今日の私は困ってばかりだ。いや、この状況が嫌なわけじゃない。嫌なわけではないのだけれど、なかなかどうして落ち着かない。ここは毎日生活している自分の家のはずなのに、見慣れた六畳1Kのはずなのに、多分、きっと、いや間違いなく、原因は今私の真後ろでのんびりと座っている安室透にある。
しかしそう彼に言ったならきっと、テレビに映るありふれたバラエティー番組を見ているだけだと何食わぬ顔でけろりと返してくることだろう。確かにそれは間違いではない。まるでぬいぐるみでも抱えるかのように私を後ろから抱き締めていること以外は。
ポアロから一緒に私の家まで帰ってきた後、のんびりお茶を飲んでいたときは決してこんな体勢にはなっていなかったと記憶している。確か他愛のない雑談を繰り返していたら十八時を過ぎていて、のんびりまったり鍋をつついて、お皿を片付けてなんとなくテレビをつけて、しばらくは普通に横に並んで見ていたはずなのに、気が付いたら私はとおるくんの腕の中に綺麗に納まっていた。
……いや、正確には、気が付いたら、ではない。
彼が電話だか何かで一度席を外し、戻ってきたなと思っていたらさも当たり前と言わんばかりに自然な流れで後ろから抱きつくように座って来た。ような気がする。突然の出来事と緊張であまり記憶に自信がないけれど。
そもそも付き合い始めて間もない頃、毎日とまで行かずとも一週間に一回だとか、そういう頻度でこういう恋人らしいことをしてきていたのならばきっと流石の私にも免疫というものができていたに違いない。しかし実際の私達は、一ヶ月に一回多くて二回、お互いのスケジュールから空いた隙間の一、二時間会って一緒に食事だとか、その程度の短い時間をかき集める日々を送ってきた。つまり簡単に言うと、私はまだとおるくんとのスキンシップに十分に慣れていない。
そのお陰で、今私の心臓は何かの世界大会に挑戦しているかのように全力疾走をしている真っ最中だ。どうやったって、テレビから聞こえてくるトーク内容なんてちっとも頭に入ってこない。しかし緊張していることを本人に悟られたくないプライドが、必死に「平常心を保て」と叫んでいる。現役の探偵相手に、どこまで通用するのかは分からないけれど。
「──何か、変わったことはあったか?」
唐突に、とおるくんが言った。彼は心配性なのか几帳面なのか、会うと必ずこの台詞を口にする。つまり私にとっては聞き慣れた言葉でしかないのだけれど、密着しているときに言われると耳元がくすぐったくなるのでやめてほしいと思う。
ちなみに彼の言う「変わったこと」とは、決して「今緊張してないか」とかそういう意味ではなく、日常生活を送る上で身の回りで不審なことが起こらなかったかとか、誰かにつけられたりしなかったか、という意味を指している。しかし今の私の日常は良くも悪くも平凡そのものなので、必死にいつもどおりを装って首を横に振ると、とおるくんは少し間を置いて「ならいいけど」と呟くように言った。
「……うん」
私には沈黙がくすぐったくて、遠慮しがちに小さく頷いた。すると彼はそれを何かの合図だと解釈したのか、たまたまそういう気分だったのか、膝の上に置いていた私の右手にそっと手を重ねてくる。伝わる熱が緊張の電波と替わって思わず肩を震わせなかった私を、私は褒めてあげたい。しかし彼はそんなことを知るよしもないのか、はたまた気付いているのにそのまま放置しているのか、こちらの手の甲を優しい手付きでなぞってきては遊んでいる。しかしされている側としては触れられるたびにくすぐったい。ついに耐えきれなくて、体を縮ませた。
「(……私も何かしたい……)」
なんか、こう、いい感じに。すっかりテンポが速くなった心臓を抱えたままでは肝心な「何か」の具体的な例は浮かばないけれど、いつもされてばかりの私もたまにはやれるんだぞというところを見せておきたい。ちょっと反撃でもして驚かせてみたいという悪戯心に火がついた。
そうとも知らずに彼は、飽きることなく手の側面に右の指を這わせている。彼のそれは相変わらず長くすらりとした綺麗な指をしていて、こう重なっていると、見慣れている私のものとシルエットがまるで違うのがよく判る。更にスピードを速めた鼓動は、彼の手の甲に浮かび上がる血管や骨に分かりやすく異性を意識したらしい。…そんなことを本人に言ったなら、まるで中学生のようだと笑われてしまうだろうか。
彼の手はとてもすきだからずっと視界に入れたくなるけれど、状況が状況なだけにそれを本人に気付かれるのはどうにも恥ずかしい。だから顔は正面を向いたまま固定して、時より視線だけを下ろすことにする。そして、彼の指が私から離れたほんのわずかな瞬間は見逃さない。やるならここだと素早く右手を半回転させて手のひらを上にし、そのまま彼の手を掴んだ。
