だ、大丈夫。大丈夫だよ。だからこんなに緊張する必要なんてないんだよ。大丈夫。きっと来てくれるから。だいじょうぶだよ。

そう朝から何度も何度も自分に言い聞かせ続け、放課後になった今でもその緊張から解放されることなく、むしろ拍車にかけているような気がする。まるでこれから面接にでも受けに行くかのように疾走し続けている私の心臓は落ち着くことを知らない。まるで波のように絶え間なく押し寄せてくる何かに追われているかのようだった。

1ヶ月ぶりにやってきたドーナッツのチェーン店の時刻は午後4時20分を回ったところ。小さな子ども連れの母親グループの来客が目立つこの店内に、ある意味目立つであろう制服姿で小さな2人席の壁側に腰掛けていた私は、10秒前に見たばかりだと言うのに何度も時計を見てしまってどうも落ち着かない。それは別に同世代の姿が探し出せないから居心地の悪さを感じているわけではなく、朝から蓄積され続けていた緊張によって生み出されたものだった。スクールバックから100円ショップで購入した小さな折り畳みの鏡を取出し、そっと自分を映し出してみる。

…うん、髪ハネてない。ワイシャツの襟もまっすぐ。ネクタイも曲がってない。大丈夫、大丈夫だ。

念入りに最終チェックを施してみるものの、何度行ったことだろう。別にカフェテリアのように外にいるわけではないから風に吹かれるわけでもないのに、ついつい気になってしまう。なんだか自意識過剰にでもなってしまったかのようだ。普段鏡なんて滅多に覗き込まないのに。

「(だ、大丈夫かなあ…)」

鏡に映る自分の姿は随分自信なさげにしょぼくれているように見える。頬が強張って、まるで極寒の中長時間歩いてきたかのように固い。ちゃんと、笑えるのだろうか。マッサージがてらむにむにと頬を触ってみる。うーん、いまいち効果があるのか分からない。諦めて鏡を折り畳み、鞄に仕舞い込もうとしてふと自分の手が視野に入った。ああ、もしかしてマニキュアとか塗ってきた方が良かったのかもしれない。そんなことを考えたら飾り気も何もない自然体な私の指は子供じみて見えて、急に恥ずかしくなってしまった。少しくらい背伸びしても良かったかもしれない。お母さんに借りれば良かった。せめて、色のつかないトップコートだけでもしておけば…。

しかしもうすでに遅しというやつで、いくら昨日の自分を呪ってもタイムスリップなんてSF的イベント展開は発生してくれないようだ。溜息を付きながらスクールバッグに鏡を押し込んでチャックを閉め、また右側の壁に掛かっていた時計を見やる。しかしあれから30秒と経っていなかったと知り、ふと注文したコーヒーに視線を落とす。しかしどうも嗅ぎ慣れない大人の香りは飲む気になれず、無意味に喉の調子を整えるべくコホンと咳払いをした。

…流石にちょっと、早く来すぎてしまったのだろうか。待ち合わせは4時30分。あと10分ある。学校が終わってすぐに来てしまったから、かれこれコーヒー1杯で20分ほど粘っていることになる。しかも、一度も口に付けずに。いや、だって、中学生でもコーヒーを飲んでたら少しは大人っぽく見えるかなと思って。…せめてカフェオレにすれば良かったとまた悔やみながら頭を抱えていると、ふとレジをしていた店員のお姉さんの来客に向けられた挨拶を耳に入ってくる。その声に何気なく入口を見てみると、閉まる自動ドアの前で見慣れた一人の男の人を発見した。彼の同年代の平均より明らかに飛び抜けて高い身長と色素の薄い髪が随分目立つその人は、ショーケースに飾られていたドーナツに目もくれず店内を見回していた。

「あっ!」

しまった、声なんて出すつもりなかったのに、姿を見つけたら無意識に喉から飛び出てしまった。しかもどうやら向こうまで声が届いてしまったらしく、彼は声の発信源を頼りに私を見つけ出した。目が合った瞬間恥ずかしくなって、緊張しているくせにやたら緩んで仕方ない口元を俯いて隠す。急にピンと背筋を伸ばしてみるものの、どうも首の後ろが熱くなって仕方がない。…早速かっこわるいとこ見せてしまったように思えてならない。

ひとつだめなことが起こったらまた連鎖のように気になるのが人と言うもので、さっき鏡で確認したばかりだと言うのに前髪が変になっていないかだとか、一体何度繰り返せば消えてくれるのか分からない薄暗くてもやもやした物体が次から次へと浮上してくる。おまけに入口の彼は迷うことなく一直線にこちらへやってくるものだから、心臓が高鳴って仕方がない。彼、高校3年生で受験生でもある宮地さんと顔を合わせたのは、実に2ケ月ぶりのことだった。

店内は暖房の効いていて温かく、宮地さんはグレーのマフラーを外しながら、腰掛ける私と向かい合うように目の前にやってきた。慌てて私も立ち上がるものの、辺りには緊張が漂って、お互いまともに顔を合わせることが出来ない。お陰で妙な沈黙が訪れてしまった。このままだめだと、意を決して口を開く。

