「沖田さん」
空の一部が朱色に染まろうとしている頃。 相変わらず猫と戯れながらせせらぐ川をぼんやりと眺めていると、突然後ろから声をかけられた。 一体誰だろう。 好奇心から顔だけそちらにやってみると、そこには緑の着物を着た男の人が立っている。 そして今まさに名を呼ばれた彼はその人を見るや否や、ついさっきまで楽しそうに猫とじゃれついていたのが嘘のように顔を歪ませた。 この反応から見るに、どうやら彼の顔見知りらしい。 (まあ名前も呼ばれていたし。) …沖田さんの機嫌が急降下した理由が、直感的に嫌な予感がしたからか、それともただ単にこの呼び出しにやって来た人が嫌いだからなのかは私には分からないけれど、彼は見るからに嫌々そうに口を開いた。
「…何。なんか用?」
「はい。副長がお呼びです。すぐに屯所まで、」
「やだ」
そう一刀両断すると、沖田さんはぷいっと背を向けて、また「」とじゃれあい始めた。
…子どもですかあなたは、と言ってやりたい。
そして多分あの緑の人もそう思っているに違いない。顔に書いてある。
でも、「副長」と言ってきているのだから、きっとこの人も彼と同じ新撰組の隊士、つまりは仲間の方なのでしょう? 更に、自分の上司からお呼び出しが掛かったのでしょう? それをわざわざ伝えにきてくれた人に「やだ」って、あなた。 「だって、僕は今日非番なはずでしょ。なのに、なんでわざわざ土方さんに呼び戻されなきゃいけないのさ。 訳が分からないよ。まああの人が考えてることなんて、これっぽっちも分かりたくもないけどさ」 うわ、さり気なく毒吐いたこの人。 「それに用があるなら、山崎君じゃなく、自分から来るべきなんじゃない?うんそうだ。それがいい」 ……上司にわざわざ来いって、あなた。 副長さんとは馬が合わないのかなあと予想していると、ヤマザキ?さん?は、こういうことに慣れているのか驚きはしていなかった。 が、代わりにやれやれと言わんばかりに溜息をついた。
…え、私。私はどうしたら良いのだろう。 無意味におろおろしてしまう。 いや、私は別に関係ないけれど。 あ、でも、この場に居合わせて、しかも沖田さんの隣に座っているのだ。 はたから見れば無関係とは思うまい。 しかも決して「良い」とは言えないこの空気。 …一体どうすれば。 どうしたものか全く分からずきょろきょろしていると、ふいに沖田さんの膝に呑気に寝そべっている「」と目が合った。 が、彼女はどうしたのとでも言うように首をかしげただけだった。 ……私、今だけ猫になりたい。そして傍観者になりきりたい。 そうこうしているうちにヤマザキさんは、相変わらず徹底無視の態度を取る沖田さんに顰めるような表情を見せ、先程より少し強い声で、再び彼の名を呼んだのだった。
「…沖田さん」
「…冗談だよ」
ついに彼も観念したのだろう。 これまた心底嫌そうな表情を見せた後、「」を抱えて立ち上がった。 もしかして、この子も一緒に連れて行ってしまうのだろうか。 不安に思いながらぼんやりと彼を眺めていると、彼は受け取れと言わんばかりにを私の前に差し出した。 あ、れ? どうやら私に返してくれるらしい。
少し戸惑ったけれど、素直に手を伸ばし、を受け取って抱いてやる。 しかしは私ではなく、じっと沖田さんのほうに目を向けていた。 …そらすことなく。 どうやらお別れを察知したらしい。 まるではそれを拒むように、「みゃー」と淋しそうに鳴く。 それに気付いた彼は、私とほとんど同じ目の高さまでしゃがみこんでは、困ったような笑みを浮かべた。
「ごめんね。今日はもう、帰らなくちゃいけないみたいなんだ」
はまだ鳴いているけれど、彼もまた、どこか淋しそうに見えた。 それにしても、これはに言っているのであって、私ではない。 そうは分かっているのだけれど、まるで私自身に言われているような気がしてしまうのはなぜだろう。 そんなこと、彼に言ったらすぐにからかいの種にするだろうから、絶対に口にしないけれど。 うん、ちゃんと分かってる。分かってる、のに、
「でも明日もまた来るから、そんな悲しそうな顔しないでね。…僕だって、淋しいんだから」
そう言いながらに向けていた瞳と、ばちっと目がある。 え。え。 どうしよう、目が逸らせない。はなせない。はなしたくない。 よく分からない感情が渦巻く中、彼はふわりと優しく笑った。 「ね。」 そう名前を呼ばれた瞬間、かあっと全身が熱くなる。 訳が分からなくなって、私は慌てて口を開いた。
「わ、私!私は淋しくなんか、ありませんからっ!」
「あれえ。君も僕が帰っちゃうのは嫌だって思ってくれたんだ?