しかし、内心少し得意げになる私をよそに、彼はまるでなんでもないと言わんばかりに抜け出したかと思ったらそのまま指を絡ませ、今度はしっかり手を繋いでくる。お陰で、いわゆる恋人繋ぎになってしまった。
「(あっ!)」
しかもこの間、とおるくんは一言も言葉を発するどころか手以外は微動だにしなかったので、おそらくテレビに向かっていた視線をほとんどこちらに向けることもなく、相変わらず平然とした顔をしていることだろう。ますます私の体温を上げさせているとも知らずに。
まるで格闘技でKO負けが決まったかのように、カンカンカンッ!と盛大にゴングが鳴り響いた気がした。勿論敗者は私である。完全に返り討ちに遭った気分だ。私の心臓は落ち着くことを知らない。だけどそれを察せられたくはない意地で、彼から振られた話題を引き継ぐように口を開いた。
「──あ、あの。とおるくんはその……な、何かあった?」
これくらい別に普通ですなんともないです。という声を出したかったのに、妙に早口でどもっている。しかし彼はそれには何も触れることも笑うこともなく、ただ簡潔に質問に答えるのみだった。勿論その回答は私と同様のものだったので特にそれ以上掘り下げていくことも出来ず、また会話はそこで途切れてしまったけれど。
普段ならば沈黙なんて気にしないのに、今は何かしていないとなんだかそわそわしてしまう。
多分そう思っているのは私だけで、とおるくんはなんとも思っていないのだろうけれど、せめて何か話でもして気を紛らわせたい。主に私の心を。こんな状況なだけに。
しかし彼はこちらの事情などお構いなしに顎を肩に乗せてきたかと思ったら、そのまま首元に顔を埋れるようにして深い溜息をついてきた。時より当たる髪がくすぐったいし、なにより息がかかるたびにびくびくしてしまう。「と、とおるくん?」耐えきれなくなっておそるおそる口を開いたものの、彼は「なんでもない」と返すだけで、やっぱりそれ以上は何も言わない。繋いだ手も離さない。これは、気を紛らわせたいと願っていた私に更なる追い打ちを掛けて来たとしか思えない。
「……ごめん、もう少しだけ待ってくれ」
もしかしたらとおるくんは視野が広いとか洞察力があることを通り越して、人の心の声を聞くことができるのではないだろうか。そう思わずにはいられない台詞を舌に乗せてきた彼は、相変わらず体勢は一切変えないまま、少し掠れた声で呟いた。
「君とこうしているときが、一番落ち着くんだ」
普段のとおるくんは絵に描いたような、「何があっても自分が引っ張っていたいタイプ」だと認識している。実際、こちらの意思や希望は汲み取ってくれても絶対にエスコートのようなリードは欠かさない人だし、主導権だけは渡してこない。ついでにほとんど弱みを見せてこないどころかいつも顔には余裕をぶら下げていて、慌てたところなんて見たことがなかった。
そんな彼が唐突に、こんなふうに後ろから抱き締めてくることがある。
そしてその状態で他愛のない雑談を話すとおるくんの話を、心拍数を上げながら聞くというのが常だった。しかしその中でごく稀に彼は、何をするでもなく、何か話すわけでもなく、ただ私にべったりとくっ付いてくるときがあるのだ。その理由を「ただ静かにいちゃつきたかっただけ」で片付けるにはどうも雰囲気が違うような気はしていたけれど、全力疾走する心臓にいっぱいいっぱいで、ちっとも考えてあげられていなかった。だけど、今なら少しわかる気がする。
もしかして彼は、甘えてきてくれているのだろうか。
私の都合のいい解釈なのかもしれないけれど、しかしそう考えると全ての辻褄が合う気がする。そういえば先程の声もなんとなく疲れたような印象だった気がするし、思い返してみれば彼がそうしてくるときは、大抵彼の「色々こみ合っている仕事」が片付いた後が多かったかもしれない。それが具体的にどんな依頼だったのかは彼の探偵という立場上聞かないほうがいいのかと思って触れないようにしていたけれど、やっぱり疲れてるのかな。……それとも、どこかさみしいのかな。
正解を推理することは探偵ではない私にはできそうにないし、そもそも立場的にも性格的にも、秘密主義の彼がそうさせないだろう。でも強がりな彼が頼ってくれているような気がしてうれしい。だからだろうか、少し誇らしい気持ちになっている。
しかしそう思ってはいても、今の私は相変わらず緊張で死にそうになっているし、体は熱に焼かれそうになっていることは変わりない。そもそも破裂寸前の心臓を抱えている私にできることなんて言ったら、繋がれた右手を握り返すことしかないのだ。残念ながら気の利いた優しい言葉や哲学的な名言は、私の貧相な脳では生み出すことができない。なぜなら私の頭はとおるくんのことでいっぱいで、余裕など存在しないのだから。
