我が家に着いたと言うのに、心拍数は治まることを知らない。むしろ加速しているかのように思える。

 ──どうしよう、どうしよう。

 玄関のドアノブに引っ掛けられていた紙袋とその中に入れられていたタッパー、そしてメッセージカードに、私はひどく動揺していた。帰り道何かあってもすぐに電話を掛けられるように両手で握りしめていたスマートフォンの存在にようやく気付き、震える指で通話画面を開く。よく分からないけど、こういうときは警察に連絡すればいいのだろうか。だけどどうしたことか、肝心の番号が分からない。119は確か違う。じゃあ177……それも違う。警察だから“けいさつ”で、けい、K……だめだ、語呂合わせの番号でもない。

 どうしよう、何か連絡出来る電話番号はないだろうか。頭の中がごちゃごちゃに散乱している中、唐突に思い出したのは“彼”の言葉だった。落ち着きのない手で鞄の中を漁り、手帳を開く。そこに挟まれた11桁の数字が掛かれた紙を見つけると、すがる思いでその番号をスマートフォンに打ち込んだ。見返すより先に緑色の通話ボタンを押して耳に当て、呼び出し音を聞く。きょろきょろとせわしなく辺りを見回しながら、どうか出てくれと願うしかない。どうしてだろう、やけにコールが長く感じる。お願いお願いと繰り返し念じていると、唐突にコール音が途切れた。

「──はい、安室です」

 その声に、思わず泣きそうになってしまった。真っ先に名乗って突然電話したことを謝って、それから状況を説明しようと思っていたはずなのに、どうしたことか言葉が出てこない。確かに声を発しようと口を開けたまま、しかし明確な音は生み出すことが出来なかった。

「あ、あの。……わ、私……」

 これでは悪戯電話だ。だけど何を言ったらいいのか分からなくて文章という文章が口から出てこない。せめてであることを彼に伝えなければと思えば思うほど、すっかり絡まってしまった糸はそう簡単にほどけてはくれなかった。このままの状態が続けば、もしかしたらこの通話も切られてしまうかもしれない。それだけは避けたいという一心でぎこちなく口を動かしてみるものの一向に出てこない音に、遂に私は俯いて黙り込んでしまった。

「……もしかして、さんですか?」

 一度も名乗れなかったというのに、電話口の主は名推理を披露した。なぜ分かったのだろう。だけど分かってくれたことが嬉しくて、込み上げてくる何かをぐっと堪えながらひたすらに頷いた。電話を通しているのだから声にしなければ安室さんには伝わらないと言うのに。だから言わなくてはならない。「そうです」と、彼に答えなくてならない。なのにどうしてそんな簡単なことすら出来ない。

 しかし安室さんは間違いなく発信者が私であることを確信したらしい。明らかに普段と違う反応から「何があったんですか?」と尋ねる。“何か”ではなく“何が”と言っている辺り、この人には私の身に何かが起こったことなんてお見通しなのだろう。ぎゅっとスマートフォンを握りしめ、震える声で言った。

「……あ、安室さん。あの。……た、たすけて……」

 か細く絞り出された声はちゃんと電波に拾い上げられたのか、彼の耳に正しく届いたのか、それを私が知ることは怪しい。彼の洞察力に甘えて名乗らず、状況すら説明出来ない。そんな状態でただ助けを求めても、彼を困惑させるだけなのは分かりきっていた。

「すぐに行きます。今、どちらに?」

 迷うことなく即答した安室さんに、ついに涙が零れてしまった。だけどそのままでは彼は何もすることが出来ない。思いついたままに事の経緯(いきさつ)を話した。

 今自宅アパートの玄関前にいること。そのドアノブに、誰かが作ったのであろう煮物が紙袋に入って吊るされていたこと。好意を寄せてある旨が手書きで記されたメッセージカードが同封されていたこと。今日もまた帰路の途中に人の気配を感じたこと。走ったらその人物も同様に追いかけて来たので、これは決して気のせいでないこと。全ての部屋にポスティングされている広告チラシも、いつも私の郵便受けだけ抜き去られていること。

 順序も文法も整列されずただ頭に浮かんだ事実だけをぐちゃぐちゃに混ぜてしまったものの、安室さんは「それじゃ分かりません」なんて突き放さず、ただただ相槌を打って聞いてくれた。

