警察に相談しに行くにしても具体的な証拠もないし、自意識過剰と言われて終わる気がする。そもそも何か事件が起こらないと動いてくれないってよく聞くし、どうしよう。

 勤務中にも関わらず溜息を溢してしまったのは、最近自分の身の回りで起こっている出来事を思い出し、頭を抱えていたからだった。もしもそれが私の被害妄想や早とちりでないとしたならば、どうも自分で解決できるキャパシティを超えている気がしてならない。

 誰かに相談出来たらいいけれど、「これとこれどっちの洋服がいいと思う?」というような軽いノリで友人達にさらけ出せるほど気軽な話題でもないし、変に心配を掛けてしまうだけのような気がする。今デスクトップパソコンの画面に映っているこの事務処理のように、間違いのない正解があればいいのに。

「どうしよう……」

 誰もいない事務所で1人呟いた。時刻は15時を回ったところ。都心から少し離れたところにあるこの車の整備工場は今日も平和そのものだというのに、このままいけば定時で上がれそうだというのに、空は清々しいほど晴れ渡っていると言うのに、ここ最近急浮上した悩みのせいで胸の奥がもやもやしてしまう。

 オンとオフはしっかりつけるタイプだと自負していたけれど、これはそろそろ業務に支障が出てしまうかもしれない。どうしたものかとまた溜息をついていると、事務所のガラス張りで出来たドアが開く。ふと顔を上げてその人物の姿を捉えると、つい「あっ」と声が漏れてしまった。その人物は金髪に褐色の肌をしており、慣れた様子でカウンター越しに声を掛けて来てくる。

「すみません。また点検終わるまで、待たせてもらいますね」

 彼はそう言ってそのまま事務所とフロアが繋がっている待合室──と言っても私の目の前に椅子と自動販売機があるだけの簡素なものだし、事務と壁を隔てるものは何もない──へと入っていく。ここは駅から離れているから、車のメンテナンスをしている状態ならば歩いてどこかへ暇つぶしという選択肢は基本的には存在しない。それを知っているお得意様は、持ち込んだ本や雑誌で時間を潰すのが定番となっている。そして今来た“彼”もその例外ではなかった。

 ここは整備士が4名程度の小さな工場だし、来る人は大体顔が決まっている。だからお互い顔の認知はしているし、何度か暇潰しに他愛のない世間話をしたこともある。彼が「また」と言っているように、ここへに来るのはこれが初めてのことではなかった。そういえば先月顔を合わせたときは、小腹が減ってこっそり机に常備しているお菓子を頬張っているところをちょうど目撃され、その気まずさから同じチョコレートをそっと彼に差し出したことを唐突に思い出した。

「(そういえば、あの人って)」

 彼がここに通うことになって間もない頃、何気なく聞いた質問に帰ってきた答えが頭の中で蘇った。そのときはいまいちピンと来なくて「なんだかすごいですね」なんてありふれた反応しか出来なかったけれど、もしかして、今の状況を改善する最適な相手なのでは。依頼するしないにしても、何かアドバイスとか、その手の調査にはいくらくらいかかるのかとか、少し相談させてもらうことは出来るかもしれない。彼の性格上、それを嫌がらないということを知っていた。

「あの、安室さん!」

 そう声を掛けると考える前に席を立ち、受付カウンターを飛び出て自動販売機前に立つ彼の元へと駆け寄った。安室さんはちょうど何かを買った直後だったようで、取り出し口から黒い缶を取り出している。どうやらコーヒーらしい。しかし流石に自分を呼ばれるとは思っていなかったようで、何やら不思議そうな顔でこちらを見やった。

「なんでしょう?」

 彼は今日も相変わらず整った顔をしていた。今日の空のように青く澄みきった大きな瞳はまっすぐに私に向けられている。しかし少し垂れ目気味なことが制してかちっとも威圧感は感じず、むしろ柔らかい雰囲気をかもし出していた。加えてこの物腰の柔らかさだから、人間としてできている。神様はなんて不平等なのだろう。そんなことを頭の端で思いながらも今は関係ないと放り出し、慌てて口を開いた。