だからせめて会話でもしておかないと、少しでもとおるくん以外のことを考えないと、きっとこれ以上はだめだ。頭がショートしてしまう。彼は落ち着くと言ってくれたけれど、私はこの状況はちっとも落ち着かない。それどころかその逆だと言った方が正しい。彼には「もう少しだけ」と言われたけれど、甘えられるのはとてもうれしいけれど、正直今の私はギリギリのところを踏み止まっている状況だった。
何か、何かないだろうか。気を紛らわさせる何かが。せめて会話の種になるような何かが。必死に部屋のあちこちに視線を投げると、ふと番組がCMに切り替わったテレビ画面が目に入る。そこで海辺近くの道を颯爽と走り抜ける車が映り、慌てて口を開いた。頭の中に、彼の愛車が浮かんだからだった。
「──あっ! 車は? 元気?」
車のことを、まるで知り合いのことを尋ねるような言い回しをしたからか、それともこの密着した状況に緊張していることを悟られたのか、とおるくんは少し笑いを含んだ声で言った。「元気だよ」。そうして今度は空いていた左手を、私のお腹の前へゆるやかに回した。これはもしかしなくても、完全包囲されてしまった。思わず反射で肩を震わせると、まるで、逃げてくれるなよと言わんばかりに右手に少し力を入れて握ってくるから、たまらず慌てて口を開いた。
「そ、そっか。ま、前はよく来てたよね。定期点検とか……。今も行ってるの?」
来ていたと表現をしたのは、私が大学を卒業してからその小さな車の整備工場の事務員として働いていたからなのだけれど、今はもう辞めてしまった手前、今も彼があそこへ通っているのかどうかは把握できていない。しかし当時、一体どんな事故に巻き込まれたのか分からない大破損修理から単純なオイル交換まで、とにかく幅広いメンテナンスで彼は頻繁に顔を出していたことだけは今でも覚えている。特に前者の場合彼の愛車がとんでもない状況になっているのを見るのは一度や二度ではなかったので、当時事務をやっていただけの赤の他人だった私も、流石に心配になった記憶がある。
しかしとおるくんの運転する車に何度も乗っている今だからこそ思うに、彼の運転は決して乱暴ではないどころかむしろ丁寧なものなので、おそらく事故を呼ぶ不幸体質なのだろう。整備の利用回数だけで言えば修理よりも点検のほうが多いので、今回は「定期点検」という言い方をしておいた私の内部事情を知るよしもない彼は、「ああ、あれ?」とけろりとした声で言った。気が付けば、声はいつものトーンに戻っている。
「あれは、に会いに行く口実にしてただけから」
「えっ!? うそ」
「うん。うそ」
そう言って、とおるくんは小さく笑う。……完全に、からかわれた。顔は見えないけれど、きっと後ろでは悪戯が成功したこどものような目をしているに違いない。うかつにもときめいてしまった私の心を返してほしい。
もしかして、今こうして抱きしめて来たのも手を繋いできたのも、いちいち反応してしまう私をおもしろがっているだけだったりしないだろうか。そう、甘えて来ていたのではなく。そんな説が浮かんでしまったら、あんなにしあわせに満ちていたのが嘘のように、心に霧が掛かったような気分になった。思わず眉間に皺が寄る。
「……ごめん」
何も言わずとも私の機嫌を損ねたことを察したらしいけれど、やっぱり笑いを含んだ声で言われたところで全く説得力がない。きっと、ちっとも悪かったなんて思っていないのだろう。
ついでに言うと、この謝罪の範囲はどこまでのことなのかは私には分からない。点検を口実に私に会いに来ていたなんて冗談を言ったことに対してなのか、それとも過剰なボディタッチでからかっていることを認めたのか。いや、なんとなく、全部な気がしてきた。彼は時々、ちょっとからかってくるところがある──別にいやではないけれど、私自身、顔に熱を帯びるばかりでうまい返しができないところはいやだったりする。いつも私は彼の手の平の上で転がされている気がしてならない──。
「怒った? それとも呆れた?」
後ろから顔を覗きこもうとするとおるくんの気配を察知し、慌てて首を左右に振った。それには、大丈夫だから顔を近付けないでほしいというメッセージを込めたつもりだったのに、そんな意思表示は見えないと言わんばかりに金色の髪が右の視界の隅に入ってくるから全く意味を成さない。距離の近さに慌てて左へ顔を背けていたけれど、そもそも後ろにいる彼は、自由に舵がとることができる。私の体ごと少し左へ傾けさせれば、顔なんて簡単に見られてしまうのだ。
