おはよう。今の私には、そんな簡単な挨拶すら声にすることが出来ない。代わりに頼りなく空気が擦れたような音が出た。ようく聞けば何を言っているのか分かるかもしれないが、もはやここまでいくと声ではない。それに無理に声を出そうとすると更に悪化して、治るまで時間が掛かりそうだ。ごほんごほん。症状を再認識しなさいと言わんばかりに咳が出た。…要するに、風邪だった。だけど熱はない。頭痛もない。声だけが枯れ果ててしまったのだ。ああ、そういえば鼻も少し症状が出てるかも、と鼻をすすりながら思った。

熱がないので学校を休むのも忍びないし、もしもそうしてしまったら、千鶴ちゃんは周りが男子だらけの中、お昼を1人で食べることになってしまう。それはいくらなんでも申し訳ない。気の毒だ。ああ、でも幼なじみの平助先輩もいるから大丈夫だったのかな、なんて、学校に着いてからふと思った。…そして今、放課後に至る。

「…風邪か」

症状を適切に言い当てた斎藤先輩は、無表情でそう言った。こくりと頷いてやれば、彼は「そうか」とだけ呟いて、「無理はせず、早く治すんだな。…手洗いとうがいはきちんとしろ」と、なんとなくお母さんみたいなことを言った。斎藤先輩は勘が良いのか千里眼があるのか、はたまた読唇術を心得ているのか分からないが、私がぱくぱくと口を動かすだけで、何を言っているのか読み取ってしまう。ジェスチャーとか筆談が必要だと思っていたばかりに、この展開は意外だった。さいとうせんぱいって、すごいですね!

「…お前が分かりやすいだけだ」

凄い凄ーい!また当てた!私は嬉しくなって、またいつもみたいに話しだす。いや、口を動かす。私は放課後の風紀委員の活動前に、この理科準備室(風紀委員の活動場所だ)で今日1日のことを話すのがもはや日課になっていたのだ。本人からしたら迷惑極まりない話に違いない。いつも「…そうか」とか淡白なものばかりだけれど、ちゃんと聞いてくれるから、千鶴ちゃんとはまた違う信頼を寄せていた。わたし、さいとうせんぱいみたいなおにいちゃんがほしかったなあ。「俺はいらない」…即答は流石に酷いです。「だからそんなに睨むな、総司」うん?

この場にはいない人物の名に疑問を抱いたのとほぼ同時に、突然ずしっと肩と背中が重くなった。ひっ!?思わず声にならない空気の擦れた音が喉を通る。幽霊か何かそういう類いだろうかと心臓をばくばくさせていたが、ふと、後ろから回された両腕がゆるく、私の首の辺りに巻き付いていたことに気が付いた。そして背中には暖かさ。…あれ。これは、人?…わ、私もしかして、後ろから抱きつかれて、る!?自分の状況を段々把握し始めた私の脳は、先程とは違う意味でパニックになり全身が火を吹くほど熱くなったが、体はがちんと氷のように固まった。だって、こんなことを平然とやってのけるのは、私の知る限り1人しかいない。更に斎藤先輩が呼んだ名前から言って、間違いない。お、お、お、沖…!

「やあ一くん。人の彼女と仲良くお喋り?」

や、やっぱり沖田先、輩!だった!……う、わ。右肩に顎を乗っけて喋らないでほしい。頬に髪が当たってくすぐったい。単刀直入に言うなら、頼むから耳元で話さないで、ほしい!そもそも場所をわきまえて…というか、学校でこういうことはしないでっていつも言っている、のに!しかし今の私は声が出ないのだから、意思表示するすべを持ち合わせていない。…どうしたら良いのだろう。何気なく少し右を向いてみると、思ったよりすぐ近くに沖田先輩の顔があって、また心臓が和太鼓のように鳴り響いた。ひ、ひい!