「あの。安室さんて、確か探偵でしたよね?」
「ええ、まあ。それがどうかされました?」
「実は……。あっ!」

 突然冷静になった頭がストップを掛けてくる。お陰で中途半端なところで言葉を切ってしまった。今私は休憩中でもなんでもない業務時間内だというのに、“雑談“にカテゴリーするには明らかに込み入った話をするのはどうなのだろう、そう思ってしまったのだ。

 それにいくら探偵と言っても安室さんはお客様だし、困らせてしまうかもしれない。どうしたらいいのか分からなくなって、視線を泳がせる。続ける言葉も見失って、つい目を伏せてしまった。

「どうしました?」

 まるで泣きじゃくる子どもを慰めるように温かくそう尋ねてくる安室さんに、ついに決心はぐらぐらと揺れ始める。彼の声があまりに優しかったから、もしかしたら何か勘付かせてしまったのかもしれない。それとも元々の性格なのだろうか。

「あ、えっと……」

 視線をあちこちに泳がせながら紡ぐ言葉を探すものの、やはりまだ決心がつかない。安室さんに声を掛けたのは“たまたま探偵を生業(なりわい)としている人物がタイミングよく来たから”という理由だけで、“絶対に彼でなければならない”というものではなかった。それなのに、探偵である彼に相談を持ちかけようとしている。それって、失礼に値する行為なのではないだろうか。安室さんだって別にボランティアをしているわけではなく、生活する上の資金稼ぎのために探偵業を営んでいるわけなのだから。そう考えたら、あんなに勢いよく声を掛けたのが嘘のように言葉がしぼんで行ってしまった。

「……あの、や、やっぱり大丈夫です! すみません、急に声掛けちゃったりして。なんでもないです」

 口角を上げていつもどおり笑って見せたつもりだったけれど、どうも頬が固くてうまく出来ているのか自信がない。せめてもう少しまともな言い訳を出せればまだ自然に見せられたかもしれないというのに、残念ながら咄嗟に説得力を含んだ言葉が浮かんでくるほど私の脳は精密に作られてはいなかった。

 そんな私に、安室さんは何も言わない。しかし逸らすことなくじっと見つめてくるその目は、まるで本心を見透かされているような感覚になる。……もしかしたら、変に思われたかもしれない。どうにかして誤魔化そうと口を開いたものの、私が世間話を音に変換するよりも先に安室さんの声が聞こえる方が早かった。

「──本当に?」

 その突然の問いかけに、私は思わず固まってしまう。どんな表情をすればいいのか、むしろ自分が今どんな顔をしているのかすらもう分からない。頭が真っ白になってしまった。何も考えられなくなって、真意を探るように目の前の彼を見上げる。安室さんの目は、まっすぐに私を射抜いていた。そこにはもう先程のような笑みはない。ただ真剣な瞳が私を映していた。

「本当に、大丈夫なんですか?」

 まるで私の心を拾い上げたような言葉に泣きそうになってしまった。頷くことは簡単なはずなのに、誤魔化そうと思えば出来るはずなのに、そうすることが出来ない。目の奥を熱くさせる何かを必死に堪えながらまた視線を落とした。「……お、お客様にこんなことを聞くのもどうかと思ったんですが」と弱々しく前置きすると、安室さんは間を開けずに「構いませんよ」と簡潔に肯定する。顔を上げると、まるで全てお見通しと言わんばかりに優しく微笑んでいた。