だから私は頭をフル回転させ、なんとかしてこの心臓に悪い状況を打破する策を捻り出すしかないのだけれど、どうしたって頭脳のスペックが足りないのは明白だった。しかし、今顔を見られるのはだめだ。なぜなら彼が接近したことによって、ますます顔に熱が集中してしまっている。こんな姿を見られては死んでしまうと空いていた左手で口元を隠し、ぎゅっと目を瞑った。
「僕が近寄るのは嫌?」
「そ、そうじゃないけど……」
「……“けど”?」
明らかに自信に満ちた彼の声は、間違いなく問いかけに対して私が「そう」思っていないことを知っている。つまりとおるくんは疑うまでもなく、私がただ照れてしまっただけだと分かっているのだ。なのにわざとらしく尋ねる彼は、どこかおもしろがっているとしか思えない。どうやら色んな意味で完全にスイッチが切りかわっているようだった。
普段こちらが何か言う前に察してくるタイプなのに、時々思い出したように言葉を求めてくる。何気なく口にした語尾を復唱してきたのがその証拠だ。別にその次に続く言葉はなかったというのに、あったとしてもそのまま隠して声にするつもりなんてなかったのに、まるで言ってくれないと分からないとばかりの口ぶりだ。…本当は全部、分かっているくせに。しかしこうなった彼はこちらが折れるまで逃してはくれないことを知っているから、おそるおそる口を開いた。
「あの……。は、はずかしいから、だめ……」
和太鼓のように大きな音を立てる心臓は、落ち着くということを覚えてくれないだろうか。ついでにいうと、今の私は耳まで赤くなっている自信しかない。
そろそろ、とおるくんに対しての免疫がほしい。これは割と切実な願いだ。もう子どもじゃないけれど、サンタクロースに手紙を書いてお願いしたら手に入れることができるのだろうか。彼のことを強く意識しすぎてしまうあまり、すぐ子どものように反応をしてしまうから。
今更なことかもしれないけれど私は、とおるくんにノリが悪いやつだなと思われても仕方がない反応ばかりしているかもしれない。気が付けば彼に恥ずかしがっている顔を見せまいと、いつもついそっぽを向いてしまっている気がする。これって、そっけないんじゃないだろうか。
隣に並んでなら普通に話せるのに、少しでも触れられると急にそれができなくなってしまうから余計に差がひどい。そもそも今の言葉のチョイスだって、全然知的じゃない。「恥ずかしいから待って」って、全然大人じゃない。言葉の通りではあるものの、どストレートすぎてまるで小学生並みの語彙力だし、経験値があまりにも低すぎることを自ら暴露しているようなものだから、今度は違う意味で呆れられてしまったかもしれない。現に、あれだけ強引に迫って来ていた彼が体勢を正すように顔を離し、あれだけいじり倒していた右手すら開放してきたのだから。
──泣きそう。
もしかして、遠慮されてしまったのだろうか。それとも拒絶されたように捕えられてしまったのだろうか。呆れられたとは思いたくはない。彼に触れられるのも近づかれるのも全部うれしかったけれど、今の私ではどうしてもいっぱいいっぱいになって、どう反応したらいいのかわからなくなるだけだったのに。どうにかして弁解をしなくてはと慌てて顔を右に向けた瞬間、なぜか彼の手が私の髪に触れた。そのまま指で梳かすように右耳に髪をかけられる。
そしてその耳にキスをひとつ落とされた瞬間、私の中の何かが爆発した。
反射と言うのはすごいもののようで、考えるよりも先に「あ」なのか「ひゃ」なのか「や」なのかはたまた「わ」なのか自分でもよく分からない声を喉の奥から出てくるし、体の力が抜けたのか驚きのあまりなのか体勢が傾き、上半身だけ前へ倒れるような体勢になって目の前のローテーブルに突っ伏してしまった。そこに置いていた2つのコップを倒すことなく中身も溢さなかったのは不幸中の幸いだったかもしれない。一歩間違えれば大惨事になっていた。
もはや自分の身に一体何が起こったのか理解することすらできないけれど、彼の唇が触れたところから熱が全身へ駆け巡っていくことだけははっきりとわかる。高鳴るなんてかわいい表現では言い表せないほどの心拍数を抱えながら思ったことは、ただひとつだけだった。
──恥ずかしい!
今日だけでも何度も抱いてきた感情だけれど、今回のものは少し種類が異なる。なぜならこれはとおるくんにされたことにではなく、自分の反応そのものに対して向けられたものだからだ。だって、あまりにも大袈裟な反応になってしまった。それに、なぜこんなにも間抜けな声が出てしまったのだろう。もっとかわいい反応はできなかったのだろうかと思わずにはいられない。あまりにも過剰な反応を見せてしまったからなのか、とおるくんが大丈夫かと言わんばかりの声で言った。
「ごめん。耳まで真っ赤だったから、つい出来心で」
やっぱり赤かった!