「み、宮地さん。こんにちは」

しまった、声小さすぎたかも。もっとはきはき明るくて大きな声で言わなきゃいけないのに、震えた声じゃ間抜けすぎる。穴があったら埋まりたい。もしかしたら、「は?何て?」と思われてしまったかもしれない。どうしよう。ぐるぐるぐるぐる駆け巡る脳内は不安が尽きなくて、思わず俯いてしまいたくなる。もう一度言った方がいいのかな。でももし聞こえてたらなんでわざわざ言い直したのかと不審がられてしまうかもしれない。もっと堂々としていたいのに、私、さっきから宮地さんにどう見られているか気にしてばかりでちっともリラックスなんて出来やしない。

「(どうしたら緊張の糸が緩んでくれるのかな)」

だって、宮地さんはこんなにも普通の顔をしているというのに。…それとも、これが高校生の余裕ってやつなのかな。私が子どもで落ち着きがないだけなのかな。だって彼は依然、私が眉間に皺を寄せてしまうこの黒くて苦いコーヒーも、なんでもない顔で飲み干せていた。背伸びじゃなくて、自然体で。

「…ども…」

投げかけた挨拶の返答として、どこか強張った声が降ってくる。なんだかいつもより随分低く聞こえたその音に、急に体が凍りついてしまった。も、もしかして何か怒ってるのかな。不機嫌にさせるようなことしちゃったかな。私がいつまで経っても顔上げないからかな。またそんな不安要素をひたすら発掘してしまう私は、間違いなく負のスパイラルに捕らわれている。このままじゃだめだと自分に言い聞かせ、意を決して顔を上げた。

「あ、の!」

お久しぶりですね。来てくれて嬉しいです。受験お疲れ様でした。そういえばこの間発売されたバレンタインシングル聞きましたか、ジャケットもPVも可愛いすぎてどうしようかと。…冷静になって話題は探せばいくらでも落ちていると言うのに、私は声を掛けたきり口を閉ざしてしまった。今日初めて合った宮地さんの大きな瞳を見たら見事に全てが吹き飛んで、頭が真っ白になってしまって。声が出なくなってしまったわけじゃないのに、どうしたら喉から言葉を発することが出来るのか分からなくなってしまった。

190以上あると言う彼は私との身長差が激しくて、だからこんなに見下ろされれば威圧感だってあるはずなのに、おかしい、恥ずかしくて落ち着かなくてだから今すぐに目を逸らしたくてたまらないのに、吸い込まれるように見つめてしまう。宮地さんも何気なく顔を逸らしてくれればいいのに、何も口にすることなくまるでオウム返しでもするかのようにじっと私を見下ろしたままだ。

「……………………」
「……………………」

それから、何秒経過したのだろうか。瞬きすらも出来ないような妙な空気の中、じわじわと湧き上がってくるように首元が熱くなり、徐々にその熱が全身へと広がっていってしまった。それが顔に到達した頃ようやく我に返った私は、遂に顔を逸らすことに成功した。慌てて俯いた視界の端で、手の甲を口に当てながら同じように勢いよく右側に顔を逸らした宮地さんの姿をうっすらと捕えた、ような気がする。

「す、すみませんやっぱりあの、な、なんでもないんです…!」
「お、おう」

守護霊というものが本当にいるとしたなら、動揺丸出しの声で弁解する私を見て「少しは落ち着け」と言っているに違いない。でも私だって、出来ることならそうしたい、そうしたいんだよ。大人で落ち着いた対応が出来るようになりたいんだよ。小学校のあゆみには先生からいつも「さんは同級生に比べ、とても冷静で落ち着いています」って書いてもらっていたと言うのに、宮地さんが目の前にいたら、それが嘘みたいに慌ててしまうんだよ。どうしたものかと考えていると、ふと店内の視線が若干集まっていることに気がついた。なんだろうかと不思議に思っていたけれど、よくよく考えてみたら席を確保していると言うのにお互い立ちっぱなしというのは奇妙な状況だ。慌てて着席したところで、宮地さんが声を掛けて来た。

「…てか、わりぃ。遅れて…」
「い、いえ!そんな!」

──し、しまった!今度はガチガチに緊張しすぎてやたらボリュームが大きくなってしまった。きっとさっきと今と足して2で割ったらちょうどいい大きさになるに違いない。どうして平均的な声が出せないのかと自分の喉を呪うしかない。宮地さんも突っ込めば良いのに何も言わないから、逆に自虐心が蓄積されてしまう。…私、本当にだめだ。昨日の夜脳内でデモンストレーションをしたときはこんな格好悪いことにはならなかったのだけれど、これが現実というものなのかな。

