水族館というだけあって、なるほど中はなかなか薄暗い。しかも入ってすぐは深海魚のコーナーだったからなおさらだ。一体誰が調査対象者なのか分からずきょろきょろと辺りを見回してみるものの、カップルや家族連れが多く、とてもターゲットが誰なのか見当もつかない。安室さんからも特に教えられることなく今に至るから、速やかに移動するためにも何か聞いた方がいいのだろうか。それとも素人は対象者の詳細を知るとすぐ顔に出たりボロを出したりするから言わないというのが鉄則だったりするだろうか。

 どうしたものかと考えていると、安室さんは早速進行方向にならって「この先を行くと、奥に吹き抜けの水槽があるみたいですよ」と足早に向かおうとするので、流石の私も驚いて呼び止めてしまった。振り返る安室さんの横に小走りで並び、周りには聞こえないようにこっそり耳打ちをする。

「あの、安室さん。このまま行っちゃって、大丈夫なんですか?」
「と、言いますと?」
「だ、だって……」

 てっきり先に館内で入ってどこかで待ち伏せする形を取るのかと思って素直について来たけれど、安室さんは一切その素振りを見せることなく奥へと進もうとしている。水族館と銘打っているだけあって中は薄暗いし、先に入ってしまえば調査対象者がどこにいるのか分からなくなるのではないだろうか。むしろ、予定より早い入園をしてしまったのだから、相手はまだここに来ていない可能性のほうが圧倒的に高いはずだ。そうなれば、素人の私からしてみれば尾行なんて到底出来ない気がしてならない。それとも途中でも発見する、プロの技か何かがあるのだろうか。

「このまま進んだら、離ればなれになりませんか? ただでさえ視界は暗いですし、どこにいるのか分からないというか……」

 もしかしたら安室さんは安室さんで考えがあってのことなのかもしれない。だけどどうしても気になってしまった。素人のくせに口出しするべきではなかったろうかと緊張していると、案の定目の前の彼は目を丸くしている。それを見て、何か言われるよりも先に「す、すみません。生意気なこと言って」と謝罪すると、安室さんは「いえ」と首を振った後、少し考え込んだ。

「しかし……。そうですね。では、手でも繋ぎますか? 確かに暗い上に人も多いようですし、さんさえ嫌でなければ、僕は構いませんよ」

 今度は私が驚く番だった。右手を差し出してきた安室さんに、疑問符を浮かべながらじっとそれを凝視する。そして安室さんの顔と交互に見比べるものの、ひとまずこれは私に自分の手を取れと言っているのだろうか? これが、どう転んだら調査対象者発見に繋がるのだろう。凡人には理解できないことだらけだ。「えっと、確認なんですけど、私と安室さんが手を繋いだら見失わないんですか?」と遠慮しがちに尋ねると、安室さんは心底不思議そうに小首を傾げた──その顔は、「この人は何を当たり前のことを言っているんだろう?」と書いてあるように見える──。

「まあ、そうですね。手を離さない限り、普通は見失わないと思いますけど……」
「そうなんですか? 探偵ってすごいんですね」
「……? そこ、探偵関係あります?」

 どうにも不可解な面持ちで尋ねてくる安室さんに、なるほどもはやプロを極めると意識せずとも出来るのかと感心した。ではこれも、言ってみれば捜査の一環ということになるのだろうか。ならば変に時間をロスせず、ぱぱっと済ませたほうが得策なんだろう。そうぼんやり考えつつ、改めて彼の手の平に視線を移した。

 しかしどうしたことだろう。そう頭では分かっていても、散歩へ出掛ける幼稚園児ではないのだから、男性の手を気軽に取ることは出来ない。こんなときに、いやこんなときだからなのか、異性との交流経験が特別豊富ではない私にはなかなかハードルが高く、急に全身が凍り始めてしまった。しかしこれを繋がないと尾行対象者が分からないのだから、元より私に選択肢はないのだ。存在を主張してきた心臓の音がやけに耳の奥に響く。安室さんは右手を差し出してきたから、私は左手を出せばいいのかな。どうにも回らなくなった頭で対応を捻り出した。

 なんとなく安室さんの様子が気になって何気なく顔を上げると、私からの視線に気付いたからか優しく目を細める。なんだか急に恥ずかしくなってきた。……安室さんは、そんなことないのかな。こんなに動揺しているのは私だけのような気がして少し泣きそうになる。

 そうだ、周りからはどう見られているのだろう? 不審に思われる前に早くこの手を取らなくてはいけないというのに、どうもためらってしまう。別に嫌というわけではないのだけれど、どうも決意が固まらない。……いや、違う。間違えた。決意がどうとか恥ずかしいとかそういう話ではなく、そもそも私はこの調査同行が依頼料の代わりなのだった! それを久しぶりに思い出したら、私に迷っている暇などなかった。