「あれ、今日は随分おとなしいね。いつもなら抗議の声が飛んでくるのに。顔真っ赤にしながら」
「(分かってるならやめてほしい…!)」
「…総司。は風邪を引いて声が出ないそうだ」
「風邪?そうなの?」
「(!ふ、え!)」

何気なく顔を覗き込むようにしてくるものだから、私は慌てて首を縦に振る。必死すぎて2回もしてしまったのはご愛嬌ということにしてほしい。「ふうん、風邪かあ…」納得したような声がする。まあ納得というか、事実なのだけれど。しかし回されている腕は相変わらず健在だった。だからおきたせんぱいも、こんなことしてるとうつっちゃいますよ。ぱくぱくと口を動かしたが、当然ながら彼に通じる訳がない。首を傾げているのが分かった。ちろっと斎藤先輩に視線を送ると、その意味を諭してくれたようで、仕方ないと言わんばかりの顔で口を開いた。

「…総司、はお前に風邪がうつると心配しているそうだ」
「え?…そうなの?」

こくり。また頷く。すると沖田先輩はまた「ふうん」と言って、「一くんが読唇術を心得てるとは思わなかったなあ」と、私が求めている回答とは全く関係ないことを口にした。…いや、私も凄いなあとかは思いましたけど。でも今はそういうことを言っているんじゃなくて、その、だ、抱き、抱き締めるのはやめてくださいって話で!確かに斎藤先輩は意訳して言ったから分かりにくかったかもしれないけれども…!いや私も直接的な言い方した訳じゃないですけど…!いくら気が知れた斎藤先輩とは言え、顔見知りの前の前でっていうのはいくらなんでも恥ずかしすぎるし!…あれ?これじゃまるで、人がいなかったら良いみたいじゃない。な、何!私は何を考えて…!「──ちゃん?おーい」「…聞こえていないようだな」いやいや落ち着いて!沖田先輩は私が慌てふためく様子を面白がっている訳だから、ここは冷静に対応するのがベスト、なんだよね。よし、それで行こう!密かに決意していると、沖田先輩は「でもまあ、さくらちゃんが言いたいことは大体分かるよ」と切り出した。

「君のことだから、どうせ、風邪が移るから離してくださいってところでしょ」

沖田先輩は、半ば呆れたような口調だったけれど、私の主張を的確に言い当てていた。……わ、分かっているならなぜそうしないんですか!声には出来なかったけれど、目がそう言っていたのだろう。先輩は「分かりやすいね君は」と笑った。

「だって、僕は風邪なんて気にしないから。だから却下。それに君は恥ずかしがっているだけで、嫌がっているわけではないから」

そ、…れはそうです、けど…。確かに嫌な訳じゃない。正直嬉しい、けど。原田先生とか平助先輩は、沖田先輩に「あんまりまとわりつきすぎると、うざがられるぞ」と笑いながら言っているけれど。私はそういうふうに感じたことはないなあとぼんやりと思う。ただ周りの視線が気になるから抗議の声は上げるけど。だからそういう意味じゃ良い組み合わせなのかなあ。よく分からないけれど。それにそこまで断言してくれると、いっそ清々しい。

「分かった?」

やっぱり抱き締めている腕が緩められることはないまま、沖田先輩は楽しそうに問う。後ろから私を覗き込む先輩に、私はもう何も言えなくなっていた。近距離で視線が合うのは耐えられなくて、私は少し俯く。そして返事をする代わりに、ぎゅっと先輩のカーディガンの袖を掴んだ。そしたら、いい子だね、なんて小さく耳元で言ってくるものだから、私はますます恥ずかしくなって、裾を掴む右手の力を強めた。

「ああ。そういえば、僕のど飴持ってるよ。食べさせてあげよっか?口移しで」

おきたせんぱい!からかわないで下さいと言わんばかりに顔を真っ赤にして口を動かせば、先輩は笑いながら「今のは僕にも分かったなあ」と言った。そんな私達だから、斎藤先輩から出ていけと宣告されるのは時間の問題だった。





声が溶ける






20100401 (沖田さんでSSLを書くと、なぜか必ずバカップルになるという謎。その場に居合わせてしまったヒロインバウリンガル・3110さんに激しく同情する)