「えっと…ま、まだ待ち合わせの時間に、なってませんし。その…私もついさっき来たばかりなので…な、なんというか、だ、大丈夫、です」

急にボリュームダウンした声は、今度は聞きにくくなってしまったかもしれない。思わず溜息をつきたくなるほど心を重くしていると、唐突に宮地さんが声を掛けて来た。慌てて顔を上げると、目の前の彼は決して目をこちらに向けようとはせず、むしろどこを見ているのか斜め左を見やっては右手で首の後ろを掻くような素振りを見せていた。

「その…」

もしかして、き、来た!心なしか頬が染まっているように見えるその姿に、身構えた。ピンと背筋を正して膝の上に置いていた手でスカートをぎゅっと握りしめて少し俯く。顔が随分熱くなった。緊張が走る。「は、はい」顔を上げないままじっとコーヒーを見つめてばかりの私の喉から飛び出した声はやっぱり震えていた。心臓が破裂するとしか思えないほどの鼓動を全身で感じているせいで、数秒の沈黙も数分レベルに感じてしまう。生きた心地がしなくてそわそわしていると、目の前で椅子が引かれ床に擦れる音がして顔を上げた。

「──俺もなんか買ってくる」

宮地さんはそう言い残すと、私の目を見ることなくそそくさと入口真ん前のレジに早足で向かって行ってしまった。そういえば彼は店内に入ってきて一直線にこちらへやってきたから、何も注文していない。待ち合い人である私は飲み物を頼んであったとはいえ、流石に店に悪いと考えたのだろうか。呆然とその後ろ姿を見送り、彼がレジ前に辿り着いたのを確認した瞬間一気に全身の力が抜けた気がした。深い息を吐いて、すっかり火照ってしまった頬を両手で包み込む。

「(…き、緊張、した)」

未だにバックバックと凄まじい音を立てている胸は、相変わらずその瞬間の余韻を残している。

「(……あのことについて言われるのかと思った)」

1週間前からずっと落ち着きがなくて、授業中だっていつもメモを取っていたはずの先生の説明も今回ばかりはシャーペンが止まったままで、大好きなハンバーグがお弁当に入っていたってどこかぼんやりとしていた、そのきっかけとなったこと。こんなんじゃだめだと分かってはいるけれど、きっと私は2ヶ月前の12月、まさにこの場所この時間で言われたときのまま、一歩も動けていない。

──それは、宮地さんが部活を引退して数日経ったある日のことだった。

『…俺、2月下旬に受験終わるんだけど』

その日参戦したライブの推しメンについて話していたはずの会話が一区切りついた頃、宮地さんは思い出したようにぽつりと呟いた。しかしそのときの私は深く考えず、そういえば宮地さんは高校3年生だったとぼんやりと思い出していた。更に言うならば、大学が決まるまでしばらくライブは行かないから、今回が高校最後の参加だと決めていると言っていたような気がすると振り返っていたくらいで。だからしばらく宮地さんには会えないなと、内心しょぼくれていたのも事実だ。

でも大学生になるなんて、やっぱり宮地さんは大人だ。同じ推しメンという共通事項がなければ、きっと私みたいな中学生、相手にもされていなかったに違いない。いや、もしかしたら今でも私のことをがきんちょと思われているのかもしれないけれど。

『その…。受験が終わって落ち着いたら』
『…?はい』

相槌を打ってポンデリングを頬張りながら、宮地さんの台詞の続きを考えた。受験が落ち着いたら、また今日みたいにライブに行くんだ、だろうか。それとも握手会のほうかな。あ、最新のグッズが発売されたら代わりに買っておいてくれとかかな。私も大したお小遣いはないけれど、ああいうのはすぐ完売になってしまうから気になっちゃうよね。もしそう言われたら、頑張って協力しよう。だって、宮地さんからの頼みは断れない。どんなに無理難題でも絶対叶えよう。もし私に出来る事だったら、全力でやり遂げよう。そう心に決めたら頬が緩んでしまった。あ、危ない。宮地さんに間抜けだって思われる。

慌ててまたドーナツを口に押し込んで誤魔化していると、向かいに座る彼は妙に神妙な顔をして目を逸らしていた。…良かった、見られてない。ほっと胸を撫で下ろしていると、宮地さんは急に何かを決意したように見据えた瞳で私を捕えたかと思ったら、とんでもないことを口にした。

『…俺と、付き合ってくんねえかな』

何を言われているのか理解出来なくて、どう反応していいのか分からなくなってしまった。一瞬力が抜けてしまい、あやうくドーナツが手から転げ落ちるところだったのを、間一髪で食い止めた私を私は褒め称えてあげたいと思う。…そう、この発言の真意が分かったら。

…今、何と言ったのか。

呆然と宮地さんを見つめていたけれど、ふとした拍子に我に返ることに成功した。うっかり自分の口が半開きであることに気が付いて慌てて閉じたものの、どんな顔をしたらいいのか分からなくなって俯く。急に駆け出してしまった鼓動が五月蝿くて、背骨のあたりが一気に熱くなってしまった。手の平にじわりと汗が滲む。

