さん、今日は電車ですよね? 実は僕、車で来ているんです。もう遅いですし、家までお送りしますよ」

 閉園間近を主張するオルゴール調の曲が掛かり始めた頃、水族館出口のゲートを数時間ぶりにくぐったところで渡された安室さんのお誘いに、どう返すのが得策なのかとつい悩んでしまった。確かに私は彼が言うとおりここまで電車を乗り継いで来たのだけれど、ただでさえ食事代から何まで支払ってもらっているというのに、流石にそこまでしてもらうのは気が引ける。大丈夫ですよと首を横に振った。

「今は実家に帰ってて、ここからは遠いんです。だから大丈夫ですよ」
「それは逆に全く大丈夫じゃないです乗ってください」

 しまった、どうやら言葉のチョイスを誤ってしまったようだ。ポケットから愛車の鍵を取り出した彼の顔は、「それをどうして大丈夫だと思ったんだ」と言っている。わざわざ手間を掛けてしまうのが申し訳ないからという意味で言ったのだけれど、どうやら安室さんにはそれが逆効果だったらしい。

 やってしまったなあと後悔していると、ふと視界に白いRX-7が入ってくる。まさかここに安室さんと同じ車を乗っている人がこの水族館に来ているとはと半ば現実逃避のようなことを考えていると、そこへ迷うことなく近寄った安室さんはおもむろにロックを解除した。どうやらこれは誰かの車ではなく、安室さんの車だったらしい。なるほど何かあってもいいように、水族館の出入り口に近いところに駐車していたのか。

 そうこうしているうちに有無を言わさずと言わんばかりに助手席のドアを開けられてしまう。そのままじっと私を見つめて来るから、どうやら「乗れ」と言っているらしい。彼の愛車は、汚れや凹凸ひとつない新品同様と言わんばかりに輝いて見えた。

 しかしここで好意に甘えるのはいかがなものだろう。きっともう疲れているであろう安室さんに遠回りをさせるのはどうにも気が進まなかった。「実家だから遠い」と言ってはみたものの、実際には2つも3つも県をまたいでいるわけではないから時間だけ見たらさほど掛からないかもしれないけれど、これはそういう問題ではない。相変わらず渋っていると、安室さんは私の名前を呼んで言った。

「最後までエスコート、させてくれませんか?」

 そう言われては断れない。「本当に遠いですよ」と再度念を押してみても、彼は頑として引き下がろうとはしなかった。ただドアを開けたまま、助手席に乗り込む私を待っている。折れたのは、私の方だった。

「……じゃあ、その。お言葉に甘えて……」

 どうも申し訳なさが先立って、ごにょごにょと口籠るように答えてしまった。しまった、もっとはっきり言わないと失礼だ。そう気付いて首の後ろをじんわり熱くしてしまう私とは対照的に、安室さんはにこやかに笑っていた。

「どうぞ」

 どこか嬉しそうに見えてしまったから、私は自分でも気づかない間にフィルターを掛けてしまっているようだ。少し小走りで彼の元へ行くと、安室さんは座るように促した。それを受けて、失礼しますと遠慮しがちに断りを入れ、彼の愛車に足を踏み入れる。粗相がないように丁寧に、かつ勢いを乗せて座らないように。そしてワンピースの裾が皺にならないように細心の注意を払いながら、ゆっくりとシートへ体重を移動させる。膝の上に鞄を置き、最後に服の裾がドアに挟まるようなところにないか確認して、まだドアから手を離していない彼に目配せした。

「じゃあ、閉めますね」
「は、はい」

 勢いを殺した最低限の力で閉じられたお陰で、大きな音は立たなかった。たったそれだけのことなのにどうも彼の優しさを体現しているような気分になって、心臓を高鳴らせる。運転席に乗り込むために半周回り込む安室さんを見送りながら、半ば感動しているかのように車内を見渡してみる。RX-7に乗るのは今回が初めてだった。

