まさか本当に食事を奢られることになろうとは、夢にも思っていなかった。
水族館に隣接するファミリーレストランの席に着いたときは、絶対に何が何でもこの伝票だけは死守しなければならないと強く心に誓っていたはずなのに、いつの間にか忽然と姿を消した安室さんは、私が食事を終えて満腹感に浸っている隙に、目を盗んで会計を済ませて来てしまったらしい。お手洗いだと言ってたはずなのにしてやられたと呆然とする私に、戻ってきた彼はあっけらかんと言ってのける。
「土日祝日は、別会計をやっていないらしいので」
それとこれとは話が別というやつで、ならせめて後払いでお願いしますと財布を開くも、「まあまあ」なんてなだめては一向に受け取ってはくれなかった。これに似たやりとりをつい1週間前にもやっていた気がするのは私の記憶違いか何かだろうか。
しかもオーダー時、一番安くかつ早く出てきそうなものを選ぼうとしていた私に、「“ラッコの魚介グラタン”がありますよ。おいしそうですね」なんて明らかに時間の掛かるものを勧めておいて、「ああ、食後に“ペンギンのミニパフェ”もどうですか? マカロンにペンギンの顔がチョコで描かれていてかわいいですよ」とデザートまでしっかりオーダーしておいて。
いや、正直どれもピンポイントで心惹かれていたものだったのだけれど。どれもおいしかったのだけれど。ついでに言うと、盛り付けやお皿が動物モチーフとなっていてとてもかわいかったけれど。それでも納得がいかないと不貞腐れているのは間違いなく私の自尊心と罪悪感だ。だからこそ、店を出た安室さんの背中を追う私は、この怒涛の展開にまだ頭がついていけてはいなかった。
「どれもおいしかったですね」
晴れ晴れとした顔でそう言った安室さんに「そうですね」と同意してみるものの、彼と同じ顔をすることが出来ない。どうにもまだ引っかかってもやもやしつつ、しかし安室さんも頑固なところがあることは先週のやりとりで身に染みて体感している。遂に観念して折れたのは私の方だった。
「……安室さん、すみません。ごちそうさまです」
「いえいえ」
頭を下げる私に安室さんはにこやかな笑みを見せつつ、思い出したように「僕もつい楽しくなってしまって、勝手に頼んですみません」と眉を下げる。
「こう見えて僕料理するのがすきで、外食するときはつい、家で真似出来ないかと考えながら食べてしまうんです。だから、色んなものを見ておきたくて」
思考回路が専業主婦のうちの母そっくりですけど、安室さんてまだ20代の未婚者ですよね? というのは流石に口が裂けても言えなかった。代わりに「安室さん、料理するんですか」と話を続ける選択肢をすると、彼は「大したものは作れませんけど」と謙遜をする。
「でも、出来るんでしょう? すごいです。私料理は全然だめで……。ちなみに、得意料理ってなんなんですか?」
「えっ? うーん、なんでしょう……」
考えたこともなかったと言わんばかりの顔をした安室さんは、視線を上げた。その顔をじっと見つめながら「例えばほら、よく作る物とか」と補足すると、ますます安室さんは難色を示す。
「基本的に冷蔵庫の中にあるもので作るので、これと言うのは……」
「えっ。一度で良いから言ってみたいですその台詞」
「どうしてです?」
「だって今の、本当に料理が出来る人しか言わない台詞じゃないですか」
「そんなことないですよ」
まるで大袈裟なと言わんばかりの口ぶりの安室さんは、苦笑しながら言った。
「それに、本当に料理がうまい人はちゃんと適量で作りますしね。僕、いつもつい作りすぎてしまうんです。だからいつも食べきるのが大変で」
「(お母さんみたい……)」
“あれ”から土日は都内にある実家に帰るようになったものの、母はなんだかんだ一人娘が帰ってきたことを喜んでいるのか、毎日山盛りのおかずを食卓に並べている。わざわざ作ってくれるのはありがたいのだけれど、明らかに自分の胃袋のキャパを超えている量を食べきれるはずがなかった。母もそれを分かっているはずなのに、一向に適量に変えようとはしない。だから安室さんの言葉に身内を思い浮かべてしまったのは仕方のないことだと言えよう。しかし流石に「安室さんてうちのお母さんそっくりですね」なんて言うわけにもいかず、「そんなになんですか」と相槌を打った。