今のはこの子に言ったのに」
ねーーと子猫に話しかける沖田さんに答えるかのように、みゃあーと可愛らしい鳴き声がひとつ。
な。な。な。
「ま、またからかったんですねー!?」
「あはは。やだなあ違うよ。僕はただ、『猫のほうの』にお別れの挨拶をしてただけだってば」
嘘だ!嘘だ!絶対嘘だ! だって彼は、まるで悪戯が成功した子どものような、はたまた面白い玩具を見つけたような、そんな笑みを見せている。 その姿は何度か見てきているから間違いない。 私完全に、は、はめられ、た! 「それとも今の台詞、『人間のほうの』に言ってほしかった?」 途端、また全身が熱くなる。 沖田さんは相変わらず不敵に、意地悪げに口を三日月にさせていた。 羞恥のあまり顔を合わすことすら出来なくなって、思わず彼に背を向けて座りなおした。
「そ、そん…!そんなこと、思ってません!絶対に!これっぽっちも!ほ、本当です…!」
正面を向いて言えないのが情けない。 それにしても、私も私だ。 どうしてそんな、わ、私に言われた、なんて思ってしまったんだろう! は、恥ずかしい!穴があったら今すぐ入りたい!なくても今すぐ掘りたい入りたい埋まりたい! 一方で、背中からくすくす笑う声が聞こえてくる。 …誰の、なんて論外だ。 「ちょっとからかいすぎちゃったかなあ、こっち向いてよ、人間の方のちゃん」 「嫌です」 一見すると反省しているように取れるが、全然そんなようには聞こえない。 みゃあと胸元で抱き締められていたが私の代わりに鳴いた。 ていうか、「からかいすぎちゃった」って、やっぱりからかうつもりで言ってたんじゃないか。
「でももし淋しくなって会いたくなったら、君のほうから来てくれて構わないからね」
「…大事なを、新選組の屯所なんて物騒な所に行かせるわけないじゃないですか。
例えこの子があなたを恋しがったとしても、」
「違う違う。今のは君に言ったの」
「またからかって」
「本当なんだけど?」
「仮にそうだったとしても、行きません。絶対に」
「…即答されるのは流石にちょっと傷付くんだけどなあ」
またそんな嘘を。
「でも、君は僕に会いに来るよ。しかも今日。…断言する。なんなら賭けようか」
どこからそんな自信が出てくるのだろ。 私は行かない。絶対に。 そう何度も言っているのに。 ちろりと盗み見するように沖田総司に目をやると、視線に気付いたらしい彼は、その言動どおり自信に満ち溢れた笑みを見せた。 なんでこの人は、こんなにも、 「……沖田さん」 痺れを切らしたのだろう、いい加減に話を切り上げてくれと言わんばかりに山崎さんが再び声を掛けた。 ああそういえば、この人は呼び出されたんだっけ。 「山崎君はせっかちなんだから」 彼は苦笑して、今度こそ立ち上がる。
「じゃあまた後でね。」
だから、私は絶対、 「にゃああー」 …もしまだ生まれて間もない子猫でなくて、私が抱いてもいなければ、今にも追いかけそうなは。 まるで「待っていてね」と言わんばかりに鳴いた。 それを見て沖田さんは満足そうに笑った後、決してこちらを振り返らず屯所へと帰っていった。 私はその後ろ姿を、ぼんやりと見送る。 ………ああそうか。今のは猫のほうの、か。 ややこしいったらない。 …でもは絶対屯所に行かせません。 私も沖田さんに会いに行きたいなんて、お、思ってなんか、ないんですからね。
『僕だって、淋しいんだから。…ね、』
ふいに思い出した台詞。 不敵な笑み。 声が耳にこびりついて、離れない。 目を閉じても、その姿は消えてくれない。 「みゃあ?」 不思議そうに私を見上げる。 どうしたのって、言われてる気がした。 「ううん。なんでもないよ。大丈夫」 そういえば先刻から、私、沖田さんのことばかりを考えているかも、しれない。 うわっ!な、何を、そんな!しっかりして、私! 思わずをぎゅうと抱き締める。 …なんだろう。 まだからかわれたこと、恥ずかしいのかな。 あの人を思い出すたび、なぜだか顔が、熱くなるの。
100107 山崎さんが空気?知ってます(←)(「何かを消せない理由を想う」加筆修正:100426)