慌てて両手で耳を覆うように隠す私に「顔に近づくのは駄目なら、耳にキスするのはいいのかなと思って」と謎のトンチを効かせて来たとおるくんは、一人でなぞなぞでもしているのだろうか。そういう意味じゃないとたどたどしく呟くと、そうか、と妙に納得したような反応を返してくる。絶対わかってたくせに! というツッコミを言ったところでどうしようもないので、これは心の内に秘めておくことにしたけれど。
つまり、彼が一度顔の距離を取ったのは私を自分の方へ向かせるためで、手を離したのは髪を避けるためだったということになる。そういえば、とおるくんはそういう人だった。押してだめなら引くタイプ。何が何でも自分の方へ向かせるタイプ。ほんの少し振り返り、背後にいる彼に様子を伺ってみる。するとそれに気付いたとおるくんはどこか勝ち誇ったように笑った顔を見せたから、なんだか恨めしい気分になった。だからそっと視線を戻して、不貞腐れたように呟く。
「……とおるくん。もしかして、私で遊んでない?」
「久しぶりだから構いたいんだよ」
私の質問に対して否定も肯定もしなかった彼は手を伸ばし、今度は頭を撫でてきた。なんだか言い包められているような気はするものの、彼に触れられると、「まあでもいっか」なんて呑気な感情がどこからともなくほわほわと舞い始めるから厄介だ。
もうすっかり、なかなか褒められない「大人」の歳になってしまったからだろうか。とおるくんに頭を撫でられると自分を肯定されているような気がして、そのままで大丈夫だよと言われているような気がして、いつの間にかしあわせゲージが一気に急上昇してしまう体質になってしまった。完全に飼い慣らされている。
「……それとも、嫌だった?」
そんな答えが分かりきったことをあえて聞く必要はないんじゃないだろうか。絶対分かっているくせにという本日二度目のツッコミは、やはり心の声で呟くしかない。だんまりを決め込もうにも、しかし結局彼から逃げてしまったのは事実なので心苦しいものがある。羞恥心と自尊心の葛藤に悩む私に、まるで「早く言ってごらん」と催促するかのように頭を撫で続けるとおるくんは、諦めが悪い。ついに観念して、重い口を開いた。
「……や……。やじゃ、ない。です……」
「そう。よかった」
随分といびつで歯切れの悪い私とは対照的に、とおるくんはにこやかで明るい声を寄越してきた。きっと今頃、ポアロの接客業で見せていた爽やかな笑顔を張り付けていることだろう。それが悔しい。
またすっかり熱くなってしまった顔を両手で押さえながら、どうやったら私のペースに彼を巻きこめるのだろうと半ば諦めながら考えるしかない。やはり自分から行動するしかない気がするのだけれど、そもそも一体何をすればいいのだろう。
でも本当は、驚かせるんじゃなくて喜ぶことをしたい気もする。でも、何をしたら喜んでくれるのかがいまいち分からない。例えば私がされて嬉しいと思うことをしたら、彼も喜んでくれるのだろうか。
「(……私がされて、嬉しいこと……)」
視線を上に泳がせながら、ぼんやりと頭に浮かべて考えた。
「……とおるくんは、私に触られると……うれしい?」
自分の口をついた言葉に、ふと首を傾げた。何かが違う気がする。いや、むしろ間違えたと言った方が正しい。これはどう転がっても、「本当は逆に触ってほしいんでしょ」とでも言うような変態発言でしかない。もしくは逆に、「私とおるくんのことすごく触りたいんですけどあなたはどうですか」と言っているように聞こえるかもしれない。どちらにしても、言葉を間違えてしまったことだけは分かる。
なんで頭の中で留めておくことができなかったのだろうかと、自分で自分を殴ってやりたい。慌てて振り返ったものの、座り込んでいるせいで90度も角度は変わらなかった。
「ごめん! 違う! あの、そういう意味じゃないの!」
手を大きく左右に振って否定するものの、そもそもとおるくんは何も言っていない。逆に、そういう意味とはどういう意味だと突っ込まれれば、私は言葉に詰まってしまうだろう。しかしこういうときに限ってとおるくんはおちょくってこないし、むしろ黙ってじっと見つめているから勘弁してほしい。この自爆は、私に致命傷を与えるのに十分な威力を発揮した。とにかく話題を切り替えるべく、慌てて口を開く。
「──そ、そうだ! そういえば、今日神社に行ってきたの!」
随分と声のボリュームが大きくなってしまったのは、おそらく耳の奥から心臓の音が大きく鳴り響いて、加減が分からなくなっていたせいだ。そのまま熱い顔を極力見られないように素早く立ち上がり、ローテーブルを避けてそそくさと正面のテレビボード下に置いていた鞄のもとへ駆け寄ったけれど、動揺は静まることを知らない。それどころかむしろ悪化しているような気がしてならないのは気のせいだろうか。ついさっき彼の熱で緊張しっぱなしだったのに、今は自分の失言を悔やんでは、どうやったら誤魔化せるか頭をフル回転させている。