「それにきっと“客”としてではなく、“探偵”としての安室透に聞きたいことがあるということなのでしょう?」

 そう、そうなんです。そんな返事ひとつ言葉にできないまま首を縦に振ると、彼はまたにこやかに笑った。

「でしたら遠慮なさらずに。立ち話もなんですし、座りましょうか」

 そう言って安室さんは壁側にある椅子を引いた。そして私に寄越す視線は、どうぞここに座ってくださいと言っている。これはどちらがお客様なのだろう? 完全に立場が逆転している。しかしここで遠慮していては話が進まないので、「失礼します」と小さく会釈して大人しく彼がエスコートする椅子へと腰掛けた。それを見届けてから、安室さんは向かいの席へ座る。私達の間には、四角い白テーブルがひとつ挟まれていた。

 どうやって切り出そうか悩んでいると、目の前の彼は絶妙のタイミングで「それで、どうされたんですか?」と話を振って来る。いつの間にか心臓は緊張の音を上げ始めており、どうにも背中が丸まってしまう。自然と視線は下へ落ちる中、私は小さく音を吐いた。

「あの、依頼とかそういうんじゃなくて、相談、のようなものなんですが……」
「はい」
「あっ。も、もしかして、相談も料金発生しますか?」
「大丈夫ですよ、掛かりません。それで、ご相談と言うのは?」

 守秘義務は守りますから、安心してください。そう付け足す安室さんをじっと見やった後、また少し俯いた。気まずくて、目を見て話すことは出来ない。彼からは見ることの出来ないテーブルの下で、こっそり自分の手を握った。深く息を吸ってから、ゆっくりと口を開く。

「……実は最近、仕事からの帰り道でやたら視線を感じると言うか、ええと、うまく言えないんですけど、後ろから、その、誰かが、ええと。あ、毎日ではなくて……」

 どうしたことだろう、客観的に詳細を言おうと思えば思うほど頭が働かなくなって、言葉の順序がバラバラな薄っぺらい言葉になってしまう。それに気付いたというのに、もっと冷静になろうとすると何故だか言葉を詰まらせてしまう。そのくせこんなちぐはぐなことしか言えないのに視界だけは一丁前に滲ませるから、自分が情けなく思えてならない。安室さんは、呆れただろうか。

 せめて涙だけは気付かれないようにと相変わらず目は伏せたまま、その後も必死に言葉をかき集めてみるものの、どうもうまく伝えることが出来ない。しばらく頭に浮かんだことをひたすら羅列した後、力なくうな垂れるように沈黙した。

「……そうですか」

 随分重いトーンで、彼は言った。そして少し間を置いて、長ったらしい説明を的確にまとめ上げる。

「つまり1ヶ月程前から、仕事終わりから家へ帰られるまでの間、誰かに付きまとい行為をされている、ということですね?」

 心臓が大きく飛び跳ねた。つきまとい。付きまとい? ストンと落ちてきた単語に、「なるほどそう言えば良かったのか」とどこか冷静に納得したと同時に、背中にじわりと汗を掻いた。徐々に上がってくる心拍数に小さく頷くのに精一杯で、まともな返事すらすることもできない。

「で、でも、もしかしたら単なる気のせいかもしれないし、そもそも証拠もないから警察にも行けないし、でもやっぱりこわくて。私、どうしたらいいのか……。──って、友達が今! 悩んでて!」

 咄嗟に口をついて出てきたのは嘘だった。こんなに親切に「話を聞く」と言ってくれた人に、誤魔化す必要なんてきっとないというのに。かろうじて残されていた良心が、巻き込んではいけないとストッパーを掛けたのかもしれない。あまりにプライベートなことをさらけ出すのが恥ずかしかったのかもしれない。しかしそれ以上に、「そんなのあなたの気のせいでしょう」と思われるのが、否定されるのが、ひどく怖かった。それだけだった。

