「(ハードル上げられた気がする)」
冷静になって考えてみたらそうだ。男女2人でということなのだから、恋人設定でということなのだろう。となるとデート服に決まっている。まさかTシャツデニムにスニーカーという格好で行くわけにはいかないのだ。なのに、なんで改めて聞いてしまったのだろう。お陰で「かわいい」なんて形容詞を付けられてしまった。ワンピースと指定されたのは逆に助かったけれど、こんな格好で良かったのだろうか。
白地に水彩の青い花が彩られた5分袖のシフォンワンピースは、私のお気に入りのものだった。色々安心な膝丈だし、首元はすっきりしてるけど露出しすぎてないし、何よりかわいいから無難だろうと選んだのだけれど、果たしてこれが安室さん基準で考える“かわいい”を満たしているのかというと私は眉間に皺を寄せるしかない。むしろ彼の好みに関する判断材料が一切ない状態で“かわいい”をコーディネートしろというのが無茶な話だった。
一応いざというとき走れるようにヒールない黒のパンプスを選んできたけれど、バランス的にはやっぱり淡い色のヒールを合わせたほうがしっくりくる気がしてならない。いや、今日は機能面を優先させなくてはならないから、個人的な好みは忘れてしまおう。それにしても予想外に夕方の集合だったから、ゆっくり準備出来たのは助かった。
ふと視界に入った自分の髪が崩れていないか気になって、無意味に触ってしまう。久しぶりにゆるく巻いたらやけに時間が掛かってしまった。とは言え綺麗に巻けてちょっとうれしい。……でも、気合い入れすぎと思われたらどうしよう。そんな不安が胸の中をぐるぐると駆け巡っては消えてくれない。
「(でも、かわいくしてきてって言われたし)」
若干言葉を捻じ曲げているような気がするけれど、意味はまあほとんど同じのはずだ。まるで呪文のように自分に言い聞かせながら、駅構内の化粧室で鏡と睨めっこを始めて、一体どれくらいの時間が経過しただろうか。ふと前髪を直す手が鏡に映って、爪を見やすいように指を折り曲げ顔の前へと下ろした。昨日の夜整えたピンクベージュがきらりと光る。
……大丈夫、マニキュアヨレてない。指紋もついてない。毛先のカールもちゃんと念入りにスプレーしたから落ちてない。もう触らないようにしよう。ベースメイクはさっき確認したしテカってない。ルージュは落ちにくいティントタイプ。スプリングコートもワンピースもちゃんとアイロンして皺伸ばしたし完璧! ……の、はずなのに、どうも鏡の前から離れられない。自信なさげな自分が情けなく映っていた。
「(私ちゃんと、安室さんに “かわいい”って思ってもらえるのかなあ……)」
鏡の中の自分がそんなことを言っているような気がして、はっと我に返った。……違う。安室さんにじゃなくて、尾行をしても怪しまれることなく周りと馴染めるかどうかが重要なんだ。そこを履き違えてはいけない。日頃スポーティーな格好をしていると思われていたことが悔しくて、ついやけになってしまってたところもあるけれど。
どうやら探偵業の協力のためとはいえ、男の人と2人で出かけるなんて久しぶりすぎて、どうも自分でも気づかないうちに舞い上がってしまっていたようだ。……だめだ、気を引き締めなければ。深呼吸をひとつして、気分を落ち着かせる。よし、と覚悟を決めてポーチをしまい、化粧室を出た。
そのまままっすぐに改札を出ようと標識を探すと、分かりやすく黄色い看板に「東都水族館」と書かれた黒い文字と矢印を発見した。よくよく周りを見てみると、人の流れも同じ方向を向いているようだ。そういえばこの駅は改札口がひとつしかないことを思い出しつつ、自動改札機にICカードをタッチした。ピッと電子音が鳴った後残高が小さな画面に表示されたものの、今朝チャージしたばかりだからまだ2000円ある。だから帰りも足止めすることなく構内へ入れるはずだ。それを横目で確認して、速度を緩めることなく改札機を離れる。
待ち合わせにはまだ20分以上余裕があるけれど、何が起こるか分からないし早めに来ておいて正解だった気がする。依頼料の代わりと銘打たれている以上、安室さんを待たせるわけにはいかなかった。
「(そうだ。暇つぶしに、ジュースでも買って飲んでようかな)」
確かこの駅の角に、テイクアウト専門のフレッシュジュースの店があったはずだ。そこで何か買って時間を過ごそう。そうのんびり考えていたものの、近年稀に見る速さでこの案が即却下されてしまったのは、待ち合わせをしていた人物の姿を発見してしまったからだった。別に見つけようと思って辺りを見渡していたわけでもないのに迷うことなく目に飛び込んで来たのは、間違いなく安室さんのオーラなるもののせいに違いない。まさかもういるとは考えてもみなかった。予想外の展開に、「あっ」と間抜けな声を漏らしてしまう。
白のVネックに黒のジャケット、でもきっちり決めすぎない濃いめのデニムというよく見るシンプルコーディネートなのに、何故か光り輝いて見えるのはなぜなのだろう。着る人によってはチャラく見えたり残念な仕上がりになると言うのに、元の素材が良ければなんでもいいということなのだろうか。なるほどシンプルイズベストとはよく言ったものだ。ああでも、今まで薄々思っていたけれど今日で確信した。安室さんすごく綺麗な鎖骨をしている。
「(……というか、安室さん全然忍べてないけど大丈夫なのかな)」
これから尾行をするにしてはなんだか目立ってませんか? そう心配になってじっと見てしまう。だってすれ違いざまにチラチラと熱い視線を送っている女性が見受けられるし、やっぱりその外見は目立ってしまうのではないだろうか。そんな彼の隣にこれから立つことになるのか。なんだか私、誰かに刺されそう。──いやその前に、安室さんを待たせてどうする!
