転職サイトから応募した会社の2次面接と、安室さんと映画の約束をしていた日が見事にブッキングした。
いや、正確にはただ同じ日になったというだけで時間は全く重なっていないのだから何の問題もないのだけれど、明らかに面接に臨むモチベーションは「これが終わったら安室さんと映画」というものだったから、それも転職活動者としてどうなのだろう。もしも私が面接官で応募者の頭の中を見ることが出来たなら、間違いなく眉をひそめていたに違いない。
面接は午前11時から。そして安室さんとの待ち合わせは夕方の4時。面接時間は1時間と仮定しても4時間空いているのだから一見余裕に見えるものの、よくよく考えてみればやるべきことは山積みだ。
なぜならスプレーできっちり固めた真面目な髪のまま安室さんと会うわけにも行かないし、なにより面接会場から家までの移動時間も必要だ。つまり逆算すると、私に残された時間は実質3時間もない。
家に着いたら迷うことなくお風呂に直行して髪を洗わなくてはならないし、シャワーを浴びるということはメイクも一度落とさないと。だから髪を乾かして綺麗にブローして着替えてから、もう一度メイクし直す必要がある。それにお腹の虫を鳴らすわけにもいかないから何か食べなければ。そういえば今日はなんだか肌寒いから、予定していた服では冷えてしまうかもしれない。となるとコーディネートも変更だ。
しかしそんなときに限って電車は遅延するし、挙句の果てにようやく辿り着いたアパート前でお喋り好きな大家さんと鉢合わせてしまった。その後の展開はお察しと言うやつで、彼女は私の姿を捕えるなり「あらさん、今日はお休み?」なんて目をまん丸くさせ、いつの間にか世間話に捕まってしまった。
──どうしよう、時間が無い!
ヒイヒイ言いながら身支度を進める私は、まるで舞踏会へ向かうシンデレラの気分だ。いや、実際にはそんな優雅なものではないし、自分をお姫様だなんて思ったことなどただの一度もないけれど、つまり私は妥協するという選択肢は頭の中からすっぽり抜け落ちていた。とにかく完璧にしなければという謎の義務感が頭を支配して、結局家を出たのは待ち合わせの30分前だった。
当初私の家まで迎えに行くと言ってくれた安室さんに首を横に振って駅前に変更してもらったのが良かったのか悪かったのか、今ではもう分からない。しかし家から駅までは15分ほどだから、なんとか遅刻は免れた。そう頭では分かっていても、つい小走りになってしまう。
最寄りの駅は改札口がひとつしかない小さなもので、快速や急行が停まらないからかバスやタクシーで賑わうロータリーなど存在しない。そこからまた10分歩けば大型スーパーが立ち並んでいるものの、肝心の駅前にはコンビニと弁当屋がまるで競い合うように並んでいる以外に何もなく、先週目にした米花町と比べるとさびれた印象を感じ得なかった。だからこそ、あの白いスポーツカーは探さなくとも目立って見える。
こちらには背を向けるように停まっていたとはいえすぐに見つけることが出来た私は、前髪を手ぐしで整えて一息ついてから、ゆっくりと距離を縮めていく。すると突然運転席側のドアが開いて、車の主が姿を現した。そして迷うことなく視線の先に私を捕えてきたかと思ったらそこから歩道へと回り込み、待ち合わせ人である私を出迎えてくれた。
「さん、こんにちは」
開口一番爽やかな風を呼び込むような笑顔を見せてきた安室さんは、第1ボタンを外した水色のワイシャツとの相乗効果で眩しさ3割増しとなっていた。この人はどうして衣料洗剤のCMに出演していないのだろうかと疑問に思うしかないけれど、よくよく考えたらこの人は私立探偵だった。
「面接お疲れ様です」
「ありがとうございます。安室さんも、わざわざこんな所まですみません」
「いえ。むしろ今日は近くで途中経過の調査報告があったので、逆に助かりましたよ」
途中経過の報告というのは要するに、探偵業の仕事があったということでいいのだろうか。もしかしたら本当は仕事が入っていなかったのに私に気を遣ってくれたのかもしれない。どちらにせよこういう一言があるのとないのとではこちらの心の持ちようがかなり変わってくる。“申し訳ない”と言う気持ちが半減されて、代わりに“楽しめそう”というプラスの感情が上乗せされていた辺り、私はとても単純な人間だった。だからきっと私は今、分かりやすく表情が明るい。
