……とおるくん、いつになくご機嫌だな。

 朝起きた頭で今日一番に思ったことは恋人のことだった。和食好きの彼に合わせて、朝食をいつものパンではなく和食にしたからだろうか。卵焼きを作っただけでやけに喜んでは腕が上がったとかおいしいと言ってひたすらに褒めちぎってきたし、挙句の果てには鮭の焼き具合や白米の柔らかさも絶妙とまで言って来たのだから相当だと思う。ついでに、おにぎりの握り加減まで言及されたのは生まれて初めてのことだった。

 以前から彼は私をとことん甘やかしてはどんなに小さなことでも褒めて伸ばしてくるタイプだったけれど、ここまであからさまなのは久しぶりな気がする。料理の腕はとおるくんのほうが圧倒的に上であるため正直それを素直に受け取れない複雑な心境ではあるものの、こんなに喜んでくれるならまた作ろうかなと思ってしまうから私は本当に単純だった。どれくらいかと言うと、お味噌汁をインスタントで済ませたことを後悔している程度には。

 時刻は午前五時十分を回ったところ。いつもの休日ならば絶賛爆睡中の時間も、喫茶店のバイトシフトが入っている彼に合わせてかなり早い朝食をとっていた。平日でもこんなに早く起きない私は、とおるくんの日頃のタイムスケジュールのハードさを実感している。

 せめて朝ごはんくらいゆっくりできたらいいなと、四時過ぎ頃こっそり起床してみたものの、手際の悪さと1コンロという設備の悪さが相まって、結局ろくなものを作れなかった。木製のローテーブルに並べられた数枚の皿を見やり、先程までそこに乗っていた朝食達の姿を思い出して思う。

「(……もう少し、料理勉強しよう……)」

 とりあえず鮭を焼いておけば色合い的にも見た目的にもどうにか誤魔化せるんじゃないかと安易に考えてしまったことを反省した。

「そういえば昨日、どんな夢見てたの?」

 思い出したように唐突にそう尋ねてきたとおるくんに、きょとんとしてしまった。なぜなら昨日の私は熟睡モードで、夢を見ることも、はたまた一度も途中で目覚めることなくぐっすりだったからだ。「覚えていなくても人間は寝ている間は必ず夢を見ている」と言うけれど、少なくとも朝起きた時点では記憶には残っていない。

 とおるくんに「寝つきが悪くて困っている」なんて話したことあっただろうかと首を傾げながら、「見てないけど、どうして?」と素直に尋ねながら、お味噌汁が入った黒いお椀を持ち上げる。そのまま口をつけて傾けた瞬間、まるで見計らったかのようなタイミングで彼は爆弾を投下した。

「寝言で僕のこと呼んでたから」

 タイミング悪くちょうどお味噌汁を飲みこもうとしていたせいで、動揺のあまり本来入るべきではない気管にまで入り込んでしまったらしい。反射から拭き出しそうになってしまったものの、しかし本当にそんな大惨事を起こすわけにはいかない。

 このままではお味噌汁を溢してしまうことを把握し必死に震える右手でお椀をローテーブルの上に戻す。そして空いたもう片方の手で口を押えながら決死の思いで飲み込んだものの、しかしそれでおしまいというわけにはいかず、予想通り盛大にむせ返ってしまった。大きく咳き込むけれど、なかなか治まる気配を見せない。

「だ、大丈夫!?」

 そんなとおるくんからの声に必死に頷くものの、今も喉の奥が何かに引っかかったような状態は治らない。おそらく味噌の塩分が尾を引いているのだろう。お茶くらいならもう少しマシだったかもしれないというのに、なんということだ。相変わらず咳を止められないでいると、向かいに座っていたはずの彼はすぐさま私の右横へ移動し、背中をさすりながら言った。

「大丈夫? お茶飲む?」

 その優しさを嬉しく思いつつも、しかし元をたどれば私がこうなった原因は彼の一言であるということを忘れてはならない。逆恨みのようなものだということは重々承知している。お茶は大丈夫と言う意を込めて今度は首を横に振りながら、必死に静まるのを待つ。今また液体を口に含めば、今度こそ大惨事になりかねないと考えたからだった。そしてようやく状態が安定したのは、咳き込んでから二十秒ほど経ってからのことだった。