 外見から分かってはいたけど、車体が低いから他の車と見え方が全く違う。慣れていないから変な感じもするけれど、ちょっとわくわくする。やっぱりエンジン音は、外で聞くのとは聞こえ方が違うのだろうか。

「(──待って! 安室さんの運転!?)」

 唐突に思い出してしまった。安室さんの車なのだから運転席に座るのは安室さんしかいないというのに、すっかりどうして忘れていた。脳裏に浮かんだのは、幾度となく傷や凹みを蓄えた彼の愛車の姿だった。いや、むしろそんなかわいいレベルのものではなく、フロントガラスが割れているのは勿論のこと、ボンネットがまるで丸めた紙のようにくしゃくしゃになり、右のヘッドライトからフロントフェンダーに掛けて本来あるべきものが一切ない状態を目にしたことだってある。絶対この人が運転する助手席に座りたくないなと思ったのは一度や二度ではなかった。

 整備に来るたびに「事故に遭ってしまって」と言っていたけれど、人は見かけによらないと言うし、実は安室さんはものすごく運転が荒いのではないだろうか。そんな仮説が生まれてしまったものだから、全身からすごい勢いで血の気が引いていく。もしかして私、今日死ぬのでは。

「そういえば行きも、迎えに行けばよかったですね。気が利かずすみません」

 車の主の声が聞こえ右に首を振ると、いつの間にか彼は運転席側に着いていたらしい。その席に腰を落としてドアを閉めた安室さんに、私は「いや、そんな」などとたどたどしいにも程がある声を出しながら、ここから再度抜け出せる方法について頭をフル回転させて考えている。どうしたら自然で、かつ説得力のある言い訳が出来るのだろう。しかも一度助手席に座っておいてとなるとなかなか難易度が高い。そうこうしているうちに相変わらず私がただシートに座っているだけの状態だと気付いたらしい安室さんが、シートベルト着用の注意をしたところでタイムオーバーが確定した。

「あっ。はい……」

 真っ白な頭でも、返事だけは出来るらしい。左上のシートベルトを手に取って伸ばすように引き出すと、まるで命運を握る命綱のようにバックルへと差し込んだ。それを確認したところで車の主はいつもと変わらない様子で話を振りつつキーを回すものの、今の私には世間話を返す余裕すら存在せず、むしろ鳴り響くRX-7のエンジン音が、まるで天国へのカウントダウンのように思えて全身を凍らせていた。

 こんなことなら部屋を片付けて来るんだった。遺品整理に足を踏み入れた母に「最期まで整理整頓も出来ない子なんだから」と独り言を溢されるシーンがなぜか脳裏で再生される。

「ご実家の住所は?」
「──えっ?」
「先程、実家に帰られていると言っていたでしょう? ナビ検索しますので、住所を教えてください」
「あっ。はい」

 これはもう本当に逃げられない。ここで、「やっぱり電車で帰ります」とドアを開けるのは流石に気が引けた。しどろもどろになりながら住所を伝えると、安室さんは手慣れた様子でカーナビ画面を操作しては情報を入れ込んでいる。出来るだけゆっくりと伝えてみたものの、大した時間稼ぎにはならなかったようだ。番地を入れ込んだところで「到着地点を設定しました」とナビが答える。設定しなくていいんだけどな、なんて電子音に悪態をつきそうになった。

「じゃあ行きましょうか」

 にこやかにほほ笑まれた瞬間、背中に嫌な汗をかいた。もちろん、決して笑顔が怖かったとかそういうことではない。遂に私は生涯を閉じてしまうのかと、後悔と恐怖がまばらに混ざり合ったよく分からない感情が全身を駆け巡ったのだ。そうとも知らないRX-7は、エンジン音を鳴り響かせ、ゆっくりと東都水族館から離れようとしている。窓の外が動く中、私は遂に覚悟を決めた。気付かれないように、左手でシートベルトを、右手で膝の上に置いていた鞄をぎゅっと掴む。右折するウインカーの音すら緊張の種になってしまった。

