
「……っ、す、すまない!突然妙なことを…!き、気にするな!戯言だと思って忘れてくれ…っ!」
「!い、いいえ!そんなこと!」
そう言いながらはぶんぶんと顔を左右に振って、離そうとした俺の手を、今度は逆に彼女のほうが握り返した。驚いて彼女を見やれば、頬を朱色に染めながらも瞳はきらきらと輝いて見える。
「…私、嬉しい…なんだかすごく嬉しいです…!はじめさんがそう言ってくれただけで、いてくれるだけで、私、本当に大丈夫って思えてくるんです。…不思議ですね。今までのこと、全然覚えてないはずなのに」
…笑った。どこか気恥ずかしそうに照れながら。ずっと不安そうな色を見せていたが。いつも笑顔を絶やさない彼女だからこそ、やはりそうやって笑っている姿を見ると安心する。そんな気がする。…彼女にとって俺は、力に成りえるのだろうか。そうならば、嬉しいのだが…。………。…そ、それにしても…っ!
「も、もう一度…っ!言ってはくれぬか」
「え?えっと…『嬉しいです』…?」
「そ、そちらではなく……その…俺の……」
気付いたのだろうか。彼女は、あっと小さく声を溢すと、恥ずかしそうにそわそわと視線を泳がせた。…やはり自重すべきだったのだろうか。しかし滅多に聞けぬその響きを、俺はまた聞きたいと思うようになってしまった。普段とは違う呼び名。俺の名を、彼女の声で。気恥ずかしさからなかなか口にしようとしない彼女を後押しするように、未だに繋がれた手をぎゅっと握る。するとはまた頬の赤みを増しながら、小さく小さく呟くように言ったのだ。
「は、はじめ…さん…?」
「…っ!!……よ、よく…聞こえなかった。もう一度頼む」
「…う…。……は、はじめさん」
「……………………………っ!」
彼女は俺にどうしろと言うのだろう。(いや、実際は何も思っていないのだろうが…!)先程も思ったのだが、やはり苗字と名では大分呼ばれる印象が違う。そんな気がする。…そうだ、名を呼んだ後、恥ずかしそうに微笑むのはやめてはくれないか。包み込む手も、そこから伝わる体温も、俺の名を呼ぶその声も、愛らしく微笑むその姿も、何もかも、俺にとっては動悸を起こさせる要因にしかならないのだから。
「あ、あの…」
「!な、なんだ…!」
「あ、えっと…。……や、やっぱり…い、良いです…っ!」
「なんだ、遠慮せず言うと良い。むしろ言ってくれ」
「…えっと、じゃあ…。……はじめさんは私のこと名前で、呼んでくれないんですか…?」
「な…っ!?」
「す、すみません!私!調子に乗って…!ふ、普通、そんな滅多に呼ぶものじゃないですよね…!す、すみません…っ!」
滅多にどころか、一度もあんたを名前で呼んだことはないのだが…!とは今のには言えないが…っ!し、しかしこれは確かに自然な流れ、と言えば自然な流れだ。自分に呼ばせておいてお前は呼ばないのか、という話になってもおかしくはない。…ない…の、だが…っ!し、しかしのことを名前で…!?確かに総司はのことを名前で呼んでいるが…!お、俺は今まで、そんな…っ!いやしかし、今まで呼んでみたい・と思ったことがなかったといえば嘘になる。のことを名前で呼んでいる総司に嫉妬に近い感情を抱いていたことも事実だ。…なの、だが…!(こんなことを急に言われても、心の準備と言うものが…っ!)
「や、やっぱり厚かましいですよね…っ!夫にこんな…!わ、忘れてください!わ、私本当、すみません…っ!」
「!ま、待て!俺は別にそういう意味で言った訳では…!」
「あっ…!」
「…あ」
うっかり呼んでしまった。…どんなうっかりだと自分で自分に言ってやりたい。…お、俺は今のことを、と、名前で…呼んで…?ぼんっと何かが爆発するように全身が熱くなる。慌てて彼女の手を離し、冷静になれと心の俺に呼びかける。!そうだ…!俺はずっとの手を握ったままで…!つ、つまり俺は彼女の手を握り合いながら、向き合って名前を呼んだという事か…!?そ、それはなんという拷問だ…っ!
そ、そういえばは何も言わない…のだが、なにゆえだ。横目で盗み見る限り、なんだか呆然としているように見える。…そ、そんなにおかしな呼び方をしただろうか…!そっと彼女の顔を覗いてみると、はそれに気付いたらしい。はっと我に返って、まるで火照る頬を両手で押さえるようにしながら、恥ずかしそうに言った。
「変です、私…。ただ名前を呼ばれただけなのに…なんでこんなに嬉しくなっちゃうのかな…っ」
★
「お待たせ……って、また何やってんのさ一くん。また襖に向かってブツブツ言って…」
「…せ…っ!精神を落ち着かせていると言ったであろう…!」
「…何があったのさ」
20110311