その後も安室さんはまた新しい水槽へ着くたびに気を遣って雑談話を振ってくれたというのに、どうしたものか、もう先程のように心から楽しんで聞くことができない。一体私はどうしてしまったと言うのだろう。ぼんやりと水槽の中を眺めていると、水族館のスタッフであるらしい女性が来館者に呼び掛けている声が耳に入って来た。

「先週生まれたペンギンの赤ちゃん、お披露目してまーす! ぜひご覧くださーい!」

 その声に顔を上げると、彼女の横に“ハロー! ベイビー!”とかわいらしいポップが付いたガラス張りを発見する。よくよく見てみると、生まれたばかりのコウテイペンギンのお披露目をしているらしい。そういえば安室さんが言っていたなとぼんやりと思い出した。こちらとはガラスの窓で仕切られただけのお披露場に水槽はなく、完全に飼育専用の部屋らしい。水一滴ないそこには、テーブルや体重計、保育器などが設置されていた。徐々に人が集まり始めるその奥にちまちまと小さな体で動き回っている愛らしい姿を発見し、「あっ」と声を漏らす。

「ちっちゃあい……」

 まだまだ手乗りサイズの赤ん坊に、思わず語尾を上げてしまう。ペンギンというと水弾きの良さそうなつるんとした体を連想してしまうけれど、この子は毛並みがふわふわとしている。詳しくは知らないけれど、赤ちゃんのときはみんなこんな感じなのだろうか。顔は目の周り以外黒色をしているものの、体はグレーの配色をしている。まるで本物のぬいぐるみのような外見に、どうしても目が離せなくなった。

「近くで見てみましょうか」
「えっ。いいんですか?」

 思いもしなかった提案に、分かりやすく明るい声が出た。安室さんを「勿論ですよ」と微笑む。すっかり機嫌を直した私は、顔をほころばせた。

「ありがとうございます」
「いえ、僕も気になっていたので。なかなかこういう機会もありませんしね」

 そう言って安室さんはまるでエスコートをするかのように手を引いてお披露目部屋の前へと私を連れて来てくれる。お陰で近いところで赤ちゃんを見学することが出来た。少しガラスが薄暗くなっているのは、おそらくペンギンにこちら側をあまり意識させないための配慮なのだろう──もしかしたらマジックミラーのようになっているのかもしれない──。

 なんだかこの子を見ていると心が落ち着いていくような気がする。大袈裟かもしれないけれど、浄化されるとはこういうことを言うのだろうか。あんなにも沈んでいたのが嘘のように癒されている。もしかしてこれがアニマルセラピーなるものなのかもしれない。

 ふと視線を上げると、水族館のスタッフと思われる人物が、チューブのついた注射器のようなものでエサをやろうとしているようだった。“スタッフと思われる”とあまりに曖昧に表現となってしまったのは、その人物がなぜかペンギンの被り物をして顔を隠していたからだ。……エンターテイナー的なものを狙っているのだろうか?

「何か、気になることでも?」

 あまりに私が凝視しているからだろうか、安室さんが声を掛けて来た。視線の先がメインのはずの赤ちゃんではなく、人間へと向いていたことに気付かれたのかもしれない。「いや、大したことじゃないんですけど」と前置きしたものの、先程のことが引っ掛かってしまい、どこか遠慮しがちにおずおずと口を開いた。

「その。なんでスタッフさんはぬいぐるみを被ってるのかって、気になってしまって」
「ああ……」

 なるほどと言わんばかりに頷いた安室さんは、話題に取り上げられた人物へと視線を向ける。そこには相変わらず甲斐甲斐しく赤ちゃんペンギンを世話するスタッフが、様子を伺いつつゆっくりと給餌していた。

「おそらくですが、親鳥に扮しているんだと思いますよ。いずれは親鳥の元へ返すつもりでしょうから、人を親だと認識させないように、ああやって被り物をしているんです」
「な、なるほど……!」

