彼が私の全てじゃないし、彼も私が全てじゃない。例えどんなに仲の良い家族や友達にも踏み込まれたくない絶対的な領域を守りたいから、全てをさらけだす必要はないと思っている。「ずっと一緒じゃなきゃいや」なんて簡単に口に出来るほど、私は素直でかわいい子ではないらしい。いつの間にか妙なプライドが壁のように立ち塞がっていた。

 でもその壁に守られた向こう側に私の世界があるし、きっと彼には彼の世界がある。だから彼のすべてを知っているわけでもない。知らないことも秘密もきっとお互いまだまだあるし、なんとなく「安室透」という人物は私の予想を超える何か大きなものをひっそり抱えているような気がしてならない。そんな気配は薄々感じている。

 しかしだからと言って、決してそれに興味がないわけというわけではない。彼のことを知りたくないと言ったら嘘になるし、時々見せる知らない横顔は遠い存在のようでさみしく思うときもある。それでも第三者から見たら「おかしい」だとか「冷めている」と言われてしまうかもしれないこの距離が、少なくとも私達には心地よかった。

 そのために、お互いある程度の距離を保ちつつ、共有するテリトリーを大事に守っていくのが一番の得策のような気がする。だからこそ、今までこの関係が続いてきたと思えてならないのだ。

 例えば彼が最近始めた、喫茶店でアルバイトのこともそうだ。確か店名はアポロで、私が住んでいる米花町の、5丁目にあると本人から聞いた記憶がある。彼は探偵という職業上捜査の関係で色んなところにアルバイトとして潜入していたらしかったけど、こんなに家から近いのは今回が初めてのことだったから、少し心が飛び跳ねたことを今でも覚えている。

 しかし私自身高校から大学生までファミリーレストランでアルバイトをしていた経験があるものの、その姿を身内に見られるのがなんとなく恥ずかしくて、親や友人に絶対来ないでと念を押していた過去がある。だからあれから歳を重ねた今でもその記憶は根強く残っていた私は、彼が接客のバイトを始めたことを聞かされたあの日、とある決意をした。

 とおるくんのバイト先には行かないようにしよう。

 幸い私が住んでいるのは隣の4丁目なので、隣の地区の地理には特別明るいわけではない。せいぜい普段、駅前にある米花デパートなどの大きなショッピングモールに行くくらいだ。だから、アポロという喫茶店が5丁目のどこにあるのかなどは全く分からない。眠りの小五郎で有名な毛利小五郎の探偵事務所の下の階にある店だと聞いてはいたけれど、その事務所もどこにあるのかさっぱりなので、結局のところ状況は変わらなかった。

 もちろん普段とは違うであろう彼のバイト姿には興味を惹くものがあったけれど、仕事中に気を遣わせてはいけない。なにより仕事とプライベートは分けるべきと考えている私にとって、彼のバイト先というものは私が入ってはいけない領域のひとつだった。だからあのときも「そうなんだ、がんばってね」とありがちな反応を返すのみで、それ以上のことは詮索をしなかった。ただ接客と調理両方をするとは聞いていたので、「とおるくんの作るごはんおいしいから、きっと繁盛するんだろうなあ」と呟く私に、彼は買いかぶりすぎだよと笑っていたけれど。

「(そういえばとおるくん、今頃バイト中かな)」

 ほころんでしまう頬を隠しきれないまま、昨日彼から入った電話を思い出す。

 ──明日バイトが夕方終わりだから、家に行っていい?

 よくある世間話をしていた途中、彼は思い出したようにそんなことを言った。聞くと、どうやら探偵業の依頼も珍しく入っていないらしい。特に予定もないしとふたつ返事で承諾したものの、よくよく考えてみたら顔を合わせるのは3週間ぶりになるかもしれない。一般的にはどう思われるか分からないけれど、私達にとってはこれが通常運行だった。

 安室透という人物は、なぜだか常に多忙を極めている。

 もともと探偵業を営む手前依頼があればあちこち行っているようだし、最近は毛利探偵の弟子になったとか言って先生について色んな現場に同行しているらしい。むしろ喫茶店でバイトを始めたのもその近くにいるためとのことだった。つまり単純計算、探偵業が今までの倍に増えたからなのだろうか。一体どんな依頼が入り込むのか知らないけれどやたら怪我をしてくるし、彼の愛車がズタボロになっている姿を、一回や二回なんてなんてかわいい表現では表せないくらい見かけてきた。

