今まで使っていたものが新しくなると、なんだか嬉しくなる。例えば新しいシャーペンを買った日はどうしようもなく書くのが楽しくなったり、おろしたてのノートを使うときは、出来るだけ綺麗に使おうと、以前よりも丁寧にペンを走らせる。だから新しい教科書を買うときも、その例外ではなかった。新品で、真っ白で、折り目も皺も何ひとつ無い、まっさらな教科書。これから1年間勉強に励みます!…とは言えないけれど、やっぱり嬉しくなってしまう。要するに私は、新しいもの好きだった。
「で、嬉しさのあまり、わざわざ持って帰ってきた。…と?」
正面に座っていた沖田先輩が、理解出来ないと言わんばかりの目で言った。場所は、ファーストフードの禁煙席。今日は始業式だけだから、お昼は一緒に食べようと待ち合わせたのだった。先程までテーブルの上にはチーズバーガーセットが仲良く2つ並んでいたのだが、それも食べ終わり、今は処理に困った大量のポテトだけがトレーの上に散乱していた。
「まあ、ちゃんらしいけどね。でも重いでしょ。置いてくれば良かったのに。ロッカー、あったでしょ?」
僕も今日買ったけど、全部置いてきちゃったよと、先輩は涼しい顔をして続ける。確かにクラスメイト達も皆そうしていたなあ、なんてぼんやりと思い出した。鞄に入れるには重過ぎるそれは、購入した際店員のおじさんに入れてもらった紙袋の中にある。…流石に破れはしないだろうが、確かに耐久性が優れている袋なのかと言われれば、決して首を縦に振れる代物ではなかった。しかもずっしりと、重い。特に歴史の資料集と国語総合の教科書辺りが。
「でもほら、名前書かなきゃですし」
そのために、ここに来る前にわざわざコンビニによって油性ペンを買ったのだ。それを見せ付けんばかりにまだ開封されていないペンを取り出し、早速ビニールを剥がして開封してみる。そんな私を見て沖田先輩は真面目だな君はと言って苦笑した。
昼時のピークは過ぎたからか、周りの席は空席が目立つ。だからこの空間にいるのは、雑談に夢中になっている主婦とその子どもくらいだ。…そんなに人いないし、今書いても良いかなあ。じっと先輩を見つめると、「そんなに書きたいなら書くと良いよ」と笑った。同席者の同意も貰ったことで、私は迷うことなくペンのキャップを外し、早速作業に取り掛かることにする。油性独特の臭いが鼻をかすめた。
まず手にしたのは大きな世界史の資料集。これは選んだのはなんてことない。ただ大きくて、紙袋に手を入れた際、1番取り出しやすかったからだ。くるりとひっくり返して背表紙を向けると、名前とクラスを書き込む欄を発見した。ああ、どうやらこれは3年間使うらしい。1年から3年の欄が小さいながらも確かに存在した。ええと、1年2──じゃなくて、3組。、と。うっかり中学3年生のときのクラスを書きそうになったから、慌てて補整を加える。ちょっといびつな3になってしまったけれど、多分大丈夫。
するとコーラを飲みながらその様子をじっと見ていたらしい沖田先輩は、「ああ、僕も1年のとき3組だったよ」と呟くように言った。この何気ない一言で、私は無性に嬉しくなる。とは言っても私達は同じ学年じゃないから、高校1年生のときどこのクラスだったというのは全く関係ない話だ。しかしそれでも彼との共通点をひとつ見つけられたようで、それが堪らなく嬉しい。だから「本当ですか」と聞き返すときも、思わず声を弾ませてしまった。
「うん本当だよ。…一緒だね」
いっしょ。おきたせんぱいと、いっしょだあ。実際に声にして言われると、何かがじいんと心に響いてぽかぽかした。思わず口元が緩むから、私は慌ててジュースを手に取りストローをくわえて誤魔化す。しかし、随分と氷が溶けてしまったらしく、肝心のオレンジジュースは薄まってしまって味がよく分からない。…さて、落ち着いてきたところで、再び作業を開始することにしよう。今度は何に書こうかなと適当に手を突っ込むと、古文の教科書を引き当てた。これは先程の資料集よりずっと小さく、何より薄い。
「あ。それは僕が書いてあげる」
沖田先輩が?思っても見なかった提案に聞き返すも、やはり聞き間違いではないようで、「うん」と笑顔で肯定されてしまった。先輩の字は何度も見たことがあるが、とても綺麗で読みやすい。私の丸っこい文字とは比べ物にならないくらいだった。…うーん。まあ、良いかな。字の綺麗な人に書いてもらえるほど嬉しいことはないし、何より楽だ。
「…じゃあ、お願いします」
そう言って、油性ペン(念の為キャップはしておいた)と教科書を差し出す。沖田先輩はすんなりそれらを受け取って、ジュースをトレーの上に置く。そして当たり前のように教科書の背表紙を上にした。…あれ。どうやら古典は、名前を書く欄が作られていないようだ。だから中の最終ページに書くか、背表紙に書くかの2択になる。先輩はどちらに書くのだろう。ぼんやりと考えていると、「背表紙で良いよね?」と尋ねてきた。私はどちらでも構わないから迷わず頷いたけれど、良い「よね」?と言って来ている時点で、きっと私に拒否権はなかったろうなと思った。まあ沖田先輩らしいかなと苦笑しつつポテトに手を伸ばそうとしたが、目の前の彼がとんでもない行動をしでかしたから、私はポテトを食べようとしたことも忘れて、思わず大声を上げてしまった。
