つい10分前に、雨が降り出した。 小雨だったと言うのに次第にその勢いは増し、今では視界が曇り、雨独特のアスファルトのにおいが辺りに広がりつつある。 私はそれを好きでは無いけれど、MAKUBEXが好きだと言ったなら、間違いなく好きになると思う。 同時に嫌いだと言ったなら、やっぱり嫌いなままだと思う。 そんな風に彼本位の世界の中で生きる私だから、もし彼が私より大切な世界を見つけたら、一体どうするんだろう。
時は西暦21世紀、舞台は裏新宿「無限城」。 ここは外の平和な世界とは全く異なるスラム街。 日中から銃声も聞こえるし、生きる為なら手段を選ばない場所。 だから治安なんてものは無いに等しいし、弱者は強者に食われるのを怯えながら待つしかない。 だけどそんな日々は嫌だと、3年前に誕生したVOLTS。 そしてMAKUBEXが受け継ぐ様に新生VOLTSが結成して間もない今日。 当然ながらまだまだ不安定なことは次々と浮上してきて、だからかリーダーを務めるMAKUBEXが忙しくしているのは当然の事なのかもしれないけど。
「………………………」
沈黙を埋める雨音と、キーボードをせわしなく叩く音。 一体どれくらいパソコンと向き合っているのだろう、彼は。 どんな状況でも冷静な指示を仲間に伝える彼は、間違いなくリーダー素質を持っているに違いない。 そんな事は、とうの昔から知っていた。 だから今MAKUBEXの横顔を1人眺める私は、彼の切りが付くまでじっと待っていようと、邪魔をしないでいようと思っていたが、ここ1時間放っておかれっぱなしでは、痺れを切らすもの仕方ない事、なのかもしれない。
「ねえMAKUBEX、あのね、」
さて、果たして途切れた言葉は彼に届いたろうか。 ビー、ビー、ビーと、今まで無かったサイレン音が部屋中に鳴り響いたから。 …何があったと聞くまでも無い。 ベルトラインの連中がまたこのロウアーラウンに降りてきて、殺戮(さつりく)や強奪行為をしているのだろう。
「ごめん、もうちょっと待ってて!」
うん、分かった。 …ちゃんと声に出来たのだろうか、私は。 MAKUBEXはそれからこちらを振り返ることなく、相変わらず忙しそうにキーボードを叩いているから、そんな様子からそれを察することは出来ない。 相変わらずと言ったけど、ひとつだけ先程と違う事がある。 それは彼の表情が、いつもと比べるまでもなく硬い、と言う事。 しかしそれは彼1人じゃなくて、朔羅も十兵衛も笑師もみんなみんな同じ様な顔して慌てていた。 だから私でも、「今度こそじっと黙って、邪魔にならないようにしなくてはいけない」と察しが付いたし、そうした。
被害を最小限にする為、戦闘要員は早急に現場へと駆り出された。 この様に全体の指示をしなければいけないMAKUBEXは、大変多忙かつ責任重大な少年王。 一方の私は非戦闘員、しかもパソコンが出来ると言う訳でもない。 なのに何故この新生VOLTSテリトリーの、しかもそのリーダーであるMAKUBEXの部屋にいるのかと言うと実に単純明快で、私達が恋仲だから。 それだけ。 これほど分かりやすい答えはそうそうあるまい。
しかしそんな関係であってもこんな状況で声を掛けるのもMAKUBEXにとって迷惑極まりない話で、邪魔なだけだ。 そうは分かっていたけれど、最近まともに話も出来ていないから。 何かと言うと「プログラムの製作で忙しいから」と断りを入れるから。 それがしょうがない事だと分かっているから言葉にはしないししたくないけれど、やっぱりそれって淋しいんだよ。
我が侭を言うつもりはないけれど、言って困らせたくはないのだけれど、それでも似たような事がうずうず心の中をざわめかせてる。
ずるずると何かを引きずっている様に、のっそりと部屋を出た。 せめて一段落付いたら、逢いに来て。 大好きな少年の後ろ姿にそう呟いたけれど、雨音で掻き消された。