 流石の私も驚いて事情を聞いたけれど、「転んじゃって」とか、「ちょっと事故に巻き込まれて」と苦笑するだけでそれ以上は語ろうとしない彼を前にしては、もう何も言えない。ならばせめてと「流石にお祓いに行った方がいいんじゃないか」と勧めたら歯切れの悪い言葉が返って来るばかりで、ちっとも話を聞いてくれなかった。もしかして忙しすぎて疲労がたまっているから事故を起こしてしまうのではないかと心配してしまう。

 とりあえずこれ以上何かあったらたまったものではないと、今日米花神社で交通安全のお守りを頂いてきたから、会ったら渡しておこう。本当は今日も私と会うより休んだ方がいいのではないかと頭をよぎったものの、久しぶりに会えるのが嬉しくて口に出せなかった私の、せめてもの償いだった。

 ……そういえば、この辺りは5丁目だった気がする。

 米花神社からの帰り道、ふと連鎖的に彼のバイト先の名前が脳裏をよぎるも、慌てて首を振って消し去った。まあ、後で会えるしと半ば無理やり結論付ける。…早く、家に帰らなくては。彼が来るまで特に予定はないけれど、そういえば昨日の夜、期間限定という文字に釣られて買ったピーチティーを水出しで作っておいたはずだ。今頃冷蔵庫の中で寝ているはずだし、お茶でも飲んで、先に一息ついていよう──そう考えていたのに帰路につく足が止まってしまったのは、目の前で可愛らしいねこがごはんをおいしそうに食べていたからだ。おそらくそのねこ専用であろう皿に入れられたエサを、喫茶店の出入り口の前で。

 店の名前は──ポアロ、というらしい。ドアの横に置かれた広告看板にそう書いてある。そしてそこに描かれたロゴと全く同じものを胸にプリントされたエプロンをつけたお姉さんが、膝を付いてしゃがみながら、その三毛猫を見守っては話しかけている。おそらく彼女はここの店員なのだろう。

「(仲良さそうだし、首輪付けてるし、この店の看板ねこか何かなのかな?)」

 ぼんやりと考えながらじっと見つめていると、立ち止まったまま凝視している私に気付いた店員さんが、「あっ」と小さく言葉を漏らした。するとおもむろに立ち上がり、店のドアを開けながら華やかな笑顔で言う。

「いらっしゃいませ!」

 どうやら私は、店の中に入りたいもののねこが邪魔でそれが出来ず困っている客だと思われてしまったらしい。勘違いさせてしまって申し訳ないけれど、正直「ねこかわいいなあ」程度のことしか考えていなかったのでこれは完全に予想外の展開だ。しかしここで「いや違うんです」と否定するのもなんとなく気まずい。

「(まあ、家に帰ってお茶飲もうと考えてたし、いっか)」

 お茶一杯貰って帰ればとおるくんが来るまでには十分間に合うだろうと結論付けて、お姉さんの人懐こそうな笑顔に釣られて店内へ足を踏み入れる。ねこばかり見ていたせいで外観を全く見ていなかったけれど、昔懐かしい喫茶店という雰囲気で、駅前のデパートに入っている店に比べて随分と落ち着いている印象を受けた。ちょっと、いいかもしれない。特別ものすごくおしゃれというわけではないけれど、庶民的でゆったりとした時間が流れている。店へ入ってすぐのところにあるカウンター席には、すぐそこの米花小学校の生徒であろう小学生──多分見た目からして一年生くらい。最近の小学生は喫茶店に通っているのか──が4名並んで腰掛けている。眼鏡を掛けた少年と一瞬目が合った。他にいるお客さんは、一番奥のテーブルでコーヒーとサンドイッチをゆったり楽しんでいる老夫婦くらいだった。

