「はい、どうぞ。転職活動お疲れ様でした」

 手を合わせて一礼すると彼は相変わらずにこやかに笑うから、私もつられてへらりと締まりない笑顔で返してしまった。ケーキひとつで安いしあわせだと言われようが、実際安室さんの隣に居るときが一番心が温かくなるのは変えようのない事実だった。だからそこにデザートが追加されたら、馬鹿みたいににこにこと笑ってしまうのは仕方のないことだと言えよう。

 ケーキは溶かしたチョコレートを上掛けされていたもののどうやら固まってはいないようで、お陰でフォークが入れやすい。何層にも折り重なったチョコレートのスポンジとクリームを一口分切り取り頬張ると、口の中に広がるチョコレートのほろ苦い風味とクリームの甘さが絶妙にマッチングした。しあわせな味わいに頬が緩む。

「お気に召したようで、何よりです」

 私が何か言う前に、安室さんは察したらしい。柔らかい物腰で口にした彼に、隠すことなく顔を向けて頷いた。いつもならばぺろりと間食してしまうものの、安室さんからお祝いとして出されていることもあり、なかなかもったいなくて食べ進められない。ゆっくりと時間を掛けて頂こうと心に誓いつつケーキを見つめていると、ふと右から視線が降り注いでいるのに気が付いた。しまった、もしかしたら安室さんも一口ほしいのかもしれないと慌てて声を掛ける。

「安室さんも食べますか? フォークもらってきますね」
「いえ、結構ですよ。さんが召し上がってください」

 ためらうことなく否定した安室さんは、どうやら遠慮をしているのではなく、本当にケーキに興味がないようだ。そうですかと首を傾げつつ、じゃあなんでそんなに見て来るんだと冷や汗をかく。食べるところをまじまじと見られるのは少し恥ずかしい。以前「おいしそうに食べるのがいいと思っていた」と言われたことがある手前、どうも綺麗に食べようと意識して緊張してしまう。

「そういえば、新しい職場はどちらに?」
「あ。えっと、緑台駅です。だから米花駅辺りで家を探したいなって、来る途中でも物件検索してました。今度は引っ越しでバタバタしちゃいそうですよ」

 そう言いつつ満更でもない顔をしていたからか、安室さんは小さく笑う。

「いい物件があるといいですね。僕も仕事の都合上引っ越しすることが多いので、良ければ相談に乗りますよ。何かあれば車も出しますから、遠慮なく言ってください」
「ありがとうございます」

 お礼を言いつつも、彼の言い方に疑問を感じていた。彼は探偵事務所を持っていないと言うから自分のすきなところで仕事が出来るはずだし、引っ越す必要性を感じなかったのだ。それとも何か私が知らない探偵業界の理由があるのだろうか。「ずっと同じところに住んでいると飽きてしまって」という言い方でもなかったがために、少し引っ掛かってしまった。しかし相談に乗るというフレーズが付いたお陰で、そこを追及することが出来ない。

「そうだ。相談といえば、僕の方からもいいですか?」

 思い出したように口にした彼の言葉は、完全に私の意表を突いたものだった。頼りにしてくれているという点では嬉しいものの、そんな大層なアドバイスを言える自信がない。しかし話の流れから断るわけにもいかず、自信なさげに頷いた。

「(なんだろう? また調査に協力してほしいってことなのかな?)」

 水族館の件を思い出しぼんやりと予想しながら彼からの言葉を待つものの、そういえばあれは結局身辺調査だったのか、それとも本当に彼の嘘だったのかを未だに確認出来ていない。タイミングや心の準備がというのも勿論だけれど、彼に「なんでそんなことをそこまで気にするんですか?」とでも言われた日には私はきっと口籠ってしまうから、聞くに聞けないのだ。どうしたものかと考えていると、安室さんは頬杖を解いて言う。

「実は、気になる人がいるんです」
「えっと、不審者がいるってことですか?」

 真顔で聞き返したら、噴き出すように笑われてしまった。予想外の反応に思わず「えっ、えっ」と動揺した声を漏らしていると、安室さんは「失礼。いえ、そういう意味ではなく」とまだ笑いを含んだ声で言うから、私はようやく自分の見当違いな発言を自覚し、顔を熱くさせる。そんな私に、彼はさらりと詳細を語った。

「好意を寄せている女性がいるということです」
「えっ」

 急に現実を突き付けられた気がして、どう反応すればいいのか分からなくなってしまった。頭が真っ白になる。泣きたいだとか悲しいだとか、そういう感情はまだ出てこない。ただただ彼が口にした言葉を飲み込めないまま、徐々に視線が下がりそうになる目を必死に留めさせた。

