ごった返すような昼食のピークが嘘のように落ち着きを取り戻した店内は、空いているテーブルも少しずつ増えているようだった。時間がないと言わんばかりにホールと厨房の間をひたすら往復していたスタッフは次第にその頻度を減らしていき、今ではゆったりとホールを巡回してはコーヒーのお代わりを勧めている。
彼らがテーブルへと運んだ日替わりメニューがパンケーキやパフェに変わった頃、左手首にそっと視線を落とした。針はシルバーに縁どられた小さな白い円盤の中で、3時20分を指している。入口の様子を伺おうにも、奥まった位置のボックス席に案内されてしまったせいで、なかなか確認することが出来ない。ひとつ溜息をついて鞄からスマートフォンを取り出し、メールアプリを起動した。
──3時半くらいなら、伺えると思います。
そのメッセージの送り主に会うのは、実に2週間ぶりのことだった。どうやら彼は私が思っていた以上に探偵業が繁盛しているらしい。本当はもっと早く会ってお礼がしたかったのだけれど、彼のスケジュールを捻じ曲げてまですることではなかった。
食後に持ってきてもらったアイスレモンティーを飲みながらまた店の出入り口の方向をじっと見つめてみる。すると、店内を見回している金髪の青年の姿が目に入ってきた。右手には、A4サイズの白い封筒をひとつ抱えている。
「(……あっ!)」
遠くからでもはっきりと分かるその風貌に、待ち合わせ人だと確信する。名前を呼んで気付かせようと口を開きかけると、まるでテレパシーが通じたかのようにこちらに顔を向けた彼は、その瞬間私の姿を見つけたらしい。ぱっと明るい顔をした後、迷うことなく一直線にこちらへ向かってくる。
「(えっ、えっ)」
どんどん縮まっていく距離に、思わずうろたえてしまった。私と待ち合わせをしていたのだから彼がこちらへやってくるのは至極当然のはずなのに、久しぶりに顔を見た彼が妙に光り輝いて見えたのだ。もともと整った顔をしているとは思っていたけれど、まさかこれが爽やかイケメンオーラというやつなのだろうか。今までこんなに輝いて見えたことはなかったのに、今日は一体どうしたと言うのだろう。単純に窓際だから光が入り込んでレフ版効果か何かが生まれているのだろうか。
「すみません。お待たせしました」
相変わらず爽やかな声の持ち主は、私の向かいの席につくなり開口一番にそう言った。思わず圧倒されて、「い、いえ」と小さく呟くことで精一杯の私は、普段の彼との違いを必死になって探し出そうと頭をフル回転させていた。場所がいつも顔を合わせていた整備工場の事務所じゃないからだろうか。それとも私の悩みを解決してくれたから、救世主のように見えているのだろうか。しかしどちらもいまいちピンと来ない。髪型……は、変わっていない。何か肌に仕込んでいるのかとも思ったけれど、特に化粧もしていないようだ。頭から徐々に視線を下げていき、はっとした。
「(そっか、服!)」
普段工場へやってくるときはスウェットやパーカーなどのカジュアルな格好なのに、今日の安室さんは白のワイシャツにデニムを合わせ、まるで洗剤のコマーシャルに出て来る俳優のような姿をしている。きっとこの爽やかコーディネートの相乗効果でやけにオーラが輝いているように見えたに違いない。
……普段着で白シャツを自然に着こなす人、存在したんだ。
半ば感心したようにじいっと目の前の彼を見つめていると、それに気付いたらしい安室さんは「何か?」とぎこちなく尋ねてくる。
「あっ、ごめんなさい! いつもと服の感じが違うなあって思って、つい……」
しまった、つい馬鹿正直に口を滑らせてしまった。咄嗟に誤魔化せない私はどうにかして臨機応変という言葉の意味を調べたほうが良い気がしてならない。しかしそんな咄嗟に出てきた台詞を、何か含みのある言い方に捕えられてしまったのだろうか。安室さんは「もしかして、変ですか?」とおずおずと尋ねてくる。慌てて首を横に振った。
「い、いえ全然……! む、むしろよく似合ってます」
「よかった。安心しました」
胸を撫で下ろすようにはにかんだ安室さんが眩しくて、思わず目逸らしてしまった。それを誤魔化すように視線の先にあるメニュー冊子を差し出し、「何か頼みますか」と声を掛ける。しかし礼を言って受け取った彼はぱらぱらと流れる程度にその中身を確認する程度で、横を通りかかった店員を捕まえるとホットコーヒーを注文した。どうやら彼は最初からオーダーを決めていたらしい。店員が去るのを確認してからメニューを窓側のスタンドに戻した後、まるで観察でもするかのようにじっと私を見つめた。その目は何やら好奇に満ちた色をしている。
「さんも、いつもと服の雰囲気が違いますね」
今度は私が首を傾げる番だった。
首元がすっきりとした白のブラウスに、淡いパープル色のAラインのスカートを履いている。今日の私は別に一張羅でもなんでもない普段着で、現にトップスはこの間のセールで買ったものだった。安室さんに見せて来た服装はどんなものだったか考えるまでもない。思わず眉間に皺を寄せた。