『…え、あ。…あ。ラ、ライブですか、勿論ですよ…!』

随分わざとらしい発音になってしまった。動揺していますと言わんばかりに裏返ってしまった声は、本来ならばもっと自然に吐き出さねばならなかったというのに、どうしてこうなってしまうのだろう。頬も引き攣って、きっとうまく笑えなかった。でもだって、勿論私の勘違いだと分かっているのだけれど、言葉の綾だというやつだと自覚しているのだけれど、これじゃまるで宮地さんも私のことを想ってくれて、だから「彼氏彼女とやらになりませんか」と言われているように聞こえてしまったんだもの。でも私みたいな子ども、きっと相手にされないと分かっているからうぬぼれちゃいけないのだ。だって私、中学2年生だし。…そう分かっているはずなのに。どんどん期待してしまう。みるみる風船みたいに膨らんで止まらない。後から後から大きくなって、もう自分では止められなくなっていた。

だから今の返答を聞いた宮地さんが「良かった」と安堵した顔を見せたなら、きっと私は泣いてしまう。右手でぎゅっと左手に爪を立てて握りしめる。こうでもしないとやっぱり泣いてしまいそうだった。店内に小さく流れるBGMすら心臓の音にかき消されて聞こえない。生きた心地がしない中、相変わらず俯いたまま何も口にしない私に宮地さんは小さく呟いた。

『…どうも』

たった3文字に殺された。気付かれないようにそっと唇を噛みしめる。やっぱりそういう意味だったんだ。…なんだか恥ずかしい。期待なんてしてないと思っていたはずなのに、心の底ではやっぱり舞い上がっていた。まるで屋上から突き落とされた気分だ。喉の奥がぎゅうっと締め付けられる気がした。

『…や、違え。それもあるけどそうじゃなくて』

ふと否定の言葉が聞こえた気がしておそるおそる顔を上げてみると、宮地さんは珍しく『なんていうかその』と言葉を濁しながら目を逸らす。無意味に首の後ろを右手で触れる素振りを見せた。なんだか落ち着きがない。だけどきっとそれ以上に私も高鳴り続ける心臓を抱えていた。一度失速して急落した期待がまた風船のように膨らみ始めているのを感じていた。…もしかして。もしかして。

『…だから』

もったいぶっているように聞こえて、無性にじれったく感じた。じっと宮地さんを見つめる私の脳内で勝手に再生される台詞が、もしかして現実の宮地さんの口から聞けるんじゃないか。そんなことを考えてしまって。

『…俺の受験が終わったら、』

喉の調子が悪いのか、妙な空気に耐えきれなかったのか、宮地さんは目を逸らしたままコホンとわざとらしく咳払いした。

『………良かったら、俺の』

何か迷ったようにそこで途切れた言葉に、私達の空間は静まり返る。流行の恋愛ソングが流れだした店内は賑わっているはずなのに、私の耳は彼の声のみをキャッチしようと全神経を集中させている。なのに、走り続ける心臓の音が五月蝿くて邪魔だ。テーブルの下でぎゅっとスカートの裾を握りしめる。まだ何も言われていないと言うのに期待と緊張でどんな顔をしたらいいのか分からない。いくら疎い私にも、なんとなくこれからの台詞を察することくらいは出来た。だからこそ心臓が五月蝿い。私はただ聞いているだけなのに、なんでこんなに体が熱くなってしまうんだろう。

しばらく沈黙を守っていた宮地さんは、ふと意を決したような瞳で私をまっすぐ見やる。久しぶりに目が合いひどく動揺してしまった私は慌てて視線を逸らそうとしてしまいそうになるけれど、今そうしてはいけないような気がして必死になって彼を見つめ返す。だけどふらふらと落ち着きのない私の目は今にも音を上げてしまいそうだった。だいすきな彼のまっすぐな瞳は、今の私にはあまりに心臓に悪すぎる。

『彼女に、なってください』

耳まで赤くして言った宮地さんは、お願いしますと言わんばかりに頭を下げた。敬語になってしまった彼は、まるで出会ったばかりの頃みたいに懐かしい気がする。遂に耳に入って来た言葉に思わず頬が緩んで、隠すように慌てて俯いた。信じられないのと、嬉しいのと、ふわふわ浮いていて、まるで夢みたいな気分。だけどこれは夢ではないのだから、早く何か言わなくてはいけない。慌てて返答するべく口を開こうとした私に、まるでそれを遮るように言葉を被せてきたのは宮地さんだった。

『でも俺も受験があるし、も急にこんなん言われても返答に困るだろうから、もしその気があったら、2ヶ月後同じ時間に、ここで。じゃ』

そう早口で言い残して早々腰を上げた宮地さんはトレーを手に席を離れ、私の返答を待つことなく店を出て行ってしまった。引き留めるという選択肢が消滅していた私の頭は停止ボタンを押されたように呆然と彼の背中を見送ることしか出来ない。店を出て右に去り際に熱そうに赤くした耳を見つけ、そこでようやく我に返った。