 通話は切らないでそのままにしておくことだけを言い聞かせて来た彼に頷いて、ドアの前で安室さんの到着を待つしかない。せわしなく辺りを見回し、誰もいないことを常に確認していないと落ち着いてなどいられなかった。2階建ての小さなアパートは住人のほとんどが日中働きに出ており、19時も回っていない今の時間帯では人がいないことの方が多い。1階の角部屋に住む大家さんはしばらく旅行で留守にすると言っていたし、待つ間、誰かの部屋に入れてもらうことも出来なかった。

「では、今は一人暮らしされてるんですね」

 スマートフォンから聞こえる安室さんからの言葉に「一応……」と弱々しく答えたのは、胸を張って誇れるほど毎日きちんと三食自炊をしていないからだった。朝ごはんは手軽にパンだし、お昼は基本朝適当に握ってきたおにぎりだけだし、夕飯は最悪納豆と冷奴とインスタントみそ汁で済ませている。SNS映えしそうな彩り豊かなでおしゃれな食事など作ったことがなかった。“とりあえずちゃんと食べてれば上出来“という明らかにレベルの低いハードル設定をしている私には、一人暮らしを始めて早2年になる今でも、誰かに誇れるほど大層なものは作れない。だけどそれが、私の有り触れた日常だった。そう思っていたのに。

 もしかして今、とんでもないことになっていたりするのだろうか。今まで“そんなもの”とは無縁の生活を送ってきたと思っていたけれど、それが原因で殺人が起こっているのを何度かニュースで見たことある。もしかしたら自分の身にも起こりうることなのかもしれないと実感したら、急に背中が冷えてしまった。

 安室さんがやって来たのは、それから15分後のことだった。ずっと沈黙することなくひたすら私に声を掛け続けてくれた彼の顔を見た瞬間、全身の力が抜けて崩れ落ちてしまった。しゃがみ込んでしまう私の元まですぐに駆け寄った彼は、部屋には怖くて入りたくないという想いを、口にせずとも察してくれたのだろうか。彼は例の紙袋を持って、私をアパート近くに停めていた愛車へと案内した。助手席に腰を沈めて暫く経った後、私は俯きながらついに口を開く。

「……す、すみません。事務所では咄嗟に“友達のこと”だなんて言っちゃったけど、あの話、本当は私のことだったんです」
「はい」
「……すみません……」
「いえ。でも御無事で何よりです。僕も遅くなってすみません。ずっと1人で怖かったですね」

 首を横に振ってみたものの、温かい声が心にしみ込んで思わず泣きそうになる。ぎゅっと奥歯を噛みしめながら、彼の声を聞いていた。安室さんは慎重に言葉を選びながら、ゆっくりとした口調で尋ねる。

 どれくらいの頻度で起こっていることなのか。このことを知っている人はいるのか。相手に心当たりはあるのか。自分が一人暮らしを知っている人はどれくらいいるのか。どれも基本的な情報であることに間違いないのに、出来ることなら詳細まで話すべきだと言うのに、なぜか私は短い単語でしか口にすることができず、満足に答えることができない。しかし安室さんはそれに対して咎めることもせず、質問を替えて尋ねながら、時よりメッセージカードを見つめていた。ボールペンで書いたらしいその文字は、少し擦れているせいかインクで汚れている。

「失礼ですが、今恋人は? 以前付き合っていた方とトラブルになったり、一方的に好意を持たれた相手はいますか?」

 自分の恋愛事情をさらけ出すのは友人の中でもごく限られた子に対してだけだから、状況が違うとはいえ、お客さんである安室さんにこんな話をする日が来ようとは夢にも思わなかった。

「……い、今付き合ってる人は、いなくて。前に付き合ってた人とも特に……そういうことには。好意を持たれた人とかは、ちょっと分からないです……」
「そうですか」

 安室さんはそう言って顎に手を当て考え込む仕草を見せると、思い出したように話題を替えてきた。

「そういえば、昼間お土産を持って来られた方は?」
「……え?」

 突然話が逸れたために頭がついていけずタイムロスが発生してしまった私に、安室さんは「ほら、事務所でさんとお話していたときに来客した」と説明する。その補足にようやく何のことを差していたのか理解できた私は、「ああ、小林さんのことですか?」と尋ねる。もしかしたら私の緊張をほぐそうと、他愛のない世間話でリラックスさせようとしているのかもしれない。