「……もしかして、運転が破滅的に下手だと思ってます? それか、あおり運転をするとか」
「えっ!」

 どうしてそれを。心を読まれたかのような発言に驚いて安室さんを見やると、あまりにも分かりやすい反応をしてしまったからか、彼は「正直な人だな」ケタケタと笑った。思わず顔が熱くなる。車は東都水族館の駐車場を出て一般道路へと流れ込んだ。

「そうですよね。頻繁に修理に来る男の車になんて乗ったら、命がいくつあっても足りませんよね」
「そ、そんな、ことは……」

 しまった、やけに泳いだ声になってしまった。説得の欠片もないと考えたのはどうやら私だけではなかったらしい。安室さんはますます笑みを深くする。なんだか心なしか楽しそうだ。

「大丈夫ですよ。法的速度は守って、安全運転第一でお送りします。あなたの命を預かってますから」

 そう言われても、正直半信半疑だった。なぜなら安室さんも言っていたように、あんなに車をズタボロにして来るお客さんなんて早々いやしなかった。つまり、そんな人が安全第一と言ったところで説得力なんて生まれるはずがないのだ。しかし5分も走らせればその人の運転癖が大体解るというもので、つまり私は何かが違うと首を傾げた。

 速度は彼の言うとおり規定速度そのもので、ブレーキも踏みっぱなしというわけでもなさそうだ。信号も青に変わる直前にスピードを上げたりしないし、やたら前方を追い抜こうと車線変更するわけでもない。車間距離も適切だし、極端に端へ寄ったりフラフラと危なっかしい走行もしていない。どれも基本中の基本だけれど、これは、つまり……。

「本当に安全運転ですね」

 印象を口から溢してしまうと、安室さんは目をぱちくりとさせた。

「ははっ! まだ疑われてたんだなあ」
「えっ? あ! ……す、すみません……!」
「いえいえ、いいんですよ。僕があなたの立場だったら、きっと同じことを考えていたでしょうしね。それが普通ですよ」

 そう言いながら、まるで面白いことが起こって笑いを堪えきれないようにクックッと喉を鳴らした安室さんの姿に、自分がとんでもなく失礼なことをしてしまったことを改めて実感して一気に顔を熱くしてしまう。ああ、なんということだろう。時を遡れるなら今すぐに車に乗ったあの瞬間に戻ってやり直したい。

「ところでさん。今日は楽しんでいただけましたか?」

 真っ直ぐに進行方向を見据え、こちらには視線を渡さずにそう尋ねた安室さんに、「え!? あっ。は、はい!」と動揺丸出しの返事を寄越してしまうと、安室さんはまた噴き出した。私は私で「またやってしまった」と震えたのは言うまでもない。

「実はまだ疑ってます?」
「そ、そんなことはないです!」

 力強く否定すると、そこでようやく疑惑が晴れたらしい。というより、「じゃあそういうことにしておきますね」と安室さんが妥協したと言う方が正しい。不貞腐れたように棘がある声ではなく、相変わらずおもちゃを見つけたように弾んだものだったから気分は害していないようだけれど、むしろ面白がっているように見えるのはなぜなのだろう。なんだか居心地が悪くなって強制的に話題を戻したのは私だった。

「それで今日はその、楽しかったですよ。……というか、最後の方は単純にはしゃいでしまっていた気がするんですが」
「いえ、何よりです。強引にお誘いしてご迷惑かと思っていたので」
「そんなことは……! ──な、ないです、よ」

 ついムキになってしまいそうになっている自分に気が付いて慌てて切り替えたようにやんわりと否定すると、安室さんは「優しいですね」なんて温かい笑みを見せる。別にそんなことは、なんて小さく呟くように言ってみたけれど、きっとエンジン音で掻き消されてしまったに違いない。

「それであの、お金……」

 最後まで言わずとも、私が言いたいことは把握したらしい。彼は私が続きの言葉を紡ぐ前に口を開いた。

「結構ですよ。チケットも頂いたものですし」
「じゃあ、せめて食事代くらい。何から何まで出して貰って、申し訳ないです。全然依頼料の代わりになってないです」
「本当に律儀な方ですね、あなたは。……でも、本当に気にしないでください。こういうのは、誘った男が払うべきです。今回は、僕の顔を立てると思って引いて頂けませんか?」
「で、でも……」