──そう。つまるところ、私が朝から極限なまでに緊張状態でいたのは全てこれが原因だった。この2ヶ月間期待やら恋心やら不安やらが積もりに積もって、昨日の夜ろくに眠れなかったのも今日が近づくたびに心拍数を上げていたのも、全て宮地さんが言い残したたった一言のせいなのだ。いっそあのとき無理にでも引き留めておけばよかったのかもしれない。メールや電話をする勇気はなくて今日に至ってしまったけれど、よくよく考えてみたら2ヶ月というのはなかなかの空白時間だ。長いようで、短いようで、でもやっぱり長かった気がする。もしかして忘れられていたらとか冗談だったらと色々考えて不安になっていたけれど、どうやらその手の心配は不要だった、みたい。だって宮地さんは来てくれていた。良かった。ほっと安堵の溜め息をつく。

「(…そもそも、私達ってもう、その…お、お付き合いしているということになるんだろうか)」

ど、どうなんだろう。あまりに中途半端な状態だから、そこらへんがいまいち分からない。ええと、付き合ってって言われて、オッケーだったら今日ここに来てって言われて、お互い来て、で、どうなんだろう。どういう立ち位置になるんだろう。今までと、どう変わったのだろう。いや、特に何も変わらない気が…。宮地さんはどう思ってるのかな。だからこそ、さっき何か言われるのかと身構えてしまったのだけれど。

「(ど、どうなんだろう。こっちから聞くのもなんか変な感じだし)」

なんだかくすぐったい気分になって落ち着かない。そわそわと辺りを見渡していると、早々と会計を済ませた宮地さんがトレーを手に帰ってくる姿を発見した。慌てて姿勢を正す。無駄に小さく咳払いをして、喉の調子を整えた。そして私と同じ色のマグカップと2つの白いお皿が乗ったトレーをテーブル置いた彼に、思い切って声を掛けてみる。

「お、おかえりなさい」

早かったですね。そう短く付け足すと、宮地さんは「ん、まあ…」とさらりと流しながら席につく。2ヶ月前の出来事があっただけに、改めて向かい合うのはなんだか緊張してしまう。うまくお話出来るかなと不安がぽつぽつ浮上していると、宮地さんは何も言わず、私のトレーの上に皿を一枚乗っけて来た。上には2ヶ月前ここで食べていたドーナツが置かれている。慌てて彼を見やると、宮地さんは決して目を合わせることなく言った。

「……お前の分」

その言葉に、胸がきゅううっと締め付けられた気がした。なんて単純だと誰かに笑われてもいい。もしかして、前来たときポンデリングがすきだと言ったことを覚えててくれたのかなとか考えたら、つい舞い上がってしまって。ついでに、お前という呼び方にうっかりときめいてしまっただなんて、本人には口が裂けても言えないけれど。

…あ、違う。舞い上がってちゃだめだ。お金。お金払わなきゃ。慌てて財布を取り出そうとする私に、宮地さんは「金いらねえから。俺が勝手に買ってただけだし」とまたぶっきらぼうに言い放った。異論は認めないと言わんばかりの雰囲気に、小さく会釈して礼を告げる。すると宮地さんはひとつ頷いて黙り込んだ。

「(やっぱり宮地さんは優しい)」

ついついほにゃっと間抜けに緩む口元が隠しきれない。優しい人だからすきになったわけではないけれど、こういうところに惹かれたのもきっと事実だ。なんだかくすぐったくなって、無意味にマグカップを手でいじる。宮地さんは、こういうさり気ないことをちゃんと覚えてる人なんだな。胸をほこほこさせていると、唐突に宮地さんが口を開いた。

「……今日」

ぽつりと呟くように言った宮地さんに心臓が大きく飛び跳ねる。妙に神妙な声だったからだ。ぎゅっとマグカップを両手で包み込むように握りしめる。

「ここに来たってことは、その…」

言わずとも言おうとしていることが分かってしまって、一気に体温が上昇する。背中や手の平には冬だと言うのに汗が滲みだし、彼を見ることが出来なくなってまた俯いた。顔が熱くなりすぎて重く感じてしまう。おまけに喉の奥から水分が蒸発してしまったかのようにカラカラに乾いて変な感じだ。何を言ったらいいのか分からない。…恥ずかしい。何も怖がることなんてないはずなのに、私も宮地さんのこといいなって思ってましたって言葉を舌に乗せればいいだけなのに、きっと簡単なことなのに、今の私にはそれが途方もなく難しい。そんな私に、宮地さんはたった一言の言葉を投げかけた。

「…いいの」

主語も目的語もない、だけど何を言わんとしているのかはっきり分かるそのぶっきらぼうな声にぎこちなく頷いてみせる。すると彼は何も言わないまま暫く固まっていたかと思ったら、突然緊張の糸が切れたかのように長い溜息をついた。