「安室さん。もしかして私のこと、ポロシャツとデニムしか着ない女だと思ってませんか?」
思った以上に棘が刺さった声になってしまった。あれは仕事着で、むしろ華美な服はNGだったから汚れてもいいシンプルな服として着用していただけだ。オフでも年中あんなスポーティーなわけではない。可愛らしいチュールスカートやワンピースだって着る。靴だって、スニーカーじゃなくてちゃんとヒールのあるパンプスだって履くんだから。
全てを言葉にせずとも、言いたいことは伝わったらしい。安室さんはまるでなだめるように「すみません、そういう意味ではなくて」と手の平をこちらに向けたまま左右に振って釈明する。
「かわいらしくて、素敵だなと思って」
「えっ。…………」
うっかりときめきそうになってしまったのをギリギリ踏み止まった。緩んでしまいそうになった口元を隠すようにアイスティーを口にする。白シャツによる爽やか効果だろうか。社交辞令だと分かってはいるけれど、これは聞く人が聞いたら完全に勘違いをしてしまう台詞だと思う。安室さんは顔が整っているんだから、そういうことをちゃんと自覚して発言した方がいいんじゃないだろうか。なるほど安室さんはこういうところがこわい。だとしたら彼女さん、絶対苦労してる。
顔も名前も知らない彼の恋人を思い、同情した。手に取ったアイスティーをコースターの上に戻してそっと口を開く。
「……じゃあ、そういうことにしておいてあげます」
冗談を含んだ声で返すと、安室さんは「もしかして、信じてないですね」と苦々しく笑った。それはまるで「本気だったのに」と言われているような気分になって、どうも落ち着かない。なんでもいいから動きたくなって、思い出したふりをして隣に置いていたバッグからひとつ透明な包みを取り出し、安室さんの手元へ置いた。
「それで、その。ハンカチ、ありがとうございました。それとあの……。みっともないところを見せて本当にすみません」
「いえ、そんな」
テーブルの上に出した梱包用の透明なビニール袋に入れられた男物のハンカチは、先日安室さんに差し出されたものだった。必死に慣れないアイロンを掛けたお陰で、緑と紺のチェック柄には皺ひとつない。しかしそれを手に取った安室さんは何かに気付いたように「あっ」と小さく声を漏らしたものだから、私は思わず過剰に反応してしまった。もしかして、うっかり焦げつかせてしまったのだろうか。
「ど、どうしました……?」
緊張しながら彼の言葉を待っていると、安室さんは以外にも明るい表情で私の視線を捕えていた。
「いえ。こんなに綺麗にしていただいて、なんだか使うのがもったいないなと。アイロン掛けてくださったんですね。わざわざありがとうございます」
しかし、あの日渡してくれたハンカチもきっちり皺が伸ばされていたことを、私はしっかり気付いていた。安室さん自身がやっているのか恋人がしてくれたのかは分からないけれど、つまるところ彼にとっては別にこの仕上げは特別なものではないのだ。なのでこれを「使うのが惜しい」と称するのは完全なるリップサービスなのだけれど、そう頭では分かっているのだけれど、こうも素直に持ち上げられて不快になんてなれない。「すみません」ではなく「ありがとう」と言われたことがなんだかくすぐったくて、そっと目を逸らした。そのまま視線を少し落とし、グラスにささったストローを弄りアイスレモンティーに入った氷を無意味にゆっくりと回す。
「……あ。じ、実は私、今月いっぱいで工場を辞めることにしたんです。その……、こことは離れたところで心機一転したいなって、今転職活動中で。それと、家も引っ越すことにしました。こっちは就職先に合わせて考えるつもりだから、まだ全然場所も決めてないんですけど」
気恥ずかしさから唐突に話題を替えてみたものの、これは安室さんに伝えるべきものだったのだろうか。いくらお世話になったとはいえ、退職することが決まっているとはいえ、まだうちのお得意様であることには変わりないのに。それでもつい口を突いて出てしまったのは、今私が持っている話の種がこれくらいしか思い浮かばなかったからなのだろうか。やけにペラペラと流暢に舌が動く。何故だかつい早口になってしまった。
一応の事後報告か世間話だと思って流してくれますようにと心の隅で祈りつつ何気なく視線を上げてみると、安室さんは「そうですか」とどこかしんみりと頷いたものの、すぐに明るい表情を見せた。
「転職活動、頑張って下さいね。きっとさんなら大丈夫ですよ。応援してます」
ありふれた言葉だったというのに彼の言葉が妙に心に響いたのは、唯一事情を知っている人だったからだろうか。引っ越しや転職を決めた本当の理由を家族や友人に打ち明けることもできず、必死にいつもどおりに振る舞っていたというのに見事に背中を押された気分だ。じわじわと込み上げてくる何かのせいで目頭が熱くなったことに気が付いて、慌てて隠すように頷いた。