「……お友達が?」

 そうだったんですかと受け入れているようで、しかしやはり納得がいかないようなにおいを残した曖昧な疑問形を出してきた安室さんは、片眉を上げている。私は必死に頷いた。

「そう、“お友達”が。で、こういうのって、探偵の方に何か調査を依頼できるものなのかなって思って。それでええと、安室さんに」

 ついに「自分のことなんです」と暴露することを放棄して誤魔化すと、安室さんはそこを深く追及することなく、少し考えるように視線を上にやった。

「そうですね。まあ、その手の依頼はよく来ますが……」
「(よく来るんだ……)」

 私と同じようなことで悩んでいる人が実は多いということになるので驚きだけれど、安室さんもこういう案件に慣れているのならば、対処法にも詳しいのかもしれない。彼が探偵であるというぼんやりとした外面情報しかない私には彼が普段どのような依頼をこなしているのかちっとも想像できないけれど、そういえば彼の車はRX-7──燃費がすこぶる悪い──だし、ちょくちょくメンテナンスにも出せるくらいだから、お金に困らない程度には商売として成り立っているということなのだろうか。ということはある程度、と言ったら失礼だけれど、実績があるのかもしれない。

「警察へ行こうにも、彼らは具体的な証拠が無ければ基本的には動きませんからね。だから犯人が誰なのか調べてほしいとか、その間何も起こらないように身辺警護してほしいとか、大体はそういう依頼内容になることが多いです」
「えっ? 探偵って、警護までするんですか?」

 予想外の情報に思わず聞き返すと、安室さんは「調査中に何か起こっては困りますから」と何でもない顔で言う。確かに依頼する側からしたらそうしてもらえたほうが助かるし安心はするけれど、する側の苦労は一体どれだけ膨れ上がることだろう。もしもどこかの探偵に調査を依頼したとしても、身辺警護までしてもらうのはなんだか申し訳ない気がする。

 そもそも今まで彼に依頼をしてきた人達は明確に「被害に遭っていた」という確証があるので、もしかしたら勘違いかもしれないという可能性を僅かながらでも残している私とは違うのだ。いや、勘違いではない。絶対に勘違いではない……と、思うのだけれど、具体的にどの辺りがと言われると何も言えなくなってしまう。証拠なんて、何ひとつ存在しなかった。ただ私が1人、怯えているだけなのだ。

 やっぱり、様子を見たほうがいいのかもしれない。ぼんやりとそう考えていると、まるでそれを見透かしたかのようなタイミングで安室さんは補足した。

「しかし、あくまでも僕は探偵であって警察ではありません。つまり、調べることは出来ても、それ以上のことは出来ないんです。だから調査結果を証拠に警察へ行くか、弁護士の元へ行くか、それは依頼人によって様々です」
「なるほど……」
「ただ自己判断でそのままにしているより、不安材料は早く知っておいた方が得策かと。結果的に勘違いならそれでよし。ただ、万が一ということもある。……あまり不安を煽るようなことは言いたくはありませんが、例え今は直接危害を加えて来ていないとしても、今後もそうならないという可能性も確証もない」
「………………」

 あまりに安室さんの言葉が正論すぎて、私は何も言えなくなってしまった。急に空気を重たく感じて、息をするのが苦しい。テーブルの下で、爪を立てて左手の甲を掴んだ。

 最近、自分の家すら安心して過ごせなくなってしまった。留守の間に誰かに入られているんじゃないかとドアを開く手はいつも震える。もしかしたら寝ているときにも部屋に入って来るのではないかと考えて、ろくに眠れない。昼も閉めきっぱなしのカーテンを最後に開けたのはいつのことだろう? 小さな物音にも怯えるようになった自分に、ひどく嫌気が差していた。

 これがもっとひどくなるの? 私、もっと怖い思いをしなきゃいけないの? またじわりと視界が滲んだ。

「──よろしければ、僕が調査しましょうか?」
「えっ?」

 突然の提案に耳を疑っていると、安室さんは何でもないと言わんばかりの顔でけろりと言ってのけた。

「勿論女性同士のほうが安心できるとは思いますが、なかなか女性の探偵は少ないですし、こう言ってはなんですが、もし犯人が強行手段に出た場合、危険かもしれません」
「それは確かにそう、ですが……」
「あ。僕じゃ頼りないって思ってます? こう見えてボクシングの心得はあるので、腕には自信がありますよ」
「(意外すぎる特技……)」