 深く納得していると、安室さんはじっと私を見つめては悪戯っ子のように小さく笑った。

「今回は、信じてくれました?」

 その言葉に、先程「嘘みたいなことで信じられない」と冗談を言ってしまっていたことを思い出した。気まずさを引きずってどもってしまうと、彼は何かにこらえきれず噴き出してしまう。突然の展開について行けず固まっている私に、安室さんは明らかに笑いを抑えるように小さく震えながら「すみません、からかいすぎました」と謝ってきた。これによりようやく全てを把握した私は、半泣きになりながら彼につっかかる。勿論場所を考慮して声は最小限に落としたけれど。

「あ、遊ばないでください! 私、絶対気に障るようなこと言っちゃったんだって、もうどうしようって……!」
「すみません。さんがあまりに素直な反応をしてくるから、つい」

 そう言いながらも楽しそうにクスクスと笑う安室さんは、思い出したように「いやあ、ペンギンはかわいいですね」と付け足しているものの、まったくもって誤魔化せていない。そしておそらく本人もそれを自覚しているのだろう、不自然なくらいにこやかな笑みを見せている。お陰でせっかく目の前にペンギンの赤ちゃんがいるというのに、私はちっとも集中して見れていない。

 安室さんは分からない人だ。いつもにこにこ笑ってて、人当たりが良くて、優しくて、頼りになる人だと思ってた。実際色んな知識も豊富のようだし、話をしていても飽きないどころかむしろ楽しい。でも時々悪戯っ子みたいな顔をしてからかってくると思ったら急にまっすぐな目で見つめて来るから、その度私は動揺してしまう。安室さんは、全然掴めない人だ。今だって、何を考えているのかさっぱりわからない。……でも、だからこそ。

「(今日は、安室さんのことばっかり考えてる気がする……)」

 調査なのだから同行者である彼を気にするのは当然と言えば当然だけれど、安室さんの言動に振り回されている。そんな気がする。安室さんにならってペンギンへと視線を向けてみると、どうやらいつの間にか食事を終了させていたらしい。世話係のスタッフの手の上に顔を乗せては、うとうとと眠たそうに瞬きを繰り返した。

「(……かわいい……)」

 単純な私は、天秤が一気にまたペンギンへと傾いた。これにはつい、「うわあ」とやけに語尾が上がった声を漏らしてしまう。どうやら満腹になった赤ちゃんペンギンはおねむのようだった。おそらく夢の世界に旅立つのも時間の問題だろう。愛らしい姿につい笑みを溢していると、隣の彼が私の名を呼んだ。もしかして、もう移動しなくてはいけないという話かもしれない。そう予想して左へ顔を向けると、安室さんは予想していた言葉とは似ても似つかない言葉を渡してきた。

「つい誤魔化してしまいましたが、あのときの言葉に嘘はありませんよ」
「え?」

 安室さんのいう“あのとき”がいつのことなのか分からず聞き返すと、安室さんはしばらく私を観察するようにじっと見つめて来たかと思ったら、またにっこりと微笑んだ。

「いえ、なんでもありません。ところでさん、イルカはお好きですか?」

 また突然の話題転換に戸惑いつつ、「えっと、すきです……」とぎこちなく答えると、彼は「それは良かった」と満足げに頷いた。

「もうすぐ、イルカショーが始まる時間のようです。せっかくですし、見に行きませんか?」

 自分の左腕にしていたらしい時計を眺め、提案してきた安室さんの話を聞くと、なんでもあと15分ほどで今日最後のイルカショーが始まるとのことだった。ショーはこのフロアではなく、吹き抜けのエスカレーターをのぼった先にあるショースタジアムで開催されるらしい。つまり、移動の時間を考えるとそろそろここを離れなければならないと言うことだった。そうなると見逃す魚達も発生してしまうものの、基本的にショー終了後の逆走することは許容されているらしい。

「(提案しているような言い方をしているけど、多分対象者がイルカショーに向かったんだろうな)」

 そう直感した私は、考える前に彼の案に頷いた。随分ゆったりと館内を見て回っているから身辺調査の方は大丈夫だろうかと心配していたけれど、やはり安室さんはきちんと周りを見ていた、ということなのだろう。おそらく予定より早く来てしまったから、館内で時間を潰していたに違いない。やはりプロの探偵というのは視野がおそろしく広いらしい。