「(……でも、流石に逃げた方がわざとらしかった気がする)」
もしかしたらとおるくんには色々と気付かれてしまったかもしれない。私がいっぱいいっぱいになっているということが。いや、きっともう色んな意味で今更なことのかもしれないけれど。相変わらず彼に背を向けるようにして膝立ちの状態で鞄の中を漁りながら、そんなことを考える。駆ける鼓動に合わせて、世間話にしては随分と早い口調で彼に話しかけた。
「そこで交通安全のお守りがあってね、頂いてきたんだ。とおるくん、よく車乗るから……」
そう言って鞄の中を引き続き捜索してみるも、なかなかどうしてお目当ての袋が見当たらない。私が慌てているからだろうか、なかなか出て来てくれないお守りに、もしかしてどこかで落としてしまったのではないかと一抹の不安がよぎった。
これ以上失態は繰り返したくないけれど、もしかしたら鞄の中身を全て引っくり返すしか手はないかもと覚悟する。全くスマートに事を運べない自分に嫌気がさしていると、そういえばすぐ取り出せるように内ポケットの中に入れておいたことを唐突に思い出した。焦る指先で該当箇所に手を突っ込むと、朱色で「米花神社」と書かれた白い袋を発見し安堵する。少し袋の右端が折れてしまっているけれど、そこは見逃してほしい。
振り返り、きょとんとした目で私を見つめる彼と少し距離を詰め、相変わらず膝立ちの状態で差し出した。先程のことがあってどこか目を泳がせ気味でいる私とは対照的に、彼は明るい声で言う。
「わざわざありがとう」
「ううん」
まさかその場を誤魔化すために使うことになろうとは夢にも思わなかったけど、と心の中で呟く。でも今の反応から察するに、私が必死になかったことにしたがっているあの言葉は彼の耳には届かなかったのように思える。だから何の反応も示さなかったのかな。
「(うん、きっとそうだ。よかった)」
突然だったし、呟くような小さな声だったから聞こえなかったんだ。そう自分に言い聞かせるように安堵していると、一方の彼は差し出された袋に手を伸ばし、まっすぐな瞳で私を捕まえて言った。
「──嬉しいよ」
彼のこの言葉は間違いなくお守りのことを言っているはずなのに、先程の私の失言に対して答えているような妙な感覚に陥ってしまう。お陰でまた彼の目は見れなくなってしまった。ひょろひょろと自信なさげに視線を下へ泳がせた後、「うん」とか「よかった」とか、そんな当たり障りのない返事をぼそぼそとすることしかできない。
「僕、米花神社ってまだ行ったことないんだ」
そんな明るい声が聞こえてすぐ、彼は紙を擦れる音を立てた。おそらく、袋の中に眠るお守りを取り出して眺めているのだろう。だからきっと今頃彼の手の中には、白の布地に稲と桜の花が施され、「交通安全守」と金色で刺しゅうされているお守りが握られているはずだ。
盗み見するように顔を上げてみると、やはり手元のお守りを見つめている。彼の口角が上がっていることから察するに喜んでくれているらしいことも分かり一瞬安堵したものの、ふいに顔を上げたとおるくんと視線がぶつかりどきりとする。まるで心を見られたかのような感覚になってしまい動揺する私に、彼はいつもどおりのあたたかな笑みを見せる。
「車の中に置いておくよ」
「う、うん。……あ、鞄の中しまっとく?」
「ああ。ありがとう」
そう言って差し出されたお守りを受け取った私は、内心困惑していた。
「(……どっち?)」
結局聞こえていたのかそうでないのかの判断材料がなさすぎて、私にはさっぱり分からない。彼は探偵という職業柄なのか、それとももともとの性格からなのか、感情をなかなか顔に出さない。そのポーカーフェイスから答えを導き出せたなら、私はきっと探偵の素質があるに違いない。勿論そんなものが本当にあったのなら、こんなにも頭を抱えることにはなっていないけれど。じっと彼を見つめていると、とおるくんはそれに答えるように笑った。
「そんなに見つめられると、照れるんだけど」
「あっ。ご、ごめんなさい。なんでもないの」
「そう?」
「う、うん」
ぎこちなく口調で返し、受け取ったお守りを彼の鞄に入れるべくそそくさと彼に背を向ける。「照れる」と言った割にはそんな素振りを一切見せずけろりとしていた彼に少しもやもやしたなんて、本人には言わなくていいことだ。
彼の鞄は、私のそれと隣に寄り添うようにテレビボードの横に並んで置かれている。随分シンプルな黒のトートバッグの中は、財布やスマホなどの必要最低限のものしか入っておらず、物が少ない。いつだってコンパクトにまとまっていた。その前で膝をつきつつぼんやりと眺める。私のとは大違いだなと頭の隅で思いながら、受け取ったばかりの小さな紙袋をそっと鞄の底へ沈めた。
「(……少し、落ち着こう)」
よし、と一呼吸ついたところで立ち上がり何気なく振り返る。そこでまた彼と目が合った瞬間、私の時は止まってしまった。
──そういえば、私はどこに座ればいいのだろう?