「小林さんとおっしゃるんですね」
「は、はい。安室さんと同じ、うちのお得意さんです」
「今日はお土産だけ渡しにいらしたようですが、こういうこと、よくあるんですか?」
「わ、割と……? ドライブがすきで、あちこち行かれてるみたいです。整備士の方とも仲が良くてよく話をするらしいから、お土産を持って行かなきゃ気まずいって思われてるのかもしれません」
さんとも親しいんですね。一人暮らしであることもご存じだったようですし」

 “親しい”という表現に違和感を覚えた。確かにお客さんで私が1人で暮らしていることを知っている人は数少ないけれど、そこまで言うほど仲は良くはないのだ。

「いえ、あの、小林さんとは顔を合わせば話す程度で、特別にはそんな……。前に自炊がなかなか出来ないって話をしたから、気にしてくれてたのかも……」
「そうですか」
「……それが、何か……?」
「いえ、なんでも。几帳面な方だなと思いまして」

 なんだか含みのあるような言い方に感じたものの、特に確証もない状態では私の勘違いかもしれない。はあ、と曖昧な相槌を打つ私に安室さんは、それでは本題に戻りますがと前振りした。その言葉に、まるで自分を引き締めるように自身の手をぎゅっと握りしめる。

「これまでの話の流れから言って、全て同一人物によるものと考えていいと思います。それで念のため確認なのですが、その相手を特定したとき、あなたはどうしたいですか?」
「ど、どう、とは……」

 具体的なものが分からず返答に戸惑っていると、安室さんは具体例を挙げて分かりやすく説明をした。

「警察へ行ってその人物に灸を添えてもらいたいのか、慰謝料を請求したいのか、それとも誰の仕業か分かれば十分なのか」

 昼間聞いた内容とほぼ同じことを言われているはずなのに、なんだか急に現実的な話になったような気がした。いや、今起こっていることも全て現実なのだけれど、慰謝料という生々しい単語が急に浮上してきた手前、どうにも萎縮してしまう。そもそも安室さんは、何故こんなことを聞くのだろう。探偵は調べることしか出来ないと言っていたのに。

「ど、どうしたいっていうのは、うまく言えないんですけど。どうしてこんなことをするのか、が、一番知りたくて。それであの、私はただ今まで通り、普通に生活したいだけなんです。だから、あの、警察とか慰謝料とかじゃなくて、なんていうか、やめてもらえたら、それで……」
「分かりました。……すみません、意地の悪い言い方をしましたね」

 優しい笑みを見せた後、安室さんは黙り込んでルームミラーを見た。何かを気にしているように見えるけれど、私の気のせいかもしれない。

「では、行きましょうか」
「え? ど、どこに……?」

 今の話の流れから察することは今の私には出来なかった。もしかして私が見逃していただけで、何かキーワードになるような場所が出て来ていたのだろうか。ただ安室さんを見つめることしか出来ない私に、彼は正解を口にする。

「あなたの部屋です。中に犯人がいるんじゃないかと心配してるんでしょう? そうじゃなくても中に侵入されたんじゃないかと気がかりなはずだ。部屋に男を入れたくないかもしれませんが、一度一緒に確認しましょう」

 ね。そう小さな子をなだめるように言った安室さんに、「でも」と小さく呟いて視線を落とした。手を握る力がどんどん強くなっていく。もし、もし何か起こったらどうしよう。誰かが入った形跡があったらどうすればいい。不安要素だけが尽きることなく次々と浮上しては頭の中を占領していく私の心情を察したのか、安室さんは「大丈夫ですよ」と自信を滲ませた声で言う。

「僕がお守りしますから、安心してください」

 その言葉にようやく顔を上げると、真っ直ぐな瞳が私を射抜いていた。ああ、この人は口から出まかせを言っているのではなく、本当にそうする自信と覚悟を持って言ってくれている人だ。そう直感した。

 じゃあ、よろしくお願いします。そう返すはずだったのに、喉の奥が締め付けられて声が出なくなってしまった。出て来るのは震える声ばかりで、ちっとも何を言いたいのか分からない。胸も何かに掴まれたように苦しい。目も随分熱くなってしまった。涙を必死に堪えながら頷いた。安室さんの声はいつも優しくて、思わずすがりたくなる。