おそらく安室さんは、自分で何かを生み出すのがすきなタイプなのだろう。それとも無心に料理することがストレス解消になるタイプなのだろうか。漠然とそんなことを考えつつ、彼のエンゲル係数を心配した。
「だからさんも“食費がまずいな”と思ったら、お電話一本頂ければ配達に行きますからね」
そんな冗談を明るい口調で言った安室さんは、まるでどこかの宅配業者のようだ。しかし本業は探偵のはずなのにどことなく違和感がなく、むしろ活き活きとしているのは何故なのだろう。ピザのデリバリーのように配達にやってくる安室さんを想像して、ふふっと笑みが零れた。
「安室さんの利益がゼロすぎて、すぐ倒産しそうですね。その安室宅配サービス」
「そうですね。その前にどうにかしないと」
「じゃあいっそ、料理教室でも開いたらいいんじゃないですか?」
「もうそこまで行くと、本職がなんなのか分からないですね」
そう笑う安室さんは、どうも満更でもないように見える。おそらく彼は本当に料理がすきなのだろう。安室さんの手料理を食べたことどころか見たことすらないけれど、これまでの会話から言って人並み程度は間違いなく出来そうだ。
私もいい加減勉強しないとだめだろうかと考えながらレストランが入っていた建物を出ると、ずっと窓がない室内にいたから気が付かなかったもののいつの間にか日が落ちたようで、空はすっかり夜へと溶け込んでいた。しかし色とりどりに咲かせるイルミネーションが飾り付けられているお陰で昼間とはまた違った顔を見せており、別世界のように明るい雰囲気をかもし出している。ふと顔を上げると、中央に大きな観覧車が光り輝いていた。こちらも入場したときよりどこか大人びた印象を受ける。
ぼんやりと眺めていると、「そういえば、観覧車もリニューアルするそうですよ」と言う安室さんの声が隣から聞こえてきた。思い返してみると、この東都水族館は来年大幅なリニューアルを計画していると先週聞いた気がする。しかし観覧車を新しくするというイメージが湧かず「観覧車も変えるんですか?」と尋ねると、彼は頷いた。
「なんでも、二輪式にするそうです」
「に、にりん……?」
聞き間違いだろうか。いまいち自信が持てなくて聞き返してしまったけれど、安室さんは訂正することもなく肯定したから、きっと本当に“二輪”で合っているということなのだろう。首を傾げていると、「それぞれ右回りと左回りで逆回転させるそうですよ。つまり、乗る方向によって景色が変わって楽しめるという訳です」と説明が入った。
「へー!」
とりあえず当たり障りのない反応をしてみたものの、正直全くと言って良いほどリニューアル後のイメージが湧かない。だって、二輪式の観覧車ってなんなんだ。自転車みたいなものなのだろうか。……それぞれ逆回転にさせるということは、それぞれ向かい合って逆方向に回るのだろうか。じっと見上げてみたものの、そこには相変わらずありふれた観覧車の姿しか存在しない。これからどんな姿に様変わりするのか皆目見当もつかないけれど、とりあえず大がかりなリニューアル工事になるんだなということだけは分かる。
なんだかすごいですね、なんてありふれた感想を口にしながら視線を元に戻し何気なく乗車待ちの客層を見てみると、家族連れで賑わっていた昼間とは違って、なんだかカップルが多いような印象を受ける。もうすっかり日が暮れてしまったからだろうか。今からなら夜景が綺麗でロマンチックだろうし、きっと彼らはそれを目当てに並んでいるのだろう。
「せっかくですし、僕らも乗りましょうか」
「えっ?」
思いもしなかった提案に安室さんを見やると、彼は「僕、こういうところ滅多に来ませんし」と楽しそうに笑う。なんだか自分の興味を優先しているように思えるのだけれど、大丈夫なのだろうか。「でもあの、調査は?」と尋ねると「大丈夫ですよ。ああほら、彼らも観覧車に並んでいる」とまさかの答えが返ってきた。
「ええ!?」
「ほら、急いで!」
さっきまでそんなこと一言も言ってなかったのに!