「…………あー……」

 やけに低い低音を長く出したのは喉の調子を少しでも整えたかったからだったけれど、果たして効果があるのかどうかは定かではない。実際声は掠れていたしどうにも出しにくい。うっかりむせ返ってまたおまけにひとつ咳を溢してしまった後、大きく息を吸い込んでゆっくりと呼吸を整えた。気が付けば私は、苦しさのあまりすっかり涙目になっている。しかし咳からはようやく解放されたようで、ほっと胸を撫で下ろした。

「……本当に、大丈夫?」

 先程と同じ台詞をとおるくんが言う。しかし今度は私もちゃんと「大丈夫」と音に変換して返すことができたから大きな進歩だ。とはいえ、やはりまだ喉の奥がイガイガする。咳が落ち着いたということもありようやく冷たい麦茶を一口飲み込み態勢を整えると、状態が安定したことを察したらしい彼の手が私の背中から離れてしまった。少し淋しさを覚えつつも、しかし先程の真意を確かめなければならない。

「……あの、私、寝ながら何か言ってたの?」

 どうか冗談でしたと言ってほしい。ガサついた声でおずおずと尋ねるものの、内心ではせめて変なことは言っていませんようにと必死に願っているのは言うまでもない。百歩譲っても、恋人の名前を口にしていたなんていうのは私の聞き間違いか何かでありますように──それは一体どんな聞き間違えだという話になるけれど──。

 てっきり自分の中では静かに寝るタイプの人間だと思っていただけに、ショックを隠すことができない。こんなことなら、イビキをかいていたほうがまだ良かった。……いや、やっぱりそれもいやだな。冷静に考え直していると、とおるくんはすっかり落ち着いた様子の私を見て安堵の表情を浮かべつつ、先程投げられた質問に答えた。

「うん。とおるくんって、小さくだけど何回か」

 何が嬉しくて寝言を恋人に聞かれたいと思うだろうか。しかも、本当に名前を呼んでいたとは思わなかった。この感情は絶望なのか羞恥なのか分からないけれど、最終的な結論を言うと今すぐ消えてしまいたい。

 しかも寝言と言えば「もう食べられないよ」とか「おなかいっぱい」とか、そういう食事関係のものが定番だとばかり思っていたのに、なんで私はきっちり予測を裏切り人名をセレクトしてしまったのだろう。食い意地が張っていると思われるのも癪だけれど、恋人の名前を夢見心地で呟き、かつそれをきっちり本人に聞かれるよりはマシな気がする。

 もう彼にどんな顔をしたらいいのか分からなくなって、ひょろひょろと視線を落として俯いた。なかなか言葉が出てこない私とは対照的に、彼はやけに声を弾ませているのはなぜなのだろう。

「だから、どんな夢を見てたのか気になったんだけど……。そっか、覚えてないのかあ」
「…………ちなみに、あの……。……ほ、他には……?」
「え?」

 あまりに小さく呟くように言ったからか、彼の耳には届かなかったらしい。しかしきっちり彼の目を見て再度口にするのは気が引けたため、目を泳がせながら改めて、他に何か言っていたか尋ねると、とおるくんは「そうだなあ」と言って考え込むように視線を上に泳がせた。やけにもったいぶるようなその仕草がじれったく感じてしまい、余計に心臓を騒がしくさせる。もしかして、他にも何か仕出かしてしまったことがあるのでは。そう思えてならない。

 そんな私の心配と緊張を知るよしもない彼は、そのまま軽く握った手を顎に置いて一人考える素振りを見せた後、悪戯っ子のようにどこか楽しげに笑って言った。

「……聞きたい?」

 その言葉を聞いた瞬間全てを察した私はまた少し俯いて、今度は両手で自分の顔を隠すように覆ってしまった。震えながら「やっぱり聞きたくないです」と、か細い声で返してみたものの、一体昨夜の私がどんなことを言ってしまったのかはもちろん今でも気になっている。しかしその好奇心よりも羞恥心が勝ってしまったがためにそれを口に出せないままでいた。