「それと、車を出たら失礼な発言や振る舞いをしますが、理由は後でお話しますし謝罪もします。だから、さんは全力で嫌がって話を進めてください」
「え?」

 全力で嫌がって話を進めるとは、日本語が崩壊していないだろうか。しかし安室さんは真面目な顔をしているからそんな疑問は飲み込むしかない。とりあえず安室さんのいう“話の進め方”は分からないけれど、何かを嫌がる素振りを見せればいいらしい。頑張りますとぎこちなく頷く私に、安室さんはにこやかに微笑む。

「全力で、お願いしますね」

 釘を刺すようにそう繰り返した彼に、どうやらそこが重要らしいと流石の私も理解した。今度は力強く返事をすると、安室さんは「じゃあ行きましょうか」と車を降りた。私もそれに続き、慌ててドアに手を掛け外に出る。もう3月の半ばだと言うのに、18時を過ぎるとすっかり空は暮れている。切れかけの街灯の光だけが唯一の照らし所となっていた。

さん、こちらへ」

 手招きする安室さんの隣へと駆け寄ると、突然私の左手首を掴まれた。度肝を抜かれ、困惑のまま彼を見上げる。

「あ、あの、安室さん?」
「今日は泊まって行きますね」
「え? どちらにですか?」
「あなたの部屋に決まってるじゃないですか」
「え!? えっ、ちょっと……。あ、安室さん!?」

 突然の展開に明らかに声を裏返した私は、何かの聞き間違いか何かかと疑うけれど、彼はにこやかに微笑んではそれを否定する。確かに部屋の安全確認をすると言ってくれてはいたけれど、まさかそういう意味とは夢にも思わなかった。子どものお泊り会ではないのだから、流石に大の大人である男女が同じ部屋で寝ると言うのは。その後のことを連想して顔を熱くする私をよそに、彼は掴んだ腕を引っ張ってアパートへと向かう。

「ちょ、ちょっと」
「何が起こるか分からないご時世ですし、四六時中一緒にいないと危ないですよ」
「で、でもそんな。だ、大丈夫ですから!」
「そんな遠慮なさらずに。ああそうだ、勿論お風呂も一緒に入りましょうね」
「ええっ!?」

 そんな、私は安室さんとそういう関係では。確かに裸の付き合いというのは日本の古くからの風習だか習慣だかと聞くけれど、私は女で安室さんは男でつまり一緒に入浴すると言うのには少し意味が違ってくると言うことで、だって銭湯に行くとしてもお互い違う色の暖簾(のれん)をくぐる訳で。ぐるぐると回る頭の中は完全にショートした。

「う、うち、極狭のユニットバスなんで、2人も入らないです!」

 そう言い放ってから気が付いた。……そっちじゃない! お陰で一瞬きょとんとした安室さんと視線がぶつかった。そして彼は楽しそうにケタケタと笑う。私は一体、何を言っているのだろう。ますます顔が熱くなった。

「大丈夫。とりあえずくっついて入ればどうにかなりますよ」
「ええっ!?」

 うっかりそのくっついている場面とやらを想像して、軽率に爆発してしまうかと思った。そうこうしているうちに彼は腕を開放してきたかと思ったら、今度は肩を抱いては強引に自分の体の方へ引き寄せる。

「あ、あの安室さん。どうしちゃったんですか、急に……?」
「どうしたも何も、怖くて眠れないと言ったのはあなたでしょう?」

 どうしよう、そんなこと言った記憶がないのだけれど。

「大丈夫ですよ、ベッドの中でも一緒にいますから。そうだ。いっそ、眠れないのなら朝まで僕に付き合ってください。何度でも満足させてみせますから」
「ひ!?」

 遂に生々しい映像が脳内を駆け巡ってしまった。みるみるうちに体温は急上昇していく。心臓も騒がしい。普段ならこんなことを言うような人ではないのに、一体安室さんは何を考えているのだろう。それが分からなかったものの、彼と目が合った瞬間、車内で言った彼の言葉を思い出す。全力で嫌がってくれという言葉の真意は分からないけれど、もしかして、それが今ということなのだろうか。演技力に自信はないけれど、もしもタイミングが違っていたとしても、今拒否しなければ自分の身が危ないことには変わりない。ぎゅっと目を瞑って、声が出る限り叫んだ。