しかし手首を引っ張って走り出されては、私もそれについていくしかない。決して彼は全力疾走というわけではなく、きっと小走りしている程度なのだろう。それでも頭が混乱して状況を掴めていないせいか、やけに体力を消費してしまっている気がする。体を動かしているときに頭を使うものではない。しかし安室さんは時々私の様子を気に掛けるように顔を向けてくれるから、「止まりましょう」なんて声を掛ける選択肢は消え去ってしまった。目が合うたびに悪戯っ子みたいに笑ってくれることが嬉しくて、なぜか妙に楽しくなってしまったのだ。分かりやすく例えるなら、学校を抜け出して街へ遊びに行く、あの何とも言えない背徳感に近い。
しかし日頃の運動不足がたたって、順番待ちの最後尾に付いた頃には私もすっかり肩で息をするようになっていた。彼は息ひとつ乱すことなく「大丈夫ですか?」と尋ねてきているから、体力の違いを感じてしまう。馬鹿の一つ覚えのようにこくこくと頷くものの、声を出せるほど余裕は残されていない。もしかしたら、そろそろジムにでも通った方がいいのかもしれない。しかし食休みは十分に取っていたお陰で、横っ腹は痛くない。いつの間にか掴まれていた腕は解放されていた。
「……び、びっくりしました」
開口一番喉から絞るように出てきたのは、突然観覧車へ走ることになったことに対する感想だった。未だに走り続けている胸を押さえながら顔を上げると、安室さんは「すみません」と眉を下げている。
「おそらくこれが今日最後の調査になると思うので、あと少しだけ付き合ってください」
その言葉に思わず、「えっ」と声を漏らしてしまったのは私だった。しかしなんだか残念そうに聞こえてしまうような気がして、慌てて「ああ、そうなんですね」と平然とした顔を張り付ける。なぜ咄嗟に誤魔化したのか、その理由は分からない。とは言え冷静になって考えてみればここは遊園地ではなく水族館なのだから、展示を見てしまえば滞在時間はさほど長くはないだろう。食事さえ済ませてしまえば他に何もすることはないのだから。
「(……そっかあ……)」
だけどもう少し、一緒にいるものだと思ってた。だけど私達もここに来て早3時間半経過しようとしているから、かなり長居している客という立ち位置になるのは間違いない。最初こそ緊張していたくせに、安室さんと話すのが楽しくてあっという間に時間が過ぎていった気がする。水族館内を回っているときも、食事をしているときも、思い返してみれば会話が途切れた時間の方が短かった印象を受ける。いや、少し喋りすぎたかもしれない。そういえば喉の調子が少しおかしい気がする。なんだか痛くて声が出しにくい。
「(……最後かあ)」
改めて考えてみると、この調査が終わったら、安室さんと会う機会はもうないような気がする。整備工場も今は席は置いていても実質有給消化期間中で出勤はしていないからだ。私と安室さんの接点はあそこでしかなかったし、本当にこの身辺調査の同行が私の依頼料の代わりになるのなら、余計に会う口実がない。私達は友人ではない。共通点なんて何も存在しなかった。
「……さん?」
不思議そうに名前を呼ばれて初めて我に返ると、どうやら私はいつの間にか俯いていたらしい。歯を見せて「すみません」と謝ってみたものの、ぎこちない顔をしていたのか「もしかして、疲れましたか?」と尋ねられてしまった。慌てて首を振るものの、まだ調査は終わってはいないのだから気を抜いてはいけない。
「そうだ。さん、手を出してもらっていいですか? 右でも左でもどちらでもいいので、手のひらを上にしてください」
突然やってきた指示に戸惑って「えっ?」と動揺丸出しの声を出してしまったものの、にこにこと笑う安室さんに催促されては無視出来ない。一体なんだろうか。言われた通り右手を差し出すと、安室さんはジャケットのポケットから細長い何かを取り出しては何かをくるくると巻き取るような仕草を見せる。するとそこから銀紙に包まれたものを1つ取り出したかと思ったら、それを私の手の平に乗せた。一体何を置かれたのか分からず、きょとんとそれを見つめることしか出来ない。目をぱちくりさせつつふと安室さんに視線を移すと、彼はにこやかに答えた。