「安室さんも、お仕事お疲れ様です」
「ありがとうございます」
しまった。無意識とは言え、先程とほぼ同じ会話をしてしまった。なんだかおかしくて、お互い顔を見合わせて締まりなく笑う。立ち話もそこそこにと助手席のドアを開けた安室さんは、先週東都水族館の駐車場での姿とシンクロした。あの日と同じように車内に乗り込むと、優しく押すようにドアを閉められる。
「(この人は、これが通常仕様なんだな)」
そんなことを考えたらやけに浮足立って、落ち着けと言い聞かせるように座り直した。
今回鑑賞場所に東都映画館を選んだ基準は場所と言うよりは上映時間の関係で、単純に他の映画館は極端に夜遅いレイトショーとなり気が引けたというものだった。何より東都映画館が入っているビルは、和洋折衷様々な飲食店が充実している。ちょうど1日1回上映している夕方の回を観たら、その後一緒に遅い晩ごはんでも食べましょうか。そんな流れになったのは、どちらが言い出したというより自然な流れだったのかもしれない。
「そういえば、あれから喉は大丈夫でしたか?」
ハンドルを切りながら、安室さんはなんでもない世間話の一環とばかりに尋ねて来たものの、当の私は「喉とは一体何のことだ」と首を傾げてしまった。しばらく考え込んで先週の水族館での喉の不調のことを指していることに気が付いた私は、若干のタイムラグを発生させつつも「ああ、はい。お陰様で」とたどたどしく返す。
「喉飴もおいしかったですし、すぐ治りました」
「よかった。他に風邪の症状は出ませんでしたか?」
「はい。心配してくださって、ありがとうございます」
まさか本人も忘れているようなことを気に掛けてくれていたとは思わなかった。なぜだか口元が緩みそうになって、首の後ろも随分と熱い。それを隠すように無意味に髪先に触れた。シャワーを浴びたばかりだからか、いつもより指どおりがよく、まとまりがいい。
車内はあの時と違い、ラジオもカーナビも点いてはいなかった。電子音が一切流れてはいないはずなのに絶えず会話が続くのは、気が合う合わないだけではなく彼の持つ雰囲気の心地よさであることになんとなく気付いている。
ただ今回の私は、“一緒に映画を観に行く”ことがどんな立ち位置になるのかを未だに分かっていなかった。デートに分類されるのか、それとも単なる映画鑑賞なのか、世間はどちらの判断を下すのだろう。
デートの定義が異性と2人きりで出かけることならば、間違いなく今日は前者ということになる。しかし恋愛感情が絡んでいるかと言われたら、私は首を縦にも横にも振ることが出来ない。安室さんは素敵な人だとは思うし、何より一緒にいるととても楽しい。つい異性として意識した反応を見せてしまったこともある。
だけど彼に対してはあまり、そういうリアルな感情を抱きたくはなかった。だから今日、私はお気に入りのワンピースではなく親しい女友達と気楽に出掛けるような気軽な服を着ている。ああでも、この薄手のニットはこの春一番のお気に入りかもしれない。それに昨日の夜の入浴時、念入りにヘアトリートメントをしてしまった。
映画館のビルに直結している地下駐車場は平日ということもあり随分と空いていて、エレベーター前付近でハザードランプを点灯させた安室さんは、会話を途切れさせないまま背後を確認するために顔を後ろへ向け右にハンドルを切る。その際何気なく助手席の後ろに手を添えられて、思わず肩を震わせてしまった。勿論バック駐車に集中している彼は、そんなことなど微塵も考えていないしそもそも気にしてなどいない。それなのにこの左手1本のせいでまるで抱きしめられているような感覚になってしまって、心臓は分かりやすく飛び跳ねてしまった。
なんだかあまり見てはいけない気分になっておもむろに顔ごとを反対方向へと向けてみるものの、どうしても気になってちらちらと盗み見るように視線を送ってしまう。すると安室さんは後ろへ向けていた視線を私へと移動させてくるものだから、まさか見ていたことに気付かれてしまったのかと冷や汗をかいた。しかし彼は、いつもどおりのにこやかな笑顔で言う。