 寝言を言っていたということはつまり、やはり何かしらの夢を見ていたということなのだろうけれど、幸か不幸か熟睡していたがために肝心の内容を一切覚えていない。だからその内容で予想すると言う手は存在しないのだ。

 ……どうしよう、なんと言っていたんだろう。

 恋人の名前をうわ言で呟いていたということだけでも恥ずかしいというのに、他にも何か口にしていたとは、これ以上ないと言うほど最悪な状況だ。こんなことをしても状況は変わらないと分かってはいるものの、できることなら今すぐこの場から逃げ出したいとさえ思う。いや、ここは私の家なのだから逃げる場所はここしかないのだけれど、まるで追い打ちをかけるように恋人が詳細を尋ねてくるこの状況から早く脱したい。

「どんな夢を見てたか、まだ思い出せない?」
「…………う、うん……」
「そっか」

 やめて、とおるくんはもうそれ以上この話を掘り下げて来ないで。考えるのは私だけでいいから、もうやめようこの話題は。

 そしてできることなら何も聞かなかったことにして、水に流して綺麗さっぱり忘れてほしい。にも関わらず彼は夢の内容が気になるのか一歩も引き下がることなく、むしろ積極的に解明しようとしてくる。すっかり忘れていたけれど、彼は好奇心旺盛な探偵だった。わからないなら知識から推測するという癖は、こういうとき非常に厄介なものとなる。「そっか」と言いつつ全く話を切り上げる気がないらしい彼は、今日もその例外ではなかった。

「まだ詳しくは分かってないけど、夢は寝る直前に見たり印象に残った内容になることが多いらしいよ。人は寝る間に記憶の整理をするから、その過程が映像となって夢になるんだ」

 なるほど、寝る直前の記憶。それは聞いたことがある。ということは、昨日の夜に起こった出来事に関連したものが夢になって出てきた可能性が高いと言うことなのだろうか。寝言でとおるくんの名前を呼んだということは、単純に考えて、やっぱりとおるくんに関係することなのかもしれない。

 昨日の夜起こったこと。とおるくん。はて、何があったか。

 ふたつのキーワードを頭の中で復唱しつつ、少しでも何か思い出す手助けになることを期待して、ちらりと該当者の彼を盗み見る。その瞬間、私を見下ろす真っ直ぐな瞳と覆いかぶさってくる褐色の肌がフラッシュバックのように脳裏に浮かんでは体温を急上昇させてしまった。

 もしかして、もしかして。

 ひとつの仮説が頭をよぎって、嫌な汗がじわりと背中に滲んだ。もしかして私は、甘ったるい内容の夢を見て、それに関連するものを口走ってしまったのではないだろうか。そんなこと考えたくもないけれど、普段送っている日常と昨日の夜との違いはそれくらいしか思い浮かばない。だからきっと夢にとおるくんが出て来たんだ、どうしよう!

 すっかり大混乱に陥ってしまった私の脳は必死にそれを否定しようとするけれど、考えれば考えるほどその可能性が有力になっていく。ついでに言うと、他にも何か寝言を言っていたか聞いたときのとおるくんの返しがそれを物語っているような気がしてならない。だとしたら私は、絶対認めたくないけれど、もしかして欲求不満なのだろうか。そしてそれを本人に悟られてしまったのだろうか。

「(だとしたら私、もう本当に生きていけない!)」

 なんでこんなことになってしまったのだろう。なんなら昨日の夜にタイムスリップして、自分を叩き起こしてやりたい気分だ。すっかり火照ってしまった顔を隠していた両手を少しだけ下ろしてそっととおるくんの様子を伺うと、頬杖をついて、まるで何かいいことがあったかのような機嫌でじいっと私のことを観察しては優雅に笑っている。そんな、今の私とは随分真逆な彼と目が合ったものの、気まずさと恥ずかしさから反射的に俯いてしまった。しかしそんな私を気にすることなく、とおるくんはどこか意味ありげに話しかけてくる。

「一体どんな夢見てたんだろうね。気になるなあ」
「そっ、そうだね……」
「ところで耳まで赤いけど、大丈夫?」

 にこにこと随分楽しそうに笑う彼は、おそらく私がなぜこんな状態になってしまった理由がわかっているのだろう。むしろ、だからこそ夢の内容に関わる豆知識を披露してきたのだろうか。私がそれに気が付くために。だとしたら彼の言う「大丈夫」とは真逆の心境にいる。だから観念して、蚊の鳴くような小さな声で言った。