「では、僕からも報告です。……“彼”の件で」
名前を出さずとも誰のことを指しているか瞬時に理解した私は、急に身を縮こませる。不穏に走り出した心臓が五月蝿かった。俯いてしまった私の目は、落ち着きを知らないように視点を固定できない。そんな私に、安室さんは静かなトーンで言った。
「先日、九州の実家に帰られました」
「……えっ?」
九州? 実家? 帰る? こんなにも短い一文を飲み込むことができない私の頭は、とりあえず顔を上げろと指令を出したものの、安室さんの顔を見ても情報処理を司る脳は復旧することはなかった。しかしずっと気を張っていた体が、まるで糸が切れたように首から背骨を通ってほぐれていくのが分かる。肩の力が一気に抜けた気がした。
「もともとご実家が酒屋を営んでいるそうなのですが、ご両親の高齢もあって、継ぐことを決心したそうです。だから、もうあなたの目の前に現れることはありません。本人から誓約書も取ってあります。もっと早くにお伝えするべきだったのに、ご報告が遅くなってすみません。本当に再犯の可能性がないか、彼の様子を伺っていたもので」
「え? えっと……。え?」
誓約書? 様子を伺うとは? また新たに言葉の意味を飲み込めないものが登場してしまった。しかしどうしたことだろう、噛み砕けない私がおかしいとでも言わんばかりに、安室さんはまた淡々と“報告”を続ける。まるで、何か映画のクライマックスシーンを解説しているかのように。
「とはいえ、勿論今回のことは許されるものではありません。証拠もありますから、警察に届けてもらって構わないと本人からも……」
「ちょ、ちょっと待ってください安室さん!」
これ以上情報を与えられたらますます頭が付いていけなくなると、慌ててストップをかけた。そもそも証拠ってなんだろう。例のメッセージカードのことだろうか。でもあれだけでは、単に料理のお裾分けしただけですと言い逃れされて、付きまとい行為については否認してもおかしくはない気がする。いやでも私の考えが足りないだけで、実は立証出来るものなのだろうか。
こめかみを手で押さえながら「ちょっと、整理させてほしいんですが」と前置きして、混乱する頭を無理矢理動かしてみる。しかし何から始めればいいものかすら判断がつかなくなっている上、もはや右から左へ流れてほとんど受け止めきれていない情報が多すぎた。「えっと、えーっと」と難解な数式を解くかのように唸る。
「えっと、まず、“彼”というのは小林さんのこと、でいいんですよね?」
「ええ」
整理というのはそこからなんですかと言わんばかりの顔をされたけれど、気にしないことにする。それよりも先に明確にするべきことはたくさん残っているからだ。
「それで、えーっと、小林さんが実家の店を継ぐとか継がないとか?」
「ええ」
「で。せ、せいやくしょ? て、聞こえたのは、ええと、すみません。一体なんの?」
「ああ、そうか。すみません。説明が足りませんでしたね。実物を見て頂いた方が早いかもしれません。こちらです」
そう言って安室さんは、A4サイズの白い封筒を差し出した。察するに、私にということらしい。てっきり私の前か後に控えているアポイントで使用する何かだとばかり思っていたのに。様子を伺うように彼の顔を見やると、安室さんはにこやかに微笑みかけている。そしてまた手元の封筒に視線を落としてから少し間を置いて手に取り、中身を取り出すと、中が見えない不透明な書類整理用のファイルが1枚入っているのみだった。首を傾げながら中に入っているのであろうもの出してみると、これもまた1枚の紙が入っているのみ。しかしそこに記されていたのは、安室さんのいうとおり“誓約書”と銘打たれた書類だった。
パソコン打ちで作成されたそれには5項目にも及ぶ禁止事項が羅列されている。それらは簡単にまとめると付きまといなどの嫌がらせ行為で、それらを破った場合はいかなる処罰も受けるということを承諾したものだった。これまでの行為を謝意した上で、この紙の下段に、日付、住所、名前がこちらは手書きで記載されており、更には実印が教えてある。そこに記されている誰の名前かは言うまでもなかった。しかも日付は、“あの日”の2日後になっている。
「えっ……」
口から漏れた声は困惑と動揺が滲み出ていた。だけどその中に間違いなく生まれたひとつの感情が徐々に心の隅から広がっていく。呆然と1枚の紙を眺めながら、脳裏に浮かんだ言葉を小さく呟くように言った。
「……だ、だって、探偵は警察のようなことはしないって。調査するだけだって……」
それは、初めて安室さんに相談した日に言われた言葉だった。調査はするから、その結果を持って警察や弁護士の元へ行くかしてくれという話だったはずなのに。そこまでが探偵の仕事だと、そう言っていたはずなのに。しかしこれは、間違いなくその領域を超えている。ふと車内で言った彼の言葉を思い出した。
──念のため確認なのですが、その相手を特定したとき、あなたはどうしたいですか?