「奥のテーブル席、どうぞ」

 どこに座ればいいのか分からず店内を見渡していた私に、先程のお姉さんが声を掛ける。振り返ると彼女は手を伸ばし、そのテーブル席の方向を差していた。その先をなぞるように視線をやると、確かにテーブル席だが、明らかに四人掛けのそれがある。しかし私は一名様だ。加えて言うなら特に後から誰かが合流する予定もない。確かに今店内は落ち着いて客はまばらとは言え、本当にいいのだろうかと小心者が顔を出す。でも店員さんが言ってくれてるしと、どきどきしながら、カウンターに背を向けるようにして案内された席に腰掛けた。正面を向いて座る度胸は私にはない。

「あの猫、最近来るようになったんですよ」

 先程のお姉さんは丸いトレーを片手に私の元へとやってきては、柔らかい口調で話し掛ける。その上に乗せていた、水と氷が一緒に入ったグラスのコップと、お手拭きを静かにテーブルの左隅に置きながら。「あのねこ」と称されたのは、私が先程まで見ていたあの三毛猫のことだろう。ふと顔を上げると、彼女はどこか嬉しそうに笑った。

「大尉って言うんですけど、よくこの時間にエサをもらいにふらっと来るんです。もしよかったら、また会いに来てくださいね」
「あ。はい!」

 ほにゃっと笑ってしまったのは、多分お姉さんの人懐こい笑顔に釣られてしまったからだ。この店員さん、絶対接客うまい人だ。そんなオーラを感じる。なんだかこの店員さん目当てでお店に来たい気がしないでもない。うーん、ねこもいるかもしれないし、店員さんも素敵だし、あとはフードメニューはどんな感じなのかが気になるかもしれない。今日は食べることが出来ないけれど、今度堪能できたらいいなあ。……ああそうだ、注文を。

「あの、アイスレモンティー、ありますか?」
「はい、ありますよ」
「じゃあすみません。それ単品で、ひとつください」
「はい」

 少々お待ちくださいとにこやかな笑顔を残し、彼女はカウンターへと戻って行った。なんだかやっぱり、いい店員さんだなあ。愛想が良くて笑顔もとっても素敵だし、てきぱきしてるし、ドリンク単品の注文なのに、迷惑そうな素振りを一切見せなかった。今日はレモンティーを飲んだらすぐ帰ります。でも今度絶対食べに来るので許してください。そう彼女に向けてテレパシーを送ってみたけれど、はたして無事受信することはできただろうか。彼女に背を向けるように座っているから様子を伺うことはできないけれど、どうやら席を外していたらしい他の店員さんが戻ってきたらしいことだけは分かった。

「(そういえばメニューも見ずにオーダーしちゃったけど、他にはどんなのがあるんだろ)」

 次回来たときのために見ておこうと、右の窓側に置かれたメニューの冊子を手に取り広げてみる。するとなるほどざっと見てみたところ、主食はサンドイッチやパスタ、デザートはケーキやアイスがあるらしい。そういえばこの間とおるくんが作ってくれたハムサンドおいしかったなあ。食べてるところをじっと見られていたのは、ちょっと気恥ずかしかったけど。ちなみになぜ突然彼の存在を思い出したのかというと、彼が依然振る舞ってくれた料理と同じ名前のものをメニューの中から見つけてしまったからだ。しかしそこで、ふと我に返る。

「(なんだか私、とおるくんのことばっかり考えている気がする)」

 落ち着けと言わんばかりにそっとメニューを元の位置に戻した。なんでハムサンドひとつでこんなに一喜一憂してるんだろう。中学生や高校生じゃないんだから。いい加減、成人してる大人なんだから。しっかりして。そう自分に言い聞かせていると、視界の左端に人影が入り込んで来た。どうやら早速店員さんが、注文の品を届けに来てくれたらしい。

「お待たせしました。アイスレモンティーです」
「あっ。ありがとうございます」

 置くときに邪魔になるだろうとテーブルの隅に置いていたお冷を右側に移動させながらお礼を言うと、目の前に、レモンの輪切りが浮かぶ紅茶が、透明なグラスに入ってやってきた。そしてその横にガムシロップや、ストローが入っているのであろう細長い袋も置かれる。その間視線をテーブルに固定して店員さんの顔を見ることはなかったのは、最初に席に案内してくれたお姉さんの声ではなく、他の男の人のものだったからだった。どうやら先程戻ってきたもう一人の店員らしい。

