「──あれ? さん?」

 あちこちから音が交差する駅の改札で耳に飛び込んで来た声は、やけに透き通って聞こえた。その声を捕らえた瞬間、まるで他の音は全てシャットダウンしたかのように耳はその声だけに集中してしまう。しかしそれがやけに聞き慣れたもののような気がして振り向くと、そこには先週末にも顔を合わせた“彼”の姿を発見する。まさか鉢合わせるとは思ってもいなかったお陰で、「あっ」と声を漏らしてしまった。

「安室さん!」
「奇遇ですね、こんなところでお会いするなんて。……そういえば、今日はドレスなんですね」

 そう言って私の髪の先から足元まで視線を上下させるとまた目を合わせ、微笑んだ。普段と違う格好をまじまじと観察されたせいか急に気恥ずかしくなって、無意味に耳に横の髪を掛けてしまう。ふわりと編み込みされた髪を後ろで束ねられた髪は、滅多に着ない紺のワンピースドレスに合わせるために今朝美容院でセットアップしてもらったものだった。つい先程まで友人達とはしゃぎながら写真を撮り合ったりしていたはずなのに、安室さんに見られるのはなんだか少し照れ臭い。今回はファミレスのときとは異なり、正真正銘“普段とは違う”姿となっていた。

「……じ、実は今日友達の結婚式で。その帰りなんです」

 少しずつ存在を主張し始めた心臓を隠しながら答えると、彼は「ああ」と思い出したように言った。

「そういえばおっしゃってましたね、今日だったんですか。いつもはかわいらしい雰囲気ですが、とてもよく似合ってます。お綺麗ですよ」
「またそんな」
「お世辞じゃないですよ。本心です」

 リップサービスとは分かっているけれど、こうもストレートに褒められるとくすぐったくなってしまう。ついお世辞を本気に取って照れてしまう私とは対照的に、安室さんはいつもどおりの笑顔を浮かべている。……間違いなく女性の扱い、慣れてるんだろうな。そんなことを考えたら少しさみしくなった。

「そうだ。先日は、どうもありがとうございました」
「えっ?」

 安室さんから唐突に礼を言われたものの、一体彼が何のことを言っているのかすぐに飲み込むことが出来ない。一瞬きょとんと首を傾げつつ、しかしここ最近起こった彼と出来事を思い返して慌てて口を開いた。そして小さく会釈するかのように上半身をほんの少し前に傾けつつ「こちらこそ」と返したところで、先週別れ際に交わした小さな約束を思い出す。

「──あっ!」

 突然大きな声を出してしまったのは、“先日”というキーワードで、芋づる式に水族館からの帰りの車中の出来事を思い出したからだった。慌てて辺りを見回す。一見クライアントらしき人物の姿は見当たらないけれど、もし何か調査している途中だったら私には分からない。先程とは対照的に、小声で話しかけた。

「安室さん、今お仕事中ですか? お時間ありますか?」
「え? はい。今日はもうオフですけど……」
「じゃあコーヒー、奢ります!」

 そう宣言すると、安室さんはきょとんとした顔をした後、目尻を下げて言った。

「やっぱりあなたは律儀な人だ」

 賑わうコーヒーチェーン店ではなく落ち着いた雰囲気の喫茶店を選んだのは、周りを気にせず話したいと言うことと、もしかしたら前者の場合身内に遭遇するかもしれないという危惧からだった。別に見られて困るようなやましいことは一切ないけれど、もしも安室さんと一緒にいるところを発見された場合、どうしたって関係性を問われる未来は目に見えている。安室さんにも迷惑が掛かるし、それだけは何が何でも避けたかった。

 しかし優雅に流れるクラシックのメロディーも、正面に腰掛ける彼の視線のせいでちっとも落ち着くことが出来ない。お揃いのコーヒーカップを並べた丸いテーブルを挟みつつ誤魔化すようにあちこちに視線を泳がせていたものの、ついに耐えきれずおずおずと切り出した。