ますますこんがらがる私は、答えをすがるように安室さんを見つめた。もうどんな顔になっているのか自分でも分からない。情けないくらい声が震えていたのだって、また目頭が熱くなってきたことだって、もう何も分からなかった。そんな私に、安室さんはまるで悪戯を咎められるこどものようにどこか気まずそうに眉を垂れ下げて、右手の人差し指で頬を掻きながら言った。
「すみません。首、突っ込んじゃいました」
その言葉に、私の胸の奥にある“何か”が遂に滲み出たような気がした。お礼を言うべきなのか謝るべきなのか判断が付かなくて、何故かまた何も考えられなくなった頭で手元の書類に視線を落とす。誓約書。たったそれだけの言葉に“何か”がじわじわと込み上げてきて、思考の邪魔をした。真っ白な頭の中にたったひとつ浮かび上がってきたのは、ずっと願っていた平凡な日常だった。
──もしかして、これで本当に終わったのだろうか。
そんなことを考えたら、ずっとせき止め続けてきたストッパーにヒビが入った気がした。書類を持つ指先に力を入れたせいで、少し皺が寄る。せっかくきれいな紙だったというのに、折れないようにファイルにまで入れてくれていたというのに、なんということだろう。だけどこうでもしないとこらえきれなくなる。どうにかして崩壊を防がなくてはと思えば思うほど、じわじわと押し寄せてくる波は、もう自分にも止められない。唇を噛んで俯いた。
「それは知り合いの弁護士に作成して頂いたものなので、安心してください」
「……はい」
「名刺でよければその方の連絡先、渡しておきましょうか?」
「……っ。だ、だい、じょうぶ。です」
「そうですか」
うまく息を吐き出せなくなって、震える喉が生み出した声はついに崩れ去ってしまった。こんなありふれたファミリーレストランで、ボックス席とはいえ他にもお客さんだっているというのに、次から次へと涙が溢れて止まらないのはなぜなのだろう。だけど、たった1枚の紙切れで、こんなに緊張の糸が切れるだなんて知らなかった。せめて声だけは抑えなければと右手で口を押さえつけるけれど、その手が震えているせいか効果があるのかは怪しい。
また、安室さんの前で泣いてしまった。
すみませんと言葉にならない音で謝ってみるものの、正しく彼の耳に届いたかすら分からない。それに、せっかく綺麗にメイクしてきたというのにきっともうボロボロだ。これ以上みっともない姿を見せるわけにはいかないというのに。
「さん」
ふと聞き慣れた優しい声が私を呼んだ気がして、口元は手で隠したままゆっくりと顔を上げる。その拍子に、またぽろっと涙が零れてしまった。そんな私に、安室さんは半ばテーブルに身を乗り出すように手を伸ばし、頬の辺りを緑と紺のチェック柄が軽く触れる。驚いて見上げると、安室さんは「どうぞ」と短い副詞を口にして、また使ってくださいと勧めてくる。それは先程私が返したばかりのハンカチだった。ふと彼の手元を見ると、開封されたビニールが横になっている。
デジャビュでも見ているかのようだ。2週間前に全く同じことをされたことを思い出し、ますます私の目は水で溢れ返ってしまう。右手は口元を抑えることに精一杯だったので、左に持っていた書類をテーブルの上へと戻し、震える手で差し出されたハンカチを受け取った。
「す、すみません。あの、こ、こん、こんな……。また……っ」
「いえ。気にしないでください。むしろ、誓約書なんて余計なことするなって怒られなくてよかったです。おせっかいすぎるかなと思ってたので、実は今の今までどきどきしてたんですよ」
どこかおちゃらけたような安室さんの声はいつもより随分明るくて、小さく笑みが零れる。また貸してもらったハンカチでそっと目元をぬぐいながら、未だに少し震える声で「ぜんぜん、そんなふうには見えなかったです」と小さく返した。
「本当ですか? よかった。僕、意外と演技力あるんですかね? 俳優スカウトとか来ないかなあ」
「……ふふっ」
俳優になりたいだなんて心にも思ってないだろうに、興味の欠片もないことを一切隠さず軽いノリを見せてくる安室さんがおかしくて、また口元が緩んだ。それを見逃さなかった安室さんは「あ、だめですか? 売れなそう?」なんて尋ねて来るから、ますます面白くなってしまう。
「いえ。すごく、うれそうです」
「あ。それ、全然思ってないでしょう? 僕にもそれくらい分かりますよ」
少し不貞腐れた顔を見せる安室さんに、「そうですよね。たんていさん、ですもんね」と返す。すると彼は真っ直ぐな目を見せて言った。
「──はい。僕は探偵、ですから」
それは、揺るぎない自信を持った力強い声だった。絶対的なプライドと技術と経験によって確立されたそれは、単なる自己満足ではないと私は知っている。
「……ふふっ」
「えっ。なんでそこで笑うんですか?」
「すみません、つい」
あんなに止まらなかったはずの涙は一体どこへ消えてしまったのか。いつの間にか目の奥へと引っ込んでいた涙は笑みへと替わっていた。