「ぶどう味の喉飴です。さっきのレストランのレジにあったので」
どうやら細長い何かの正体はスティックタイプの飴だったらしい。ということは巻き取るような仕草はそれを開封していたということなのだろう。手持ち沙汰になることを見越して、買ったのだろうか。でも観覧車に乗ることになったのはついさっき決まったことだし、なんとなく飴が食べたい気分だったのだろうか。
「本当は他の商品の方が効き目はあるかと思ったんですが、さん、メンソール系はあまりお好きではなさそうだったので」
「えっ。安室さんよく分かりましたね。私、ハッカが苦手って言いましたっけ?」
そう尋ねてみるものの、彼は明言は避けてにこやかに微笑むのみだった。もしかしたら事務所で持ち合わせたお菓子をお裾分けした際、何かしら言ったことがあったのかもしれない──もうすっかり記憶の彼方だけれど──。それとも、食の好みが子どもであることを察したのだろうか。
「まだ少し待つようですし、食べながら待ってましょうか」
少しずつ進んでいるものの、私達の前方には順番待ちをしている組の列がずらりと並んでいた。ただ待ち時間は約15分と記載があるから、そこまで時間は掛からなそうだ。それに夕飯を食べたばかりでお腹いっぱいでも、飴くらいなら食べられる。「じゃあすみません、頂きます」と声を掛けたから包装紙をほどくと、そこには濃い紫色をした小さな直方体が眠っていた。そのまま口の中に放り込むと、フルーティーな味が口いっぱいに広がる。
「あっ。あんまりスースーしなくて、すごくおいしいです。ぶどうの味が濃くて、むしろ普通の飴みたい」
「それはよかった」
相変わらず人懐こい笑みを浮かべながら、安室さんも自分用に一粒取出し頬張っている。その様子や声からは喉を傷めているようには見えないけれど、先程「効果があるのは別の飴」という言い方をしていたことから察するに、喉の痛みを緩和する機能を求めて購入したのだろう。……全然気づかなかった。
「(……それとも、もしかして私のため?)」
喉に違和感を覚えていたけれど、安室さんにそれを申告した記憶はない。だとすると、彼は自分でそれに気付いたということなのだろうか。だからわざわざ喉飴を買ってくれたのだろうか。自分にしか分からない程度の掠れ具合だろうと考えていたけれど、そう考えたほうが自然な気がする。安室さんは肝心なことは何も言わないけれど。
「(いやいや、それは流石に良いように捉えすぎかな)」
いくら探偵とは言え、ずっと一緒に話していたら声の違いなんてそう分かるものではないだろうし、きっと偶然だろう。同じように、私も安室さんの声の変化に気付けなかっただけなのだ。おそらく安室さん自身がなんとなく風邪を引きそうな気配を察知したから、たまたま目に入った喉飴を買ったに違いない。空になった銀紙を折り畳み、すっかり小さくなったそれをじっと眺めた。
「気に入ってくれました?」
そんな安室さんの声が聞こえた気がして目を合わせると、ひとつ頷く私にどこか満足そうに笑みを見せる。それがどことなくすきなものを褒められて喜んでいる子どものように思えて、私もつられて笑ってしまった。
「これ、安室さんのお気に入りなんですか?」
「いえ、初めて買いました。だから、口に合わなかったらどうしようかと。まあそのときはそのときで、さんには処分に付き合ってもらおうと思っていたのですが」
「ふふ。よかったです、おいしい飴で」
笑みが隠しきれないのは、きっと味がすきだったからというだけではない。だって今、口の中に広がる甘みをゆっくりと味わうより、可能な限り彼と話していたいと思っている。安室さんの話がすきなのか、声がすきなのか、雰囲気がすきなのか、理由はさっぱり分からないけれど、居心地の良さを感じていることだけは確かだ。そして私はいつの間にか、同じことを彼も思ってくれればいいのにと願うようになっている。
「──次の方どうぞー!」