「(──ええい!)」

 一世一代と言わんばかりに決心した割には指先にそっと触れた程度だったから、おそらく私に守護霊か何かの類いが付いていたら心底呆れていることだろう。しかも触れたそこからものすごい勢いで熱が全身に広がった気がして、思わず反射で離してしまった。このままではいけないと、またおそるおそる彼の手に触れてみる。ほんの少し触れる時間を伸ばしていると、安室さんの指が私の手の端を優しく捉えた。そのまま手の中央へと招き入れられ、気付いたときには安室さんの大きな手にすっかり包まれている。

 そんなに凝視するものではないはずなのに、私はどうにも視線を逸らせないでいる。安室さんは、意外と手が大きい。そんな彼は「やっぱりなんだか照れ臭いですね」とくすぐったそうだ。私はもう「そうですね」と目を逸らして呟くだけで精一杯だったけれど。

 どうしよう、いっそ空いている手で自分をあおいでやりたいと思うほどに、すっかり顔が熱くなってしまった。ここが水族館で本当に良かったと胸を撫で下ろす。暗ければきっと気付かれることはないだろう。目が暗闇に慣れる前に、心拍数を上げる心臓にはどうか落ち着いてほしいと願うばかりだ。

「……じゃあ改めて、行きましょうか」

 向かい合って手を取り合ったまま一向に前へ進もうとしない私達に、安室さんが小さく提案する。なんだか声がいつもより甘ったるく聞こえた気がした。そのせいか高まる鼓動に更に拍車が掛かってしまった。返事を音に変換することも叶わず、熱い顔のまま小さく頷くと、それを確認した安室さんはゆっくりと手を引っ張る。それについていくように歩みを進めてみると、明らかに私のペースに合わせた速度に分かりやすく気付いてしまった。背の高い彼ならば、普通に歩くだけでももっと歩幅も大きくなるはずだというのに。

 そういえば合流してから今まで、私が彼に必死になってついて行った記憶がない。つまり安室さんは、ずっと気遣ってくれていたということなのだろう。本来はその優しさに感謝するべきはずだというのに、あまりにも自然な彼の行動に「こういうの慣れているのかな」なんて考えたら、緊張とは違う重みが胸の真ん中にぶら下がった気がして頬が少し固くなった。こんなにも優しい彼の横顔すら見上げることが出来なくなって、水槽の中を観察するフリをして彼がいない方向へ顔を向ける。

 このままでは、いけない。

 こんなにもそっけなくて愛想のない私では、きっと安室さんに迷惑を掛けてしまう。何ひとつ気に病むことなんて起こっていないはずなのに、何を不機嫌になっているのだろう。今日の私は明らかに場の雰囲気に流されている。冷静にならなくてはと自分に言い聞かせるように深く深呼吸していると、安室さんは少し遠慮しがち話を振って来た。状況が先程まで違うからか、少し照れ臭そうにはにかんでいるように見える。

「……それにしても、少し意外でした。さんて意外と大胆と言うか、積極的なんですね」

 大胆という言い方に首を傾げそうになったものの、おそらく今手を繋いでいることを指しているのだろう。だから、きっと拒否すると思っていた、という意味なのだろうか。確かに普段なら恋人でもない男性に触れるようなことは絶対にしないけれど、調査が絡むとなれば、流石の私も話は別だった。

「だ、だって、安室さんの足を引っ張りたくありませんから……!」
「ふふ。気を遣っていただいて、ありがとうございます。そういえば、この方が周りにも溶け込めますね」

 なるほど、そこまでは考えていなかった。確かに周りを見てみれば仲睦まじい男女のカップルが見受けられる。彼らは皆腕を組んだり手を取り合ったりしているから、そう言った意味では今の私達も違和感ない状態なのかもしれない。つまりこれは、対象者の位置も分かり、かつカモフラージュもできる一石二鳥というものらしい。ということは私達もはたから見れば、そういう関係に見られていたりするのかな。そんなことを片隅で想像したら、やけに顔が熱くなる。それを悟られまいと、半ば無理やり話を逸らした。

「そ、それで、あの……。見つかったんですか?」
「何をですか?」

 心底不思議そうに首を傾げた安室さんは、とぼけたフリをしているのだろうか。ああ、もしかしたら私の声が大きすぎたのかもしれない。気を付けていたつもりだったけれど、油断するなということなのかな。もっと慎重に話さなければと気を引き締める。ちょうど水槽に寄って立ち止まった安室さんに、めいっぱい背伸びして彼の耳にそっと語り掛けた。