「……むりです……」
「ふふ。かわいい」
「こんなときまで持ち上げようとしなくていいよ……」

 ちっとも文脈が合っていない返事を寄越してきた彼は、日本語を正しく理解してくれているのだろうか。もはや半泣きになっている私を相変わらずにこやかに見守っているとおるくんは、“楽しそう”を通り越して“面白がっている”ようにすら見える。

「……お願いだから忘れて」
「何を?」
「あの、私がほら、その……。ね、寝言で? 言ったこと」
「思い出したの?」
「いや、全然覚えてないけど……。むしろ覚えていたとしたら今すぐその記憶を削除したいんだけど……」

 語尾を濁すと、とおるくんはなるほど察しが良いのか、「じゃあ僕の記憶も削除してほしいんだ?」と尋ねてくる。両手をおろして目を合わせ間髪入れずに頷くと、「ふうん」と完全に他人事のような反応をされてしまった。

「でも、別にそんなに恥ずかしがらなくていいんじゃないかな。僕にしか聞かれてないわけだし」

 いや、だからこそ恥ずかしいんですが。前のめりな私とは対照的に、相変わらず妙に他人事な彼との温度差がすごい。実際他人事なのだから仕方ないのかもしれないけれど、もしも逆の立場だったら、とおるくんは恥ずかしくないのだろうか。

「じゃ、じゃあとおるくんは、寝言で私の名前言ってたよって言われても恥ずかしくないの? 今みたいに、平然としていられるの?」
「そりゃあ勿論」

 顔色一つ変えることなく、かつ間を開けることなく即答した彼は、動揺する素振りを見せることなく落ち着いている。実際自分の身に起こっていないからなのかとも思ったけれど、そういえば彼はポーカーフェイスが得意だったことを今更ながら思い出した。つまりなるほど、これはなかなかの愚問だったかもしれない。しかしどうにも腑に落ちなくて理由を問いただすと、とおるくんはさも当然とばかりにさらりと言ってのけた。

「なんでって、そうなったら、きっと君はその日一日僕のことだけを考えるようになるだろう? むしろ嬉しい限りだね」

 しまいには、僕も寝言言いたいなあなんて笑っている。一方の私はその圧倒的自信にぐうの音も出ない。なぜなら、自分でもそうなる展開が目に見えているからだ。それにしたって、どうして聞いた張本人が返り討ちに遭ってしまったのだろう。私はそんなに分かりやすいのだろうか。だとしたら、どうにも複雑な気分になる。半ば強引に話題を打ち切るように「も、もうやめようこの話は」と言って、すっかり冷めたであろう味噌汁を手に取った。

 そのまま今度こそ喉に流し込んでやろうとしたところでふと視線を感じ、お椀に口を付けたまま何気なく顔を上げる。するととおるくんが相変わらず頬杖をつきながらじっとこちらを見つめているではないか。なんだか飲みづらくなって、結局一口も飲むことなくそのままお椀を下ろした。

「な、なに……?」
「ううん、何も。僕のことは気にせず食べて」
「気にせずと言われても、そんなに見られたら食べづらいよ……」
「僕、君が食べてるところを見るのがすきなんだ。食べる前はきちんと手を合わせていただきますって言って、おいしいものを食べたとき一瞬目を輝かせて、嬉しそうにしてるのを見るのがすき。まあ今日は僕の反応を気にしてたみたいだけど、そういうのも見てて楽しいよ」
「(遠回しに、食い意地張ってるって言われてる?)」

 とおるくんは時々、私の話を聞いているようで聞いていないときがある。そしてまさに今がそうだ。私は「食べてるところなんて見ないでほしい」と伝えたつもりなのに、なぜ彼は突然そんな話を始めてしまっているのだろう。それともこれは、とおるくんなりの「お断りします」という返答なのだろうか。「は、はあ…」と曖昧な相槌を打つ私を気にすることなく、彼は続ける。