「やっ!ちょっと……。ほ、本当に困りますっ!」
「──あんた、何をやってるんだ!」
「えっ……」

 突然聞こえてきた怒鳴り声に振り向くと、足を肩幅まで開き、歯を強く食いしばった男性が1人立っていた。心なしか随分と息が荒い彼は、つい数時間前に事務所で顔を合わせた小林さんだった。一体なぜこんなところにいるのだろう。家が近所だなんて聞いたことがない。そもそも近くにはスーパーも何もないから、用が無ければこんな所に立ち寄らないはずだ。急に冷静になった頭は、やけに状況を分析している。

「何、とは?」
「彼女が嫌がってるじゃないか! やめなさい!」

 平然とした彼に尋ねる安室さんとは対照的に、小林さんは声を荒げている。突然始まった展開に、私は口を挟むことすら出来ず交互に彼らの顔を見つめていた。

「別に彼女も、本気で嫌がっている訳ではありませんよ。恥ずかしがり屋だから、照れているだけです。いつものことですよ。それに食べる物がないと言うから、一緒に夕食を作ろうかと。そしたら帰るのも遅くなってしまうし、ほら、泊まった方が楽でしょう?」
「そ、その必要はない!」
「何故ですか?」
「だ、だって……。ほ、ほら! 食料なら、君が今持ってるその煮物があるじゃないか!」
「よくこれが煮物だなんて分かりましたね。紙袋に入っていて、外からは中身が見えないのに」
「あっ……」

 急に血の気が引いたように青ざめた小林さんは、急に勢いを失って何も言わなくなってしまった。懸命に何か言葉を選んでいるのか口籠り、しかしそのまま声にすることは叶わず俯く。その姿を見てひとつの仮説が浮かんだ私は、「もしかして」と震える声で切り出した。

「えっ。こ、小林さんだったんですか……?」

 “何が”と明確に言わなかったのに彼が明らかに目を泳がせた瞬間、それは確信へと変わった。

「もしかしてここ最近帰り道をつけてきたり、ポストに投函されてた物を捨てていたのも……?」
「だ、だって、ちゃんが心配で……」

 肯定されたことよりも、初めて耳にした自分への呼称に背筋が凍りついた気がした。自分の手を胸の前でぎゅっと握りしめる。まるで現実じゃないみたいだ。自分の目の前に映る映像や聞こえる声が本物なのか分からなくなる。まるで夢でも見ているかのようにふらついてしまいそうになるのを安室さんの腕が支えた。だから私は今、かろうじて立てている。

「ポスティングされてるのを捨てるのが面倒だと前に言っていたから、じゃあ最初から無ければ手を煩わせることもないし、いいんじゃないかと思って……。も、勿論配達された郵便は一切捨ててない! 送り主や中身も見てもいないし、触ってもいない! それは本当だ、信じてくれ!」

 そう力強くと言われても、例え不要だった広告とは言え、人の物を勝手に捨てる人に信用なんて出来るはずがない。その証言は、自分の行為を肯定するものにしか聞こえなかった。もう彼の目を見ることが怖くて、安室さんに胸元にすがるように視線を逸らす。

「……1ヶ月前からだと聞きましたが」

 私の代わりに理由を尋ねる安室さんは冷静そのもので、もしかしたら一番この状況を客観的に見ているのかもしれない。小林さんも逆上することなく、うな垂れるように口を開いた。

「……前から、可愛い子だなって思ってて、でも歳が一回り以上違うから、絶対相手にされないだろうっていうのは流石に分かってたんだ。そしたらこの間のバレンタインでハート型のクッキーをもらえたから、もしかして自分にも可能性があるんじゃないかって思って、それで……」

 1ヶ月前のバレンタイン、確かに私はお菓子を用意した。一人暮らしを始めてから愛用していたレンジが2年目にして早くも壊れ困り果てていたところに、長年家電量販店のポイントを貯め込んでいたことを思い出したのだ。それをフル活用して新しい物を購入したのが嬉しくて、どうせなら何か作ってみるかと意気揚々とクッキーを焼き、まあバレンタインだし職場にでも持って行くかなとあのときの私は呑気に考えたのだ。そういえば、ハート型にかたどった物もあったような気がする。勿論それを選んだのは“見た目がかわいいから”ということ以外に理由はなかった。つまり彼に渡したのはいわゆる義理チョコのうちのひとつだった。