 天井に“イルカショースタジアム”という文字と進行方向の矢印が描かれた看板を見つけ、愛らしいペンギンに別れを告げようと横目で確認すると、コウテイペンギンの赤ちゃんはいつの間にか保育器の中で昼寝をしていた。最後の最後まで癒しを提供してくれる子だと、また小さく笑みを溢す。

 様々な水槽の中に色とりどりの魚や、照明で神秘的に映るクラゲの前を通り過ぎたところで、ぷかぷかとのんびり水の上を浮いている2匹のラッコの姿を捉えた。片方が少し小さかったから、もしかしたらあれが噂の親子だろうか。速度を緩めないまま視線だけ固定させていたものの、首を向けるのにも限界がある。水槽の横を完全に通り過ぎると、すぐに前方へと顔を向けた。

 ショースタジアムへと続くエスカレーターは大型のガラス張りで吹き抜けとなっていて、上を見ても左右を見ても魚が優雅に泳いでいる姿が広がっている。久しぶりに安室さんと手を解いてエスカレーターに乗っていると、まるで自分も海の中にいるような気分になってつい見上げてしまった。すると突然、右側から大きな黒い影が視界に入る。一体なんだろうかと顔を向けると、明らかに5メートルはあるであろうサメの姿を発見し、鋭い目で睨まれたような錯覚に陥った。たまらず「うわっ」と声を出してしまったものの、もしかしたら後ろにいる安室さんにも聞こえてしまったかもしれない。

「な、なんだかすごいですね」

 照れ笑いを隠しつつ誤魔化すように振り向いた私は、1段距離を空けたところに彼の姿を見つけたものの、いつもと少し違う状況に違和感を覚えた。今までは背の高い安室さんに対し常に見上げて来たと言うのに、エスカレーターの段差のお陰で、完全に私が見下ろす形となっている。立った状態で安室さんの頭の上まで見えるだなんて初めてのことだった。謎の優越感が脳を支配して、じいっと彼を見下ろしてみる。

「どうしました?」

 安室さんは目をぱちくりさせているけれど、大きな瞳が見上げているお陰でかわいらしい印象しか生まれない。これはずるいなあなんて思っていたらつい口元が緩んでしまった。すぐに手すりにつかまっていない方の手で隠してみるけれど、きっと遅すぎる行動だったのだろう。明らかに吹き抜けの水槽に対してではない反応に、安室さんはますます首を傾げた。……いけない、いけない。

「すみません、なんでもないです」

 そう明らかに笑いを含んだ声で言っても、全く説得力がない。そんなことは自覚している。しかしどうにも笑みが零れてしまうのだからどうしようもないのだ。だから先程安室さんが適当に誤魔化したように、私も「イルカショー、楽しみですね」なんて適当に流してみるものの、当然安室さんが見逃すはずもなく、「なんですか? 誤魔化さず言ってください、気になります」と珍しく眉間に皺を寄せて迫ってくる。しかし見上げる安室さんはどう転がってもかわいいから、私はまたにやついてしまうのだ。

「いえ、なんでもないですよ。気にしないでください。……ふふ」
「ほら笑ってる。何もないのに笑うわけないでしょう?」

 なにやらムキになっているのか不貞腐れているのか、やけに突っかかってくる安室さんはやっぱりかわいい。冷静な姿しか見たことが無かったからこれはレアな姿だ。しかしこれ以上長引かせるのは得策ではなく、むしろ関係にヒビが入りそうだと察知して、「えっと、本当に大したことじゃないんですけど、いいですか?」と前置きして言った。

「いつも安室さんに見下ろされているから、私の方が身長が高いっていうのが新鮮で、つい」

 実際には身長差がひっくり返っただけで私の背は1ミリも伸びてはいないのだけれど、そこは言葉の綾と言うことにしておいて頂きたい。一方の安室さんはまるで「そんなことですか」と胸を撫で落としているようだった。その反応がまた愛らしい。