私達が住む世界の平和を何より望んでいることも確かな真実だけれども、それより私はMAKUBEXとの時間を何より求めてる。 他の人からしてみれば、なんと自分勝手な女なのだと罵(ののし)られるかもしれないけれど、だってそれは本当のことなんだもの、どうしようもないじゃ無いか。 だから時々世界が憎くなる。
エレベーターに乗って、ふらふらと屋上へと向かう。 とか言ったら「早まるな」とか「もっと楽しい事がたくさんあるぞ」とか言ってくる人がいるかもしれないけど別にそういうつもりじゃなくて、ただ何もしないで部屋に篭るより、雨を見ていた方が時間を忘れられると思っただけ。 今行ったら危ないからやめなさいって、きっと朔羅に知られたらそう言う。 けれどそれならそれで良いかもしれない。 そうしたら、きっとMAKUBEXも私を叱ってくれるわ、構ってくれる。 本当は怒られたくないけれど、貴方の瞳を向けられるならそれで良い。
屋上のドアを開けて聞こえてきたのは降り止まぬ雨音、肌寒い風、響く爆音…悲鳴。 それがここから無くなったとき、MAKUBEXは逢いに来てくれるのだろうか。 繋いだ言葉は頼りなく、いつも不安にさせるけれど。 …あ、そうだ。今度2人でゲンジイの所へ行こう。 「久しぶりに息抜きしよう」って言って。 MAKUBEXも育て親のゲンジイに久しぶりに会いたいだろう。 そうだ、レンも元気かな。 そうしてお茶をご馳走になって、時を忘れるくらいお話して、
…ああ、それとも断られるかしら。
そしたら嫌だなあ、理由がどうあれ落ち込みそう。 だけど笑って「そっか」って言って、私1人で行くことになるんだろう。 そしてそのとき「1人じゃ危ないから」って言って、十兵衛辺りを護衛役としてつけるんだろう。 それが彼の優しさでさり気ない心遣い。 だけどね、それじゃ物足りない。 ドアにもたれる様にずるずると座り込み、目を瞑って世界の音を聞いた。
私は幸せな世界なんていらない。ただ貴方がいてくれればそれで良い。だけどその世界を必死に守ろうとしている貴方にそう言ったなら、一体なんて返すのでしょう。世界が存在しなければ私達も出逢うこともなかったし、これから生きることも出来ないのだけど、その世界があるせいで貴方が私を見てくれないと言うのなら、やっぱり世界はいらないわ。矛盾してると人々は言うでしょう、けれど私にとってそれ程MAKUBEXは──
「、風邪引くよ」
ふわふわした世界。 頭もぼんやりして意識がはっきりしない。 これは夢?それとも現実? それはどうしても分からないけれど、MAKUBEXの声が聞こえるわ、幻聴? 例え夢であったとしても、MAKUBEXに逢えたから嬉しいな。 ああ、目を覚ましたく、ない。 だって起きて開いた世界のその目の前に、彼はいないのだから。
「」
あれ? なんだか声と一緒に、ちゃんと雨音も聞こえる。 なんてリアルな夢なんだろう。
「、起きて」
肩に暖かい温もり、世界は静かにゆさゆさと揺れる。 手放しくないと思っていた夢の世界を手放して光の国へ旅立ってみれば、辺りはもう真っ暗で、目の前にはきっといないだろうと思っていたMAKUBEXがいるではないか。 はてこれは夢かしら、私はまだ寝ているのかときょろきょろと辺りを見回してみると、そこは先程来た屋上だった。 どうやらあのまま寝てしまっていたらしい。 じわじわと状況把握してくると、目の前から視線を感じるMAKUBEXにようやく顔を向けた。 彼の表情は、少し怒っているように見える。
「こんな所で寝てたの?雨降ってる中外にいるなんて、風邪引くよ! なにより危ないよ!さっきまでベルトラインからの襲撃を受けていたのに! 連中に見つかったらどんな目に遭っていたか! 『連中が降りてきたときは、絶対に外へ出ないで部屋でじっとしてるんだよ』っていつも言ってるだろ!」