「……ねえ、

 ふいに呼ばれた名前はあたたかい音をまとっていた。とおるくんはテーブルに並べられたお皿をどことなく愛しそうに眺めながら言う。

「あたたかいごはんを一緒に食べるっていいね。今日、改めてそう思った」
「……? うん」
「はは。突然どうしたんだろうって顔してる」
「そ、そんなことないよ! ええと、一人暮らししてると、誰かと一緒に食べたいなってときあるよね!」

 慌てて否定するも、図星を突かれてどぎまぎしてしまう。とおるくんはゆったりと笑いながら「そうだね」なんて言って同意してくれているけれど、実際には彼が言いたかった本質とは異なっていたのだろう。なんとなく、そんな雰囲気を感じる。しかし具体的な正解を探し当てることができない私に、彼は目を細めるだけで何も言わない。視線を逸らすことなく、ただただ満足そうに私を眺めているだけだ。そんなに見られると、やっぱり気まずい。

 どうにかして彼の気を逸らせないものかととりあえずお茶のおかわりを勧めてみたものの、あっさりと断られてしまった。視線をテーブルの上に落とすものの、彼の前に置かれたお皿はご飯粒ひとつ残されていない。つまり最後に汁物を残していた私と違い、何もすることがなく暇を持て余しているのだ。もしかして、だから熱心に私のことを観察しているのだろうか。

「とおるくん。歯磨きとかしてきていいよ?」
「大丈夫。まだ時間あるから急がなくていいし、四十分くらいに出れば十分間に合うから」
「でも……」
「もう少し、君と話してたいな。……だめ?」
「………………全然だめじゃないです……」
「うん。ありがとう」

 見事に丸め込まれて、この爽やかな笑顔にすら敗北感を感じてしまう。だめ? と小首を傾げられて思わずときめいてしまったなんて、絶対知られたくない。うっかり緩んだ口元を反射的に右手で隠しては、目を逸らした。

 もうここまで来たらどうにでもなってしまえと、かたくなにお預けを食らい続けていたお味噌汁を口に付ける。豆腐が少し味噌の塩分を含んでしょっぱい。インスタントで豆腐の味噌汁はあまりよろしくないのかもしれない。頭の隅でそんなことを考えている私をよそに、彼は思い出したように世間話を始めた。

「……そうそう。この間、毛利先生のところへ差し入れを持って行ったときのことなんだけど……」

 とおるくんの声はストンと耳に入って心地いい。それでいて溢れ返る水のように次から次へと話が湧き上がって途絶えることがない。彼が紡ぐ言葉はいつだって必要最低限のものしか飾り付けられていないはずなのに、なぜだか素っ気ない響きにはならないから不思議だ。

 私はいつもあちこちへ行っては戻りの気まぐれで一貫性がなく、まるでおもちゃ箱を引っくり返したようにごちゃ混ぜになるというのに、彼のそれは起承転結補足説明全てが的確な位置で構成され、かつ綺麗にまとまっている。まるでお手本のようなのにどうにも引き込まれてしまうのは、人に興味を持たせる話し方がうまいのだろうか。それとも、もともとの彼の頭の作りなのだろうか。

 お世話になっている毛利先生宅で夕飯をご馳走になった話、そこに居候している小学生の男の子とその友人達の話、ポアロで常連のおばあちゃんが教えてくれた小さなお花屋さんの話。どれも、まるで子どもに読み聞かせる絵本のように物語が語られる。しかしどうしてだろう。彼の話はあまりにも第三者の立場を徹底しすぎて、とおるくん自身の感情がほとんど見えてこない。主観がほとんど入っていないのは、探偵業を営んでいる彼の癖なのだろうか。

 私の知る彼はこんなにもあたたかく笑っては、ときより悪戯っ子のようにじゃれついたりと色んな色を見せてくると言うのに、物語の中にいる「安室透」はまるで誰にも見えない透明人間のようだ。なぜだか彼一人、壁の向こう側にいるかのような感覚になる。目の前にいる彼は確かに彼自身に起こった話をしているはずなのに、なんだか知らない人の話を聞かされているみたいだ。

「──ねえ。今日、ポアロに来る?」

 その声に、はっとした。なにやら少し考え込んでしまっていたようで、突然振られた話題に反応しきれず目をぱちぱちさせていると、彼は至って真面目な顔をしている。どうやらポアロの話から発展して、今日私も彼のバイト先に顔を出すかと尋ねて来たらしい。じっととおるくんを見つめてみると、彼は不思議そうな顔をした。