「……あの、もしかして変ですか?」

 遠慮しがちに尋ねると、安室さんは突然の質問内容を理解しきれずきょとんとしている。まるで先程とは逆の立場だ。しかし確かに主語を入れずに突然こんなことを聞かれても、流石の彼もピンと来ないのだろう。その証拠に安室さんはホットコーヒーを一口飲んだ後、その白いカップをソーサーに戻しながら「何がですか?」と詳細を尋ねてきた。自分で聞いておいてなんだけど自意識過剰と思われないだろうかと若干の気恥ずかしさを感じながら、遠慮しがちに口を開く。

「その……私の格好が」
「どうしてそうお思いに?」
「なんだか安室さん、よく見て来てる気がするから、おかしな格好しちゃってるのかなって……」

 それともまだ彼の中で私イコールカジュアルな服装という方式が、未だ根強く残っているのだろうか。先週はそれをくつがえそうとかわいらしい服を選んだつもりだったのだけれど、もしかしたらそれは失敗に終わったのかもしれない。

「すみません、気にしないでください。我ながら役得だなと思っただけです」
「や、やく……?」

 今度は私が意味を噛み砕けなくなる番だった。眉間に皺を寄せつつ聞き返すと、安室さんはなんでもありませんと言わんばかりににっこりと微笑む。

「それはそうとさん。この間、映画が見たいって言ってましたよね? 車の中で。それ、もうご覧になりました?」
「いえ、まだですけど……」
「よかった。じゃあこれ、よかったらどうぞ」

 そう言うと安室さんは、おもむろに2枚の紙をテーブルの上に置いたかと思ったら、そっと私の方へと差し出してきた。「よかったらどうぞ」と言っているということはつまり、これを私にやるということらしい。その短冊サイズのカラー紙へと視線を落とすと、まさに先週私が観たいと言っていた映画のタイトルが記載されている。どこからどう見ても、例の映画の前売り券そのものだった。

「えっ。これ、どうされたんですか?」

 顔を上げ見やると、彼は少し困ったように頬を掻いた。

「実は当初一緒に観る予定にしていた友人に急用が入って、行けなくなってしまって。それで、せめてお前が行けって頂いたんです。ただ僕自身、映画の趣味が合う友人は少なくて。でもせっかく頂いたものですし、使わないのは勿体ないでしょう? どうしたものかと考えていたら、以前さんが興味ありげに言っていたのを思い出しまして。だからこれ、よろしければ差し上げます。と言っても、どの映画館も上映終了まで日が無いようですから、観れる期間は限られているんですけどね。それでも良ければ2枚あるので、お友達とご覧になってください。勿論お代は結構ですので」
「で、でも安室さん、観たかったんですよね?」
「まあ、興味があったのは事実ですけど……」

 彼は少し目を泳がせた後、まるでそれを悟らせまいと言わんばかりにぎこちなく笑った。

「2枚もあっても消化できませんし、どうぞ」
「そんな……」
「僕のことはお気になさらず。コーヒーもご馳走になりましたし、そのお礼です」

 そう言ってまたカップを手に取ると、安室さんはそっとコーヒーを口に含んだ。しかしそもそも水族館でのお礼にとコーヒー代を出したというのに、更にそのお礼をされてしまうと本末転倒以外の何物でもない。事情は分かったものの、「それじゃありがとうございます」とこの2枚の紙を回収するのはどうにも気が引けた。前売り券へと視線を落とし、何か解決策はないものかと無い頭を振り絞る。

「(安室さん、映画の趣味が合う人はなかなかいないと言っていたし、きっと楽しみにしてたんだろうな)」

 私も誰かと一緒でなければ余程のことがない限り劇場まで足を運ばないタイプだから、気持ちは分かる。だからこそ彼の楽しみを奪うことはしたくなかった。おそらく彼はこの前売り券がなくなれば、劇場に足を運ぶこともないのだろう。そんな展開は容易に想像がつくからこそ、なんとかして丸く収まる方法を考えなくてはならない。口ぶりからして今回は1人で行くと言う選択肢も考えていなそうだし、それこそ私が安室さんを引っ張っていかない限り観に行かなそうだ──。