 でも確かに、じゃあ他の人に頼むとしても誰がいいのか皆目見当もつかない。世の探偵がどんな人かも分からないし、そういう意味では安室さんは気が知れているから安心出来るのは間違いない。一度は自分のことではないと誤魔化してしまったけれど、事情を説明すれば分かってもらえそうな気がする。

 しかし冷静になって考えてみると、やはりお客さんに調査を依頼するというのはどうなのだろう。調査の過程で色々とプライベートなことも包み隠さず話さなくてはならなくなるだろうし、今後顔を合わせるのが気まずくなりそうだ。でもこのまま放置するのも気味が悪い。それに安室さんの言うとおり何かあったら……。

 そして何より、他にひとつ不安要素がある。

「(……依頼料、一体いくらくらいなんだろう?)」

 安心に替えられるものはないし、お金の問題ではないとはいえ、やはり大事なところだと思う。そもそもこういうことは初めてだから、相場が全く分からない。つまり、高いのか安いのかの判断もできない。そこにつけ込まれて、吹っかけられたらどうしよう。いや、安室さんはそんな人ではないと思うけど……。今一人暮らしをしている私には、正直な所懐にそこまでの余裕はない。

 本格的に悩み始めた私に、安室さんは何かを察したように小さく笑う。

「依頼料なら無償で構いませんよ、さんなら。そういえば先日も、おいしいお菓子をお裾分けして頂きましたしね。期間限定の貴重品ということでしたし、そのお礼ということで」
「えっ!? いやあの、そういうわけには! それに今のは、私じゃなくて友達の……」
「ああ、そうでしたね。お友達のご相談、でした」

 思い出したように付け足されたけれど、そう爽やかに言われると全てお見通しですよと言われているような気がして、どうも頬が引き攣ってうまく笑えなくなってしまう。下手な誤魔化しは彼には通用しないのだろうか。またゆっくりと視線を落とし、膝の上で固く握りしめていた手をじっと見つめる。爪を立てていたせいで、左の内側に跡が残っていた。

 ──誤魔化さず打ち明けて、ちゃんと調査を依頼してみようか。

 どうしてなんて聞かれても困るけれど、安室さんなら、この現状の全てを明確にしてくれるような気がした。なんでも見抜いてくれる期待が少しずつ膨れ上がっていく。とにかく得体の知れない何かから解放されたかった。だけど、知りたいけれど知りたくない。正体を知ってしまったら最後、現実として受け入れなくてはならない気がして、もっと怖い思いをしてしまうような気がして。じわりと視界がうるんだ。

「……あの、ちょっと考えても、いいですか……」
「もちろんですよ。では連絡先を渡しておきます。僕で良ければ相談だけでも乗りますから、気軽に連絡してください。ただ本当に、こういうことは早く手を打つに越したことはないです。お友達にもそうお伝えください」

 何故だか声が出なかった。力なく頷くことに精一杯で、優しい声に返すお礼の言葉ひとつ生み出すことができない。安室さんは気に留めることなく「何か書くものはありますか」と声を掛けてくるから、すぐにポロシャツの胸元のあるポケットからボールペンを取り出したものの、肝心の紙がない。慌てて腰を上げて本来座っているべき事務の机へと戻ると横の引き出しの一番上を開け、白いメモ帳を手にする。そのまま小走りで安室さんの元へ戻り差し出すと、それら2点を受け取った彼は、礼を言って何かの数字を書き始めた。一体、なんだろう?

