「神奈川、大雪警報が出たって。すごいっスねー」

そんなことをこたつに入ってるときに言われたって、ちっとも実感が湧かない。確かに深夜から雪が降るでしょうと昨日天気予報で木原さんとそらジローが言っていたし、朝目を覚ましたら外はその言葉どおり白一色で埋め尽くされていたけれど、リビングでぬくぬくと暖を取っている私には異世界だ。でもさっきまでちらほらと可愛らしく降っていた気がするのに、いつの間にそんな本格的になってしまったのだろう。今日が休日で良かった。

ふと温かいローテ−ブルから抜け出さないまま窓に視線を送ってみると、なるほど確かに涼くんが言うようになかなか大きな牡丹雪が降っているらしい。水滴がびっしりついて曇った窓ガラスからはっきりは分からないけれど、雪の影だけは見えるから、まるで雨のようなハイペースで降り続けているらしいことは分かる。もしかして、結構積もってるのかな。とは言っても多分10センチかそこらだと思うのだけれど。雪国の人達から見たら、「そんな程度で大騒ぎするなんて」と言われてしまいそうだなとぼんやりと考えながら、寒いだろうに相変わらず窓にぴったり張り付くように外を眺めている涼くんを見やった。

どうやらこの雪の関係で交通網が完全に麻痺したことにより急遽練習が中止になったらしい幼馴染が、「暇だから」と実に分かりやすい理由でこの朱臣家にやってきたのが1時間前。最初は弟とゲームで遊んでいたと記憶しているのだけれど、あまりに手加減をしない大人げない涼くんのせいですっかりへそを曲げてしまった翔太は、気が付いたら「もう飽きた」と明らかに嘘であろう理由を作り上げ、お昼を食べたら自分の部屋に籠ってしまった。けれどこれはもはやお決まりの展開なので、もう同情すら出来ない。

そして対戦相手がいなくなった幼馴染が、今度は私を対戦相手のターゲットにと声を掛けて来たのがついさっき。しかし弟ですら勝負にならなかったのに、明らかに役不足であろう私がその代理を務めるというのは無謀以外の何物でもない。wiiスポーツやマリオカートで遊ぶ姿を想像してみたけれど見事に惨敗する光景しか浮かばなかった。遠慮しがちに断ると、涼くんは幼馴染と言え人様の家で自分だけゲームをするのは気が引けたのか、そそくさとwiiをテレビ台の中にしまい込み片付けてしまった。そしてゲームをするべく変えていたテレビのチャンネルをデジタル放送に戻したところで画面上のテロップに気付いたらしい。見慣れた地名の羅列と警報の文字に何気なく顔を上げてベランダの窓に近寄って外の景色を見やり、現在に至るというわけだった。

「うひー。やっぱ寒いっスねえ」

どうやら窓側は冷気が潜んでいたらしい、涼くんは手を擦り合わせながらこちらにやってきては私の隣にやってきてこたつに入り込み、暖を取り始めた。どうやら黄瀬家にはこたつはないらしい、「やっぱ良いっスねー、こたつ…」とやけにしみじみと口にしている。涼くん、ちょっとおじいちゃんくさい。…まあそれはいいとしても。

「りょ、涼くん……」

おそるおそる声を掛けると、隣の彼は「ん?」と私を見やって何かに気付いたらしく、ふと彼は自分の手元を見やってからまた顔を上げて、「あ、みかん頂きます」と言った。こたつの中央にはみかんが大量に入った籠が置かれており、おそらく彼は私が「勝手に食べるな」と忠告したと勘違いしたに違いない。現に彼の右手には、明らかに彼の手のサイズからは小さく食べづらいであろうこたつの相棒が握られていた。そもそも涼くんが我が家にやって来た際、やたら涼くんに甘いお母さんが「いっぱい食べてね」と嬉しそうに声を掛けていたから、気を遣う必要などないのだ。そう、すなわち私が言いたいことはみかんのことではない。この距離のことだ。

リビング中央に位置するこたつに入っているのは私しかいないのだから、別に隣じゃなくたって、例えば向かいとか色々選択肢はあるだろうに、なんで間隣りに座ったのだろう。1人では余裕のサイズだったこの横幅も、流石に2人だとぴったりくっついて恥ずかしい。なんだかむずむずして落ち着かなくて、顔を逸らして無意味にみかんの山を見つめた。少しでも離れようとぎりぎりまで支柱に寄る。