「ふふっ」
「……いや、さん。絶対それだけじゃないですよね? 何か隠してますよね?」

 流石、探偵は鋭い。成人男性相手に「かわいいと思って」と言うのはどうかと思ってあえて口にしなかったというのに、見事に見抜かれてしまった。しかし女性にとって「かわいい」は褒め言葉だけれど、一般的に男性にとってはそうでないということくらい流石の私でも分かっていた。きっと、女友達と同じように使ってはだめなのだ。つまり、安室さんも喜ぶはずがない。

「いや、だめですって。安室さん絶対怒るから。もしくは反応に困ると思います」

 しまった、また笑いをこらえきれていない。全く説得力のない返しを、安室さんはどう思ったのだろう。

「怒りません。だから教えてください」
「……ほんとうに?」
「本当です」

 どうやら安室さんは一度気になったものはとことん追求しなければ気が済まないタイプらしい。一向に引き下がろうとしない彼は一度も目を逸らすことなくじっと私を見つめている──だからこそ余計に笑みが零れてしまうのだけれど──。これはいつまでも長引かせるのも忍びないと、渋々口を開いた。

「実は、安室さんてかわいい人なんだなあと思って」
「……はい?」

 流石の安室さんも予想出来なかった回答だったのだろうか。反応しきれず目を点にさせている。いちいち反応がかわいい人だなと笑ってしまった。

「見上げてくれるたびに、なんかこう、上目使いっていうんですか? そんな感じになっていて。で、それがかわいくて、つい笑ってしまったんです。すみません」

 素直に謝ってみたものの、やはり安室さんは煮え切らない様子で、分かりやすく眉間に皺を寄せた。おそらく「怒らないで」だとか「きっと反応に困る」と私が先手を打ってしまったがために、彼は感情を吐き出すことが出来ないでいるのだろう。だから言ったのにと見つめていると、安室さんは「では」と切り出して、何かを思いついたように顔を上げた。

「見上げなければいいんですね?」
「わっ!」

 お互いの間を空けていた1段を詰めた安室さんによって身長差をほぼ無くされてしまう。むしろ、ほとんど同じ視線に並んでしまった。いや、実際にはほんの少し彼の方が高いのだろう。どちらにせよ急に縮まった距離は、明らかに普段よりも幅が短い。あんなにあった余裕はどこへやら、心臓が大きく驚いてしまった。思わずヒッと息を飲む。

「どうです? “かわいい”ですか?」

 もしかして私は、何か地雷でも踏んでしまったのだろうか。そう思わずにはいられないほどに、安室さんはやけにつっかかってくる。何やら勝ち誇ったかのような顔をしているから、間違いなくムキになっているのだろう。一方の私は半ば押し付けるように安室さんの整った顔を突き付けられ、頭が真っ白になってしまった。近くで見ても全く見劣りしないどころかむしろいつまでも見ていられる整った顔立ちに、みるみるうちに体温を上昇させていく。急に形勢逆転してしまったこの状況をどうにかして逃げ出したくて、ぐるぐると回る頭で文字をかき集め力なく吐き出した。

「あ、あの……っ。ぜ、ぜんぜん、か、かわいくない、です……!」
「……それはそれで傷つきますね……」

 じゃあどうしろというのだ。矛盾すぎる展開に顔を見合わせて、お互い噴き出してしまった。ここはひとまず引き分けと言うことで手を打っていただきたい。

 イルカショーの観客席はステージを見切りなく見渡せるよう、プールを囲うように180度展開されているようだった。プールの中央にはショーの途中で使うと思われるボールが3つぶらさがっている。確か16時半からとスタッフの人が言っていたから、あと3分もしないうちに始まるだろう。ステージから向かって左側のベンチに安室さんと並んで腰掛けながら、無意味に辺りを見渡した。今日最後のショーというのもあってか、開幕を今か今かと待ち焦がれる観客たちで埋め尽くされている。勿論、誰が身辺調査対象者なのか分かるはずもなかった。