 物分かりのいい返事をするのが一番だと言うことは頭では分かっているのだけれど、やはり引っ掛かるもののせいでどうにも納得出来ない。安室さんもなかなか引き下がろうとしない私を一瞬横目で見た後、それを察したように言った。

「うーん……。では、そうですね。もしそれでも気になると言うのなら……」

 車のスピードが緩やかに失速する。ふと前方を見やると、赤く点灯している信号が目に入った。そして車が完全に停止した後、彼は久しぶりにこちらへ顔を向ける。

「次に会ったとき、コーヒーでも奢って下さい」
「は、はい。勿論です!」
「ふふ。ありがとうございます。楽しみにしてますね」

 コーヒー代なんてたかが知れているし、金額から考えれば今日掛かった費用と全くもって釣り合わないことは分かっていた。それでも頷いてしまったのは、彼のはにかんだ顔が、まるで本当にそのときを楽しみにしているかのように見えたからだった。適当に口から出まかせを言っているように思えなくて、つい釣られてしまった。まるで、今度もまた会いましょうねと約束を取り付けられているように思えてしまって、拒否することが出来なかったのだ。

 結局結論から見れば丸め込まれているには変わりないものの、しかしなぜだか晴れやかな気分になっている。どうにも浮かびたがる笑みを隠すように手元の鞄へ視線を落とし、車内に流れるラジオへと何気なく耳を傾けた。どうやらリスナーからのリクエスト曲を紹介しているらしい。

「……あっ」

 聞き慣れたメロディーに思わず弾んだ声を出してしまった。だからだろうか、それを見逃さなかった安室さんは、「どうかされました?」と柔らかい声で尋ねる。しかし反応を見せてしまったのは本当に個人的な感情そのものだったので、特にこれと言って盛り上がるような話ではない。とはいえ適当に話を濁すのは忍びないと、大したことではないんですがと前置きをした。

「この曲が主題歌になってる映画、ずっと観たいなと思ってたものだったので、つい」

 そうして緩やかな歌声を流すカーナビに視線を落とすと、相変わらず電波に乗せて、1曲のスローテンポなラブソングが流していた。この曲は、1ヶ月半ほど前に公開された邦画のテーマソングのために人気のアーティストが書き下ろしたもので、そのお陰か特に人気の俳優は出演していなかったというのに話題を呼び、映画が公開されるや否やクチコミも相まって5週連続でランキングにトップ10入りを果たす快挙を成し遂げ、興行収入が何億円でうんぬんとニュースで取り上げられていた記憶がある。映画の内容は確か、大人になった青年が昔住んでいた町へ帰り、そこから少しずつ思い出をほどいていくというものだった。その過程で主人公が昔すきだった女の子が登場するので、これはその子に当てた曲らしい。

「ご覧になる予定なんですか?」
「そうしようと思ってたんですが、バタバタしてたらタイミング逃しちゃって。そもそも公開してから大分経っているから上映してる映画館も少ない気がしますし、まだやっててくれるといいんですけど」
「そうなんですか」
「安室さんはご覧になりました?」
「いえ。残念ながらまだ」

 まだという言い方をしたと言うことは、安室さんも興味を持っていると言うことなのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えていると、アクセルを踏まれた車は少しずつ速度を上げてますます水族館への距離を離していった。どうやら信号が変わったらしい。

「映画と言えば、さんて映画鑑賞中、ポップコーンは食べなそうですよね」
「えっ。よく分かりましたね」
「まあ、なんとなくですよ。なんの理論性もない、ただのイメージです」

 一体私は彼にどんなイメージを持たれていると言うのだろう。しかし確かに彼の言うとおり、私は映画館でポップコーンは買わないし、劇場内で何か軽食と共に席に着くことはほとんどない。決して軽食類が嫌いな訳ではないけれど、独特の匂いと雑音が映画に集中したい人への迷惑となってしまうように感じて敬遠しているのだ。ついでに昔ポップコーンを見事に引っくり返し床にぶちまけたことも後押しして、近年購入に至ったことはなかった。