「……はい、お疲れ様でした」
その一言に、切り替えなしの一発駐車で見事スペースへ収めたことを知った私は、きょろきょろと窓の外を見渡す。正面に空いている駐車スペースの枠や横隣りの車の位置から察するに、なるほど確かに成功しているらしい。バック駐車が死ぬほど苦手な私は、教習所で何度も前後へ動かし時間を掛けて角度の微調整をしていたことを唐突に思い出した。
「あ、ありがとうございました……!」
「いえいえ」
これくらい朝飯前と言わんばかりにさらりと流した安室さんはいつの間にかエンジンを停止させていて、シートベルトを解除した。私もそれにならってベルトを外し、ドアに手を掛ける。外から見て分かったことなのだけれど、RX-7は駐車枠のド真ん中に収まっていた。
私がハンドルを握るとどんなに時間を掛けて駐車したとしても大抵極端に右に寄っていて、かつ斜めになっている。なるほど、どうやらもうすっかりペーパードライバーとはいえ、私と彼の運転技術には雲泥の差があるらしい。運転が下手なのではと疑ってやまなかったあの頃の自分が猛烈に恥ずかしくなってしまった。
「さん? どうされました?」
じっと彼の愛車を見つめていた私に安室さんは、何かあったのかと言わんばかりに声を掛ける。しかしどうにも本音を晒すのも気が引けて、いえなんでもと首を横に振った。
“安室さんて運転お上手なんですね”? いや、そんなこと言って、また疑われていたのかと思われたらどうする。“私バック駐車苦手だから、すごいです”? なんだか上から目線だな、これもだめだ。“かっこよかったです”? だめだめ、そんなことを申告しちゃ絶対だめ!
どうやら頭の中はやけに散らかっていて、正しい分別が付かないようだ。だめだな、もしかしたら自分が思っている以上に面接で疲れているのかもしれない。映画で寝ないようにしなくてはと小さく咳払いをしつつ、車の真後ろにあったビル連絡口へと向かった。どうやらここは駐車場とビルを昔ながらの鉄のドアで区切っているらしい。自動ドアじゃないんだなと考えていると、自然な流れで先に開けられ、かつエスコートされるように扉が閉まらないよう押さえられてしまった。誰にだなんて言うまでもない。
「あっ。安室さん、ありがとうございます」
「いえ」
彼は、別にお礼を言われるようなことじゃないですと言わんばかりの顔をしている。しかしたったそれだけで女の子扱いされているように感じてしまった私は、また胸を高鳴らせてしまったのは気のせいであると信じたい。
ドアをくぐって3メートルもしないところに設置されたエレベーターは、まるで待っていたと言わんばかりにすぐにやってきた。中には誰も乗っていない空箱状態のようで、今度は私が役に立とうと真っ先に乗り込む。
「ええと、何階でしたっけ」
エレベーターに乗ってすぐ横にあるフロアボタン前を陣取るも、肝心の映画館のあるフロアが何階かが分からない。安室さんがゆっくり乗り込めるように開くボタンを押しながらドア上のフロアマップを確認すべく顔を上げていると、目的地の名前を見つけるより先に安室さんの声が耳に飛び込んで来た。
「7階ですね」
安室さんから適切な回答が返ってきたのだからそのまま視線を落として該当ボタンを押せばよかったと言うのに、1人の影が顔に掛かったせいで全身への信号は麻痺し、中途半端なところで指は停止した。
私から見て左から半ば覗き込むように“7”のボタンを押そうとしている安室さんは目を少し伏せていて、ボタン前に立つ私に隠れた数字を見つけるべき顔を近付けている。明らかに今までと違う距離に無意識に右足を後ろへ送ると、後頭部に何かが当たりそれを阻止される。どうやらバランスを取るように彼は右手を壁へつけていたらしく、私はその腕に接触したらしい。まるで壁の端に追いやられて安室さんの腕で閉じ込められているような気分になってしまった心臓が心拍数を増やすのに、そう時間は掛からなかった。