「あー、ちくしょー」

宮地さんはよく分からない声を漏らしたまま少し俯き、まるで顔を隠すように目元を抑える仕草を見せた。きっと宮地さんを待っていた頃の私が見たら「あれを本気にしたのか」と呆れているのだろうかとおろおろしただろうに、今はそんなことを微塵に身考えることなく顔を熱くするしかない。だって、ちょっと分かったことがある。宮地さんは多分、照れたり気まずくなったりすると、それを誤魔化すかのように言葉遣いが乱暴になる。その証拠に、去年の終わりにこの店で言葉を貰ったときと同じように耳を赤くしているし、口元は少し笑っているように見える。そういう、ちょっと不器用なところがかわいい。私まで緩んでしまう口元を隠しきれなくなる。

慌ててコーヒーを飲んでみたものの、砂糖もミルクも入れていなかったそれはあまりに苦々して思わずむせ返りそうになってしまった。せ、背伸びするんじゃなかった。やっぱり飲み慣れてないものなんて頼むもんじゃない。宮地さんは何も入れずに飲んでてすごく大人って感じがしたから私も真似をしてみたものの、なんでもない顔で飲み干すのは無理そうだ。どうやら私には砂糖とミルクは必須らしい。

「…み、宮地、さん…!」

背伸びした赤いマグカップを置いて改めて宮地さんと向かい合った私は、意を決して彼の名を呼ぶ。ピンと背筋を正してはいるものの、机の下では足が震えて情けない。視線を交えた彼の大きな瞳に、心臓が逃げ出したいと言わんばかりに疾走した。

「あ、あの、わ、わたし。今までその、男の人とその、つ、付き合ったこととか、な、なくて。今だってその、う、嬉しいんだけど、あ、いや、逆にいまいち現実って感じがしないっていうか、ええと」

しまった、何を言っているんだろう私は。せめてちゃんと文章で言わないと、宮地さんも首を傾げてしまうよ。でも考えようとすればするほど言葉がつっかえて妙な文法を構築する。だめだなあ、なんでうまくいかないんだろう。アイドルの話をしてるときはこんなこと起こらなかったのに。悔しいのか緊張しているのか、涙がじわじわ滲んでくる。

「だから色々分かんないこといっぱいで、あの、宮地さんみたいに大人に出来ないし、やっぱりコーヒーも苦いし、だからあ、の!?」

語尾が妙な声になってしまったのは、目の前からドーナツを無理矢理口に押し付けられたせいで中途半端に遮られてしまったからだ。…み、みやじさん、一体何を。そ、そんなに聞くに堪えない日本語でしたか。勢いで一口頬張ってしまったポンデリングを噛みながらぐるぐる頭を回していると、彼はそれに気付いているくせに知らん顔で「食え」と言わんばかりの目でドーナツを差し出している。どうやら先程私に渡したドーナツを口元に持ってきたらしい。……一体全体、これはどんな状況なんだ。妙な体勢になっているのに気が付いてドーナツこそ受け取ってみたものの、いまいち把握出来ない。

…なんだか悲しくなってしまう。こんな私だけど、これからよろしくお願いしますって言いたかっただけなんだけどな。ちょっとしょんぼりしてしまう。なんだろう、この出鼻を挫かれた感じ。私も話を遮られた手前口を開くのがなんとなく気まずくて何も言わずそわそわしていると、暫く考え込んでいた宮地さんが沈黙を破るように口を開いた。

「…そういえば、ひとつ聞きてーんだけど」
「は、はい!」
「…いや、そんな身構えなくていいから」
「あ、はい…」

しまった、分かりやすく緊張していた。ちょっと恥ずかしい。それにしても、一体何を聞かれるんだろう。や、やっぱり、お、お付き合いするにあたっての心構え的な何かなのかな。よく分からないけど、そういうのって大事そうだし。そういえば宮地さん真剣な目をしているし、やっぱり大人なんだ。すごい。半ば尊敬の眼差しで正面に座る彼をこっそり盗み見していると、宮地さんは「あのさ」と前振りして言った。

「コーヒー…」

じっと私の手元のマグカップを見つめながらぽつりと呟いた。彼の視線を追って、私もコーヒーを見やる。何の変哲もないそれは、注文してから大分経っていたし、さっき一口飲んだときももうすっかり冷めてしまっていた。…でも、それがなんだろう。首を傾げながら宮地さんの台詞を待っていると、彼は大真面目な顔で尋ねてきた。

「苦いって言ってたけど、じゃあなんでブラックで飲んでんの」
「えっ」

うっかり小さく漏れてしまった声は困惑の色を全面に出していた。そう、私のトレーの上には未開封のミルクもシュガーが転がっているから、彼の言うとおり、苦いと思ったならそれらを投入すればいい。確かにそうだ。いや、でもだからって、なんで今。さっきのドーナツを突っ込んできたときも思ったけどなんで今。今なの。それは今必要な質問事項なのですか。大人はやっぱり分かりません。そ、それともこれは何かの謎かけ。それともジョーク。ええと、コーヒー、ブラック…だめだ、ちっとも分からない。ここは素直に返答するしかない。

「そ、それは、その…」

でも、コーヒーをちゃんと飲んだのも初めてでどうしたらいいのか分からなかったんですとか、中学生なりの精一杯の背伸びでしたなんて、言って良いんだろうか。いや、きっと言っちゃだめだ。だって絶対恥ずかしすぎる。