 ふと安室さんを見てみると、相変わらず何か考え込むように顎に軽く握った手を当て、目を伏せている。エスカレーターを上りきったときもこんな感じで、気になって声を掛けると適当に誤魔化されてしまったけれど、もしかして私が気付かなかっただけで何か予想外のことが起こっているのだろうか。そういえばてっきり調査の証拠としてこっそり写真を撮るとばかり思っていたのに、彼は私に気を遣ってずっと話掛けてくれていたから、一度も写真を撮れていなかった。

「あ、安室さん。実はずっと気になってたんですけど……」

 左隣に腰掛けている安室さんに、周りに聞こえないよう声を殺してこっそりと尋ねると、彼は「なんでしょう?」と微笑む。すっかりいつもの安室さんのように見えるけれど、実際はどうなのだろう。どちらにしても一見するだけでは先程のエスカレーターで子どものようにムキになっていた人とはまるで別人のようだとぼんやりと考えつつ口を開いた。

「私、邪魔になってませんか? ほら、安室さん、全然写真とか撮ってないですし」

 そう質問を投げかけてみると、安室さんは予想外と言わんばかりに目をぱちくりとさせた。そして少し目を上に泳がせつつ、「そうですねえ」と考え込む。

「うーん。水族館の熱帯魚は照明の効果もあってとても神秘的ですけど、見たままの雰囲気を写真に収めるのってなかなか難しいんですよね。雰囲気が伝わりにくくなると言うか。それにイルカも動くのが早いから、スマートフォンだとピントが合わずにブレたり、タイミングが合わなそうですし……。そもそも僕、日常的に写真は撮るタイプじゃないので」

 どうやら彼は被写体を、これまで見た魚達やこれから始まるショーのことだと思ったらしい。「一眼レフなんかがあったら綺麗に撮れそうですが」と付け足した。しかし私は決して水族館の思い出を写真に収めるか否かを聞いたつもりではなかったために、「あっ、違うんです。そっちじゃなくて」と小さく手を横に振ると、それを見た安室さんは思い出したように「あっ、そうか」と頷いた。

「僕で良ければお撮りしますよ。気が利かずすみません」

 さっきのペンギンの赤ちゃんとも、一緒にお撮りすればよかったですね。そう言った安室さんは、今度は私が魚や動物を背景に写真を撮ってほしがっていると解釈したらしい。まさかそんな、安室さんをカメラマンにする発想がなかった私は、「違う、違います!」と慌てて否定した。周りに聞かれたら厄介なのであまり具体的なことは言わない方が良いと言葉足らずになっているせいか、今日はどうもうまくキャッチボールが出来ない。

「ほら、調査対象者です。よくテレビでは刑事や探偵がこっそり写真を撮っているイメージなので。でも安室さん、スマホもカメラも出してませんし……。だから、ずっと私が邪魔で撮れなかったんじゃないかと思って……」

 やはり写真のほうが動かぬ証拠になるだろうし、まさか口頭報告ではないだろう。私が気付かないようにこっそり撮っていたというにはあまりにも素早すぎるしそもそも不可能だ。しかしここに来てようやく合点がいったらしい安室さんは、なるほどと言わんばかりに明るい顔で、「動画で撮っているので大丈夫ですよ」とけろりと言った。思わず「えっ」と驚きの声を漏らす私に、彼は続ける。

「一瞬とは言え、こんなふうに人が多いところで、明らかに不自然な方向の写真を撮っていたら不審がられるでしょう? 周りは勿論、ターゲットに気付かれたら厄介ですし。勿論車に乗って調査しているときは普通に写真も撮りますが、こういうときは基本的には動画ですね。それにほら、このほうが、カメラがどこにあるか分からないでしょう?」
「分かるどころか気付いてませんでした……」

 唖然とする私に、安室さんは「よかった」とにこやかに答える。

「あれ? てことはこの会話とかも……」

 動画に撮られていたりするのだろうか。そんなことに気付いた瞬間、この短い時間だけで数えきれないほど仕出かしてしまった粗相が一気に頭の中に再生される。それはちょっと、いや、かなり困る。というより恥ずかしい。一気に体温が上げていると、安室さんはそれを察したかのように笑った。