規則正しく回る観覧車は以外と列の進みが早いようで、気が付けば順番待ちの列は前方を見回しても誰もいない。どうやら私達はいつの間にか先頭となっていたようだ。土産屋での一件と言い、きちんと周りを見ていなければいけないらしい。お互い顔を見合わせた後、小走りで搭乗口へ向かった。
「気を付けてお乗りくださーい!」
お決まりの挨拶言葉のようにスタッフのお兄さんの注意が渡される。ゆっくりにとはいえ観覧車は動き続けているので、乗り込む側がゴンドラの動きに合わせなければならなかった。エスカレーターのようにタイミングを合わせ車内に乗り込み、それに続けて安室さんが来たところで、それを確認したスタッフがドアを閉める。「いってらっしゃーい」と明るく声を掛けつつ外から施錠したスタッフが、にこやかな笑顔を見せつつ手を振っていた。
ゴンドラは思っていたより広く感じる。席は向かい合って座る4人乗りではなく半円形になっていて、どちらかというと横に並ぶタイプのようだ。車内には、おそらくどのゴンドラにも共通しているのだろうポップなBGMが流れている。お互い隣に腰掛けながらじっと外を眺めた。
夜の観覧車と聞くと少女漫画や恋愛ドラマの定番だし、ロマンチックなシチュエーションそのものだ。そういえば初めてできた彼氏と遊園地にデートに行ったとき、観覧車に妙に憧れていた私は緊張しながらそれとなく話を振ったものの、考える間もなく「つまらないから乗りたくない」と拒否されたことを唐突に思い出した。それなのに、まさか恋人関係でもなんでもない安室さんと一緒に乗る日が来ようとは。
変に緊張してもおかしくないというのに、相変わらず会話に花を咲かせていた私達はこれっぽっちも“そういう雰囲気”を出していない。ゴンドラが1周するまで密室に二人きりというのはなかなか気まずくなるのではと心配していたけれど、安室さんは何も変わらずにこやかなままだから、私はまるで遠足に来た小学生のように、久しぶりの観覧車にはしゃいでいた。
「1周って、どのくらいなんでしょう?」
「確か15分だと、搭乗口に書いてありましたよ」
「そうなんですか? 私、全然気付きませんでした」
「僕も気付いたのは乗る直前ですよ。さんと一緒にいるとどうも楽しくて、つい喋り込んでしまって」
深い意味はないんだろうな。そう瞬時に理解出来ても感情だけは奥底にしまい込めないようで、嬉しいと言わんばかりに頬が上がる。それを誤魔化すように脳は「私もですよ」と笑って同調することを選ぶと、どうやらそれは正しい選択だったようで、彼は花が咲いたようなぱっと明るい顔を見せた。そして「本当ですか? そう言ってもらえると、すごく嬉しいです」とまた人懐っこく笑うから、また勘違いをしてしまった心臓が駆け出す。それを自分自身で誤魔化すように口を開いた。
「安室さんていつも笑ってくれるし話し上手だから、なんだか昔から知ってるみたいに気軽に話せてしまって……」
「ええ、僕もですよ。──ですから……」
まさか同意されるとは思わず安室さんを見つめると、彼はどこか懐かしむように目を細めた。
「もしかしたら本当に会っているかもしれませんね。あの整備工場で会うより前に、気付かないうちにどこかで。例えば街ですれ違っていたり、子どもの頃に会っていたのかもしれない」
なあんて、とおどけて見せた安室さんは、「というのは流石にキザすぎますね」と笑った。「あ、いえ。そんな」とぎこちなく返す私は、心臓がうるさくてうまく答えることが出来ない。運命論のようなことを言われて妙に意識してしまうお陰で、冗談を重ねられなかった。そんな私は置いて話を切り上げた安室さんは、「子どもと言えば、観覧車は子どもの頃以来かもしれません」と思い出話を摘まむように笑った。話題が切り替わったことに安堵しながら、「そうなんですか?」と意外そうな声で尋ねる。
──彼女さんと、来たこととかありそうなのに。
そう続けようとしてやめたのは、あまりにプライベートに踏み込みすぎた内容だったからだろうか。何かが胸の奥に引っ掛かって、声にすることが出来なかった。しかしこれが途中で途切れた言葉だなんて微塵にも思わない安室さんは、「そうなんです」と苦笑する。