「この間宮地さんが」

言っちゃだめ、言っちゃだめだからね。そう、「入れるのをすっかり忘れちゃって」とか、そんなことを適当に見繕っておけばいいんだから。余計なことは言わなくて良い。良いんだ。良いのに。

「なんでもない顔でブラック飲んでたから、その…ま、真似しただけ、です…」

…なのになんで言ってしまうんだろう。まだコーヒー飲むの初めてでと答えたほうがましだったのに。は、恥ずかしい。また火照り始めた顔に俯いて、目はひょろひょろと頼りなさげに落ち着きがなく泳いでばかりだ。…こ、子供だって、思われちゃったかな。自信なさげにこっそり宮地さんを盗み見ると、予想外に彼は頭を抱えるような素振りを見せて、「そうならそうと早く言えよ…」となぜか脱力した声で言った。

「あ、あの…?」

ど、どうしたんだろう。早く言えって、何が?展開についていけず声を掛けると、宮地さんは「………俺、本当は」と口を開いた。

「……コーヒー飲めねえんだよ」

しんと静まり返った。ええと…「コーヒー、飲めねえんだよ」?えっ、宮地さんが?えっ、でもでも、この間はなんでもない顔で飲んでたのに。その前も、その前だって。ずっとコーヒーを飲んでいたのに。にわかには信じられない急展開に私は耳を疑うしかない。

「じゃ、じゃあ、なんでコーヒー…」

そう言って、じっと彼の手元にあるマグカップを見つめてみる。そこには私と同じ黒い色をした苦そうな飲み物が並々と注がれていた。飲めないなら、なんで頼んだのだろう。言わずとも目が語っていたらしい、宮地さんは「仕方ねえだろ」とどこか突っかかった物言いをする。どうやら少しムキになっているらしかった。しかし威勢がいい割にぼそぼそと気まずそうに答えるものだから、まるで怖くない。

「……いい歳してコーヒー飲めねえなんてカッコ悪ぃだろ。なんか…男が紅茶ってのも、なんかその、あれだし…。今日来て見たらもコーヒー頼んでるし。だからその…み、見栄だ見栄。………悪ぃかよ…」

どこかで聞いたことのある状況だ。…なんだか、私みたい。宮地さんのことずっと大人だと思っていたけれど、本当はそんなことはなかったのかな。いや、別に変な意味じゃなくて、なんていうかこう…いい意味でというか、親近感があるという意味でだけど。…なんだろう。ちょっと、嬉しい。

「要するに、大人とか言われても、俺も実際はそんな余裕とかねえっつーか。だから、変に気遣ったり心配しなくていいから。…そんだけ」

気恥ずかしそうに頭を掻いてそう告げる宮地さんを見ていたら、こっちが緊張してきた。でもなんだかにやにやしちゃう。どうしてだろう。彼は4つも年上だから私は必死に背伸びをしていたけれど、宮地さんも同じようにプライドを飾ってたのかな。私と一緒。いっしょだ。

「──それで」

ゴホンとわざとらしく咳払いをした宮地さんは、なんだか気まずそうに目を逸らした。照れ臭そうに落ち着きのない彼はそのまま私と視線を交わすことなく鞄の中を漁り出す。部活で使っていたのだという大きなエナメルバッグは愛着があるらしく、去年の終わりに引退しても使い続けているらしい。じっとその様子を見つめる私に気付いたのか、探していたものが見つかったのか、宮地さんはじっと鞄の中を見やりながら、「こういう柄じゃねえんだけど」と小さく呟いた。よく分からず、はあ、と曖昧に相槌を打つ私に、改めて座り直して見やる宮地先輩は大真面目な顔をしていた。驚いてこちらも身構えてしまう。今度は一体何が起こるんだろう。

「わ、笑うなよ」
「え?笑うようなことが起こるんですか?」
「良いから笑うなよ」

念を押し続ける宮地さんは詳細を一切語ろうとはしない。そんな、何も情報なしに約束なんて出来るはずもないじゃないかと思いつつ、しかし彼の押しの強さにそんなことを口に出来るはずもない。大人しく頷くと、宮地さんは少し安心した素振りすら見せず、むしろ未だに緊張状態を保ったまま再びオレンジ色のエナメルに手を入れた。

「わ、笑うなよ」

どうやらよほど自信のないらしい。なんだか子どもみたいで可愛らしい。思わず頬を緩めつつ「はい」ともう一度肯定してやると、宮地さんは渋々鞄から取り出した紙袋を取り出した。赤で小さくパンダやブタ、猫などの動物の絵柄が描かれているそれは随分可愛らしいデザインで、正直目の前の彼と釣り合わない。家にあった袋を適当に使ったんだろうかとぼんやりと考えながらふと視線を宮地さんに移すと、眉間に皺を寄せつつも耳を赤くしていたものだから反応に困ってしまった。お、怒っているのだろうか。それとも恥ずかしがっているのだろうか。…どっちなんだろう。でも指摘しちゃいけないような気がして黙り込んでいると、彼は何も言わず、その袋をこちらへ移動させてきた。しかし、突然私の目の前にやってきた可愛らしい袋に首を傾げるしかない。