なるほど私が抱えるべき問題がこんなところに隠れていたとは。もともとはとおるくんの横に座っていたけれど、途中から私は彼の腕の中にいた。つまりこのまま横に並ぶように座れば、それを嫌がっていたと捉えられてしまうかもしれない──自分から逃げておいてと思われるかもしれないけれど、色んな意味で恥ずかしさの限界だっただけで嫌なわけではなかった──。しかし本音を言うとできることなら数十秒前と同じ位置に戻りたいのだけれど、先程自爆した気まずさが上回って実行に移せないままでいる。
「(いや、でも本人に聞こえていなかったのであればセーフなのでは?)」でもそもそも私は、彼の目の前まで戻り、とおるくんを背もたれにするように座ることをできるのだろうか。しかも、自然な流れで。
『……とおるくんは、私に触られると……うれしい?』
脳内で響き渡った己の声に、追い打ちを掛けられた。
「(む、無理だって)」
結論は秒で出てしまった。だってあんなこと言ってしまったせいで、今まで感じたことのない気まずさが次から次へと絶えることなく押し寄せてくる。いや、本人の耳に届いてなかったのだけれども、そもそもこれは聞こえたとか聞こえなかったとかではなく、自分の良心への気まずさの問題なのだ。
どうしよう、どうすればいいんだ。なぜ私は自ら離れてしまったんだと、数十秒前の自分の行動を呪うしかない。いや、でもあの状態であのままでいろというのも無茶な話のような気がするけれど。
「──座らないのかい?」
「えっ? あ。う、うん!」
挙動不審に映ったのであろう私にとおるくんは不思議そうな顔をして尋ねて来たけれど、まさか、座りたいのはやまやまなんですけど戻る場所が分からないんです、とは言えなかった。いや、できることなら先程と同じところに行きたいのだけれど、色々な事情のお陰でできないと言った方が正しい。
とは言えこのまま突っ立っているのもおかしいし、いっそこのまま座らなくていい理由を探した方が良いのだろうか。そうだ、例えばお茶のおかわり淹れるとか……。ああだめだ、私もとおるくんも全然飲んでないからちっとも減っていない。お皿も綺麗に片付けてしまったし、こういうときに限ってやることが残っていないとはどうしたものだろう。
どうしよう、ここは恥ずかしいとか気まずいとか、そんなことを言っている場合ではないのでは。そうだ、思えばいつもとおるくんに引っ張ってもらっている気がするし、たまには私から行った方が。恋人なのだから何もおかしなことはない。それに、さっきもそうして失敗してしまったわけだし、ここはもう、自爆のことは忘れて……。
「(……よし!)」
再び意を決したところで、また視線がぶつかった。その瞬間彼にすべてを見透かされた気分になって、思わず体が固まってしまう。慌てて目を逸らしたものの、全てが逆効果になっている気がしてならない。結局私がどれだけ決意を固めても、いざ彼を前にすると普段必死に蓋をしているそれが外れて、いつも気持ちが爆発してしまう。溢れ返ってしまう「すき」があまりに大きすぎて、私は彼の前ではしあわせが溢れるのと同時にいつも心臓を高鳴らせて緊張してばかりでいた。このままではだめだということも分かってはいる。
「」
あたたかい声に呼ばれて、遠慮しがちに彼を見やる。とおるくんは優しい目をして手を差し出していた。多分彼は、全てを見透かしているのだろう。心の隅でそんなことを思った。
「おいで」
胸の奥をぎゅっと鷲掴みにされた気がした。もしかしたらときめくとは、こういうことを言うのだろうか。一瞬心臓が飛び跳ねて、つい口元が緩んでしまうこの感じ。お陰で体裁とかプライドとか気まずさとか、どこかへ綺麗さっぱり吹き飛んでしまった。
ゆっくりと距離を縮め、彼から見て左側を陣取る。そしてそのまま半ばなだれ込むように正面から抱き着いた。テレビの画面は見れないけれど、私にはこれが一番落ち着く気がしてならない。背中に回された腕が、私の一方通行ではないことを証明してくれているようでうれしかった。
「……ふふ」
「何?」
「なんでもない」
つい笑みが零れてしまった私にとおるくんは柔らかい声で、なんだそれはと呟いた。口ではこう言っているけれど、聞いている限りちっとも不思議に思っていないように聞こえてしまう。だからもっととおるくんの優しさに甘えたくなって、もっとそばにいたくなる。とおるくんも同じ気持ちだといいな、なんて調子のいいことを今日も心の隅で願ってしまうのだ。
「なんだか嬉しそうだね」
膝の上に私を乗せたとおるくんが言った。しかし声を聞く限り、彼もとても機嫌が良いように思える。するととおるくんはまた私の心を読んだかのようなタイミングで言った。
「僕も、君から触ってきてくれて嬉しいよ」
その言葉は先程の自爆台詞を見事に彷彿とさせ、私の体はぴしりと凍ったように固まってしまった。気まずさのあまり顔を隠したくて必死に彼の首元に顔を埋めたものの、笑いながら背中をぽんぽんとさするとおるくんには全く意味がないような気がしてならない。…もしかして、やっぱり。辿り着いたひとつの答えに半ば震えながら、おずおずと口を開いた。
「……や、やっぱり、聞こえてたの?」
「うん。流した方が良いのかなとも思ったけど」