「で、でもあれ、他のスタッフやお客さんにも渡して……」
「俺みたいな人間は、そういうイベントに慣れていないんだ! 義理だって言われても、つい本気にしちゃうものなんだよ!」

 大声に分かりやすく肩を震わせてしまった。圧倒され、半泣きになりながら「す、すみません……!」と謝罪すると、小林さんは我に返ったように「あっ! いや、決して恐縮させたかったわけじゃないんだすみません!」と早口に返す。遂にお互い黙り込んでいると、安室さんは話を戻すように「それで、彼女の後をつけるようになったんですか?」と話題を修正した。

「ああ。……貰えたことが、本当に嬉しくて。……最初は、本当に偶然だったんだ。あの整備工場から帰ろうと車を走らせてたら、たまたま帰っていく彼女を見かけて…。イヤホンして歩いてたから危ないなと思って、家に着くまで様子を伺ってたんだ。一人暮らしだってことは聞いてたし、心配で……。春先は不審者が増えるっていうし、彼氏もいないみたいだったから……。でも……」

 言葉に詰まらせ台詞が途切れたことを不審に思いそっと顔を向けてみると、彼は大粒の涙をぼろぼろと流している。予想外の展開についていけなかった。今この場で泣きたいのは、いや、泣くべきなのは他でもない自分であるとばかり思っていたのに、なぜ彼が泣いているのだろう。

「彼氏ができたならできたって、ちゃんとそう言ってくれれば……っ」

 えっ。と、思った。もしかしてこれは、私に全て原因があるのだろうか。私が勘違いをさせるような振る舞いをしなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。現に彼は、これまでの行為を悔いているように泣いてしまっている。もう唖然とするしかなかった。

「でも、今日で分かった。ずっと喜んでほしくてやっていたことだけれど、俺は君を怖がらせていただけなんだって。別に、こんな顔させたかったわけじゃない。……だから俺はもう二度と、あなたの前には現れません……」

 涙ながらに深々と頭を下げられた後は、正直あまり覚えていない。ただぼんやりとする頭で何かを思った気がするのだけれど、それを具体的に言葉にすることは出来なかった。ただ安室さんが何かを言っていたものの、耳から抜けていくばかりで頭に届くことはなかった。まるで私だけが世界に取り残されたみたい。時間が止まっているみたい。

 気が付けば私は、先程乗ったばかりの白いRX-7の中にいた。確か安室さんが「少しだけ車で待っててください」と言っていたような記憶がうっすらとあるけれど、もう今となっては分からない。助手席に座ってこそいるものの、しかし運転席に安室さんの姿はなかった。「待っててくれ」と言ったように、彼は今当事者である人物と2人だけで何か話している。少し離れた車内の中にいる私は、読心術など習得していないから、彼らが何を話しているのかさっぱり分からなかった。

 何を考えるでもなくただぼんやりと2人を眺めてみるものの、特に安室さんはこちらに背を向けるように立っているから様子が伺うことが出来ない。蛍光灯がない薄暗いところでやりとりをいているからなおさらだ。小林さんの表情すら確認することが出来ない。暫くして小林さんはうな垂れながら背を向けた。そして実は近くに停めていたらしい車に乗り込み大通り方面へとゆっくりと去って行く。残された安室さんはそれを見送るようにじっと見つめていた。

 ……あの人、帰るのか。

 だからどうということもないけれど、そっか。そうなのか。行っちゃうのか。別にいてほしいとは思っていないけれど、そうか。別に、いいけれど。……だめだ、やっぱりまだ頭の中の整理が出来ない。ただ、視線を安室さんに戻してみても彼は特に呆気に取られているような素振りは見せていないから、もしかしたらこの場を去ることを彼が促したのかもしれない。

 そうこうしているうちに、安室さんは自分の愛車の元へとやって来た。てっきり助手席にいる私を呼びに来たのかと思ったけれど、彼は迷うことなく運転席側のドアを開け、ゆっくりと腰を落とす。それから彼は、何も言わない。車のエンジンすら掛けない。何を考えるでもなくただぼうっと安室さんの横顔を見ていると、ふと彼も私の目を捕える。その瞬間、私の中の何かが崩壊した。