「(でもなんとなく、声がとおるくんと似てるかも)」

 そう頭の隅で考えたものの、まあ気のせいだろうと結論付けて流すことにする。しかしテーブルの左隅にうつ伏せに伝票を置く彼の手が目に入り、おや? と首を傾げた。肌の色や指のラインも、とおるくんに似ている気がする。なんとなく気になって、その指先からなぞるように視線を上げてみると、似ているなんてかわいい表現ではできないほど彼と瓜二つな顔が私を覗いていた。思わず、あっ、と声が漏れてしまう。

「やあ。ここに来てくれるの、初めてじゃない?」

 驚いたよ。そう笑う彼は、間違いなく安室透そのものだった。驚いたのはこっちだよ。ぽかんと口を開けたままそう頭に言葉が浮かんだものの、舌に乗せることができたのは「えっ? あの、なんで……」という音だけだった。今日、アポロでバイトだって言ってなかったっけ?かろうじて口にすることに成功したものの、当の本人──驚いたと言ってはいるが、実際は全くそんな素振りを見せず、むしろ涼しい顔をしている──は、けろりとこう返してきた。

「うん。だから今バイトしてるってわけ。それと、アポロじゃなくてポアロだね」

 なるほど解ってしまった。要するに、私は彼のバイト先を間違って覚えていた、ということらしい。だから私からすると何気なく入った喫茶店で休憩をしていたら、違う店で働いているはずの彼が店員として現れ動揺、という筋書きになるが、彼からしてみればいつもどおりバイト先に出勤したら私が客としてやって来た、ということになる。つまり簡単にいうと事の発端は、私のうっかりミスのようだった。

 とおるくんもとおるくんで、私が今まで間違えていたときにポアロだよと訂正してくれればいいものの、単に言い間違えてるだけだろうと考えていたらしい。まさか本当に誤って記憶しているとは思っていなかったとのことだった。

「(あっ、でもそういえば……)」

 彼が米花町の喫茶店で働くことを決めた日、探偵事務所の1階にこんな店名の喫茶店があるなんて洒落てるよね、なんて笑って言っていた台詞を思い出した。そのときはアポロと探偵となんの繋がりが?なんて思ったものの、きっと宇宙のように広い世界で真実を見つけることはうんぬん、というような意味なのかなとぼんやり結論付けて流してしまったような気がする。

 つまりあのとき、きちんと意味を確認すればこのような事態は避けられたはずなのに、なんということだろう。なぜならポアロとは、推理小説に出て来る探偵の名前なのだから。

「(ど、どうしよう!)」

 偶然とはいえうっかりバイト先に来てしまったこと、そしてずっと間違えて覚えていたことのダブルアタックで、私の体温はみるみるうちに急上昇してしまった。とりあえずこの紅茶を一気飲みして早くこの場を立ち去ろう。そうだ、きっとそれがいい。なぜなら私は今最高に居心地が悪いし、そもそもアルバイト先と言う名の職場は、私が踏み込んではいけない彼の領域なのだから。

「ご、ごめんなさい! 私、勘違いしてて……」
「ううん、構わないよ。まあ、聞き慣れない名前だしね」

 どうやら店名を誤ったことを謝罪していると思っているような返答をしてきた彼に、「いやそっちもだけどそっちじゃなくて」と訂正するほどの余裕はもう私には残されていなかった。これ飲んだらすぐ帰るからと言わんばかりに慌てて紅茶に手を伸ばしたものの、とおるくんは落ち着いた空気をまとったまま、「ちょっと待ってて」と言い残して離れてしまう。

 背中を目で追うと、彼は迷うことなくカウンターに戻り、なにやら作業を始めていた。キッチン側が見えない今、彼が何をやっているのかこちら側から確認することは出来ない。そして、待っててと言われた手前、おそらく彼はまたこちらにやって来るのだろう。それまでずっと凝視するわけにもいかず、視線をまたテーブルに置かれたレモンティーに戻して溜息をついた。