……あの日相談したのが安室さんで、本当に良かった。あのときは単なる気まぐれだったけれど、今では心からそう思える。ふとテーブルに置かれた誓約書に視線を落とす。いつの間にか喉の震えは収まっていた。涙も少し落ち着いている。だから今ならきっと、ちゃんと言える。そう確信したから、ハンカチをぎゅっと握りしめて、向かいの彼に頭を下げた。
「あの、安室さん。──本当にありがとうございました。安室さんには、本当にお世話になりました。……だから、あの……」
そこで一度言葉を止めてきょろきょろと辺りを見回し、顔見知りや、興味本位で会話を聞いている人がいないか確認する。泣いた後で今更過ぎる行動だけれど、少し前の私はそこまでの余裕がなかったから仕方がない。特に周りに該当者がいないことを確かめて、ひとつ咳払いして喉の調子を整えた。そして少し前のめりになって安室さんとの距離を縮めた後、内緒話をするように口の横に手を添えてトーンを抑えた声で言う。
「依頼料、ちゃんと払わせてください」
依頼料と言うのはもちろんこの一件の分だった。2週間前、全てが終わった翌日、その金額と支払い方法をメールで聞いたら、彼は「結構ですよ。僕が勝手に首を突っ込んだだけですから」という返信を寄越すのみで、詳細は一切指示してくれなかった。だから私は未だに安室さんに謝礼金を渡せてはいない。
そしてそれは何度メールを送っても返答は変わらず、今日もその例外ではないらしい。「結構です」。そんな何度目に目にしてきたか分からない台詞を、今度は音声付きではっきりと言われてしまった。どうやら2週間打ち続けてきたラリーは、まだ続くらしい。
「──お待たせ致しました」
タイミングを見計らったようにやってきた女性店員のトレーには、先程安室さんが注文したホットコーヒーが乗っている。泣き顔に気付かれないようにそっと俯く私をスルーして、彼女は慣れた手つきで安室さんの手元に置いた後、丸めた伝票をテーブルの端に置いていた小さなプラスチックの円柱に入れ込んだ。「ごゆっくりどうぞ」と一礼して去って行くその背中を何気なく目で見送る。そしてまた安室さんに視線を戻すと、彼はカップのハンドルを持ち上げては、来たばかりのコーヒーを早速味わっていた。どうやら砂糖もミルクも入れないブラック派らしい。一息つくようにコーヒーを口元から離し、彼はなんでもないと言わんばかりに話の続きを口にした。
「第一、さんから依頼もされていなければ契約書も交わしてませんからね。つまり、クライアントではないんです。先程もお伝えしたように、僕が勝手に首を突っ込んだだけ。だからあなたに支払いの義務はありません。それに、引っ越しが控えているなら、何かと物入りでしょう? 引っ越し費用にでもあててください。遠慮しているわけではなく、本当に結構ですから」
「そう言うと思って持ってきました。少なくて申し訳ないですけど、受け取ってください」
今度は私が封筒を置く番だった。と言っても安室さんが渡してきたものの3分の1のサイズだったけれど。鞄から取り出したそれをテーブルに置き、そっと彼の手元にあるコーヒーソーサーの横へ差し出すと、彼はそれを一見した後、何度も聞かされた台詞を一字一句変えることなく言い放った。
「受け取れません」
思わず眉間に皺を寄せてしまう私を尻目に、彼はやはり涼しい顔でコーヒーを楽しんでいる。このやり取り、一体何度繰り返してきただろう。やっぱり5万円じゃ足りないんだろうか。……いや、足りない。間違いなく足りない。だってまさかこんな、誓約書から何までやってくれているだなんて、夢にも思っていなかったのだ。
そもそも依頼料の相場が分からずとりあえずネットで調べたら50万という数字を見て心底驚いたのだけれど、他の探偵事務所に依頼していたらそれくらいは掛かっていたかもしれないし、誓約書を抜きにしても5万では安すぎる金額だろう。しかし安室さんも言っているように、今後引っ越しを控えている身としては生活を営む上で苦しくなってしまうというのも事実だった。完全に顔見知りということで足りない分は分割払いにさせてもらおうなどの考えは完全に甘えであると重々自覚している。だからこそ、依頼料は不要などという安室さんの好意に甘えて引き下がるわけにはいかなかった。
「じゃあ、今回のこの書類の件も含めて、いくら包めばいいのか教え下さい。すぐには用意できないかもしれませんが、必ずお支払いします」
「そういう意味ではありません。……僕にも意地があります。だからこれは受け取れません。そういう単純な話です」
「探偵としての意地なら、ちゃんと報酬は受け取るべきです。例え口頭でも、私は安室さんに助けを求めた。つまり依頼をした。それは事実です。それなら、どんな依頼内容でも、依頼人が知り合いでも、報酬は受け取るべきです。無償だけは絶対だめです。それがプロってものだと思います。それに私、安室さんに本当に感謝してるんです。お礼がしたいんです。そのひとつの手段として、依頼料をちゃんと払いたいんです。だめですか?」
「……うーん。思っていたより意志が固い方ですね」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