「…せ、狭いよ……」

やっとの思いで吐き出した言葉に涼くんは、ああ、とやっと意味が分かったと言わんばかりな顔をして、しかしすぐにけろっと言い放った。

「だって、こっちテレビの正面だし」
「じゃ、じゃあ私移動する…」
「あっだめ!隣じゃなきゃだめ!」
「えっ。な、なんで…?」

腰を上げようとする私の腕をがしっと掴んでまで阻止してくる涼くんにぎょっとすると、やけに必死そうな彼は明確な理由を明かそうとせず「だめったらだめっス!」とよく分からないことをひたすら連呼している。その姿はまるで、自分を置いて出掛ける親を必死に引き留めている子供のようだった。

「ほら、こたつの中で足がぶつかっちゃうじゃないスか!ねっ!」
「は、はあ…」

別にお互い向かいの席に座って、中央でなく、反対の端に寄れば平気なんじゃないかな。と、心の住人がぼそりと脳裏で呟いたのだけれど、実際には小心者な私は完全に涼くんの勢いに圧倒されてしまった。黙殺された私の心の声は音に変換されることなく呑み込まれ、体の中に逆戻りして綺麗さっぱり消え去っていく。すると俯いて黙り込む私の姿を隣に座ることを承諾したと認識したらしい涼くんは、妙に機嫌良さそうに鼻歌を歌いながらみかんの皮を剥き始めた。ふわっと柑橘の香りが鼻をかすめる。…そう、つまりまたこのパターンだ。いつも涼くんの強引で気まぐれな思いつきに動揺して、結局こっちが折れちゃうお決まりの展開。なんでもありませんという顔を張り付けて目の前のテレビに耳を傾けてみるけれど、芸能人達が繰り広げている会場のアンケート該当者数を徐々に減らしていくというゲームの結果より、隣の幼馴染のほうがよっぽど気になって集中出来ない。…だめだ。

こたつの布の下でぎゅっと両手を握りしめ、そわそわと落ち着かない心を鎮めようと必死になってみるものの、どう必死になったら沈静化されるのかちっとも分からない私は空回りするだけだった。こたつに入りすぎてしまったのか随分熱くなってくる体温に半泣きになりながら、そうさせた張本人をこっそり盗み見る。するとやっぱり何事もないかのように平然とみかんの皮を剥いている幼馴染の姿を発見したものだから溜息をつきそうになった。ぐっと堪えてまたテレビを見てみるものの、視線がふらふらと泳いで定まらない。…やっぱり気になる。

どうしたものかと考えていると、突然こたつの上に置いていたピンクのケータイが震え始めた。どうやらメールを受信したらしい。誰だろうかと何気なく手に取り中身を確認していると、なんてことない、友人から渾身の出来だという雪だるまの写真が添付されていた。暇すぎて作ったと言う手の平サイズの雪だるまには同じく雪でできた猫耳が付いており、非常に可愛らしい。メール本文には眉がキリッとした顔文字が自信ありげに「どうだ!」と言っていた。思わず笑みが零れる。この写真、保存しておこう。

「(つ、く、っ、た、の、?、か、わ、い、い、…で、ハート付けて…送信)」

送信完了の画面を確認して、パコンッとケータイを折り畳む。そしてまた元あった位置に戻して両手をこたつの中に入れながら、私もみかんでも食べて気を紛らわせようかなあとぼんやり考えているとまたメール受信のバイブが鳴り響くから、ブーッブーッと音を立てながら振動で若干移動するそれを拾う。どうやら今のメールの返信らしい。スマートフォンにしたばかりの彼女は「文字打てなくてイライラする」だとか散々言っていたというのに、すっかりマスターしたらしい。気付けばバラケーだった頃を遥かに凌ぐスピードで新たな相棒を操るようになった彼女は、私には考えられないほどの新記録を叩き出したと見た。