 ……少し冷静になろう。

 そもそも彼の言う待っててとは、飲むのを待ってて、ということなのだろうか? それとも、紅茶は飲んでていいけどちょっと離れるね、でもすぐ戻ってくるから、という意味なのだろうか? どちらにせよ、さほど状況は変わらないのだけれど。

「(どうしよう……)」

 ひとまずその場しのぎでアイスレモンティーを頼んだものの、彼がここで働いていると知った今、少しでもこの店の売り上げに貢献できるように食事もしたほうがいいのかもしれない。しかし今は午後3時過ぎ。お昼ご飯なんてとうの昔に済ませてしまった。だから今私の胃袋は、満腹とまではいかずとも腹五、六分目がいいところである。でも身内の店にやってきて、飲み物だけというのもなんとなく気が引ける。お前は人の仕事場にわざわざ何しにここに来たという話になるわけだ。

 いや、そもそもここに来たのは店の前で戯れていたねこの姿に癒されてついガン見していたらそれに気付いた店員のお姉さんが声を掛けてくれたからなのだけれど。そもそもとおるくんのバイト先だと知っていたら入らなかったのだけれど、今そんなことを言ったところで遅い。……この状況、とおるくんはどう思っているのだろう? そればかりが気になって、ちっとも集中して考えられない。

「はい、どうぞ」

 また頭上から聞き慣れた優しい声が振ってきたかと思ったら、何か固いものをテーブルに置かれたような音がした。どうやらとおるくんが戻って来たらしい。ふと顔を上げると、つい先程までは間違いなくそこに存在していなかったはずのかわいらしい雰囲気を身にまとった洋菓子が、喫茶ポアロと書かれた白い皿の上に姿を現していた。

 召喚魔法か何かだろうか。綺麗に塗られた白い生クリームの上に、上品にスライスされたいちごと、ツヤ出しの役割を担っているのであろう同色のジャムが、カットされた先端部分に乗っている。卵を惜しみなくたっぷり使ったのであろうスポンジ生地は、見るからにキメが細かくふわふわとしていた。生地とクリームが交互に並んでいる断面図も美しい。しかし私は、ショートケーキを注文した記憶はない。それともこの店では居酒屋のお通しのように、客が来たらとりあえずケーキを出すという習慣でもあるのだろうか。そんなわけはない。それを持ってきたとおるくんを動揺しながら見上げると、彼は綺麗に微笑んで言った。

「僕が作った新しいケーキなんだけど、試食してくれるかい?」

 敬語ではなくフランクな口調から察するに、どうやら客にというより完全に個人、に接しているようだった。「後で感想聞かせて」と付け足されたものの、試食品と称するには随分きれいな出来栄えのそれは明らかに商品の現物だ。おそらくこれは彼なりのサービスで、試食なんて銘打ったのは、私に気を遣わせないためなのだろう。

 それを察して慌てて口を開いたものの、頭が混乱してなんと言えば良いのか瞬時に判断できず、歯切れの悪い音しか出てこない。そんな私を、注文していない商品にお金を払うのはと躊躇しているように捉えたのか、彼は「ああ」と思い出したように言った。

「これ試食品だから、お代は気にしないで」

 しかし私が言いたかったのはそういうことじゃない。そんなわけにはいかず、慌てて「でも」と繋げると、私が甘いものがすきなことを知っている彼は、「もしかして」と続ける。

「チョコレートケーキのほうがよかった? それとも今日は、主食を食べに?」
「そ、そういうわけじゃないけど……」

 私が言いたいのは、突然やってきてしまったのにこんなにおもてなしされるのは申し訳ない、という話だった。そもそも試食品でも商品でもきちんとお金は支払うつもりだったし、スイーツではない一般的なフードメニューが入るほど胃袋に隙間は残されていなかった。つまり私が今口にすべきなのは、偶然とはいえ突然職場に来てしまったことへの詫びだったのだ。しかし彼はそんな雰囲気を一切出させないまま、サービスをしてくれている。

 もしかしたらとおるくんは、私がバイト先に来たことをなんとも思っていないのかもしれない。それでも自分がされて嫌なことを相手にしたくはなかったから、店内にいる他のお客さんや店員のお姉さんに聞こえないようにこっそりと口を開いた。自分の彼女が職場に来ていると知られたら、彼も迷惑だろうと考えたからだ。