思い出したように、慌てて安室さんに駆け寄った。
「あ、安室さん!」
呼びかけに気付いた安室さんは顔を上げ、私の姿を捕えると目をまん丸くさせた。どうしてそんな意外そうな顔をしているのか、その理由を考えるだけで不安要素が途絶えることなく浮かんできてしまうけれど、今は少しでも早く彼と合流することが先決だ。それにしても、ヒールがない靴を選んで来て正解だった。まさかこんなにも早くダッシュを決めることになろうとは夢にも思わなかったけれど。
たった数十メートルの短い距離だったというのに、安室さんの前に着く頃には心拍数を随分と上げてしまっていた。顔はなんとなく直視できなくて、息を整えるフリをして少し俯き、顔の横の髪を耳に掛ける。せっかく身だしなみを整えてきたばかりだというのに、水の泡となってしまった。そんな私に、彼は相変わらずゆったりと落ち着いた口調で言った。
「こんにちは、さん。早いですね。まだ待ち合わせの20分前にもなってないですよ」
ああ、だから意外そうな顔をされたのかと頭の隅で納得したものの、心臓はまだ落ち着きを取り戻せない。まるで何かを気にしているかのように、未だに心拍数は走り続けている。
「えっと、対象の方がいつ来るか分からないから、早く行った方がご迷惑お掛けしないのかなと思ったのです、が…! お、お待たせしてすみません!」
「いえ、全然待っていませんよ。むしろ、僕もついさっき着いたばかりなんです。でも、気を遣っていただいてありがとうございます。早く着きすぎて、どうしようかなと思っていたところだったので」
本当は彼が来たばかりでないことくらい分かっていたけれど、温かい声でそう言われたら、まるで「申し訳なく思うことは何ひとつないですよ」と言われているような気分になってしまう。この人はいつも心を拾い上げてくれる人なんだな。私もそういうふうに振る舞えたらいいな。そう静かに決意するもののまだ納まりそうにない心臓は、まだ彼を待たせたことを気にしていたのだろうか。……それとも。
そっと顔を上げると、安室さんは事前に用意していたという入場チケットを取り出していた。どうやらズボンのポケットに入れていた財布の中に入れていたらしい。「予定より少し早いですが、入りましょうか」と声を掛けてきた。
……調査対象者は、もう来ているのだろうか?