「そんなに意外ですか?」

 あまりにも私が固まっているからか、安室さんは照れ臭そうに頬を掻く。その言葉にようやく我に返り「す、すみません」とたどたどしく謝ったものの、彼の目を捕えることは出来なかった。

「なんというかその、安室さんもちゃんと人間だったんだなって思って……」
「はは。そりゃあ僕も人間ですよ。恋愛くらいします」

 ──胸の奥がつっかえたせいで止まった心臓を、思わず誤魔化してしまった。すっかり頬が引き攣って、うまく笑えなくなったことは自覚している。だから笑うふりをして手で口を隠したけれど、気付かれやしないだろうかと冷や汗が止まらない。彼に嘘をついて騙し通せる自信がまるでなかった。

 ずっと、安室さんみたいな人になりたいと思っていた。

 彼はいつも何気ない一言で私をしあわせな気持ちにしてくれるから、私もそういう振る舞いが出来るようになって、ほんの少しでいいから安室さんに優しい気持ちを返せたらと思っていた。それに私は予想外のことが起こるとすぐに頭が真っ白になってしまうから、いつも冷静に物事を見ている彼に、心から憧れていたのだ。

 ただそれだけじゃなくて、優しい笑顔とか、頼りになるところとか、何かと気が合うところとか、彼の持つ空気とか、きっとずっと惹かれてた。そして何より、安室さんのまっすぐな瞳がだいすきだったのだ。

 だけど今の関係があまりに居心地がいいから、告白なんて選択肢は捨てたままゆるゆると知り合いを続けて、いつの日か「あのときは安室さんのことがすきだったなあ」なんてのんびり振り返れる綺麗な思い出になると思っていたのに、まさか突然失恋してしまうだなんて思ってもみなかった。

「(そっか。安室さん、すきな人いるんだ……)」

 すごいな、安室さんにすきになってもらえる人が存在するんだ。一体どんな子なんだろう? だけど、知りたいようで知りたくない。だってそんなことを考えなくても今の私は胸の奥をぎゅっと掴まれているような感覚になっている。そういえば以前彼は「恋人はいない」と話していたけれど、「想いを寄せている人はいない」とは言っていなかったことに気が付いた。

 これは間違いなく現実で起こっているはずなのに、なぜだろう? 頭は「きっと現実ではない可能性」を信じ、受け入れることを拒否している。しかしそんな私の脳内整理が止まっているなんて知るよしもない安室さんは、どこか上機嫌に目を輝かせながら話の続きを口にした。

「それで、さんにお話をお伺い出来ればと」
「ど、どうして私……?」
「その方、ちょうどさんと同い年なんです。あと好みや雰囲気がそっくりなので、意見を参考にしたくて」

 同い年というフレーズに、引っ掛かりを感じた。私は彼に歳を教えただろうか? 記憶を遡ってみてもどうにも思い出せない。そういえば客観的な目が欲しくて履歴書を彼に見せてアドバイスをもらったこともあったから、そのとき視界に入ったのだろうか。

 しかしどちらにしてもこの話が展開されるのはいやだなあと、つい思ってしまった。だけどそれを悟られるわけにもいかなくて、「そんな安室さんが参考になるようなこと、きっと言えないですよ」と出来る限り明るい声で言ってみたものの、彼はなかなか引き下がってはくれない。

「(……私に似た人を、安室さんもすきになってくれるんだ)」

 もしかして、私にも可能性はあったのかな。そんなことが頭の中をぐるぐると駆け巡って、それ以外のことはもう何も考えられない。今更後悔してもその“もしも”は絶対に訪れないと知っているけれど、しかし想い人からの恋愛相談を受け入れられるほど、私は出来た人間ではなかった。だからこれは是が非でも断らねばと必死に頭を回転させていたところで、彼は問答無用とばかりにとどめを刺してくる。

「いいえ。さんの意見だからこそ、聞きたいんです」

 そんなことをまっすぐな目で言われては、私はもう拒否出来ない。分かりましたと渋々承諾すると、彼は明るい声で礼を言う。でもこれは、いい機会だったのかもしれない。きっと生ぬるい空間に浸かり続けようとする私に、神様が現実を見させてくれたんだ。

「(……ちゃんと役に立たくちゃ)」

 そしてちゃんと、「さんは良い人だな」って思われていたい。だから、このどす黒い感情は隠し通さなくては。告白の選択肢を捨てた時点で、私にはもうそうすること以外の道は残されていなかったのだから。

 つまり私は、友達と恋愛話をしているかのような感覚で、楽しそうにテンポよく話さなくてはならない。……大丈夫。出来る、出来る。そう自分に言い聞かせ、すっかり忘れ去っていたチョコレートケーキを一口頬張った。だけどどうしたことか、もう笑みは零れない。