ああ、どうやら本当に怒っていたらしい。 そしていつも通り、MAKUBEXの言い分は正論だ。 それでいつもの私なら「ごめんなさい」ってしょんぼりたれて言うのかな。 あれ、いつもの私って、どんなだっけ…。
「…あ、ごめん。ちょっと言い過ぎた、ね」
何も言わず、ただじっと目を伏せていた私に、MAKUBEXは申し訳無さそうな顔をした。 でもそれは、きっと違う。 だって私は、今しがたの自分の軽率な行動を反省して何も言わなかったのではないのだから。 貴方が言っている事は、決して間違ってはいないのだから。 だけど、そんなことよりね? 時より不安になるのは身の安全より愛しい想いの行く先で。
「…MAKUBEX、は、私のことちゃんと、想ってます、か」
…あれ?突然何言っているんだろう、私。 本当にこれは私の口なのかと、何故勝手に動いたのだと驚きを隠せないままでいる。 しかしそんな私と同様に、MAKUBEXも吃驚した顔をして。 だけどすぐに「どうしてそう思ったの」って、少し厳しい顔して呟いた。
「どうして、って…だって…」
どうして目を逸らしてしまうんだろう、彼は今もまっすぐ私を見ているというのに。 どうして言葉が出てこないんだろう、心に埋もれている気持ちは確かにあるというのに。 これじゃ伝わらない。 伝えたいのに。 例えばいつも私が傍にいても、プログラムを制作しなければいけないからと構ってくれない事に不満を持っているとか、だからMAKUBEXは私の事が本当にすきなのかなって不安に思っているとか。
「…──少年王の立場である僕が、こんなこと言ったらいけないのかもしれないけど」
そう言ってすとんと私の隣に腰を下ろして来たと思いきや、聞こえたのはMAKUBEXの声。 そして何の前触れも無く繋がれた手は冷たく、今なお降りしきる雨で、かすかに濡れていた。
「僕は君がいるから世界を大切にしたいって思うんだよ。 守りたいんだ、君を。 だって、は僕の世界でたったひとりの、大切な女の子だからね」
彼は少し頬を赤らめて、だけど優しく微笑んでそう言って。 その瞳はいつでも私を見てくれていたというのに、私は何を不安に思っていたのだろう。 もう何がなんだか分からないくらい、心が満たされた気がした。 言葉にしない想いも彼はちゃんと察してくれているのが嬉しかったのか、はたまた今まで疑っていた私を恥ずかしく思ったのか、段々目の奥も熱くなって、来て。
「それで、は?」
そんな事、本当は言わなくても分かっているんでしょう。 ぐしゃぐしゃな顔でしゃくり泣き、不定期な呼吸。 とても言葉なんて発せられないわ。 それでも必死になって、音にしようと努力する。 私を見てって、必死になって、伝えるの。
だいすき、です。
かすれていたけれど、震えた声だったけれど、とてもとても小さな声だったけど。 それでもやっとの想いで紡ぎ出したのに、なんと言うことでしょう、またも言葉は雨音に重ねられ、きっと肝心の彼には届いていない。 だけど、きっと届いたわ。 MAKUBEXは子供の様に無邪気で明るい笑顔をくれた後、私の溢れてばかりの涙を拭(ぬぐ)って、それから何度も優しい口付けをしてくれました。
つい10分前に、雨が降り出した。 小雨だったと言うのに、次第にその勢いは増し、今では視界が曇り、雨独特のアスファルトのにおいが辺りに広がりつつある。 私はそれを好きでは無いけれど、MAKUBEXが好きだと言ったなら間違いなく好きになると思う。 同時に嫌いだと言ったなら、やっぱり嫌いなままだと思う。 つまりね私、それくらい、貴方をすきっていうこと。 そんな風に彼本位の世界の中で生きる私だから、もし彼が私より大切な世界を見つけたら、私はきっと、きっとね、
愛しい貴方と一緒に、手を取り合って歩んでいくの。
080315 朱臣さくら (雨上がりの空は、まるでふたりの新しい世界を祝福してくれているようでした)