「あの、とおるくん。ごめんね」

 すると彼は、別に僕が勝手にやってることだし、と返してきた。どうやら今度は、今の謝罪の言葉を、ケーキをサービスしてくれたことに対しての言葉だと思ってしまったらしい。なるほど今の私は確かに随分言葉足らずだ。それを察した私は、「そうじゃなくて」と慌てて繋げた。

「成り行きだけど、その……。結果的に、勝手にバイト先に来ちゃったから。言い訳するとね、ここに来たのは偶然で。その、ねこが……」
「……?」

 しかし、どうしたことだろう。彼は謝られるようなことをされただろうかと言わんばかりにきょとんとしている。そして状況を把握するべく少し考えるように視線を上に向ける素振りを見せた後、言った。

「てっきり、僕に少しでも早く会いたくて、バイト先まで来てくれたんだと思ってたんだけど……」

 違うの? そう真顔で首を傾げられ、私の思考回路は停止してしまった。何を恥ずかしことをしれっと言っているんだこの人は。唯一残った非常用の思考回路は、一周回ってそんなことを呟いた。しかし度肝を抜かれた私には実際にそんなことを言える余裕など残っておらず、全身の熱を顔に集中させて固まることしか出来なかった。

「えっ? あっ……」

 まるで思考を読まれたその発言に、うまい返しが思いつかない。確かに会えるのが楽しみだなあなんて心を温めていたのは事実だけれど、こうも直接的に、しかも本人の口から言われるだなんて、恥ずかしさのあまり泣きそうになってしまう。動揺のあまり金魚のように口をぱくぱくさせていると、それを見た彼は何かを結論付けたのか、どこか満足そうに笑った。

「4時で終わるから、それ食べて待ってて」

 混乱が続いている中、「それ」と称されたケーキになんとなく視線を落としつつ、ふと考える。待ってる、とは…? 今度は何をだろうかと完全にショートし切った頭で考えていると、彼はそっと左の耳元に近寄って、まるで内緒話をするかのように小さく囁いた。

「一緒に帰ろう」

 その瞬間私の中のどこかで、明るい花がパッと咲いたような気がした。何故だかつい口角が上がってしまう顔で、彼を見上げる。

「ほ、ほんとう!?」

 はっと我に返ったときには、自分が思っていたよりも随分と弾んだ声は空気に混じって消えてしまった後だった。静かに時を流していた喫茶店で、その音は随分大きく主張したのだろう。店内にいた客や店員は驚いたように私に視線を集中させていた。それに気付いて視線を返すと、彼らはそっと顔を逸らし、何事もなかったかのようにコーヒーカップに手を掛けたりと、止まった時を動かし始めた。勿論また火を点けたように、顔に熱を集中させたのは言うまでもない。

「(は、恥ずかしい!)」

 これは完全に、ご主人様に尻尾を振っている犬のような状態だ。うっかり口をついて出て来てしまった言葉を押し殺すように口元を手で押さえていると、とおるくんはどこか楽しそうに「じゃあまた後で」と言い残し、今度こそカウンターに戻って行ってしまった。どうやらもう来ないらしい。顔馴染みらしい小学生に、あの女の人と知り合いなのかと尋ねられている声が聞こえてきた。

 ……なんだかやってしまった。ような気がする。

 何をと聞かれても困るけれど、こう、なんというかうまく言えないけれど、余裕とか、冷静さとか、全て取っ払ってしまった姿を見せてしまった気がする。別にそれが今回初めてのことではないし、会えない時間が愛を育てるなんてよくあるフレーズを信じている訳ではないけれど、どうやら自分で思っている以上に彼に会えたことが嬉しいらしい。そしてそれを彼に知られてしまったような気がしてならない。

「(でもまあ、今日は怪我もしていないようだしよかった、かな)」

 ……と、いうのは流石におかしいのだろうか。そうそう、怪我なんてしてないのが普通だから。普通の人は愛車の左半分を大破なんてさせないから。心の内でそう自分に言い聞かせていると、例の小学生四人組中の一人──女の子だった──が、まるで興味津々と言わんばかりにとおるくんに話しかけているのが耳に入って来た。