「実はその方と、先日映画や水族館にも行ったんですが」
「あっ、デートの定番ですね。いいじゃないですか」

 本当は全然良くない。なんでピンポイントで私と一緒に行ったところに出掛けてしまったのだと、目の奥が熱くなってしまった。もしかして私、下見相手にされていたのだろうか。どうも悪い方向へと変換してしまう。このままではまずい。彼の前で泣くわけにはいかず、必死に奥歯を噛みしめる。

「社交辞令かもしれませんが、楽しかったとおっしゃって頂けました」
「それは本音だと思いますよ。じゃなきゃ2回も一緒に出掛けないです。適当に理由付けて断ってると思います」
「それはよかった」

 安室さんは、気付いているのだろうか。私もあなたと一緒に出掛けたとき、楽しいと思っていたこと。

「そういえば、好きな男性のタイプを聞いてみたりしたのですが」
「えっ、安室さん積極的ですね。なんて言ってたんですか? その方」

 聞きたくない話題に拒否したかったけれど、安室さんからの「具体的に聞いてくれ」という隠れたメッセージをしっかり見つけてしまったがために、掘り進めるほかなかった。そんな私に、彼はにこやかに答える。

「優しい人がすきなんだそうです」
「うーん……。割と定番な解答ですね。具体性に欠けるというか」

 しまった、つい棘のある言い方をしてしまった。どんな人だって、自分のすきな人を否定されるようなことは言われたくないはずだ。決して彼女の回答を全否定したわけではないけれど、安室さんに嫌な思いをさせてしまったらどうしよう。生きた心地がしないまま彼を見やると、安室さんは「僕もそう思います」としみじみと同意して来たことに、ほっと胸を撫で下ろす。

「……ここまで聞いて、どう思います?」

 相談したいと言われたときからいつか来るんじゃないかと覚悟してはいたけれど、すきな人の恋愛事情についての意見を本当に求められてしまった。しかし本音を口にするのはどうにも気が引けて口を濁していると、それを見逃さなかった安室さんは「遠慮しないでいいですよ」と柔らかく言う。

 ……本当に、いいのだろうか。

 確認するように「でも……」と様子を伺うと、彼は「大丈夫です」と念を押す。だからもうどうにでもなってしまえと意を決して口を開いた。

「……こんなことを言って良いのか分からないんですが、えっと……ほんわかした方なんだなあって。こんなにアタックされてるのに気付かないんですか? 何も? すきなタイプまで聞かれているのに? その……普通気付くと思うんだけどなあ、なあんて……」
「そうですね、僕もそう思います」

 肯定されてしまった。やっぱり安室さんも同じ印象を抱いていたのかと考えていると、彼はふいに目を伏せて、「でも」と小さく呟いた。

「……僕に魅力がないだけなのかもしれませんね」

 苦笑する安室さんの瞳の奥にどこかさみしさを灯した色を見つけた瞬間、私の口は「あっ」と小さな声を漏らした。彼の反応を見て、ようやく言いすぎてしまっていたことに気付いたのだ。慌てて「そんなことないですよ」と切り出して否定する。私は別に、彼にこんな顔をさせたかったわけではなかった。決して、傷つけたいわけではなかったのだ。

 「自分のものになってくれないならいっそ思い切り傷ついてしまえばいい」という考えが、一瞬でも頭をよぎらなかったと言えば嘘になる。しかしいざ本人の悲しそうな顔を前にしてしまえば心臓が締め付けられたように苦しくなって、自分は何て浅はかなことを考えてしまう人間なのだと自己嫌悪に陥ってしまうのだ。いい子ちゃんになんてなるつもりなかったのに。

「安室さん優しいし、話も上手だし、一緒にいて楽しいですよ。だから、少なくともその人の好みの範囲には入っていると思います」
「でも、さんは僕に対して恋愛感情はないんですよね? どうやったら僕のことすきになってくれますか?」
「え? さ、さあ……」

 まさか自分に話を振られるとは思っていなくて、大きく心臓が飛び跳ねてしまった。まさか「もうすきになってます」なんてこと、本人に言えるはずもない。安室さんを見つめ返すことが出来なくて、つい目を逸らしてしまった。だからだろうか、彼は妙に意地になったように更に問い詰めてくる。

さんの好きなタイプは優しい人なんですよね? 僕は“優しい”んでしょう? 今、そうおっしゃいましたよね?」
「あ、えーっと……。そ、そうですね……」

 どうしたものか、うまい誤魔化し方が分からず、ぎこちなく頷くことしか出来ない。

 そういえば私も優しい人がすきだと、以前彼に言ったことを思い出した。だからこそ彼は、その彼女と私を重ねて見ているのだろうか? もしかして私が安室さんのことをすきになれば、その人も自分のことをすきになってくれると思っているのかもしれない。だからこんなにもムキになっているのだろうか。私とその人は別人なのだから、そんなことは起こりはしないというのに。