「何?」
「ううん、なんでもない」

 そう言って、当たり障りのない笑顔を張り付けて首を振る。……多分、私の気のせいだ。だってとおるくんはいつも、自分のやりたいことや行きたいところを主張する。稀に不貞腐れるときもある。一緒に考えて、こうだったらいいねって笑ってくれる。ちゃんとここにいる。色がある。きっと彼があまりに冷静すぎるから、妙な印象を受けてしまったに違いない。そう結論付けた。

 「それで、ええと。ごめん、なんだっけ?」

 わざとらしく聞き返すと、彼は先程の台詞をもう一度繰り返した。今日、よかったらポアロに来ないかなって思ったんだけど、どう? と。しかしつい先程まで寝言事件が収束を向かえたばかりと言う中で、のこのこと彼の職場に顔を出すほど図太い神経はしていない。そもそも以前「朝が一番忙しい」と言っていたし、仕事の邪魔になるようなことはしたくなかった。

 それに今日は、面倒臭がりの私が今週一週間生き抜くために料理の作り置きをしておかねばならないのだ。つまり一日家に引きこもるつもりで昨日の昼間食材を買い込んで来たし、今日は特に外出する予定は組み込んでいない。だから特にとおるくんのバイト先に行く予定はないことを告げると、とおるくんは「だよね」と苦笑する。

「なに? 今日、バイト先で何かあるの?」
「何かないと、愛しい恋人との時間がもっとほしいと思っちゃいけない?」

 まるでさも当たり前と言わんばかりにしれっと笑顔で返答する彼に、分かりやすく心臓が大きく飛び跳ねた。ああ。どうして彼は、こんなにも直球を投げ込めるのだろう。とおるくんの言葉が耳に入って来た瞬間、恥ずかしいと言う感情を通り越して思わず頬が緩んでしまった。

 うまい返しが思い浮かばなくて目を泳がせるものの、体温は分かりやすく上昇するから誤魔化し方が分からない。今日のとおるくんは、なぜかやたらテンションが高い。そりゃあ普段なかなか会えないから、私もできることならもう少し一緒にいる時間がほしいけれど。

「(本当に、いいのかな……)」

 バイトとはいえ、仕事場に行くのはやっぱり気が引ける。仕事とプライベートはきっちり分けるタイプな私にとって、職場に身内が来るというのは迷惑ではないのだろうかと考えてしまうのだ。どうも気になって邪魔になるんじゃないかと尋ねると、「もしそうだったら最初から誘わない」と見事に言い切られてしまった。

「そっか……」

 いいんだ。そう実感したらじわじわと波が押し寄せて来る。揺れていたはずの私の心は完全に傾いていた。胸を高鳴らせながら、ゆっくりと口を開く。

「えっと、じゃあ……。今日やらなきゃいけないことが早く終わったら、ご、ご褒美に、その……。い、行っても、いい……?」

 しまった、「気分転換」と言うつもりだったのに間違えてしまった。誤って選択した単語が単語なだけにちょっと恥ずかしい。これではまるで、とおるくんに会うことが何よりうれしいみたいだ。決してそれは間違いではないけれど、隠し通しておきたかった。

 だけどとおるくんが分かりやすく顔をほころばせるから、それを見た私まで目を細めてしまう。今日はすごくいい日になりそう。そんなことまで考えてしまう私は、世界の誰より単純だった。


◇◇


 玄関先に座り込み、靴紐を結ぶとおるくんの背中をすぐ後ろで見ていた。彼はさほど時間を掛けることなく紺色のスニーカーを履き終わるとゆっくりと立ち上がり振り返る。そこですっかり準備を整えた彼を目が合ったものの、もっとゆっくり履いてくれてよかったんだけどな、なんて心の声は口にしない。