聞かなかったことにしてくれて全く構わなかったのに、どうして拾い上げてしまったんだ。しかし元はと言えばこれは自分が仕出かしてしまった失態なので、それは責任転嫁というやつだ。しかし愛しい彼を恨めしく思いつつも、相変わらずぎゅっと彼の背中に腕を回して離さない。しかし顔は見せられずとも、変に誤解をされたままではたまらないと弁解を試みた。
「あの、変な意味じゃないんだよ。ただとおるくんはいつも冷静だから、驚かせてみたいなって」
「うん」
「……でもどうせなら、驚かせるより喜ばせたいなと思って」
「うん」
「……その……。私がとおるくんにされて嬉しいことをしたらいいのかなって考えてたら、あの、言葉を間違えたと言うか……」
「うん」
「………………すみません、これはなんの公開処刑ですか……」
「ああ、なんだろうなあ。はは」
やけに楽しそうな気がするのは私だけだろうか。声が震えている私とは対照的に、とおるくんはやたら弾んだ声をしている。恥ずかしさの限界に思わず、もういやだ、と震えた本音が漏れてしまったものの、それもしっかり聞き取ったらしい彼は相変わらずケタケタと笑っている。
「それで、まだ顔は見せてくれないのかな?」
「……知りません」
自分が思った以上にトゲトゲとした低い声が出た気がするというのに、言われた本人はちっとも気に留めない様子で「つれないな」と笑っている。きっと、本当にへそを曲げているわけではないと分かっているから、適当になだめているのだろう。まるで子ども扱いされているようだ。
私だって、やるときはやるんだから。
極力彼の視界に入らないようにゆっくりと顔を上げる。そして彼の頬の表面をなぞるように顔を近付け、そのまま何も言わずにそっと唇を重ねてみた。しかし一瞬触れてすぐ離れたキスは、色気の欠片もありはしない。とおるくんのように相手をその気にさせるテクニックなど、私に習得されているはずもなかった。
自分からしたくせに一体どんな顔をしたらいいのか分からなくて、すっかり火照ってしまう顔を引き締めるべく口をつぐむ。そうして目を見ることなく俯いてそのまますぐに彼の首元へ収まろうとしたというのに、それを阻止されたのは、褐色の手が私の右頬と首の後ろを捕えて半ば無理やり顔を上げさせたからだ。思わず、「えっ」と声が漏れる。一瞬見せた彼の瞳はまっすぐに私を捉えていた。その目の奥の何かに射抜かれて、もう逃げることが出来ない。
それを確認したからかやけに真面目な色を見せていた瞳は閉じられ、どこか甘い空気をかもし出している。動揺する私を置き去りにしてまた顔の距離が縮まっていくものの、そのスピードはやけにじれったくて、心臓を急かすのに十分な威力を持っていた。鼓動が全身に響き渡るせいで、テレビから聞こえてくる音がやけに遠く聞こえた。
「ちょ、ちょっと待って!」
あまりに心臓が耐えきれなくて、思わず彼と自分の間に右手を差し込んだ。いや、正確には捻じ込んだと言った方が正しい。お陰で口がガードされ、指先にキスする羽目になったとおるくんは、明らかに不満そうに眉間に皺を寄せて目を開けた。彼は顔の距離は変えぬまま、明らかに不貞腐れている低音で「なに」とだけ呟く。
「ご、ごめなさい。つい……。でもあの、急に来られるとその、心の準備が……」
うまい言い訳が思い浮かばず言葉を濁す私に、とおるくんはじっと目を見たまま、まるで納得がいかないと言わんばかりに「急に誘ってきた君が言うのか」と追い打ちを掛けてくる。瞬間、私の体内で爆発が起こった気がした。和太鼓のように大きく弾ける鼓動を全身で感じながらしどろもどろになっていると、その様子で察したらしいとおるくんは言う。
「……分かった。次からはもっと不意を突けるよう努力する」
これだけ聞いているとまるで諦めると言わんばかりなのに彼は全く顔を離そうとしないから、きっとこれは口にはしない続きの台詞がある。「だから今回は観念して手をどけてくれ」。きっとこの真っ直ぐな目はそういうことに違いない。その証拠に、彼は首の後ろに回していた左手を移動させて、いつの間にか私の右手首を掴んでいる。どうやら完全に火がついてしまったらしい。
しかし握力差から言ってこの手を剥ぎ取ることなんて彼にとっては動作もないことのはずなのに、どうしたことか彼の手は全く力が入っていない。だからあくまで私の意思を尊重するつもりのようだけれど、私がどうしたいかなんてこと、とおるくんはやはり分かっているに違いない。
なんだか甘酸っぱい青春を送っているみたいだ。恋に恋するつもりは毛頭ないけれど、とおるくんと過ごす時間はいつだって心地のいいものだった。例えうぬぼれでも彼の視線や言葉の一つ一つに愛を感じてしまうから、私がとおるくんのことをすきなように、彼もまたそうであると絶対的な自信が今日も生まれてしまう。何度でも鼓動を高鳴らせ毎日彼に恋をしてしまうのは私だけでないと、そう思ってしまうのだ。
だから会えなくてさみしいなんて思わない。そんな隙間なんてない。そんな単純な思考回路を持つ私は、調子に乗ってこんなことを口にした。
「……キスされたらもっとすきになっちゃうけど、いい……?」
「奇遇だな。僕もだ」
そう小さく笑った彼の声は、なんだかいつもより甘ったるく聞こえた。それがなんだか愛しくてくすぐったい。ゆっくりと右手を下ろすと、それを見届けたとおるくんは優しく左の頬を撫でてくる。そして彼はどこか満足そうに目を細めて囁いた。
「──いい子」
私の心臓は、いつだって彼の手の内にある