 立ったままじっと彼の手元を見つめ、3つの数字が並んでようやく気が付いた。電話番号だ。そのまま8個の数字を書き足して終了かと思ったら、その下に今度は小文字のアルファベットを羅列し始めた。どうやらこちらはメールアドレスらしい。

「(……綺麗な指してる。手の甲も綺麗だなあ)」

 ボールペンを握る安室さんの手を見ながら、そんな的外れなことを頭の隅でぼんやりと考える。ペンが止まるのを隣でじっと待ちながら、こっそり視線を上げて彼の顔を盗み見た。こちらからの視線に気付く素振りすら見せずただ真っ直ぐに自分の手元を見つめている。

 安室さんは、話を聞いてどう思ったのだろう? この手の依頼はよくあると言っていたけれど、私はこんなこと初めての経験だったから、少し気になった。

「──さん!」

 まるで強風にさらわれたように乱暴にドアが開いたのとほぼ同時に、私を呼ぶ声が耳に飛び込んで来た。思わず肩を震わせてしまう。振り向くと、そこには見慣れた常連のお客様である中年男性が随分顔を強張らせて一人立っていた。……どうして彼がここに?

 その来客者の距離を縮めながら、彼が今日点検の予約は入っていなかったことを思い出す。それとも急な修理が入ったのだろうか。

「お久しぶりです。どうされたんですか? 今日何か点検でしたっけ?」

 素直にそう尋ねると小林さんは「えっ? ああ……」と少し目を逸らした後、「この間伊豆に行って来たから、そのお土産。大したものじゃないけど、よかったら皆さんで」と言って左手を差し出してきた。そこには伊豆高原と青い文字が入ったと書いたビニール袋が握られている。

「えっ。もしかして、わざわざこれを届けに?」
「いや。用事があってドライブしていたものだから、そのついでに」
「そうだったんですか。気を遣っていただいてすみません。ありがとうございます」

 袋を受け取った際それとなく袋の中身を見てみると、ぱっと目に引く黄色い包装紙で梱包された箱と、薄いピンク色の何かが20枚前後詰められた透明なビニール袋がひとつずつ入っている。どうやら後者は桜海老の煎餅らしい。思わず「えっ、二種類も」と溢してしまうと、彼は「大したものはないから」と言って先程まで荷物を持っていた手を左右に振って否定した。

「それに、甘いものとしょっぱいもの両方あった方がいいかと思って」
「なんだかすみません」
「いやいや。ここにはいつもお世話になってるから。……ああ、でもお菓子は食事のうちに入らないから、1人で自炊は大変でも、ちゃんと主食を食べてね」

 そう言って豪快に笑い飛ばしてくれるけれど、お客様にここまでして頂くのは申し訳ない気がしてどうにも気が引ける。だけど現場のスタッフ達は喜びそうだなとぼんやりと頭の隅で考えていると、ふと椅子を引く音がして振り返る。どうやら安室さんが席を立とうとしているようだ。もしかしたら完全に蚊帳の外だったから、居心地の悪さを感じてしまったのかもしれない。どうしよう、紹介した方がいいんだろうかと2人の顔を見比べていると、安室さんはいつもの人懐こい笑顔を浮かべながら、「ではさん、僕はこれで」としれっと言ってのけた。

「……え?」
「メモ帳、ありがとうございました!」

 そう言って何も書いてない真っ白なそれとボールペンを差し出す。……さっき書いていた連絡先は、くれないのだろうか? もしかして、面倒だからやめたとかそういう展開なのだろうか。動揺しながらも、しかし差し出されたメモ帳を両手で受け取ると、手の平に触れる直前にメモ帳の一番下から何かが滑り込まされた。随分と小さいサイズなのは、きっと折り畳まれているからなのだろう。

「(あっ!)」

 私の手の平とメモ帳にサンドされたこれが何なのか見ずとも瞬時に把握した私は、安室さんの顔を見上げる。彼はまたにこりと笑って見せた後、宣言通りに事務所を去ってしまった。外に出てすぐ左に行ったから、おそらく整備場に向かったのだろう。じっとその後ろ姿を見送っていると、「あ、あのう」と眉をハの字にさせた小林さんが、心底申し訳なさそうに首の後ろを掻いている。

「ご、ごめん。もしかしなくても、邪魔しちゃったよね……?」

 その台詞に、「そんなんじゃないので大丈夫ですよ」と張り付けた笑顔で答えるしかなかった。


20181102