イルカショーが閉幕し、観客がぱらぱらと席を立ち始めた頃。私達も移動だろうかと予想しつつ隣の彼からの指示を待っていると、安室さんは唐突に口を開いた。

「実は僕、水族館ではラッコが一番好きなんです」

 突然の告白に、「えっ」と声を漏らした。思わず目をぱちくりさせて安室さんを見やる。別に、移動の話に触れられなかったから驚いたのではない。きっと一般的にはイルカだとかペンギンだとか、よくイベントのメインにピックアップされやすい動物が人気だとばかり思っていたからこそ、つい声を大きく反応してしまったのだ。それは単純に意外だったからというわけではなく、自分との思わぬ共通点を発見したがために発生したものだった。

「わ、私もです!」
「本当ですか? 一緒ですね」

 なんだか嬉しいです。そう少し照れ臭そうに笑った安室さんに、ついほにゃっと間抜けに頬を緩ませてしまう。どうも私は共通するものを見つけると親近感を覚えて、急に距離が縮まったように感じてしまう癖があった。

「仲間と手を繋いだり、顔に手を当ててる仕草とか、あと毛づくろいしてる姿がかわいくて、私、すごくすきなんです。でもラッコって展示している水族館がかなり少ないから、なかなか会えないんですよね」
「ピーク時に比べると、9割減っていると言われていますからね。国内繁殖もうまくいっていませんし、絶滅危惧種に認定されているから捕獲も難しいんですよ」
「えっ? ラッコって絶滅危惧種だったんですか?」

 好きなのに知らなかった衝撃の事実に驚いていると、ふと口が開けっ放しであることに気付き、慌てて手で蓋をした。なんでも安室さんいわく、何やら毛皮目当てで乱獲され、あっという間に数が減ってしまったらしい。毛皮、と聞いた瞬間妙にリアルな映像が脳内で流れそうになり、イメージを薙ぎ払うように首を振った。

「だからラッコ、見に行きませんか? ちょうど調査対象者もそちらに戻るようですし」

 思ってもいなかった提案に、つい口角が上がってしまった。「はい」と頷く声もやけに飛び跳ねているから、私はもう少しポーカーフェイスというものを習得した方が良い。明らかに“喜んでいます”という反応があまりに子供じみているように思えて、頬が熱くなった。

 でも本当は、ずっと気になっていた。ここに来るまでも横目で見ていたけれど、少しでも見れたから良かったと自分を納得させていたけれど、出来ればもう少しちゃんと見たかったと心残りに思っていた。しかし遊びに来たわけではない手前そんなことを安室さんに言う訳にもいかず、今度改めて会いに来ようかなと考えていたところでこんなことを言われたら、喜ばずにいられないのだ。特に固執したラッコ好きではないし、これと言ったラッコアイテムを持っているわけでもないのだけれど、安室さんも好きと聞いただけで瞬く間にバロメーターが上がってしまった気がする。

 仲間を見つけると強気になってしまうのは、日本人特有の何かだろうか。つい舞い上がって、にこにこしてしまう。善は急げと言わんばかりに腰を上げた安室さんに続き、それじゃ私も立とうと足元へ体重移動する前に、彼は右手を差し出した。……一体なんだろうか。首を傾げつつじっと彼の手を見つめた。

「どうぞ」

 簡潔に掛けられた言葉は、この手を取ってくださいと言っている。まるで映画や少女漫画に出て来る王子様みたい。随分メルヘンなことを考えた私は、何かに毒されているのかもしれない。その証拠に、私は彼の手の平に手を重ねてしまっている。安室さんはそれを掴むように握ると、そのまま引っ張り上げるように私を立ち上がらせた。しかしそのまま解放されることもなくただじっと向かい合うだけの時間が数秒流れるだけで、お互い何も言わない。お陰でいつの間にか頬が熱くなってしまった。それに、やけに瞬きが多くなってしまう。暫く沈黙が続いた後、あの、と控えめに声を掛けられた。

「……このまま、いいですか?」

 安室さんは、“何を”とは言わなかった。私も、“何が”とは聞かなかった。しかし彼の言葉が何を指しているのかだけは解っていた。ただ珍しく彼が目を伏せてどこか照れ臭そうに頬をうっすらと赤らめさせるから、私にもその火が燃え移ったかのような感覚になる。

「は、はい……」

 ぎこちなく答えると、一拍置いて彼は歩き出した。私も手を引かれそれについて行くことしか出来ない。なんだかすっかり喉が渇いてしまった。お互い黙り込むことに思うところがあったのか、安室さんはおもむろに話を振ってくる。