つい先程まで泣いていた女が何を急に強気に言っているんだと思われたのかもしれない。苦笑してコーヒーカップをソーサーに戻した安室さんは、どうしたものかと頭を悩ませているようだった。何か問題があるなら今その契約書なるものを書いても構わないというのに、何故彼はこんなにかたくなに受け取ってくれないのだろう。目を逸らすことなく彼を見つめていると、安室さんはふと何か考えるように視線を上にやった後、体勢をほんの少し前のめりにしつつ口を開いた。
「では代わりと言ってはなんですが、僕のお願い、聞いてくれますか?」
「おねがい?」
突然現れたキーワードにきょとんとしていると、安室さんは「ええ」と柔らかく頷く。
「もともと今日は、さんにお願いしたいことがあって来たんです」
「私に?」
「はい、実は……」
言葉の続きを待ちながら首を傾げる私は、全く見当がつかない。もしかして、「もうそのハンカチはいらないから新しいの買って返してください」とかそういうことなのだろうか。そうか、そういえば、誰か好き好んで他人の涙やら何やらが付いた代物をまた使おうという気になるだろうか。いやならない。しかも二度目となると納得だ。なるほど、でも安室さんの好みは分からないから、せめてブランドを指定してくれませんか──。
「今度、僕と東都水族館に行っていただけませんか?」
「……えっ?」
予想の遥か斜めから来る提案に、思わず間抜けな声が出てしまった。
東都水族館に、成人男性が使うようなハンカチなんて売っていただろうか。いや、確かハンカチ自体は商品として置いてあるけれどどれもポップなもので、つまり成人男性が積極的に使うようなものではなかったと記憶している。そもそもあそこがハンカチで有名だなんて聞いたこともない。もしかして、彼の言う「お願い」にハンカチは関係ないのだろうか。しかも「僕と」ということは安室さんと、私が? 東都水族館に、行く?
完全になりゆきとはいえ職場以外の場所、むしろ私の自宅前で会ったことはある。どこにも行かなかったけれど、彼が所有する車に乗ったこともある。だけどそれは完全に探偵とクライアント──本人は否定しているけれど──としてで、完全なオフに一緒にどこかへ出掛けたことは一度もない。なぜなら私達は友人でも恋人でもないからだ。お客さんと事務員、探偵とクライアント、その関係性しか存在しない。だからこそ安室さんと水族館へ行く理由が理解できず首を傾げていると、彼は淡々と事情を説明した。
「実は今、とある人物の身辺調査をしてほしいという依頼がありまして。調べていたらその相手が今度、東都水族館へ行くことが分かったんです。だから僕もそれをつけて様子を伺う必要があるのですが、そんなところへ男一人で行っては浮くでしょう? なので、ご一緒して頂けないかと」
「な、なるほど……。それはまあ確かに、男女で行った方が自然な気はしますけど……」
身辺調査とやんわりとした言い方をしているけれど、場所が水族館であることから察するに、いわゆる浮気調査というやつなのだろうか。それならなるほど尾行のカモフラージュとして来てほしいという理由は納得出来る。にも関わらず歯切れの悪い返事になってしまったのは、それになぜ私を選んだのかという疑問が残ったままだったからだ。
別に私は誰かをつけることが特別うまい特技を持っている訳ではないどころか尾行したことすら生まれてこの方一度もない。はっきり言って素人だ。だから私よりも彼の探偵仲間とか色々と適任者がいるような気がするし、それに……。
「何か、気になることでも?」
考え込む私に、安室さんは声を掛けて来る。気になることと言われるほど重大なことではないので、「事情は分かったんですが」と前置きをして言った。
「それなら、彼女さんと行ったほうがいいんじゃないですか?」
そのほうが、代役を起用するより自然な気がする。それともオンとオフとで分けたいタイプだから現場に恋人は連れ込みたくないとか、そういう理由だったりするのかな。そんな予測を立てている私とは裏腹に、安室さんはきょとんと目を丸くした後、「そうしたいのは山々なんですが」と困ったようにぎこちなく頬を掻いた。
「残念ながら、僕にそういう相手はいませんので」
「えっ!? うそ」
「はは。こんな悲しい嘘ついてどうするんですか」
「だ、だって!」
こんなに優しくて、イケメンさんなのに! という言葉は呑み込んだまま、驚きのあまりぽかんと口を開けたままじっと目の前の彼を凝視してしまう。……絶対かわいい彼女がいると思ってた。もしくは年上美人の。なのに恋人がいないとは、一体この世の中どうなってるんだ。だから日本は晩婚化とか少子化なんて問題に直面するのではないだろうかと考えずにはいられない。
もしかして探偵という職業柄、安定性を求める世の女性からは意外と人気が出ないのだろうか。でもお金に困ってる様子はなさそうだし、なによりこの顔とこの人懐こい性格で放っておくものだろうか? ……ああ、でもなんとなく本心は隠して見せてくれなさそうだし、そういうところがだめってことなのかな。それとも誰にでも誤解されるようなこと言っちゃうみたいだし、優しすぎるのがだめってこと?