「尾行対象者です。手を繋いだら相手がどこにいるのか分かるって、今安室さん言ってたじゃないですか」
「え?」

 まるで「言っていることが飲み込めない」と言わんばかりに安室さんはしばらく目をぱちくりさせていたものの、少し間を置いて「……あっ。あー、なるほど。そういう……」とまるで何かを把握したかのような独り言を呟いた。彼は空いている左手で自分の口元を隠すように若干俯いているお陰で、今どんな顔をしているかはこちらからは見ることが出来ない。

 その様子から察した私は「もしかして、企業秘密とかですか」と前のめりになりつつ尋ねてみると、安室さんは相変わらず口を覆ったまま、「ええ、まあそうですね」と目を逸らしつつ言った。心なしか、若干いつもより早い口調に感じる。

「……もしあなたが気付いたら、怒っていいです」
「何をですか?」
「僕が調子に乗ったという事実をですよ」

 なんだかキャッチボールが出来ていない気がしてならない。言っている意味がよく分からなくて、「は、はあ」と曖昧な相槌を打つしかないのだけれど、これは謎解きか何かだろうか。しかしなぞなぞが苦手な私にはひどく難易度が高く、解けそうにない。

「でも、しばらくこうしていてもいいですか?」
「は、はい。勿論です」
「ありがとうございます」

 そうはにかんだ笑みを見せながら、遠慮しがちに手を握り返された。思いがけない展開に、ますます顔を熱くしてしまう。どうにも落ち着かなくて、咄嗟に目の前の水槽へと話題を移した。

「あ、見てください、この熱帯魚。かわいいですね」

 ろくに中を見ないまま話を振ってみたものの、幸いなことに可愛らしいオレンジに白のストライプが縦に入った小さな魚が泳いでいた。イソギンチャクやサンゴ礁も設置されているからか、鮮やかな体色に映えている。見慣れた魚のお陰で、「前に映画で観ました」と話を繋げることが出来た。しかしこの子の名前を思い出そうと視線を上へ泳がせてみるものの、どうにも思い出せない。

「名前は、ええと……」

 どことなくかわいらしい印象だったような気がするけれど、具体的な音までは記憶があやふやなせいで口にすることが出来ない。言われれば間違いなく分かると言うのに、まるで歴史の問題でも解いているかのような気分だ。しかしどうにも名前が出て来ず、もうギブアップというところで、隣の彼が「カクレクマノミ、ですね」と答えたお陰で私の口角は分かりやすく上がった。

「そう、それです!」

 記憶にある響きと同じ名前に大袈裟なまでに同意したのは、少しでも左手の温もりの緊張を忘れたい企みがあったというのに、つい安室さんの方へ顔を向けてしまったばかりに目が合ってしまう。これでは全くの逆効果だ。誤魔化すようにまた「かわいいですよね」と力なく水槽へ視線を泳がせるものの、安室さんは特に気にする素振りを見せることなく「そうですね」と頷いた。ひとまず誤魔化せたようでこっそり安堵の溜息をついていると、左隣りの彼は思い出したようにさらりと言ってのける。

「そういえばクマノミって、生まれたときはみんなオスなんですよね」

 突然投げ込まれた新事実に、「えっ!? そうなんですか?」と分かりやすく反応してしまった。学習することなくまた首を左へ向けてそうになるのを慌てて止めて、水槽の中で優雅に泳ぐオレンジ色の熱帯魚を見つめる私に、安室さんは気に留めることなく頷いて、補足説明をする。

「一緒に生活しているグループのうち一番大きな個体が、メスに性転換するんです。ちなみにそのメスが死んでしまったら、次に大きな個体がメスになりますね」
「ええー……!」
「僕等からしたら驚きですよね。でも、魚類の中でこの手の話は特に珍しくないみたいですよ」
「……安室さんの作り話とかでは、なく……?」
「ち、違いますよ! 事実です!」

 信用されていないことを苦々しく思っているようにそう否定した安室さんの顔を、水槽に反射してほんの少し映った彼の姿でこっそり盗み見た。いつも余裕があって落ち着いている安室さんが慌てている姿を見せてくれるのが嬉しくて、楽しい。別に自分にSっ気はなかったはずだけどな、なんて思っていたら、どことなく面白がっている雰囲気を感じ取ったらしい安室さんは「絶対信じてませんね?」と半ば不貞腐れたように釘を刺してきた。だからつい、「だって」と適当に繋げて言葉を濁しながら、口に手を当てて小さく笑ってしまう。