 右目からぽろっと一粒雫が零れたのを皮切りに、まるでその後を追うように次から次へと涙が溢れては、遂には嗚咽を漏らしてしまう。自分がなぜ泣いているのか、そんな単純な理由すら分からないから、これは簡単には止められない。怖かったのか、不安だったのか、全て終わって安心したのか。いろんな感情がごちゃ混ぜになって、言葉より先に涙が零れ落ちてしまったようだった。

「不安なときに一人にさせてすみません。それに失礼なことばかり言って、嫌な思いをさせましたね。ああでもしないと、彼は出て来ないと思ったので」

 違う、違うんです。私が泣いているのはそういうことじゃないんです。首を横に振るものの、肝心な言葉はやっぱり出て来てはくれなかった。口を手で押えているからだろうか。何も話せない私を察してか、安室さんは事の経緯を説明した。

「事務所であなたと話していたときから彼はずっと僕のことを睨んでいたので、きっとあなたに好意を持っているということはすぐに解りました。ここへ来る途中ですぐ近くに彼がいることは気付いていましたし、メッセージカードも文字が右へ擦れるようにインクが付いていたので、左利きの人間が書いたんでしょう。彼、左利きですよね? 事務所で土産を渡すときも、咄嗟に出た手の動作も、財布を入れていたズボンの後ろポケットも全て左。ついでに、料理が入った紙袋も伊豆のもの。……名前を書く度胸は無くとも、自分であることに気付いてほしかったのかもしれません」

 つまり安室さんは、最初から分かっていたのか。彼が私に好意を持っていたということも、何もかも。じゃあ、全て気付くことのできなかった私がいけなかったのだろうか。私が誤解させるようなことをしてしまったからなのだろうか。膝の上に置いていた自分の手をぎゅっと握りしめた。

「じゃ、じゃあ全部、わ、私のせい……」
「──あなたは悪くない」

 いつも最後まで話を聞いてくる安室さんが言葉を塞いだのは今日が初めてだった。はっきりと言い放つその声は、どこにも迷いや同情の音は存在しない。驚いて顔を上げると、安室さんは真っ直ぐな瞳で言った。

「厳しいことを言うようですが、それは向こうの勝手な言い分です。あなたに恋人がいようがいまいが、犯罪は犯罪です。例えばセクハラをする男性が、被害者の女性の服装やふるまいのせいにするのはおかしな話でしょう? 原因は被害者ではなく、加害者自身にある。そういうことです。だから、絶対にあなたのせいじゃない。あなたに落ち度や責任は何ひとつない」

 誰かに言ってほしかった台詞を全て言ってもらえただろうか。ますます溢れ出る涙は留まることを知らない。こんな泣いてばかりいては、安室さんが困ってしまう。早く泣き止まなくてはと思えば思うほど、どうしたことかますます勢いは増すばかりだ。せめて何か拭うものをと左手で口元を押さえつつ残った片手で鞄の中を漁ろうとするも、1本ではどうもうまくファスナーを開けることができない。背中を熱くしながら格闘していると、ふと横から差し出された布に手を止めた。ゆっくりとそれを持つ彼へと視線を流す。

「使ってないので、よかったらどうぞ」

 紺と緑のチェック柄を身に纏ったハンカチを差し出した安室さんは、あまり泣き顔を見ないようにと気を利かせてか、不自然に顔をこちらに向けていない。鼻をすすりながら、じっとそれを見つめた。

「……よ、よごれちゃいます……」
「大丈夫ですよ」
「で、でも」
「気にしないでください。今はあなたが泣いていること以上に優先すべきことはありませんから」

 その言葉にようやくハンカチを震える手で受け取ったけれど、しまったお礼を言うのを忘れていた。頭では分かっていても、口元にチェック柄のそれを押し当てたらまた溢れかえるもののせいで言葉にすることが叶わずに終わってしまった。目頭どころか、もう眼球そのものが熱い。背を丸めて声を殺しながらすすり泣き、震える喉で言った。

「…………あ、あの……」
「ん? なんです?」

 まるで子どもに接するように優しい声で返す安室さんに、また涙が溢れそうになってしまった。しかしそれではまた収拾がつかなくなるとハンカチで拭い、どことなく感じる気まずさから目を泳がせる。すっかり鼻声になった私は、涙に押されてつい早口に走りがちな舌に細心の注意を払いながら言った。

「……あ、あらって、かえします。はんかち……」

 すると安室さんは目をまん丸くした後、「律儀な人だ」と笑って言った。


20181102