「観覧車って、大抵ジンクスがあるのが多いでしょう? 頂点に着いたときに願い事をすると叶うとか。ここも一応、白いゴンドラに乗って花火を見たら一生結ばれるっていうのがあるみたいなんですけど」
今はそんなものになっていたのか。私が聞いたことがあるものと若干様変わりしているような気がする。時代は流れるんだなあなんて年寄り臭いことを考えながら、そういえば今私達がいるこのゴンドラは何色だっただろうかとぼんやり思い出そうとするも、日が暮れて辺りが暗くなっていたと言うことや、直前まで安室さんと話に花を咲かせていたこともあり、ろくに見てはいなかった。
「夢があっていいなあとは思うし、見える景色も綺麗なので観覧車自体はすきなのですが、この歳になるとそもそも遊園地自体に行かなくなるんですよね」
「あっ、それ分かります。私もです」
なんだかまた共通点を見つけたようで弾んだ声が出てしまう。するとまた安室さんは明るい顔を見せるから、また私は馬鹿の一つ覚えのようにほにゃっと笑ってしまった。社会人になれば誰も似たようなものだろうと言うのに。それにしても、てっきり男の人は観覧車がすきではないと思っていたのに、安室さんはそうじゃないんだな。ラッコのことと言い、もしかしたら似たようなところがあるのかもしれないと考えたら、ますます舌がよく回る。
「学生のときなんかは、仲が良い子と年1で行ってたんですけど」
「楽しそうですね。その方とは長いお付き合いなんですか?」
「いえ、高校からです。でもその子今度結婚しちゃうから、もしかしたら前みたいに気軽には誘えなくなるかもですが」
「そうなんですか。……あっ。ご友人、ご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます。ふふ、私じゃないのにお礼言っちゃった」
なぜだか笑いの沸点がかなり低くなっているように感じる。テンションが上がっているのか疲れているのかどちらなのだろう。それでも途切れることなくテンポよく会話が続くから、私はまた弾む気持ちを抱いてしまう。
「披露宴もあるんでしょうか? 当日、晴れるといいですね」
「今朝見たときは降水確率10%だったから、多分大丈夫だと思います。その子、すごい晴れ女なんで。だから私、全然心配してないんです」
「それはよかった。……でもさんも美容院の予約とか、朝早くに大変なのでは?」
「式は1時からだからそこまでですよ。場所も東都ホテルだからアクセスもいいですし」
なぜこんなにもペラペラと話してしまうのだろうか。久しぶりの水族館や観覧車でテンションが上がっているのか、どうにもガードが緩くなっている気がする。普段自分のことは進んで話すようなタイプではないはずなのに、安室さんだしいっか、というなんとも説得力のない理由でセキュリティーロックが解除されている。ついこの間まで世間話程度しか話さなかったと言うのに、いつの間に信頼度がここまで上がってしまったと言うのだろう。いや、あんなに悩んでいたことを解決してくれて、こんなにも話が合って、上がらない方がおかしいのだけれど。そうだ、解決と言えば。
「あっ、そうだ。安室さん、あの、大したものじゃないんですけど……」
今度は私が話を切り上げる番だった。右隣に置いた鞄を開けてその“大したものじゃない”と称したものを探し出す。汚れないようにと真新しいビニール袋に入ったそれをすぐに発見し、中身だけ取り出して安室さんへ差し出した。まるでマトリョーシュカのように袋の中から取っ手の付いた袋を出した私を、彼はどう思ったのだろう。きょとんとしながら見つめていたものの、話の流れから自分宛てだと察してくれたらしい。遠慮しがちに受け取ってくれたことに、ほっと胸を撫で下ろした。
「に、2回もお借りしてしまったので、どうかなと思って……。あの、趣味じゃなかったらすみません」