それとも先に中へ入って待ち伏せするというスタイルなのだろうか。どちらにせよ素人の私が決められることではないので素直に頷いたものの、どうも心の奥でモヤつく何かのせいで笑顔を作ることは出来なかった。ここで私は一体何に対して緊張していたのか、ようやく理解した。肩に掛けていたショルダーバッグの肩紐を右手でぎゅっと握る。
「(……格好のことには、触れてこないんだなあ……)」
分かっていたことだけれど、少し心の隅がぽっかり空いたような気分になってしまうのは何故だろう。別に今日は安室さんとデートしに来たわけじゃないというのに。それに彼にかわいいと褒められたところで「またそんな、軽率に誤解されるようなことを言って」と眉間に皺を寄せるに違いない。
そもそもこんなにデート服らしいデート服を着て来たのは、勿論根底には安室さんに少しでも恩返しがしたいという思いもあったけれど、スポーティーな格好しかしないと思われていたならいっそ思い切り女の子らしい格好をして驚かせてやろうという好奇心と意地が突っ走った結果だった。
そうだけど。そうだけど。…………そうじゃなかったんだけどな。
「さん」
「は、はい!」
突然呼ばれて彼を見上げる。どきどきと胸を高鳴らせていると、「入口はあっちみたいですね」とにこやかにゲートを指差された。その先へと視線を泳がせてみると、チケット売り場に挟まれたひとつの通路に、白の看板に紺色で“入場口”と太く書かれている。その文字の周りには観覧車を背景に、イルカや魚が泳ぐように描かれていた。おそらく遠くからでも分かりやすいように工夫をしたのだろう。
「あ。はい……」
随分としおれた声が出てしまったのを、彼が気付かないことを祈るばかりだ。
駅前の人々の流れに乗るように私達もまた足を進めると、距離を縮めるたびにキャッチーなBGMのボリュームが徐々に大きくなっていくように感じる。どうやら水族館のテーマ曲のようで、入口付近のスピーカーから流しているらしい。その曲調の効果なのか、周りの人々の誰もが表情が明るく、はしゃいでいるように見えた。他の人達はこんなにも心を弾ませていると言うのに、どうして私はこんなにも沈んでいるのだろう。その理由が分からないフリをしつつ、隣にいる彼に気付かれない程度にゆっくりと息を吐いた。
「(……安室さんの邪魔にならないようにしなきゃ)」
なぜなら今日は遊びではなく仕事の同行として来たのだから、きちんと緊張感を持っていかなければならない。それにこれは依頼料の代わりなのだから。だから意識は水槽の中で優雅に泳ぐ魚達ではなく安室さんに集中させて、様子を伺って合わせることにしよう。何か確認するときは声を小さくして、移動は俊敏に。それから……。
「──肩の力を抜いて」
突然耳元で囁かれた声に、びくりと肩を震わせた。立ち止まり、慌てて声の主へと顔を向けると、安室さんはまるで子どもを安心させるかのように優しく微笑む。まるで私の考えていることを見透かしているかのようだった。自分では気づかなかったけれど、そんなに分かりやすく緊張していたのだろうか。
「さんは調査を気にすることなく、水族館を楽しんでください」
「え? で、でも、そんなわけには……」
しどろもどろになりながら返答すると、安室さんは「その方が、僕も周りに馴染みやすいですしね」と補足する。その言葉で妙に納得する私に、彼は「それに」と何やら意味深に補足した。
「さんにはこちらの要望に期待以上に応えて来て頂きましたし、僕も男としてエスコートさせてください」
「えっ?」
要望? 男? エスコート?
一度に噛み砕けず、処理に困って頭の中で宙ぶらりん状態になっている。なぜだろう、安室さんと一緒にいると、なんだかいつも私だけ置いてきぼりを食らっているような気がする。それでも心臓だけは何故か状況を理解したようで、心拍数だけは無駄に上昇させていく。目の前の彼から視線を逸らせないままでいると、安室さんは私の身長に合わせるように少し屈んで目線を合わせ、にっこりと微笑んで言った。
「楽しいデートにしましょうね」
言い方に語弊があるだとか、そもそもデートじゃなくて身辺調査だとか、きっと突っ込みどころは山ほどあるというのにそれに触れることすらできない私はどうしてしまったというのだろう。首の後ろが急に熱くなって、それが顔まで伝染してしまったみたい。そのせいだろうか。確かに何か言いたくて口を開きかけたというのに、どうもうまい言葉が浮かばずそのまま閉じてしまった。わざわざ私の目の高さまで腰を曲げてくれたのに、もう彼の顔を見ることが出来ない。火照る頬を隠すように俯いた。
このままでは、冗談を本気に受け取ったのかと思われてしまう。
だけどどう返すのがベストなのか、そんな単純な答えすら絞り出せない。私は展示物の金魚にでもなったつもりなのだろうか。冗談が通じない面白くない奴とは思われたくない。こっそり様子を伺うように安室さんを見やると、相変わらず涼しい顔を張り付けていたから、思わず眉間に皺が寄る。
「……そ、そういうふうに見えるように、がんばります」
自分に言い聞かせるように強気に吐き出した私に、安室さんは少しきょとんとした後、満足げに表情を緩めた。
「ええ、よろしくお願いします。では、行きましょうか」
そんな声が振って来たと思ったら背中にそっと手を添えられて、そのまま優しく押されては進行方向へと誘導される。驚くより先に、反射で足が前に出てしまった。そのまま歩みを止めることなく入口へと吸い込まれるように進めていく。触れられている背中がやけに熱くなっていたものの、彼が手を添えていたのは最初だけで、歩み始めるとすぐに離れてしまった。
気付かれないようにそっと隣を見上げると、安室さんは前を見据えているせいかこちらの視線には気付かない。その横顔は動揺も戸惑いも見せないまっすぐなもので、どうも心が濁りそうになる。だけどこのままじっと見つめていればそれに勘付かれてしまうような気がして、慌てて顔を正面へと向けた。
「(なんで今日は、こんなに緊張しちゃうんだろう……)」
調査の同行者だからか、お互い見慣れない服を着ていつもと雰囲気が違うからか、安室さんがデートだなんて冗談を言ったからか。どれも当てはまるようでどこか違う気がするからどうしたらいいのか分からない。本当は少し、今日を楽しみにしてた。なりゆきとはいえ水族館に行けることになったし、安室さんは話してていて苦じゃないし、むしろ楽しいから、いい気分転換になりそうだなって思ってた。
だけど今の私に、周りを見る余裕なんて存在するのだろうか?