はー、と半ば感心するような目で見ていると、今度は安室さんが少しわざとらしく咳払いをした。
「女性の探偵仲間や女友達もいないですし、困っていたんです。どうしたらいいのか考えていたときに、さんの顔が浮かんで。それで今日、直接お声掛けしようとご連絡したんです」
「(うっ、恥ずかしい! きっとあのとき号泣してたから、頭に残っちゃってたんだ!)」
瞬時に理解した私は、急に熱くなる背中に気付かれないように身を縮こませてしまった。
とはいえ身辺調査の依頼料と引き換えにするにはどうも少なすぎるお願いのような気がするけれど、本当にいいのだろうか。いや、もしかしたらそれくらい困っているということなのかもしれない。安室さんはとてもいい人だし、なにより色々とお世話になったから協力してあげたいという気持ちはある。ついでに言うと、不純だけれど、こんな素敵な人と一緒に出掛けるなんて今後一生なさそうだから行ってもいいかなという好奇心が全くないと言えば嘘になる。そもそも依頼料を引き合いに出された時点で、私に拒否権など存在しないのだけれど。
だけど現実的に考えて、身辺調査のお供をするわけだから何かと足を引っ張って迷惑を掛けてしまいそうだ。そんな不安要素が邪魔をして頷くことができない。なかなか快諾せず渋っていると、安室さんは思い出したように口を開いた。
「チケット代は依頼人から経費として頂いていますし、食事代は僕がお支払いしますから、お金のことはご心配なく」
「いや、あの、そういう問題ではなく……!」
「もしかして、ご都合の悪い日が?」
「いやあの……。再来週の日曜以外は特にない、ですけど……」
「よかった! 次の土曜日なんです」
なぜ素直に暇人だと暴露してしまったんだろう。なんだか少し恥ずかしくなってきた。別に友達が多いタイプではないし、毎週必ず誰かと一緒に遊ばないとさみしいし逆に疲れるというアクティブタイプでもない。しかしにこやかで明るい雰囲気を見せる彼に、若干の気まずさを感じた。
「そうだ。東都水族館は来年リニューアルするらしくて、今はその前の記念のショーはもちろん、限定のフードメニューやグッズも充実しているみたいですよ」
「えっ!」
げんてい! 分かりやすくその単語に反応してしまった私は、熱しやすく冷めやすい超日本人的思考の持ち主であると重々自覚している。急にはしゃいだ声を出してしまった。東都水族館と限定を掛け算したところ、先日小耳に挟んだ情報を思い出す。
「あっ。そういえば水族館の中にあるパン屋さんでも、新しいパンが登場したって聞いたことが。確か、亀とかイルカとか、そこにいる動物の形をしていてかわいいんですよね」
「ええ。そういえば先日ペンギンの赤ちゃんも生まれたとか。今ちょうどお披露目しているみたいですよ」
「あかちゃんですかあ…!」
思わず顔がほころんで、語尾が上がった甘ったるい声が出てしまった。それを受けて、安室さんは相変わらずにっこりと微笑んだまま続ける。
「きっとかわいいでしょうね。……ああ。赤ちゃんと言えば、東都水族館はラッコの親子も人気でしたね」
「それ知ってます! 仲良く手を繋いでぷかぷか浮いてる親子、動画で何度も見たことありますから。かわいかったなあ。うーん……」
東都水族館へ最後に行ったのは多分子どもの頃が最後だったろうか。そのときとは大分様変わりしたと聞いているけれど、噂は聞くだけで実際に足を運んではいないから、久しぶりに行ってみたいかもと思っているのは事実だ。限定フードやグッズも気になる。それにあんなことがあったし、少しは気分転換にもなるかもしれない。
だけどあくまで調査のカモフラージュで同行するだけだから遊びじゃないわけだし、何かヘマをして安室さんに迷惑を掛けたらと思うとやはりすぐに首を縦に振ることができない。こんなにも良くしてくれた人の足を引っ張るのだけは避けたかった。
「──水族館は、お嫌いですか?」
「えっ? いや、そんなことないですよ! でも、その……」