「じゃあ、安室さんは? 食べますか?」

 投げられたボールを返すように尋ねると、彼は「僕もあまり買わないですね」とやんわりと否定した。むしろポップコーンがというより、私の中で安室さんが映画を見に行くというイメージが全くと言って良いほど湧かないのは何故なのだろう。正直安室さんのプライベートは全く想像がつかない。日頃どんな部屋で何をして過ごしているのか、人間らしい姿がどうしても思い描けなかった。まっすぐに前だけを見つめる彼の横顔に視線を集めながら、少し身を乗り出して尋ねる。

「……安室さんて、休みの日とか何されてるんですか?」

 口をついて出たのは、ほんの些細な好奇心だった。ただただ純粋に、この人は日頃何を考えているのか興味を持ったのだ。それは初めて手にした本を読むときに似ている。タイトルと表紙から内容を想像して、少し胸を躍らせながらページをめくる、あの感覚に。

「どうしたんですか? 急に」

 突然映画から話題が替わってしまったこともあってか、安室さんは一度こちらに目配せした。

「すみません。だって安室さんが映画館にいる姿、全然想像できなくて」
「僕だって映画くらい観ますよ」

 眉を垂れ下げて笑いながら慣れた手つきでウインカーを出すと、止まった車体は周囲を確認し、左折した。ラジオから流れていたはずの主題歌はいつの間にかサビを終えてボリュームが絞られ、パーソナリティーのコメントへと切り替わっている。

「じゃあ、最近見た映画ってなんですか?」
「え? うーん、なんだろう……」

 まるで3日前の夕飯を聞かれたかのように考え込んだ安室さんは、しばらく時間を掛けたものの、“これ”という返答は寄越して来ない。その様子から察した私は、「ほらあ」とどこか満足げに指摘すると、安室さんはまるで仕返しと言わんばかりに口を開いた。

「じゃあ、さんは?」
「えっ? う、うーん……」
「ほら」

 笑いを含んだ声のツッコミは、「さんも同じじゃないですか」と言っている。確かに思い返してみれば、私もここ最近映画館へ足を運んだ記憶がまるでない。だって、これと言って惹かれるタイトルがなかったり、多少気になるからそのうち観に行こうと思っておいて結局忘れ去ってしまっていた。

 それからいつの間にか脱線が脱線を重ね続けた話は、途切れることを知らなかった。よく食材の買い足しに近所の激安スーパーに買い物に行くと聞いたときは耳を疑ったものの──「高級スーパーにいそうなのに」と言ったら笑われてしまった──、試食を勧められたら断りにくくてつい買ってしまうとか、好物のセロリは常時冷蔵庫に入っているだとか、ありふれたひとコマは彼の私生活を肉付けした。どうやら安室さんも、ちゃんと人間だったらしい。

 喉が不調であることも忘れるほどにずっとお喋りを楽しんでいた私は、周りの景色が見慣れたものに変わっていることに気付くことが出来なかった。RX-7が走り出して1時間半後、カーナビが「目的地周辺です」とアナウンスしたことでようやく近所に辿り着いたことを知ったほどに。窓の外を見てみると、前方20メートル先に慣れ親しんだ一軒家が見える。

「あの、ここで大丈夫です。ありがとうございました」

 右隣の彼に声を掛けると、車体はゆっくりとスピードを落として停車した。独特のエンジン音が車内に響く中、私はシートベルトのロックを外した。安室さんはそれを見守りながら、「長い時間お疲れ様でした」と微笑み掛ける。最後まで気遣いを忘れない人だった。

「今日はお疲れでしょうから、ゆっくり休んでくださいね」
「はい、ありがとうございます。安室さんも、遠回りさせてしまってすみません」
「いえいえ。運転するのはすきなので、いい気分転換になりましたよ」