 もう少しそばにいたくて「送って行く」と言っても、「今日は車だから」と言われてしまえばもう何も言えない。ならばと忘れ物はないか尋ねてみるも、いつもきっちりしている彼がそんなことをするはずがないことくらい分かっていた。少しでも時間を引き延ばしたい私は随分と諦めが悪い。そんな下心を知るよしもない彼は「大丈夫」と頷いた。どうやら悪あがきもここまでのようだ。向かい合ったままお互い何も言わない謎の時間が数秒流れる。

「──じゃあ、行くね」
「うん。いってらっしゃい」
「いってきます。……ふふ。ああごめん、なんでもないよ」

 やっぱり今日のとおるくんはいつもに増してよく笑う。笑みを溢しては目を細めて、なんだか嬉しそうだ。つられてにこにこしてしまうやっぱり単純な私は、今のやり取りなんだか新婚さんみたい、なんて考えてはまた口角を上げてしまう。また後で会えるかもしれないとはいえ別れ際はやっぱりさみしくなってしまう。だれど、この聞き慣れたフレーズで構成された会話はすきだった。

「今日はありがとう」
「ううん。むしろ、いつも狭い部屋でごめんね」
「──じゃなくて」

 そう否定すると左手を捕まえて、親指以外の私の指をまとめるようにぎゅっと握ってきたとおるくんは、じっと繋いだ手を見つめている。突然の行動に驚いたけれど、どうやら彼が礼を言っているのは自分を泊めてくれたことに関してというわけではないらしい。

「せっかくの休日なのに朝早くに起きてくれて、まだ眠いだろうに温かいごはんも用意してくれて、一緒に食べてくれて、お見送りまでしてくれて。君が当たり前のようにしてくれたことが、本当はすごく嬉しかったんだ。……こういうのを、幸せって言うのかな」
「……前から思ってたんだけど」
「うん?」
「とおるくんて、恥ずかしいことも結構ストレートに言うよね」

 言われてるこっちが恥ずかしくなる。そう独り言のように小さく呟く私は視線を横に逸らし、何とも言えないくすぐったい気分になっていた。「言えるときに言うのが僕の信条だから」と笑っている彼とは大違いだ。

「それに言葉にしたら、会えないときも少しくらい思い出して、僕のことを考えてくれるだろう? そしたらまた、夢にも見てくれるかもしれないし」
「そっ……!」

 反射のように首の後ろが熱くなり、それが全身に広がっていく感覚が自分でも分かった。何か返さなきゃいけないのに金魚のように口をぱくぱくさせるだけで言葉が出てこない。これは完全に、遊ばれている。そして楽しそうに笑う彼に、ひとつの仮説が急浮上した。さっきはつい動揺して、その可能性を考える余裕すらなかったけれど。

「……ねえとおるくん。私、本当に寝言、言ってたの?」
「さあ? どうでしょう」

 とぼける彼は今日もポーカーフェイスを張り付けて、どちらでも取れる曖昧な返答を寄越すのみ。もはやどっちなのかさっぱり分からない。結局のところ自分では分かりようがないし、聞いたと主張する彼しか事実を知る者はいないのだから。とおるくんは時より思い出したように私で遊ぶことがあるから今回ももしかしてと思ったのだけれど、やはり私は事実があったことを認めて受け入れるしかないのだろうか。納得がいかないけれど、今は時間がないから私が折れるしかない。彼はこれからバイトなのだから。

「……ごめん。もう行かなきゃだよね」
「うん、行ってきます」
「いってらっしゃい」

 本日二度目のやり取りを笑いつつ、これで今度こそお別れかあとしんみりしていたのに、一向に背を向けない彼に首を傾げた。忘れ物はないと言っていたのになんだろう? 不思議に思いつつ彼を見つめていると、彼もまた首を傾げて言った。

「いってらっしゃいのキス、してくれるのかと思った」

 とおるくんは時々真顔で爆弾をぶち込んでくるのを本当にやめてほしい。今日だけで三度目だ。頭が真っ白になって何も考えられなくなる。確かにこの流れはよく新婚さんドラマで見る展開だけれど、とおるくんもそれに似た何かを連想してしまったのだろうか。

 でもそもそも私達は結婚していないし、そんなことを急に言われても心の準備ができない。嫌とかそういうものではなく単純に恥ずかしさが圧倒的な割合で頭を占めてしまった私は、慌てて口を開いた。