語尾を濁してしまった。加えて目を伏せてなかなか快諾しようとしない私に気付いてか、安室さんはあんなに迫っていたのが嘘のように突然引き下がる。
「そうか、すみません! 突然こんなことを言われても迷惑ですよね」
「え?」
「そもそも貴重なお休みですし、予定が無くても家でゆっくりしたいですよね。あんなことがあったばかりで、水族館へ行く気分でもないでしょうし、転職活動もありますし……。それに引っ越しの準備もあって、きっとお忙しいですよね」
「(うっ!)」
分かりやすくしょんぼりとする安室さんに胸が痛んだ。なんだか悪いことをしているような気分になる。用事はないと言ってしまった手前なおさらだ。散々お世話になったというのに、ここで断ったら恩を仇で返すということになるのだろうか。そもそも私に選ぶ権利などないというのに、なぜ私は渋ってしまったのだろう。ここに来て罪悪感がこれ以上ないと言うほどに膨れ上がってきている。
「でもこんなことを頼めるの、僕にはさんしかいなくて……」
その顔でその台詞はずるい。むしろこの台詞はドラマの中でのみ使用されるものだと思っていたのに、日常生活で本当に言ってくる人を初めて見た。なるほどなかなか破壊力がある。どこか申し訳なさそうに言われた手前、罪悪感と、なんとかしてあげなくちゃという謎の義務感と母性本能が一瞬にして心の9割を支配してしまった。
「あの、えっと……。わ、私で、よろしければ……」
「本当ですか!」
「(うっ、笑顔が眩しい!)」
「ありがとうございます!」
分かりやすく花を咲かせたような表情を見せた安室さんに、目がくらみそうになってしまった。前から整った顔をしているなと思ってはいたけれど、笑った顔はかわいい人なんだな。なんだか調子が狂ってしまう。それにしてもこんなに喜んでくれるだなんて、よっぽど困っていたということなのだろう。探偵って、本当に大変な職業なのかもしれない。……少しでも安室さんの役に立てればいいのだけれど。
「あっ。でも、身辺調査ってことは尾行ってことですよね? 私素人なのでご迷惑おかけすると思いますけど……」
「大丈夫ですよ、そこは僕に任せてください」
エスコートします。そう言って微笑んだ安室さんは探偵としての絶対的な自信がありありと浮かんで頼もしい。私はやっぱり適切な人に依頼したんだな、そう直感した。だからこそエスコートするだなんて台詞で一瞬心臓を飛び跳ねさせてしまったのは、勘違いだと言うことにしておきたい。
「ち、ちなみに私、どんな格好で行けば? やっぱり、黒くて目立たない服がいいんでしょうか? 動きやすい靴とか……。ズボンにスニーカー履いていけばいいですか?」
「え? うーん、そうですね……」
私からの質問に安室さんは軽く握った手を顎に当て、視線を上へ泳がせる。そしてしばらく考える素振りを見せた後、何か思いついたように「あっ」と声を漏らした。そしてこれ以上ないほど完璧に整えた笑みを見せる。
「そういうのは一切気にしなくていいので、とびきりかわいいデート服、着て来てください。できればワンピースで」
気にしなくていいの? 意外すぎる言葉に驚いたけれど、もしかしたら初心者は下手に誤魔化そうとするより、周りに溶け込めることを優先にしたほうが浮かずに馴染めるという意味なのかもしれない。なるほど尾行と言うのはなかなかに奥が深い。それに、ワンピースと具体的に指定してくれたのは助かる。「分かりました」と頷いて、鞄のサイドポケットからスマートフォンを取り出した。
「ええと、次の土曜日、ですよね?」
「はい。よろしくお願いします」
スケジュールアプリを起動して、来週の土曜日に「東都水族館」と予定を打ち込んだ。そのまま続けて待ち合わせ場所などを指示する安室さんに、相槌を打ちながらメモをする。まるで先輩の言うことを書きとめる新入社員の気分だ。
──絶対絶対、ちゃんとしっかり安室さんの役に立とう!
そう強く決意してクローゼットの中にしまい込んだワンピースたちを思い出す。そして必死にコーディネートを脳内で展開させる私は、上機嫌に眺めてくる安室さんに気付くことが出来なかった。
20181102