「大丈夫ですよ、常に回しっぱなしじゃありませんから。必要時だけ回してます。だから、さんとのやりとりは一切入ってません。安心してください」
「そ、そうなんですか? よかった……」

 なんだか知らない間に気を遣われていたようだ。ほっと胸を撫で下ろしたものの、それならば逆に分からない。

「で、でも、それならなんで考え込んでいたんですか?」
「え? ああ……。それは調査とは全くの別物で、僕自身の問題ですから。勿論、さんにはなんの関係もありません。だから、お気になさらないでください」

 それはまるで私に対して大きな壁を作られて、「入って来るな」と言われているように思えて俯いた。調子に乗って踏み込みすぎたのかもしれない。すみませんと呟いてみたものの、果たして効果があるのかどうか、今の私には分からなかった。少し距離が縮まっているような気がして、まるで友達のようにあまりに気軽に接してしまっていた自分がいたことに気が付いた。そんな私に、安室さんは何かに気が付いたように慌てて口を開く。

「す、すみません、今のは僕の言い方が悪かったです! 本当に大したことじゃなくて、その……」

 語尾を濁しながら視線を泳がせた安室さんは、ついに顔ごと逸らしてしまった。そして口元を隠すように手で覆いながら、何かを気にするようにチラチラとこちらを目配せする。どうやら言うべきか否か迷っているようだ。気まずさを感じているのか、どことなく頬が赤いような気がしないでもない。なんだか今日の安室さんは初めて見る顔ばかりだなあと半ば感動していると、彼はついに観念したように呟いた。

「……さっきの、どう思いました?」
「え?」

 また安室さんの言う“さっきの”がなんのことなのかさっぱり分からず、疑問を隠しきれない声を出した。言い回しからして、おそらくここ数分以内に起こった出来事を意味しているのだろうというのは分かるものの、具体的にそれがいつなのか見当もつかない。このショーの会場に着いたとき、何か特別なことが起こっただろうかと記憶を掘り返してみたものの、特にこれといって思いつかない。そもそも安室さんがどこか気にするような素振りを見せたのはそれより前のことだから、ここは関係ないのだろう。となるとその前に何があったろうかと考えていると、それに辿り着く前に安室さんがどこかぎこちなく言った。

「……エスカレーターでのやりとりですよ。どうも大人げないところをお見せしてしまったと思って、ずっと気になっていたんです」

 エスカレーター。やりとり。大人げない。その3つのキーワードが出揃ったところで初めて予測を立てられた私は、「もしかして」と小さく声を溢した。

 安室さんは、「かわいい」と言われたことにムキになった、あのことを言っているのだろうか。確かに落ち着いていたり爽やかに笑っているところしか見たことがなかった私からしたら驚きではあったけれど、むしろ気にするべきは失礼なことを言った私のほうだというのに。

「流せばいいのに妙に突っかかって、失礼な物言いを。それに、女性に対して取る距離ではありませんでした」

 その言葉に至近距離を思い出しまた頬が熱くなってしまったものの、それに屈するのを必死で抑え、「あれは私が変なことを言ったからで、安室さんは気にすることなんてひとつもしてないですよ」とフォローするも、大して効果はなかったようだ。安室さんは相変わらず眉を垂れ下げている。

「いえ。僕自身、こんなつもりじゃなかったんです。あんな顔、見せるはずじゃなかった。……あなたの前では、ちゃんと落ち着いた男でいるつもりだったのに」
「えっ」

 なんだか意味深に聞こえて思わず反応してしまった。つい声を漏らしたせいで、安室さんも私を見つめている。相変わらず口は隠したまま、しかしじっと逸らすことなく視線が注がれているから、変に意識して心拍数は上がってしまった。しかし安室さんは“そういう意味”で言っているわけではないと理解しているから、また「そういうことを言うから逆に彼女ができないんですよ」と脳内で彼に言い聞かせる。勿論それを実際に彼の耳に届けるつもりはない。