「しっ、しないよ!」
「しないの?」
「えっ? し、しないんじゃないかな……。多分……」
「多分?」
「う、うーん? た、たぶん……?」

 押されるとあっさり弱気になる私もどうなのだろう。あんなに強気に言い切ったと言うのに、そうなの?と改めて聞かれるとつい自信がなくなってしまう。むしろとおるくんは、こんなにゆったりとしていて、バイトの時間は大丈夫なのだろうか。

 ここからなら車で十分も走らせれば着くだろうし、そもそも彼のことだから遅刻しない程度に時間配分を考えているだろうけれど。……いや、なんでする方向で考えているのだろう。とおるくんも随分私に甘いけれど、私もとおるくんに甘すぎるのではないだろうか。

「キスしてくれたら、寝言も忘れられる気がするんだけどなあ」
「それはちょっとずるいんじゃないでしょうか」
「気のせいではないでしょうか」

 私を真似て敬語で返すとおるくんは小さく笑って、そっと右手を伸ばしてくる。そして顔に掛かる髪を耳に掛けられたところで気付いてしまった。これはいつもキスする前に彼がいつも行っている癖というか、合図のようなものだということを。そして私にも擦り込まれてしまっているお陰で、距離すら縮まっていないというのにすでに心拍数が大変な勢いで上がっている。

 パブロフの犬よろしく条件反射を意図的に仕込んで来たのか、それともただの癖による偶然の産物なのかは私にはわからないけれど、なんとなく前者な気がしてならない。どちらにせよ髪に触れられただけでそういうモードに入れられてしまうのは非常に厄介だ。でも、今日の失態忘れてくれるって。悪魔なのか天使なのかさっぱり分からない自分が心の内で囁く。

 なんだかいつもより彼との身長差が縮まっている気がするのはなんでだろう。玄関の上り口の段差のお陰だろうか。なんだかいつもより顔が近く感じる。つい話の流れで彼の口元に目が行ってしまう。なんだか恥ずかしくなって、さっと視線を落とした。

「……じゃあ、あの。め、目は瞑ってほしいな……」

 折れた──というより、折らざるを得ない。だってとおるくんは意地っ張りなところがあるし、きっと折れてくれない。だから私が了承しなきゃバイトに遅刻してしまうかもしれない。それはだめだ。…別にこれは、言い訳じゃない。そしてめざとく彼も私が折れたことに気付いてしまったのだろうか、空いた左手で腰を引き寄せられて、強制的に一歩前へ足を踏み出してしまう。目を閉じてと言ったのに、なぜ距離を詰められてしまったのだろう。もしかして私が知らなかっただけで、世間では目を瞑るイコール腰を引き寄せるという認識なのだろうか。頭の中は完全にパニックに陥っている。これは間違いなく、朝っぱらから与えられるべき刺激ではない。

「いってきます」
「待って待って。そこからなの? そこはもういいんじゃないかな、三回目だし」
「いってきます」
「(………………)」

 とおるくんは頑固なところがある。つまり、頑として譲らないと決めたらとことんそれを貫き通してくるのだ。だから普段「いいよ」と譲ってくれるときとの差が激しい。有無を言わさずとばかりに同じ台詞を繰り返してきた彼は、間違いなく私に返しの挨拶を求めて来ている。先程まで私もなんでもないように口にしていたものだけれど、そのときと今では状況が全然違う。いや、そのせいだろうか。

「(なんか、言うの恥ずかしいんだけど……)」

 だけどとおるくんは、きっとそんなことないんだろうな。だってなんか遊ばれてる感じがするし、自分が優位なポジションにいるから余裕なんだろうな。でも私がしないと終わらなそうだし、そうしたらとおるくんはバイトに行けないし、次にこうして会えるのは多分来月だし、私も別に恥ずかしいだけでいやというわけではない。

 ……しまった、もう完全に自分も乗り気になっている。

 それに気付いてしまったから、これはもう間違いなく私の負けだ。そして催促されるように腰に回された手に力が入れられたから、ついに観念するしかない。おそるおそる彼のトップスの裾を掴む。顔が随分と熱い。

「……い、いってらっしゃい」

 絞り出すような小さな声で呟いて、めいっぱい背伸びした。



色が滲む瞬間




20180728