相変わらず打つの早くてすごいなあと感心しながら内容を確認すると、どうやら彼女は猫雪だるまだけでなく、雪うさぎの作成も試みていたらしい、褒められたことを喜びながら「実はこれも作ってみた」と言って新たな写真を添付していた。器用に作られたそのうさぎは随分と綺麗なラインを持ち合わせており、どこから調達してきたのか、小さな赤い実を目に見立て、しっかりと忠実に再現している。すごいクオリティだ。

「…友達からっスか?」

綺麗に剥いたみかんを頬張りながら尋ねてきた涼くんに頷くと、「ふうん」とつまらなそうな相槌が返ってくる。送られてきた写真を見せようかとも思ったけれど、すでに興味の対象をテレビに移していたらしい彼の横顔に気が付いて、やめた。なんだかそんな反応されるとちょっとさみしくなる。まるで、私になんて興味ありませんと言われているように思えて俯いた。そのままケータイを操り返信を終えると、ふと、まるでやけ食いでもしているかのようなハイペースでみかんを頬張っている幼馴染に気がついた。

「涼くん、もっとゆっくり食べないと消化に悪いよ」
「今無性に食べたい気分なんスよ」
「はあ…」

そう言って1つ完食してしまったらしい彼は、新たに2個目に突入しようとしている。涼くんてそんなにみかんすきだったっけ、と記憶を遡ろうとしたところでタイミング良く震えたケータイに意識を移す。隣からじろりと視線を感じたような気配を感じたけれど、それはきっと私の自意識過剰に違いない。そう思い込んでメールを開くとまた添付画像があることに気がついた。どうやら先程の猫雪だるまに彼女の飼い猫が興味を示したらしく、それをじっと見つめているなんとも微笑ましい光景だった。思わず頬が緩む。どうしよう、今度のも可愛い。

返信メール作成のボタンを押してさてなんと書こうかと考えていると、視界にオレンジ色の何かが視界に入ってきたことに気が付いた。ふと差し出されたほうを見やると、左隣りの涼くんが綺麗に白いスジも取り外されたのであろうみかんをひとつ口元に差し出している。きょとんとそれを見やってから涼くんに視線を移すと、彼は楽しそうににこにこと笑った。

「はい!」

どうやら剥いたからあげる、ということらしい。…でもこんな口元に出されたら、「受け取って」という意味合いで差し出したというより…まるで。どきどきしながら「ありがとう」と礼を言ってケータイを持っていない左手で受け取ろうとすると、幼馴染はそれを拒み、「違うっスよー。ほら、口開けて!食べさせてあげるっス!」ととんでもないことを口にしてきたものだからうっかり声が裏返ってしまった。私の想像が現実になってしまうだなんて思わなかった。彼はいつも私の予想の斜め上にいく行動を平然とやってのける。

「な、何言ってるの涼くん…!」

顔を熱くしながら慌てて拒否すると、彼は明らかに不服そうに口を尖らせ、「だってー」と駄々をこねる。一体何が「だって」なのか。涼くんとはもう人生の半分以上の付き合いだけれど、彼の思考回路は未だに分からないことだらけだ。すると彼はすぐに何かに気付いたのか、「あっ」と小さく声を漏らす。首を傾げる私に、涼くんは楽しそうにおちゃらけた。

「もしかして、口移しが良いんスか!?それともポッキーゲームならぬみかんゲーム!?…ってば大胆…!」
「ち、ちがう!」

まるで女子のようにきゃっとはしゃいでいる幼馴染に突っ込むと、涼くんは笑いながら「冗談っスよー」と訂正するから、私はじいっと彼を見つめるしかない。…どこら辺から、冗談だったんだろう。そもそもの範囲がちっとも分からないから、私はただただ首を傾げるしかない。その…く、口移しっていうのは考える間もなくそうだったと断言出来るとして、みかんを食べさせてくれるっていうのからすでに涼くんの言う「冗談」は始まっていたのだろうか。だとしたら私は、完全に遊ばれていたことになる。…こんなに焦って、ばかみたい。溜息をひとつついて、涼くんから視線を逸らして座り直した。