「あー!何!何を書いてるんですか先輩!」
突然声を上げてしまったから当然周囲のお客さんから注目の的になってしまった。…が、それくらい驚いてしまったのだ。…さて。あまりに突然ですが、ここで改めて自己紹介しましょう。私はです。昨日薄桜学園に入学したばかりの女子高生です。もう一度言いましょう。私は、です。…決して沖田、ではなく。なのに、これは目の錯覚でしょうか。沖田先輩の手によって書かれた名前は、もはや私の名前ではなかったのです。…訂正、私の苗字ではなかったのです。要するに古典の教科書の背表紙には、沖田という文字が、これまた綺麗な字で並んでいたと言う訳でした。…訳が分かりません。
「大丈夫だって。誰も背表紙見せろなんて言わないから」
「言うとか言われるとかそういう問題じゃなくって!私が恥ずかしいんです!」
「どうして?近い将来君の苗字は沖田になるのに」
さも当たり前のことのようにけろっとした顔で言ってくるものだから、今度こそ私は閉口した。というより、声を出そうにも出来なかったのだ。ち、近い将来って、苗字が変わるって。え。え。混乱している私をよそに、沖田先輩は坦々と続ける。
「苗字が変わるって、なかなか大きなことでしょう。それまでずっと慣れ親しんでいたものが、ある日突然紙切れ1枚提出したことによって変わるんだからね。だからこそ、今のうちに慣れておいたほうが良いんじゃないかな。…そうは思わない?沖田ちゃん」
「えっ、あ…。し、知りませんそんなの!んもー!入学早々からかわないでください!」
「からかってなんかないよ。僕はいつでも真面目。大真面目」
嘘付け!そう心の中で叫びつつ、沖田という今までに無い響きがじんわりと心を侵食する。べ、別に、思わず受け入れてしまったから反応が遅れたわけでは、なく!「他のも書いてあげよっか?」「結構です!」意地の悪い笑みを見せる先輩に丁重に断り、即座にペンと古典の教科書を奪い返した。相変わらずそこにはしっかりと主張している文字が並んでいる。触ってみても、滲みもしなければかすれもしない。どうやら完全に乾いてしまったようだ。
…そういえば。沖田先輩は古典担当の先生と昔からの知り合いだけど、非常に折り合いが悪いと聞いたことがある。…まさかのその先生に対する些細な嫌がらせなんじゃ。(言ってしまえば自分の担当する教科のテキストなわけだから、それに先生にとって落書き並みのことを書かれるのは快くは思わない、はず)じろっと先輩を見てみると、彼は「ごめんごめん。機嫌直して」と言って、ポテトを口に突っ込んで来た。「おいしい?」綺麗に微笑む沖田先輩に若干ふくれつつ、冷め切ってしまったフライドポテトを頬張る。ここでおいしいと返事をするのはなんとなく悔しい気がしたから、、「…先輩は教科書、持ってないんですか」と、ポテトの感想の代わりにそんなことを聞いてみた。
「うーん。全部置いてきたと思ったけど。2年になって新しく買う教科もそんなないしね」
そう言って、明らかに軽そうな鞄の中を漁り始めた。この流れから言って、自分の教科書に何かされるという予想は持っていないのだろうか。彼は。でも見る限り財布とかくらいしか入ってなさそうだしなあ。今日始業式だけで何も授業はなかったし。やっぱり仕返しは出来ないかなと考えていると、どうやら何かを見つけたらしい。「ああ。空気を読んだ子が1人いたよ」と楽しそうにそれを差し出した。
それは今しがた私が叫んだ原因となった古典の教科書。表紙は私のものと全く変わっていない。(中身は分からないけれど)どうやら古典も世界史の資料集同様通年で使うものらしい。だから鞄の中に入っていた、と言う訳だろうか。いや、多分この新品同様の姿から察するに、鞄に突っ込んで今まで放置していたという方が正しいのかもしれない。そんなに嫌いなのだろうかその古典の先生。その様子を思い浮かべて、思わず苦笑した。
「で、これをどうするの?」
…沖田先輩はまるで、これから何をやってくれるのかと楽しみだと言わんばかりの顔をしている。…さり気なくハードルを上げられていると感じつつ、私は無言で背表紙を見てみた。てっきりそこに先輩の名前が書いてあるものばかり思っていたのに、何も書いてなかった。だから中に書いたのかなと思って開いてみても、沖田総司の沖の字も見当たらない。…あれっ?「ああ、僕、教科書に名前は書かない主義なんだ。古文は特に」要するに面倒らしい。しかしこんなにも大きなキャンバス。仕返しするには十分の広さを持っている。
さて、ここで手に取りますは油性ペン。しかしここでも沖田先輩は制止の声を掛けてこない。むしろ好きにしていいと言わんばかりの顔で見ている。…どうなっても、知らないんだから。「…仕返しです」そう一言口にした後、でかでかと先輩と私の名前を横に並べてやる。そして大きな傘マークを追加してみたら、沖田先輩は「大胆だね」と笑って、「でもそういう所もすきだよ」とさらりと言ってのけた。ああ、やっぱり私は彼に敵わない。
20100401 (その後沖田さんの手によって学校中に古典の教科書ネタを広められ、死ぬほど後悔するヒロイン←)