「昔からお好きなんですか? ラッコ」

 しかしどうしたことだろう。せっかく質問を渡されたものの、いつから好きなのか記憶を遡ってみてもこれと言ったエピソードがないがために思い出せない。お陰で「うーん、どうなんでしょう」と曖昧な返答になってしまった。しかし手から伝わる彼の体温がくすぐったいから、なんとか話を繋いで行くことに集中するしかない。

「小さい頃、近所の子と一緒に水族館に行ったような気はするんですが、そのときはどうだったかなあ……」
「もしかして、初恋の相手とかですか?」
「まさか。違いますよ」

 笑いながら否定すると、安室さんは釣られたように目尻を下げた。先程より緊張がほぐれているような気がする。

「でも多分そのときは、イルカとかペンギンを楽しみにしていた、ような……?」
「そんなものですよね。ちなみに話を振っておいてなんですが、僕もいつからすきになったのかは覚えてません」
「えっ、そんな。絶対何かしらのエピソードが語られるんだとばかり思ってたのに」
「期待を裏切ってしまってすみません。……ああ、段差があります。気を付けて」

 その声に何気なく下へ視線を落とすと、なるほどドアの枠下に数センチの段差を発見した。ろくに足元を見ていなかったから、安室さんが言ってくれなければ引っ掛けて転んでいたかもしれない。

 会場を出てすぐに下りのエレベーターを発見すると、「ここは1列ではなく2列でお乗りください」というスタッフからの案内もあり、安室さんの右隣に乗り込んだ。だから先程とは違い、身長差は変わらない。あれが最初で最後だったんだなあとぼんやり考えているところで、安室さんは思い出したように会話の続きを口にする。

「まあ強いて言うなら、小さい頃すきだった女の子が“ラッコが好き”と言っていた記憶はありますが……」
「えっ、安室さん──」

 かわいいですね。そう続けてしまいそうになったことに気が付いて、慌てて飲み込んだ。おそらく昔の話に対してならば先程のように気にはしないかもしれないけれど、念には念を入れて使わない方がいいに違いないと判断し、咄嗟に「ピュアですね」と置き換えて渡してみる。

「笑いながら言わないでくださいよ」

 まるでからかわれているように感じたのか、安室さんは冗談を返すように笑った。しかし私は決してそういうつもりではなく褒め言葉として言ったのだけれど、うまく伝わらなかったのだろうか。それにしてもすきな子が好きだったから自分も興味を持っただなんて、安室さんも微笑ましい恋愛をしてたんだな。今時きっと珍しいんじゃないだろうか。そんなことを考えたら、どうしようもなく好奇心が芽生えた。

「詳細気になります。よかったら教えてください」
「それは構いませんが、僕が話したらさんも何かしらこの手の話題を提供しなくてはなりませんが、そこは大丈夫ですか?」
「う、うーん……」

 悩みどころだった。安室少年の恋物語は単純に興味があるものの、自分の色恋沙汰を告白するのはどうも気恥ずかしくて進まない。私も彼にならって小さい頃の話をするにしても、大昔の話とは言え、私は積極的に自分のことを話すタイプではない。どうやら安室さんはサービス精神旺盛な顔をしておいて、実はギブアンドテイクの精神を強く持っている人らしい。どうにもためらっていると、「あれは確か、小学校の高学年だった頃……」と話を始めようとする隣の彼に、慌てて制止を呼びかけた。

「あっ、安室さん! 先出しずるいです!」
「ふふ。すみません。なんだか面白くなってしまって、つい」

 にこやかに笑っているものの、安室さんは意外といじってくるタイプなのだろうか。イルカショーを見てテンションが上がっているのかなんなのか、完全に遊ばれてるような気がする。

「まあここまでもったいぶっておいてなんですが、人様に語れるような微笑ましいエピソードは持ち合わせていませんよ」

 そう言う割にはどこか懐かしそうに目を細めるから、もしかしたら安室さんは思い出を大事に取っておくタイプなのかもしれない。おそらく安室さんは誰かに話して共有するわけでもなく、自分だけのものにしておきたいのだろう。そういえば恋愛に対しての記憶は男は別名保存、女は上書き保存と聞いたことがある。なるほどこれはそういうことかと妙に納得した。

「彼女は僕ではなく幼馴染のほうに好意を持っていたようで、それが悔しくてずっとそっけない態度ばかり取っていましたしね。それが災いして、その子にはずっと怖がられてましたよ。一緒に水族館へ行けたものの、ほとんど口も聞いていませんでしたし。ただラッコのところで初めて彼女が僕に話し掛けてくれたのが嬉しくて、記憶に残っているんです。まあ結局、その後すぐ彼女は引っ越してしまったので何が起こるわけでもなくそれで終わるんですが……。ああ、すみません。うっかりお話してしまいましたね」