しかし安室さんは左手はボタンをオレンジ色に点滅させると閉扉し、そのままあっさりと私との距離を取る。あれ? と目をぱちくりさせる私に、彼は爽やかに微笑んだ。
「映画、楽しみですね」
……知ってた。別に、そういう展開じゃないということも、不可抗力であるということも知ってた。そもそも一瞬の出来事だったのに、やけにスローモーションのように見えてしまったのは私だけだって知ってた。
おそらく私がちんたらやっているから気を利かせてくれたのだろう。そう分かっていても相変わらず心臓はとどまることを知らない。そうですね、なんてありきたりな返事を安室さんにしつつ、未だに大きく耳の奥まで響く音に、私自身手を焼いていた。
……せめて髪、巻いて来ればよかったかも。
視界に入るまっすぐな髪を眺め、そんな後悔の念を抱いた。
◆
薄暗い劇場内の一番後方の座席を取ったものの、客は随分とまばらで、明らかに空席が5分の4以上を占めていた。だからか私と安室さんの両隣に人はいない。そういえばどの劇場も明日で上映終了としているところが多かったことを思い出した。まだ予告も始まらない程度だったので暇つぶしにとまたお喋りを始めるも、劇場内と言うこともあり先程の車内と同じトーンで話すのも気が引ける。分かりやすくボリュームを落とし、まるで内緒話をするかのように声を潜めた。なんだか2人で秘密基地にいるかのような感覚が楽しくて、目が合うたびにクスクスと笑ってしまう。
「だからポップコーンを買ったら、また引っくり返してしまうんじゃないかって思うんですよ」
他愛のない話が発展して、いつの間にか話題は私が子どもの頃盛大に仕出かした失敗談へと移り変わっていた。当時親に買ってもらった映画館のお供に心躍らせていると、何もないところで1人すっ転んでしまったのだ。結果見るも無残に床に転がり落ちた白いお菓子達が忘れられず、あれからポップコーンは一度も買っていない。とは言っても勿論そんな深刻なものではなく、今では普通に笑って話せる微笑ましい昔話だ。だから安室さんも、それは大変でしたねと言わんばかりに頷いている。
「では後でポップコーンを買って差し上げますから、トラウマ克服していってください」
「いやです。またぶちまけて、今度は映画館に来れなくなったらどうするんですか」
「なにもそこまで思いつめなくても。まあ僕は、他人のフリをさせてもらいますけどね」
「だめです。絶対に安室さんも巻き込んでやりますからね」
「トラウマの押し売りはやめてください」
小さく笑い合っていると、自分が思っていた以上に時間は過ぎ去っていたらしい。ゆっくりと視界が薄暗くなっていく劇場内に、ふと天井を見上げた。私達は、そんなに長い間話し込んでいたのか。気が付けばスクリーンには、近日公開予定であろう作品の予告動画を流し始めている。
名残惜しさはあったものの、ここでお喋りを続けるのもどうかとどちらが言うでもなく自然に切り上げた私達は、お互い何も言わず正面へと顔を向ける。どうやら海外で人気を博したハリウッド映画が遂に日本上陸、という大々的な広告で、派手なアクションシーンやCGをふんだんに取り入れた派手な爆発が次々映し出された。
しばらくぼんやりと眺めていたものの、やはりどうにも隣が気になってしまう。こっそり視線を向けると、ほぼ同時期に全く同じことを鏡写しのようにしていたらしい安室さんと目が合ってしまった。お互いきょとんとした顔を見合わせ噴き出す。
「なんですか?」
「安室さんこそなんですか?」
先程よりも更に小さく小さく絞った声はお互い震えていて、とてもこれから映画を観るような2人ではなかった。だけど予告を楽しみにしている人は間違いなく存在するし、実際私も劇場で映画を観るときの醍醐味のひとつだと考えている。だからこれ以上会話を続けるわけにはいかないことは分かりきっていたし、安室さんもきっとそれを感じ取っていた。
「(早く映画、終わらないかなあ)」
今日は映画を観に来たはずだと言うのに、いつの間にか始まってもいない映画の終幕を今か今かと楽しみにしている自分がいることに気が付いた。多分私は安室さんと話すことが、きっと何よりすきなのだ。
20181207