「ねえねえ。あのおねえさん、安室さんの彼女さん?」

 まさか小学生に殺される日が来るとは思わなかった主に私の心が。「何言ってんだよアユミー」という、おそらく同級生であろう男子生徒の不思議そうな声も聞こえてくる。どうやらあの女の子はアユミちゃんというらしかった。そうだそうだ、何を言っているんだアユミちゃん。しかしアユミちゃんは妙に確信を得たように、いや、むしろ疑いの余地はないと言わんばかりにぐいぐいと、とおるくんを問い詰めているようだ。その雰囲気はまるで、犯人を問い詰める探偵のようだ。

「安室さん、いつもより目がやさしかったもん! 絶対そうだよ! ねっ! そうでしょー?」
「(そうでしょ、とは!?)」

 驚いて振り返ると、やはりアユミちゃんはカウンター越しのとおるくんに問いかけている。なんなら前のめりの体勢になっており、その姿を見ただけでも彼女は強い興味を持っているらしいということが分かった。もともと随分積極的な性格なのか、はたまた色恋沙汰に興味があるお年頃なのかは分からないけれど。

 しかしこれは由々しき事態だ。どうすればいいのだろうとあわあわしていると、質問をぶつけられていた当の本人は、そうだなあと曖昧な相槌を打ってちらりと私を見やる。一瞬ぶつかる視線にどきりとすると、彼はまたいつもの笑顔を張り付けて、推理を披露した少女に視線を戻した。

「流石少年探偵団だね。ただ、僕は公言してもいいんだけど、あのお姉さんとっても恥ずかしがり屋だから、あんまり大きな声で言っちゃだめだよ」

 それもう公言しちゃってる! 人差し指だけをまっすぐに立てた手を自分の口元に持ってきて「内緒だからね」なんてお茶目に笑っているけれど、全然「しー」になってないし全然秘密なんかじゃない! むしろ自ら暴露している!

「(とおるくんてそういうとこある!)」

 茶目っ気出して、からかっちゃうところが! しかし女の子は女の子で「やっぱり!」と声を弾ませているから、どうやら女の勘が当たったことを喜んでいるようだった。一回りなんてレベルではない歳の差を持つ小さな彼女──しかも初対面──にずばり言い当てられてしまうだなんて、大人としてどうなのだろう。まるで自分を赤裸々に言い当てられたような感覚で恥ずかしくなってくる。私は昔から、自分をさらけ出すのはどうも苦手だった。

 彼らの会話は聞こえて来るものの、自らそれに入り込む度胸は私にはない。ますます体を小さく縮めて俯いてみるも、そんなことをしたところで私の存在を消すことはできない。黙り込む私に小学生たちの視線が集中しているのが嫌でも分かったけれど、もう振り向くことは出来ない。

「あーっ、お姉さん耳真っ赤!」
「ふふ。かわいいだろう?」
「(とおるくん、本当そういうとこある!)」

 なぜか満足気に笑う彼に、やっぱり仕事場へ勝手にいたことを根に持っているのではないかと思わずにはいられない。からかわれている、もしくは遊ばれている気がする。どちらも似たような意味かもしれないけれど。でも結果的に、この店に来づらくなっちゃったかもしれない。また来ようと思っていたけれど、まさかこんなことになろうとは夢にも思わなかった。もう間違いなく、私はこの店に来られない。ねこや店員さんにほっこりしていたのが、もはや遠い昔のことのように思える。

「(もう! とおるくん!)」

 お願いだからいい加減にしてと恋人を呪っていると、少女はまだまだ聞きたいことが山ほどあるらしい。ますます弾んだ声で言った。

「安室さん、おねえさんのことだいすきなんだね!」
「ああ」

 迷うことなく即答した彼の声が、やけに耳に響いた。

「彼女にぞっこんなんだ」

 彼は今、どんな顔をしているのだろう? 間違いなく最後のトドメを刺してきた恋人からの言葉に、私はますます身を縮ませることしかできなかった。居心地が悪くなって、慌ててフォークを手に取る。だけどせっかくとおるくんが持ってきてくれたのに、感想を頼まれていたのに、今はケーキの味なんて分かりそうにない。



甘い領域




20180503