
「あっ、ええと…。…………っ、は、はじめ、さん…!」
…瞬間、ガチンと全身が凍りついた。は、はじめ、さん…?はそう言ったのか?俺の聞き違いだろうか。いやきっとそうだろう。何故ならは俺のことをいつも「斎藤さん」と呼んでいた。名前でなど一度も呼ばれた事がない。ないはずだ。しかし確かに、今…!?
「い、今…、なん…と…………?」
「え?あ、す、すみません!もしかして、呼び方違いましたか…?『あなた』とかでしたか…!?」
「!?…あ、あな…っ!?」
そういえば総司に、俺達は夫婦だったと嘘を吹き込まれていたのだった…!そしてはそれを本気にしているのであった…!しかし不意打ちに、そ、そのような呼び名をされては…っ!思わず固まる俺に、はどうしたら良いのか分からなくなったらしい。実に不安そうな目で見ている。…だ、だから…っ!そ、そんな顔で見てくれるな…っ!
「あっはっはっは!いや、ううん、合ってるよ。そうそう、君は一くんのことを、『一さん』て呼んでたの。それで 一くんはきみのことを、『』って呼んでたんだよ」
「なっ…!総司!あんたはさっきから何を、」
「それじゃ仲睦まじい夫婦同士ごゆっくり。僕や山崎君は、土方さんに目が覚めたって報告してくるから」
「ちょ待…!総………!」
襖に伸ばした手が虚しい。総司は言ったや否やすぐに山崎くんを連れてとっとと出て行ってしまった。…俺の話など聞きやしない。…ということは今、と2人きり…?…2人きり!?意識した途端、しんと静まり返る室内。先程まで総司の笑い声が響いていたとは思えないほど静かだ。
…お、俺は…ど、どうしたら良い。ちらりとに目をやると、ちょうども俺の様子を伺ったところだったようで、ぱちっと目が合ってしまう。が、お互い気恥ずかしさゆえかすぐにそらしてしまった。…ほ、ほら見ろ…!そ、総司が夫婦だとかホラを吹くから、俺も妙に意識してしまうではないか…!しかし、このままずっと沈黙が続くと言うのは…いやしかし、それならば何を話せと…?「今日は良い天気だな」?いや、気候の話をしてどうする…?
「…あの…」
「!?…な、なんだ!」
まさかから声を掛けられるとは…!思わず動揺してしまったせいで、彼女は不思議そうに首を傾げている。しかし特に気にしなかったらしく、深くは追求しては来なかった。…が、何か聞きたそうで、どこか落ち着きがないように見える。それでいてそれを聞くのに暫し抵抗があるようだ。「…なんだ」と後押ししてやって、ようやく口を開いたのだから。
「は、はい。えっと、その…私って…どんな子でしたか」
「どんな、とは…」
「知りたいんです!あの……私…本当に何も分からなくて…。自分が、どんな人間だったのかも…。だから…。…普段どんなふうに話してたとか、どんなことがすきだったとか…その……な、なんでも良いんです…!教えてください!」
「……どんな、ふう……?」
どんな奴だったかと問われれば、俺は迷わず明るい奴だったと答えるだろう。きっとを知る者ならば十中八九そう答えるに違いない。それでいて側にいると安心するというか、だからこそ逆に離れているとこちらまで落ち着きがなくなってしまうと言うか…。い、いや!何を考えているだ俺は!しかし事実の笑う姿はとてもすきだったし、だからこそ悲しませるようなことはしたくないと思って俺は…。…ち、違う!これではただの口説き文句ではないか!…落ち着け、冷静になれ。そうだ、は記憶を失って不安なのだ。少なからず動揺しているだろう彼女の代わりに、俺が冷静になってやらねばどうする。こういうときは、客観的な事実を伝えてやるのが一番だ。客観的分析するには、日頃のの言動から考えるのが手っ取り早い。…日頃…の言動……。…………………………。
『うわあ!新選組だあ!本物だあ!』
『あっ斎藤さん、こんにちは!あのね、あそこのお茶屋さんのお団子おいしいって聞いたんです!一緒に食べに行きませんか!行きましょう!』
『わ、私!斎藤さんのことがすき…!ですから!』
「(………ところ構わずとにかく積極的なやつだったとは、今のには口が裂けても言えん……)」
「ええと……あの……?どうしました?急に難しい顔をされて…」
「あ、いや、その…。………あなたは明るくて、いつも笑っていた」
「あかるい……」
「ああ」
嘘は言っていまい。総合的にまとめるとそういう結論になる。ということにしておけば。そもそも本当のことだ。そういえばはいつも笑っていた気がする。それでいて、いつも楽しそうにしていた。今にして思えば、それは強がりだったのだろうか。生まれ育ち慣れ親しんだ故郷から、突然有無を言わさず離れざるを得ない状況になったとなれば。…俺のように自らでした選択したのではないとすれば、きっと。
「……あかるい…」
彼女はまるで自分に言い聞かせるように、小さく復唱する。その瞳はどこか不安そうな色が潜むように潤んでいた。そしてそれを耐えるかのように、右手はぎゅっと布団を掴んでいる。なんて弱々しい手だ。それ以降顔を下げた何も言わぬまま、じっと己の右手を見つめる彼女。そんなを見ていたらいてもたってもいられなくて、その小さな手をそっと包むように重ねた。途端、驚いたように顔を上げた彼女と視線が交差する。
「あんたは、大丈夫だ」
今度は俺がに言い聞かせる番だった。よほど驚いたのか彼女は何も言わない。しかし驚いたのは俺のほうだ。これほどまでに行動的になろうとは。俺自らの手を取る日が来ようとは、誰が予想出来ただろう。重ねた手を、今度はそっと両手で包み込むように握る。心なしか顔が熱いが、そんなことに構ってなどいられない。今の不安定な心を支えてやれるのは、俺しかいないのだから。だからこれだけはしっかりと、彼女の目を見て伝えてやりたい。
「…俺がいる。だから、大丈夫だ」
それとも彼女は、なんて根拠のない話だと笑うだろうか。それともこの決死の言葉に、何を言っているのだろうと首を傾げるだろうか。…それでも良い。この言葉に偽りはないのだから。包み込んだの右手がぴくりと反応したのを見逃さない。お陰で一気に緊張が全身を駆け巡る。い、言い終わってから後悔するというのはどういうことだ…!じっと逸らすことなく注がれるの視線も、今の俺には羞恥を増大させるものでしかない。
20110311