 “うっかり”なんてかわいく言っているものの、明らかに口が滑ったなんて様子は微塵にも感じさせないほどの爽やかな笑顔が「意図的である」と語っている。だからこそ、その笑みの裏に「だからあなたも話してくださいね」というメッセージが隠されていることなんてすぐに気が付いた。確かに「気になる」とは言ったけれど、自分の恋愛話を話すことに関しては頷いていなかったし、何より安室さんが自分で話し始めたと言うのになんだか納得出来ない。そもそも、しっかりばっちり覚えているじゃないか。不満の声をあげる私に、彼は「でも、約束は約束ですから」と微笑むから、そんな言い方をされては「嫌です」とは言いにくくなってしまった。

「──エスカレーター、着きますよ」

 安室さんからの声に視線を前方へと向けると、なるほど確かに抜き抜けの最終地点が見えてくる。足元を見ずに降り口に着くわけにもいかず、話を中断して久しぶりに動かない床へと着地すると、そのまま流れを止めることなくお目当ての水槽へと迷わず直行する。エスカレーターも終わったしさっきの話もお開きかなと僅かな期待を抱いてみたものの、彼はそんな気毛頭ないらしく、「別に、初恋で起こった失敗談でもいいですよ」としれっと話を戻してきた。

「人の不幸を楽しまないでください」
「すみません。なんだか面白いエピソードが聞けそうだなと思ったので」
「安室さんの中で、私は一体どんな立ち位置なんですか!」

 笑いを含んだ安室さんはまた「すみません」と謝罪するものの、どうにも心がこもっていない気がしてならない。私は別にコメディアンではないのだけれど、どうにもその手のオチを期待されている気配を感じる。

「でも私、誤魔化すとかそういうのではなく、幼稚園とか小学生のときのことはあんまり覚えてないんですね。当時うちの親転勤族だったので、どうも記憶が曖昧で」

 だからお話することは何もありません。そういう意味で言ったつもりだというのに、安室さんは「そうなんですか」と頷いて何か考えるように視線を上に泳がせ少し間を置いた後、「では仕方がないので、もうすきなタイプで手を打ちますよ」と謎の妥協案を提案した。思わず「えっ!」と動揺の声が出てしまう。そんな反応をしてしまったからか「それか、以前の恋人とのお話でも構いませんが」と第2の選択肢も用意されたものの、明らかにそちらの方がハードルが高いために全力で首を横に振ったのは言うまでもない。

 いつの間にか過去のかわいらしい思い出話から、一気に現実的な話題へと変換してしまったような気がする。しかし不可抗力とは言え安室さんの話を聞いてしまったし、ここでごねるのも空気が読めないレッテルを張られるようで釈然としない。とはいえ具体的すぎる例を挙げるのは違う気がする。「うーん、すきなタイプ……うーん」と頭を抱えつつとにかく当たり障りのない返答がベストだろうと考えた結果、よくある答えを導き出した。

「……優しい人かなあ」

 我ながら、あまりに無難すぎただろうか。もしかしたらボケたほうがよかったのかもしれない。そうしたらひと盛り上がりあったかもしれないのにと悔やんでしまった。「そうなんですね」と相槌を打ってくれる安室さんに、謎の罪悪感を覚える。

「す、すみません。面白いこと言えなくて……」
「いえ。そもそも、こういう話にネタも何もありませんからね」

 それはそうだけれど、「そうですか」で終わるような解答をしてしまったということが気まずい。どうにかして自分から話を逸らそうと、半ば無理やり話を掘り返した。

「そ、それにしても、安室さん、やっぱり微笑ましいエピソードお持ちじゃないですか。なんだか甘酸っぱい青春て感じで、かわ……──ええと、ときめきました!」

 また“かわいい”と言ってしまいそうになってしまった。あまりに学習能力がない自分にそろそろ嫌気が差してくる。しかし安室さんは特に気に留める素振りを一切見せることなくおどけたように礼を言うから、なんとかセーフだろうか。

「……そうですね。これが本当の話だったら、微笑ましかったですね」
「えっ」

 予想外の展開に、思わず口が動いた。その言い方はまるで「今のエピソードは全て作り話です」と言わんばかりのもので、動揺せずにはいられない。一体どこからどこまでが、なのだろう。途中から? それとも全部? 口をぽかんと開けながら安室さんを見上げていると、視線に気付いた彼は悪戯っ子のような笑みを見せる。

「誰も、実際にあった話とは言ってませんよ」
「えーっ!……あっ……」

 大きな声が喉を飛び出してしまい、我に返った私はすぐに手で口を押さえたものの、明らかに周囲の客にも届いてしまった後だったらしい。一体何事だと言わんばかりに振り返る人もいて、全身を熱くさせてしまう。こっそり尾行して身辺調査をしている立場のはずなのに、なぜ周りの意識を集中させてしまうようなことをしてしまうのだろう。これでは悪目立ちしてしまうと身を縮こませながら、「すみません」と今にも消えそうな声を絞り出した。その甲斐あってかすぐに視線は拡散する。安堵の溜め息をついて、今度は安室さんにこっそりと話を戻した。