 初めての場所で運転するのは、冒険しているようで楽しいですからね。まるで子どものように無邪気な顔を見せる彼に小さく笑いつつ、しかしいつまでも長居するわけにはいかないとバッグの持ち手に手を掛けた。

「そうだ、さん。これ残りですけど、良かったらどうぞ」

 そんな言葉を投げかけられてふと安室さんに視線を戻すと、観覧車でお裾分けしてくれが黒い長方形を渡してきた。そこにはブドウの絵と一緒に、金の文字で“芳醇ぶどう喉飴”と記載されている。話の流れから察するに、どうやらこれを私にやると言っているらしい。確かに味はすきだし、気に入ったか気に入っていないかで言うと前者になるのだけれど、これは確かに安室さんが購入したものだった。

「え。でも……」

 遠慮が強く前に出て言葉を濁していると、「喉の調子を悪くさせてしまったようなので、そのお詫びです」とずばり言い当てられて思わず目を丸くした。まさかと思っていたけれど、本当に気付かれていたなんて。それにこれは、別に安室さんのせいではないというのに。

「気付いてたんですか?」

 そう尋ねてみても安室さんはにっこりとほほ笑むだけで、それ以上は何も答えなかった。

さんは喉から風邪を引くタイプのような気がするので、うがいや保湿もしてあげてくださいね」
「……それもイメージ、ですか?」
「ええ、イメージです」

 安室さんは超能力者か何かなのだろうか。また見事に図星を突かれ、私はもう何も言い返すことが出来ない。彼と差し出された飴を交互に見比べつつ、それじゃあと手を伸ばす。お代はと尋ねたら、また笑い飛ばされてしまったけれど。

 受け取ったそれを右手に握りしめたまま車から降りてドアを閉めると、助手席側のウインドウが下がった。どうやら安室さんが手元で操作したらしい。腰を折って、運転席に座る彼に最後の挨拶を投げかけた。

「それじゃあ、ありがとうございました。でも私、調査の邪魔になってたんじゃ……」

 ずっと気に掛けてくれていたから、調子に乗って喋りすぎていたことは自分自身自覚していた。だからこそ、今日の最大の目的が疎かになっていたような気がしてならないのだ。いや、安室さんは動画に収めていたというからきっちり仕事はしているようだったけれど、私がもう少し周りを見れていたら、もっとスマートに事を運べたのではないだろうか。それがどうしても気になって尋ねてみたものの、安室さんはけろっとした顔で言った。

「ああ、気にしないでください。身辺調査っていうの、嘘ですから」
「……えっ?」

 予想外の展開に、私は間抜けな声を出すことしか出来ない。頭の理解が追いつかなくて、あちこちにクエスチョンマークが飛んでいる。

「それじゃ、今日はありがとうございました。ではまた」

 そう言い残し、颯爽と去っていたRX-7の後ろ姿をぼんやりと眺め、見送ることしか出来ない。……身辺調査じゃ、なかった? では今日のあれはなんだったんだろう。何のために私達は水族館に行ったと言うのだろう。気を遣って嘘をついたのだろうか。それとも、身辺調査ではない他の調査のために潜入したということなのだろうか。言えないから適当に誤魔化していたとか。だって、そうじゃなきゃ今日のはまるで。

「(ただのデートだ)」

 確かに尾行して調査している割にはゆっくり見て回っていた気がする。むしろ私のペースに安室さんが合わせてくれていたと言っても過言ではないし、そもそもあまりに自由に館内を見て回っていたから、今思えば対象者がいるにしては不自然だった。だから夕食を取っていたときもあんなにゆったりと過ごしていたのだろうか。確かに探偵業の同行ではないと考えたら全てがしっくりくるけれど。

「(じゃあ私は、一体何のために安室さんと、手を……!)」

 何かが爆発したように全身が熱くなっては、もう何もまともに考えることができない。ただ待ち合わせたばかりのときに彼が言った「楽しいデートにしましょうね」という声だけが、妙に繰り返し頭に響いた。


20181124