…思えば彼は、いつもそうだ。

付き合おうよ、なんて、まるでそこら辺のコンビニにでも行くみたいにいつもさらりと舌に乗せてくる。心にもないくせに、事ある毎にいつもからかってくるんだから。思えば中学のときだって、1年のときまで「お前なんて知らない」ってツンツンした態度だったのに、2年になって急に声を掛けてくるようになって。何も知らない子は涼くんのことを王子様って呼んでいたみたいだけど、本当は全然違う。確かに外見は王子様みたいかもしれないけれど実際は猫よりも気まぐれだし、心を開いた人にはとことん懐く習性があるけれど結構腹黒いところがあるから表と裏の差が激しいし、頑固者だし、これと決めたものはとことん所有権を主張する。だめなところも悪いところもいっぱい知っているはずなのに、彼をすきでいることをやめられないのはなんでなのだろうか。

ー」

涼くんの声に、はっとした。しまった、自分の世界に入ってた。名前を呼ばれた手前無視するわけにもいかず慌てて左を見やると、その一瞬の隙をついて口の中に何かが飛び込んでくる。一体何がと動揺する私とはよそに涼しい顔をする犯人と目が合って慌てて俯いた。放り込まれた瞬間勢い余ってか唇に触れてしまった涼くんの右の人差し指に胸を高鳴らせながらも懸命に侵入物を特定すべくもごもご頬張っていた私が、未確認物体を先程涼くんが差し出してきたみかんだと突き止めるのにそう時間は掛からなかった。どうやら涼くんは強行突破を試みたらしい。気付かないうちに私は、彼の好奇心でも刺激してしまっていたのだろうか。

「(結局食べさせられちゃった…)」

冗談って言ってたのに。しかも私、今絶対間抜けな顔してた。…は、恥ずかしい。口元を隠しながら頬張る私に、涼くんは悪戯っ子のように笑う。「おいしいっしょ?」確かにそのとおりだから否定はしないけれど、みかんの味のうんぬんよりも突然の奇襲ついて触れてほしい。質問事項とはおかまいなく「びっくりした」と答える私に彼はなぜか少し不貞腐れたような顔をして言った。

「じゃ、俺とあそぼ」

どうしよう、会話のキャッチボールが全く出来ていない。おそらく本来なら私の台詞の後に展開されたであろう会話が、軽く見積もっても3段階ほど省略しているような気がしてならない。だから、どうしてそうなるのと言わんばかりに眉間に皺を寄せていたらしい私に、涼くんはどこか必死そうに提案してきた。

「ほらっ、みかんも剥いてあげるっスよー!、白いとこあんまりすきじゃないんスよね!ちゃんと取るっスよ!」

ねっ!と同意を求めるように慌ててみかんの皮を剥き始める幼馴染はやっぱり様子がおかしい気がする。どこがと聞かれたらとても困るのだけれど。…うーん、どこだろう。違和感の正体を掴もうとじっと見つめていると、涼くんは徐々に元気なさげに顔を俯かせて手を止めた。「…?涼くん?」一体今までの強引さはどこへ行ってしまったのか。不思議に思って声を掛けると、彼は何を思ったのか中途半端に剥いたみかんを放置して、間合いを詰めて座り直してきた。しかし慌てて腰を上げて逃げるのもまるで「意識してます」と言っているようで恥ずかしいから、何も出来ずにただただこたつ布団を握りしめながら頷くことしか出来ない。かろうじて視界の隅で、涼くんがふきんで手を拭いているのが分かった。緊張のあまり、やけに姿勢を正してしまう。

「(ど、どうしよう)」

接近してきた左隣の幼馴染が気になって仕方がない。この状況でバラエティ番組に集中なんて出来るはずもない。涼くんは相変わらずテレビを見てるのかな。それともまたみかん食べ始めたのかな。様子を伺いたいけど、なんだか見ちゃいけない気がする。どうしてかと言われたら困るのだけれど、その、な、なんとなく。…だめだ、自分の家のはずなのに全然落ち着かない。一緒のこたつに入っているのがいけないのかな、普段より距離が近いから。

「ねえ

突然声を掛けられ分かりやすく肩を震わせた。もしかして心を読まれたのだろうかとありえないことを考えながらも冷静を装い幼馴染に顔を向けると、先程まで窓際にいたからか、はたまたこたつに入って間もないからか実は随分冷えていたらしい彼は、何を思ったのかその両手をぺたりと私の頬にくっつけてきた。一瞬にして全身の鳥肌が立ち、「ひゃ!?」と可愛げもへったくれもない間抜けな声を上げてしまったというのに、まるでそれを弄ぶかのようにケタケタと笑い声を上げる彼は未だに頬を包み込んだまま離そうとしない。冷たい指先から伝染する冷気が全身を駆け巡るような気がして寒気がした。