「なんだか嘘みたいな話だから」
「では、他の豆知識に移りましょうか。隣の水槽のハリセンボン。あのトゲトゲは、実は針じゃなくてウロコなんですよ」
「ええー?」

 この流れではそれが本当なのか嘘なのか分からず、「またまたあ」と言わんばかりな声で反応してしまう。なんだか楽しくなって彼のいる左側へと少し顔を向けると、安室さんは相変わらず人懐こい笑顔を浮かべ、「それでね」と続けてきた。

「彼らが本当に怒ったときは、イルミネーションのようにカラーチェンジしながら、体を8色に光らせます」
「それは私にも分かります、嘘ですね」
「ええ、嘘です」
「ふふ。嘘つかれた」

 嘘を渡されたと言うのに不快に思うことなく、むしろそのやりとりを楽しいと思えるのは、安室さんが明らかに私を騙す気がないからだ。なんだかおかしくてクスクスと笑っていると、ふと安室さんがじいっと私を見ていることに気が付いた。

「す、すみません。うるさかったですか?」

 そういえば安室さんが緊張をほぐしてくれたからつい忘れてしまいそうになるけれど、今は調査中だった。思い出したように声の音量を下げてこっそりと伺うと、安室さんは首を振って言った。

さんが笑ってくれると、僕も嬉しいなと思って」

 これはどういう反応を取るのが正解なのだろうか。うっかりまたときめいて、ぐらりと心が揺れそうになってしまったのは、吊り橋効果よろしく暗闇効果というやつだろうか。そういえば薄暗いところは通常の明るさのときより相手を魅力的に見えると聞いたことがある。だからこれは、そういうことなのだろうか。しかし左手に感じる体温も相まって、平然としていろというのがおかしい。

 そもそも「笑ってくれると嬉しい」だなんて、口説き文句にも程がある。もしかしたら社交辞令なのかもしれないけれど、現実にこんなことを言っている人なんて見たことがない。「そんなことを言うから逆に彼女ができなくなるんじゃないですか、人によっては勘違いされますよ」なんて頭の片隅でやけにムキになる私の横で、顔を真っ赤にさせながら硬直しているもう1人の私がただただ呆然と突っ立っていた。

 どうしたことだろう? 冗談には冗談で返さねばと思えば思うほど、うまい返しが出てこない。思考回路が急停止したせいか分かりやすく目が泳いでしまうのを必死にこらえて、つくろうように張り付けた笑顔で彼を見上げた。

「……あ、安室さん、今日はそういうキャラ設定なんですか? 本当に俳優、いけるかもしれませんね。なあんて……」

 先週のやりとりを引っ張り出しては誤魔化してみたけれど、果たしてうまくできたのか不安になる。やけにたどたどしい口ぶりは「真に受けて緊張しています」と言わんばかりのものだった。でも、だって、別に本気で言ったとは思ってなかったけれど、それでもこんなことを言われたら、誰だって意識してしまうものじゃないか。だからだめだ、目を見ることがどうしても出来ない。どうにも落ち着かなくて、顔に掛かった横髪を耳に掛けた。

 ──彼は、どう思っただろうか?

 そう不安に思うと同時に、私には多分、彼に言ってほしい言葉がある。それを期待している心は随分と楽しそうに弾んでいることに私自身気付いていた。あんなに緊張を促していた心拍数も今ではBGMのように心地が良い。しかし彼の口を突いて出てきたのは、予想していた反応とは真逆のものだった。

「本当ですか? ありがとうございます」

 普段通りの人懐こい笑顔を見せて来た彼に、がくっとうな垂れそうになってしまった。先程とは違う意味で反応が出来なくなる。だってだって、こんな口説き文句のようなことを言われたら、誰だって期待してしまうものじゃないの? もしかして自分に好意を持っているのかなって、少なからず思ってしまうものじゃないの? だからあんなふうに誤魔化したら「そんなことない」って、「演技じゃなくて本心だ」って、そう否定してくるんじゃないかと思ってしまうのは自然な流れというやつなのに、こんなにもあっけなく流されてしまうだなんて。

「(冗談、だったんだ……)」

 まるで風船がしぼんでいくような気分だ。なんだか泣きそうになる。冷静になって考えてみればそんなこと当たり前な話だと言うのに、何故舞い上がってしまったのだろう。本当に、今日の私は雰囲気に呑まれすぎている。空気を読んで笑って返してみるものの、果たして自然に見えているのだろうか。気を抜けば溜息をついてしまいそうな気分だ。奥の水槽へと足を進めながら、ふと顔を伏せた。

「(……そっかあ)」

 邪念を振り払うように目を瞑って小さく顔を振る。そしてゆっくり目を開けて、手を引く安室さんの横顔をこっそり見つめてみた。私の視線に気付くことなくただ前だけをまっすぐに見据える彼に、胸の奥が締め付けられた気がした。


20181102