急に緊張がぶり返してきたせいで、やけに口ごもって噛んでしまった。まるで憧れの先輩にバレンタインのチョコレートを渡しているような気分だ。ふわふわして、どきどきして、どうもじっとしてはいられなくなる。しかしここは逃げも隠れも出来ない観覧車の中だから、まさか突然立ち上がることも出来ず、代わりに気まずそうに安室さんから視線を逃がした。中身を見てもいいかと尋ねる安室さんの声に、静かに頷くことしか出来ない。持ち手のすぐ下に貼られていたシールを剥がす音がして、妙に全身が固くなる。
先週返したはずなのにその場ですぐ借りることになったハンカチを戻すだけでは忍びないと、米花百貨店で男物のハンカチを買おうと決めたところまではいいものの、趣味の範囲外だったらどうしようとかれこれ1時間売り場に立ちつくし、ああでもないこうでもないと頭を悩ませていたのは数日前のことだった。結局グレーに青のストライプが入っているものを選んだのだけれど、今考えると無難に無地だとか、そういうシンプルなものを選んだ方がよかったのだろうか。ブランドも、すきなものがあったかもしれない。「これ、あんまりすきじゃないんですよね」なんて言われたらどうしよう。
あんなに「気が合うかもしれない」なんて思っていた割にちっとも自信が持てない自分のセンスを呪うのは、彼から一向に反応が返って来ないからだ。人懐こい安室さんなら社交辞令でも「ありがとうございます」とにこやかに言ってきそうなものだというのに、明らかに中身を確認しているというのに一言も喋らない。お陰でますます悪い予想は膨れ上がり、なんだか泣きそうになってしまった。
観覧車の中で初めて起こった沈黙は随分長く感じて、私は生きた心地がしなかった。もしかしたら社会的マナーを破ったハンカチをチョイスしてしまっていたのかもしれないと、訳の分からない方向へ思考が傾く。冷静になって考えるとそれは一体どんなハンカチなんだという話になるものの、そんなおかしなことを真剣に考えてしまうほどに私は緊張を身に纏っていた。
「……あの」
久しぶりに聞いた安室さんの声に肩を震わせてしまったのは、ちょうどその緊張が頂点に達してしまったときだった。どこか遠慮しがちに聞こえたのは、趣味でないものをもらってしまい言葉を選んでいる証拠なのかもしれない。そんなことを考えてしまったらいてもたってもいられなくなってしまって、「こ、好みじゃないものを渡してしまってすみません!」と何かを言われる前にこちらから言ってしまえとばかりに安室さんの声に被せてしまった。すると彼は目をぱちくりしながら私を見ている。……あれ?と、首を傾げた。
「ええと、好みではないというのは僕の、ですか?」
「ち、違うんですか……?」
「ええ」
心底不思議そうに頷く安室さんに釣られて無意味に頷く私を、彼はどう思うのだろう。明らかに状況を把握出来ていませんという顔を張り付けてしまうばかりで、ちっとも頭の中を整理出来ていない。送ったものが安室さんの趣味の範囲内であったことが本当だとしたら、渡した後彼が固まっていた理由が分からないのだ。しかしそれを聞いてもいいものか分からず渋っていると、左隣りに腰掛けていた彼が遠慮しがちに口を開いた。
「これは僕宛てにと解釈して、いいのでしょうか?」
渡した紙袋の上で開封された新品のハンカチは、中身と同ブランドのロゴが入った分厚い紙の包装袋から姿を見せて、安室さんの手に握られていた。一緒に入れた彼のハンカチは、先週と姿を変わらないようにビニール袋に包まれていたものの、彼が言う“これ”は間違いなく今手に取っているものを指しているということは言われなくとも理解した。
「そ、そのつもりで買ってみたんですけど、つ、使ってもらえたら嬉しいなあ、なあんて。に、荷物になってしまうのが申し訳ないんですが……」
冗談を交えるように明るく言ってみたものの、少しずつ語尾が小さくなっていったのは明らかに自信がしぼんでしまったからだった。
「ほら、2回も貸してもらってしまったので、そのお礼と言うか」