「だ、大丈夫ですよ。だって、依頼はちゃんとこなしてるじゃないですか。視野もずっと広いし、安室さんはいつだって“落ち着いてる探偵”ですよ」

 ここでまた見当違いなことを言ったらいけないと慎重に言葉を選んだつもりだったけれど、これで大丈夫だろうか。嘘はひとつも言っていないけれど、安室さんが欲しがっている言葉を選べた自信はいまいち持てなくて、どきどきと鳴る胸が騒がしい。彼は口を閉ざしたまままるで何かを見定めるように視線を注いでいると思ったら、ふいに顔を逸らされてしまった。

「……ありがとうございます」

 何かを間違えたかもしれない。そう直感したのは、彼がどこか淋しそうな目を見せたからだった。それに気付いてしまったから、私は慌てて口を開いた。

「あの、安室さんは本当にすごいですよ。いつも冷静だし、いろんなこと知ってるし、ほら、さっき魚を見て回ったときも色々解説してくれたじゃないですか。すごく楽しかったし、エスカレーターでのことだって、安室さんは気にしてたみたいですけど逆にちょっと親近感が湧いたというか、人間味があって私はすきですよ。お仕事のことは正直難しくて分からないし、そもそも私みたいな初心者が言っても、なんの慰めにもならないでしょうけど、つまり何が言いたいのかというと、ええと、なんていうか……!」

 舌が動く限り、とにかく思いついたことを音に変換して渡してみたものの、自分が今何を言っているのか、むしろ何を言いたいのか全く分かっていないまま発進したせいで、着地点が定められない。お陰でどうも言葉に詰まって、「ええと、ええと」と必死に言葉を探してみるものの、一向に続く台詞が浮かんでは来なかった。日頃本を読んでいないせいなのだろうか、語彙力の無さがうかがえる。半泣きになりながらどうにか絞り出そうと奮闘していると、いつの間にか俯いていた安室さんから小さく笑う声が聞こえてきた。

「(えっ)」

 まさかの反応に口を動かすことをやめ、ぽかんと彼を見つめていると、安室さんは小さく肩を震わせながら「……ああ、すみません。なんだかおかしくて」とやっぱり笑いを含んだ声で言う。どうやら聞き間違いではなかったらしい。

 もしかして、また変なことを言ったのだろうか。

 先程のこともありどう反応するのが正解なのか分からず、ただじっと安室さんの反応を見守るしかできない。またここで言葉選びを間違えてしまうわけにはいかなかった。ただあのときと今とで違うのは、彼が明らかにポジティブな感情が混じっている。だから慌てる必要はないということは分かるのだけれど、別に笑わせようと思っていたわけではなかった私は呆気にとられてしまう。すると安室さんは「前々から思っていたんですが」と前置きして、視線を交り合わせて言った。

さんて、かわいい方ですよね」
「へ」

 突然爆弾を投げ込まれた気分だ。何も防備する暇なく投下されたせいで弾き返すこともできず、見事に爆発した。時間差でカッと熱くなる顔も背中も、私の体に緊張を行き渡らせるのに十分な力を持っていた。またしどろもどろになる私とは対照的にすっかり調子を取り戻したらしい安室さんは、どこか満足気に目尻を下げる。

 なんだかデジャブを見ているような気分だ。この展開、ついさっきも見た覚えがある。立場は逆となっているけれど、まさしく彼の言うエスカレーターでの出来事とほぼ同じではないか。よくよく考えてみると、私が口にした台詞と全く同じことを彼は言っている。つまりこれは、からかわれている、ということなのだろうか。そんな結論に辿り着いた私は、急に冷静になる。にこにこと笑みを絶やさない彼に、おそるおそる言った。

「……もしかして“かわいい”って言われたこと、根に持ってました?」
「まさか。今のは本心ですよ」

 間髪入れずにそう答えられたせいで、逆に嘘くさく感じてしまう。綺麗に整った笑みに対し真意を疑うように眉間に皺を寄せると、まるでタイミングを見計らったようにショーの開幕を告げるアナウンスが鳴り響く。盛り上がる会場内の歓声や拍手に、これ以上追及することは叶わなかった。


20181102