「……あっ」

 なぜこんな単純なことに気付かなかったのだろう。別にこんな考えるまでもなく、解決法はひとつしかないではないか。つい漏らしてしまった声に、安室さんは顔を上げた。その顔は分かりやすく、どうしたの? と言っている。そんな彼の目に視線をぶつけて、「安室さん。あの、もし時間が合ったらでいいんですけど」と提案した。

「これ、一緒に行きませんか?」

 自分でもびっくりするくらい、すんなりと誘いの言葉が出た。予想外の展開に目を丸くする安室さんに、もしかして私と映画なんて嫌だったろうかと背中にじわりと汗をかく。ここで初めて、断られるという展開を考えていなかった自分がいたことに気が付いた。思えば自分から男性に遊びの約束を取り付けようとすることなんてそう何度もなかっただろうに、どうしたというのだろう。あれだけ緊張していた水族館もずっと話が弾んでいたし、安室さんとだったら楽しいかもという考えだけが先行して、後先考えずに口を開いてしまった。

「あの。本当に時間が合えばの話なので、都合が合わなければいいんですけど」

 誤魔化すように笑顔を張り付けてフォローしたものの、果たしてうまく笑えているかは怪しいところだ。どうにも頬が引き攣っている気がする。「安室さんもお仕事の都合とか色々あるでしょうし、きっと難しいですよね」と言われる前に自ら口にしては、傷がつかないように予防線を張った。手持無沙汰となり手元のコーヒーカップを手に取るも、無意味に取っ手を指でなぞっては、いつの間にかせわしなく存在を主張し始めた心臓を落ち着かせようと、並々と注がれている液体をじっと覗き込む。

「──いえ。さんさえ宜しければ、喜んで」

 聞き間違いかと顔を上げるものの、空耳にしてはどうもはっきり聞こえた気がする。「本当ですか?」とテーブル前に身を乗り出すように彼を覗き込むと「当たり前じゃないですか」と小さく笑ってくれるから、なんだか気が抜けてゆるゆると後ろに倒れかかるように背もたれに背をつけた。たった一言の言葉で、驚くほど心が軽くなる。椅子の下でこっそり足のつま先を上下させた。

「(……あたりまえ、なんだ)」

 それは私が誘ったことはなんでも承諾するという意味なのか、興味を持っている映画を観れるなら断るはずがないという意味なのか、どちらなのだろう? 聞くに聞けないこの疑問は心の奥にしまい込むしか手段が分からず、代わりにまたコーヒーカップに手を掛けた。そこには安室さんの手元と全く同じものが注がれているはずなのに、明らかにミルクと砂糖が入って滑らかな色をしている。ほんの一口味わって、深く息をついた。そしてカップに口を付けたまま、こっそり正面の彼を見やる。

 ──身辺調査っていうの、嘘ですから。

 去り際に言い残して言った言葉を、この1週間忘れたことはなかった。……どうしよう、聞いていいのかな? あの日の夜安室さんからお礼のメールが来たときには何も触れられなかったけれど。

 またコーヒーを舌の上へゆっくりと流し込みながら様子を伺うように安室さんへ視線を向けると、タイミングが悪かったのかぱちりと目が合ってしまった。その瞬間誰かに火をつけたれたかのように急激に体温が上昇する。思わず俯いてしまった。

「(……感じが悪い……)」

 そう頭では分かっているはずなのに、つい反射で視線を逸らしてしまった。後悔の念だけがぐるぐると頭の中を駆け巡る。どうしたらいいのかわからなくなって、とりあえず手元のコーヒーを一気に飲み干してしまった。それを見た安室さんは眉をひそめるかと思ったのに、彼はのほほんと笑う。

「喉、乾いてらしたんですね」
「え。いや、まあ、はい……」

 誤解を解こうとしたものの途中で挫折したことが前面に出てしまった。おかわりを勧める彼に首を振って、誤魔化すように「映画の日程を決めましょう」と切り出す。

 ああ。私は、安室さんのこともだけれど、ついに自分のことまで分からなくなってしまったようだ。


20181201