一番最初に同じことを口にしたはずなのに、まるで覚えていないと言わんばかりに繰り返してしまったのは、まるで“プレゼントに深い意味はないんです”と必死に言い聞かせてるようだった。まるで気を引こうとしているだとか、そんなつもりはないんですよ。そんなことを頭の中で必死に弁解していると、彼はまた黙り込んでしまった。
「あ、あの。もしかして、ご迷惑でしたか……?」
あまりにも心臓が耐えきれなくて意を決して尋ねてみると、安室さんは初めて我に返ったと言わんばかりに顔を上げた。そして余裕が消えたように何度か手元のハンカチへと無意味に視線を落とし、「いえ、違うんです。全く!」と否定する。珍しく声を張った彼にきょとんとしていると、彼は「あっ、すみません」とボリュームを下げた。そしてまたじっと送ったハンカチを見つめ、呟くように言う。
「……すごく嬉しいです。ありがとうございます。大事にしますね」
どこか気恥ずかしそうにはにかんだ安室さんに、思わず目を泳がせてしまった。私が勝手に送ったものなのに、いつの間にか「喜んでほしい」と考えていたことに気が付いてしまったのだ。だって今、そんな世界でありふれている「ありがとう」という言葉がこんなにも響いている。嬉しいとか大事にするなんてリップサービス以外の何物でもないし、そもそもお礼なんて社交辞令。そして彼の性格から言って、それを抜かさないことくらい知っていた。分かっていたことなのに、こんなにも口元が緩んでしまう。
「(……うれしい、だって)」
ついくすぐったくなって、安室さんからの言葉に答えるように頷いた。するとどうしてだろう、なんだか無性にもう一度彼の顔が見てみたくなってしまった。こっそり見れるかも、なんてどこからやってきたのか分からない謎の自信が姿を現す。それに目を逸らしてばかりいるのは失礼だと、正当化しようとする心の声に後押しされてゆっくりと視線を安室さんへと戻すと、ずっと私を見ていたのか、それともたまたまタイミングがあってしまったのか、彼と目がぱちりと合ってしまった。あっ、と小さく声が漏れる。
顔を逸らすのをぐっとこらえてそのまま見つめ返してみたものの、目は合っているのにお互い何も言わない謎の沈黙が3秒ほど流れる。たったそれだけのことが、まるで睨めっこをしているかのようになんだかおかしくて、お互いこらえきれない笑みを噴き出した。何も変なことなんて起こっていないはずなのに、どうにも止まらない。
「なんで笑うんですか?」
「安室さんこそ」
「僕はさんが笑うからです」
「私だってそうです」
声が震えている者同士が会話を始めても終息には向かわず、むしろ拍車を掛けているようだった。
そこへ、まるで何かのタイミングを見計らったかのように、暗闇に包まれていたはずの空が光り輝いた。突然明るくなる外に何事かと視線を向けると同時に和太鼓のような音が鳴り響くものの、これは一度きりではなく次々と光の花を咲かせていた。観覧車に乗っているからか幼い頃夏祭りで見たよりも距離が近く、迫力や美しさが段違いなものとなっていた。
「そういえば今日、この水族館がオープンしてちょうど20周年みたいですよ」
思い出したように言った安室さんに顔を向けると、彼もまたゴンドラの外を眺め、静まることなく打ちあがる花を見上げている。
「この花火はその記念も兼ねてますので、いつもより少し多く打ち上げるようです。……ちょうど観覧車に乗っているタイミングで、ラッキーでしたね」
「はい!」
キラキラ輝いては儚く消えて、打ちあがる音に目が離せなくなる。つい子どものように心を躍らせてしまった。花が咲く瞬間の音が胸の奥で響いて、じいっと食い入るように見てしまう。この美しさや感動を的確に表現する言葉が今の私には思い浮かばないし、ほころぶ顔も隠すことが出来ない。隣に座る彼を見ながら声を掛けた。
「とっても綺麗ですね!」
「ええ」
頷いてくれることが嬉しいのにどうにも顔を見るのを戸惑って、だから私は空を見上げてばかりいる。随分速まるこの鼓動は、きっと打ち上げられる花火につられてしまっているからに違いないのだから。
20181117