「…?あの…これは?」
「………………………」

相変わらず顔を赤くしながらわざとらしく目を逸らす宮地さんは、どうやら答える気がないらしい。また咳払いをしつつ、「まあ、ほら。…あれだよ」とごにょごにょと語尾を濁してやはりはっきりと明言してくれない。でも唯一分かったことは、どうやらこれは私にやる、ということだった。…多分。あんまり自信がないけれど、多分そういうことなのかな。それとも貸してやるとか。ええと、何か貸してもらう約束だったCDなんてあったかなあとぼんやりと回想しつつ袋の中を漁ってみる。するとそこには、袋に描かれていた模様と同じ動物が描かれていたパッケージの細長い箱がひとつ入っていた。左上に赤いリボンが結んである。じっとそれを見やって、また宮地さんに視線を移す。彼は相変わらず落ち着きのない様子でひたすら目を逸らし、気まずいのか、苦手だと宣言していたホットコーヒーを一気飲みしていた。また袋の中にひっそりと存在を主張している箱を見つめ、袋から取り出してみる。中が少し動く音がした。引っくり返してみると、右下に白いラベルが貼ってある。そこに最近街中で溢れ返っていたカタカナ6文字を発見し、慌てて彼に声を掛けた。

「あの、宮地さん。これ」
「…………………………」
「えっと、あの、チョコレートって書いてあるんですけど」
「…………だから……」
「はい?」
「…………しろ」
「え?」
「…………察しろ」

言わせんな。そう小さく呟いた宮地さんはやっぱり目を合わせてくれない。ますます赤みを増した頬のまま、今まで頬杖をついていた手の甲で口元を隠している。随分可愛らしいパッケージの箱を見つめていたらじわじわ込み上げてくる何かがあって、首の後ろから背中にかけて一気に熱が走ったかと思ったら、急に宮地さんを見れなくなってしまった。も、もしやこれは、ちょっと遅れた、バ、バレンタイン的な、あれなのでは。やっと気付けたころにはもうすっかり全身が熱くなってしまっていて、更にその熱のせいか口元まで緩んでしまうものだから慌てて手で押さえて隠した。

どうしよう、嬉しい。

わざわざ買ってきてくれたのかな。きっとチョコレート売り場は女の人ばかりだったろうに。しかもこんなにかわいいパッケージのチョコなんて、相当恥ずかしかったに違いない。それでも買ってきてくれたんだ。購入したときの宮地さんの姿を想像したら、なんだか微笑ましく思えてまた口が緩んでしまった。

「あの。あ、ありがとうございま、す」
「お、おう…」
「すごく嬉しいです」
「お、おう…」

なんだかお互い恥ずかしがりすぎてぎこちない。目すら合わすことなく交わされたお礼の言葉は、なんだか堅苦しいものになってしまった。「まあ、なんだ」とぎこちなく切り出した宮地さんは、やっぱり目を逸らしたまま、無意味に首の後ろを掻きながら言った。

「その、まあ、なんだ。こういうのもいいんじゃないかと。思って。そしたらちょうど、お、お前がす、すきそうなの、見つけたから…一応…。とっくにバレンタイン終わったけど、その、男からってのも、まあ…」

歯切れ悪くごにょごにょと口籠る。ふと彼の耳にやるとこれまた随分赤くなっている。…照れてる。宮地さん照れてる。そんなことを考えたらすっかり口元が緩んでしまった。

「…ふふっ」

しまった、笑いが零れてしまった。笑うなとあれだけ念を押されていたと言うのに。勿論それを見逃すはずもない宮地さんは慌てた様子で話が違うと指摘する。でも、だって、こんな恥ずかしがりながら言われたら、微笑ましくなってしまって。すみませんと謝ってから、彼に声を掛けた。

「前々から思ってたんですけど、宮地さんて可愛い人ですよね」
「な」

きっと予想外の言葉だったのだろう、彼の眉間に皺が刻まれてしまった。男の人には可愛いは褒め言葉じゃないのかな。「──知るか」ああ、不貞腐れてしまった。頬杖をついたまま左上に視線を流している宮地さんは、もしかして予想以上に照れ屋なのかもしれない。手元の可愛らしい箱を見つめながらそんなことを考えた。

「あの、宮地さん」
「……なんだよ」

ぶすりとしつつしっかり返事はしてくれるあたり、やっぱり素直じゃない。もしかしたら宮地さんは、とても子供っぽい人なのかもしれないな。でもかく言う私もそうだから、きっとおあいこだ。すっかり冷えてしまったコーヒーも、なんだか急にすきになれそうな気がしてきた。

「こ、これからよろしくお願い、します」

座ったままぺこりとお辞儀をしてみると、宮地さんはきょとんとしたのち、真っ直ぐな瞳で言った。

「大事に、するから」






ブラックコーヒー






20130504 カレンダーを丸無視したお話