そんなことを考えている間に到着した入場口の前にはスタッフが3名立っていた。どうやら入園者のチケットの半券を千切っていくスタイルらしい。夕方前なだけに客は少ないと思っていたのだけれど、休日ということもあってか賑わっているようだった。しかし水色の帽子を被ったスタッフは手慣れた様子でチケットを処理していったため、特別な混雑は発生せずすんなりと門をくぐることが出来た。
園内を見渡すと、東都水族館のトレードマークであるイルカを模した風船を手にした子どもが満面の笑みを見せて走り回っている。入場口よりも遥かにボリュームを上げたBGMは気分を陽気にさせ、まるで現実世界ではないかのようだ。思わず、感嘆の声が漏れてしまう。
「……遊園地みたい」
ぽつりと独り言を呟く私に、隣にやってきた安室さんが「そうですね」と頷いた。
「もともとこの東都水族館は、ファミリー、カップル、友人、誰と来ても楽しめるようにと設計されたんです。あえてゲームセンターではなく誰でも気軽に楽しめる屋台を設置したのも、若い人だけでなく、様々な年齢層に楽しんでほしいという方針からなんですよ。だから観覧車もあるし、飲食店もファーストフードから雰囲気のいいレストランやバーまで豊富です。……と言っても、あくまでメインは水族館ですから、ジェットコースターのようなアトラクションはないんですけどね」
へえ、と相槌を打ちながら、安室さんはよく知ってるなあと感心した。もしかしたら調査に行くということで色々調べたのかもしれない。そういえば安室さんは妥協しなそうかもしれないと、妙に納得した。じっと彼を眺めながら歩いていたからだろうか、視線に気付いたらしい安室さんがふと私と視線を絡めて言った。
「どうします? 屋台、気になりますか?」
「い、いえ! 私は大丈夫です!」
どうするかと話を振られたということは、おそらく「行ってみるか」と尋ねられていると言うことなのだろう。もしかしたら話題に出した手前発生した、社交辞令なのかもしれない。慌てて手を左右に振ると、安室さんは「そうですか」とにこやかに笑った。
実際のところは屋台に興味を惹くものがあったけれど、今日は遊びに来たわけではないのだ。それとも、安室さんは何かで暇を潰して時間の調整をしたかったのだろうか。そういえば私達がここに入場したのは、予定より20分も早い時間だったことを思い出す。でもそれならそうとストレートに言って来そうな気もするから、そういうわけじゃないのかな。
「何か気になる所があれば、遠慮せずに言ってくださいね」
「は、はい。ありがとうございます」
そう礼を言った直後に、彼の後ろにある大きな観覧車が視界に入って来た。メインは水族館のはずなのに、園内の中央にあるんだなとぼんやりと考える。そういえば昔は東都水族館の観覧車には“恋人同士で乗ると永遠に結ばれる”だったか、“片思いの相手と乗ると両思いになれる”だったか、その手でよく聞くジンクスがあったような気がするけれど、待機列へ並ぼうとする客層を見てみる限り、全体的に子供連れが多いようだ。……私の記憶違いだろうか。
大きさが大きさなだけに嫌でも視界に入ってくるアトラクションがなんとなく気になって目で追っていると、ふとした拍子に安室さんが「ああ、あれが水族館ですよ」と前方を指差した。自然と先を追って視線を向けると、なるほど確かに色とりどりに植えられた花の向こうに、大きな建物が建っている。2階部分と思われる壁に「東都アクアミュージアム」と横文字で銘打たれていた。その文字を見つけ、全身に緊張が走る。
「(つ、ついに、来た!)」
ここから尾行が始まるのかと意識したら、急に背筋が伸びた気がした。いや、そもそも遠足は家に帰るまでが遠足と言われるように、この園内に足を踏み入れた時点で調査は始まっていたはずなのだけれど。今日だけでも何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに、まだ気が抜けていたらしい。しかし変に意識しては、きっと安室さんが言っていたとおり他のお客さんにも馴染めないから難しい。「じゃあ、行きましょうか」と声を掛けてきた安室さんに頷いて、私達は目的の建物へと足を進めた。
20181102