 私は今、これまで経験したことのないほどの気まずさを感じている。更に彼の目を見たら最後全てを見透かされてしまうように思えてひたすら視線を逸らし続けているというのに、安室さんはまるでそんなことは知ったものかと言わんばかりに前のめりになって問い詰めてくる。

さんは、どうやったら僕のことを男として見てくれますか?」

 胸の奥をぎゅっと締め付けられた気がした。そんな真剣な目で、勘違いさせるようなこと言わないでほしい。笑って誤魔化すなんて、簡単なことではないのだから。

「……そ、そういうの、その相手に言わなきゃだめですよ。大体、いくらその人と好みや年齢が同じだからって、私が安室さんのことをすきになっても、安室さんが困るでしょう?」
「なぜ?」
「な、なぜって。どうせならすきじゃない人からの好意じゃなくて、その、なんていうか、やっぱり本命からの気持ちがほしいじゃないですか……」

 なんだか自分が何を言っているのか分からなくなってくる。随分とか細い声が情けなさを誇張していた。もうこれ以上、悲しくなるようなことは言わせないでほしい。出来ることなら今すぐここから逃げ出して泣き叫びたい気分だった。だいすきな人が隣にいるのに、今はそれがとてつもなく苦しい。

 沈黙は、賑わう店内の話し声やレジカウンターの雑音で掻き消された。誤魔化すようにひたすらフォークを動かしてケーキの消化に徹する私を、彼はまた食い意地が張っていると思うのだろうか。でももうそれでも構わない。どうしても力が入って右手が震えていることに気付いてさえくれなければ。

「………………」

 死ぬ間際にはこれまでの記憶が走馬灯のように流れると聞いたことがあるけれど、だとしたら私は今日、ここで死ぬのだろうか。だって今頭の中は、安室さんとの思い出で溢れ返っている。もう限界だった。

「あの、すみません。これ、食べかけですけどよかったらどうぞ。おいしかったので」

 まるで早口言葉のようなスピードでそう呟くと、3分の2は残っているであろうケーキを安室さんの前へと差し出した。だけどもう、彼が今どんな顔をしているのかを確認することは出来ない。もう安室さんの顔を見たら絶対にこらえきれないと分かっているから、私は俯いたまま席を立つしかないのだ。

「……さん?」

 どうしたのかと言わんばかりに尋ねられた声が、耳にべったり張り付いて離れない。しかし聞こえなかったフリをしてテーブル下に設置された小さな棚からバッグを引っ張り出した。

「すみません、急用を思い出して。今日はこれで失礼します。ご、ごちそうさまでした……っ」

 最後まで耐えきれず震えた語尾が情けない。安室さんに一礼し、逃げるように店を出た。すぐに左へ折れ曲がり、大通りに沿って一直線に足早に駆けたものの大してスピードは出ていない。だからきっと店を出てそんなに離れてはいないのかもしれない。それでもやけに息が切れるのはなぜなのだろうか。胸が痛い。

 100メートルも走れないまま立ち止まり、肩で息をして呼吸を整える。喉が渇いて張り付きそうだ。ふと後ろを振り返る。そこには見知らぬ人々が行き交っているのみで、想い人の姿は存在しなかった。

 本当は、追いかけてきてほしかった。でもきっと、そういう受け身の体勢がだめだったんだ。

 ──楽しいデートにしましょうね。

 ──お揃い、いいですか?

 ──さんと一緒にいるとどうも楽しくて、つい喋り込んでしまって。

 ──さんのそういうところ、ずっといいなって思ってましたから。

 ──また、会っていただけますか?

 安室さんの声がぐるぐると頭の中を駆け巡る。この感情は、失恋したことが悲しいのか、もう会えなくなるようなことを仕出かしてしまったことを悔やんでいるのか、甲斐性のない自分を恥じているのか、どれなのだろう。

 息を整えていたはずなのに、どうも喉の震えが止まらない。手の平で口元を押さえてみても引っ込んでくれそうにはなかった。こんな人通りの多いところで泣くわけにはいかないのに、どうにも静まりそうにない。

 次から次へと零れる涙を必死に拭いながら、力なく歩いて改札前に辿り着いたものの、このまま電車に乗って帰ろうにも、ますます大衆の面前にこんな泣き顔で乗り込むのは気が引けた。少し落ち着かせようと、改札前の噴水の枠に腰掛け俯く。大きな溜め息をついてしまったから、きっと僅かに残っていたしあわせは全てどこかへ逃げたに違いない。まあそんなもの、最初から残っていなかったのだけれど。


20181215