「ということは、今の話は全部嘘ってことですか? ……あっ、分かった。照れ臭くなって、誤魔化してるんですね?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれません」
「ど、どっちですか……!」
「さあ、どちらでしょう? 推理してください。証拠を探して、論理的に」

 そんなの絶対に無理に決まっているじゃないか。図形の証明問題が大の苦手だった私に、そんな高度なことが出来るはずがない。すでに白旗状態の私は、もはや考えることすら放棄していた。そもそもピースがなければ、パズルは完成しないのだから。

「うーん。じゃあ、“本当のことだけど誤魔化した”に1票で」
「なるほど。理由は?」
「安室さんは嘘をつかない人だって、信じてますからね」
「ありがとうございます。今、罪悪感がすごいです」
「ふふ。じゃああんなこと言わないでくださいよ」
「そのとおりですね」

 何故こんなにも和やかな雰囲気にまとまっているのか分からないほどに、私の心は穏やかそのものだった。結局彼の話が本当なのかそうではないのかは判らないけれど、それが気にならないほどについ笑みが零れてしまう。単純に、安室さんと話すのが楽しいと感じているのかもしれない。いつも笑みを絶やさない人だから親しみを覚えやすいのか、はたまた少し掴みどころがないところがあるから飽きないのか、理由は分からないけれど。

「あ、着きましたよ」

 安室さんの言葉に我に返りふと前方を見やると、先程通り過ぎたとき同様、ラッコがぷかぷかと浮いていた。つい顔をほころばせてしまう。駆け寄りたくなる衝動を我慢して、速度を変えることなくゆっくりと水槽前に辿り着くと、一番積極的に泳いでいる1匹が真っ先に目に飛び込んでいた。

 胸元にエサと思われる白い貝を抱えつつ、背泳ぎするかのように左右を行ったり来たりしている。時より思い出したように両手で頬を触る仕草が愛らしく目が離せない。側面に設置された岩に近寄っては貝を打ちつけているものの、手が短いせいもあってかただの動くぬいぐるみ状態になっている。私を虜にするまでそう時間は掛からなかった。

「かわいい。かわいいですね、安室さん」

 しまった、また言ってしまった。でも安室さんに対してではないから大丈夫だろうと結論付けて、すっかり緩み切った頬でつい甘ったるい声を出していると、隣から同意する彼の声が聞こえてきた。ような気がする。自分で同意を求めるような言い方をしたのに、目の前の動くぬいぐるみに夢中になっているせいで、耳がまともに仕事をしないようになってしまった。お陰で口を開くたびに、馬鹿の一つ覚えのように「かわいい」としか口にすることが出来ない。目を逸らすことなく水面に浮かぶラッコを見ていると、そこに左から流れてきた大きな塊が接近していることに気が付いた。ふとそれに視線をずらしたところで、ますます私のテンションは上昇する。

「あっ、あっ。見てください、安室さん。あの子達、手を繋いでます! 目を瞑ってるから、寝てるんでしょうか?」

 泳ぐわけでもなく、ただ2匹身を寄せ合うようにくっついて手を繋ぎ、ただ水に身を任せてぷかぷかと浮いている。まるでネジ巻のおもちゃのようにあっちこっち泳ぎ回っていた子とは全く違う行動に、見事に心を鷲掴みにされてしまった。ついはしゃいで、「うわあ、うわあ」と語尾が上がった声が出てしまう。

「かわいいですね、かわいいですね。ね、安室さん」

 同意を求めて久しぶりに隣の彼を見上げると、明らかに私よりも先にラッコから視線を切り上げていたらしい安室さんが、じっと私を眺めていた。まるでずっとその瞳を、ガラスの向こう側で愛らしい姿を見せている彼らではなく、私に向けられていたかのような錯覚にとらわれる。騒がしくしていた私を咎めるというより、何かを微笑ましく思っているかのような優しい目で「本当に」と言うから、私の心臓は分かりやすくざわついた。

「──かわいいですね」

 調子に乗った心臓が、自分に対して言われていると錯覚しそうになった。頷くふりをして俯く私を、どうか不審がらないでほしい。誤解しそうになったことに気付かないでほしい。こんな単純なことにと呆れないでほしい。自分でも勘違いだと理解しているはずなのに、広がる熱を止められないのはどうしてだろう? ガラスの向こうにいるラッコ達は、何も変わらないままゆったりと水面に浮かんでいる。手を繋いでいる彼らに自分の左手の温度を意識して、じわりと汗をかいた。

 どうやら心臓が落ち着くまでは、もうしばらく時間が掛かりそうだ。


20181103