なのに涼くんは「あったかいっスねー」と他人事のように感想を言ってのけるから、どうにかして仕返しがしたくてたまらない。だけど具体的にどうしたらいいのか分からなくて、相変わらず指が冷たくて身を縮めこませる以外何も出来ないままでいる。調子に乗って首の後ろにまで攻撃の範囲を広げてくる幼馴染に、私は完全に手を焼いていた。

「…も……もー!涼くんてば何…!なにーっ!」
「ねーっ。涼くんてばなんなんスかねー」
「はぐらかさないで…!」
「怒ってるもかーわい」
「だからはぐらかさないでってばー!」

まるで子どもでも相手にするかのようにおちゃらけて相変わらず私の頬で遊ぶ涼くんの手は随分大きくて、必死に手首を掴んで離させようとするけれどなかなか成功しなかった。私の声なんてさらりとかわしてしまう彼は呑気なことを言って笑ってばかりだ。心拍数急上昇で死んでしまったら涼くんのせいなんだから!そんなことを考える私の心の声が届いてしまったのだろうか、突然黙り込んだ幼馴染は、何を思ったか大きな瞳でじいっと私を見つめ始めた。急に真面目な顔されたらものだから、先程とは違う意味で反応に困ってしまう。それともただの気まぐれなのかな。

「な、なに…?」

どきどきしながら尋ねてみると、彼は「ううん、なんでも」と少し嬉しそうに頷いて、それ以上語ろうとはしない。またキャッチボール失敗だ。からかわれたり遊ばられるのならまだしも、何もせずにただ頬を包まれると無邪気にじゃれあっていた空気が一変してしまうと言うか、急に意識して恥ずかしくなってしまう。目を見られなくなって慌てて逸らす私を、涼くんはどう思っているのだろうか。何照れてんのって呆れてる?それともどうでもいいのかな。こんなに頬も背中を熱くして、視線も交られなくなって、急に喉が渇いているのは私だけなのかな。

首元で心臓の音がする。いい加減にしてって手を振り払えばいいのかな。でもそんなこと出来ない。あるわけないって何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに、どうしても期待してしまって。気まぐれに遊んでるだけだったとしても、彼に触れられていることが嬉しくて。だから涼くんがこつんと優しく額を合わせてきても私は羞恥のあまり顎を引くだけで、それきりなんの反抗も出来なかった。「…あれ。嫌がんなくていいんスか?」まるで耳元に囁くかのように小さな声で呟いた彼の声は、先程と同じからかいの音を含んでいたけれど随分優しいものだった。

「りょ、りょうくん調子…の、のっちゃうもん」
「はは、なんスかそれ。ほんとにちゅーしちゃうっスよー」

しかし苦笑する声が目の前で聞こえて、吐息すら掛かりそうな距離で私はどうやって平常心を保てというのか。どうしても見れなくなった彼の目は一体どんな色をしているのだろう。心拍数が高まる中、ふいに涼くんの右手が頬を離れる。そしてそのまま顔にかかっていた髪をそれとなく耳に掛け直した。頬に触れる髪がなんだかくすぐったくて身じろいで、掴んだままだった涼くんの腕をぎゅっと握った。

すると彼はそれを一体どういう意味で解釈したのか、ふいに距離を縮めようと更に顔を近付けて来たものだから、私の精神は崩壊しそうになってしまった。一瞬息をするのを忘れてしまうくらいに。経験値が低い私にだって、キスされそうになってることくらい分かる。…またからかってるの?それとも気まぐれ?それとももしかして涼くんも私のこと想ってくれていたりするの。どっちなの。

──やだ。…ちがう、全然やじゃないけど、でも、やだ。

だって、ちゃんと気持ちがないのに何もわからないままキスされるのはいやだ。傷つくのは目に見えている。どうしたらいいのか分からなくなってぎゅっと目を瞑った。無意識に顔逸らしてしまう私には事態を呑み込めるほどの冷静さは残っていなくて、ひたすら体を熱くすことしか出来ない。恥ずかしくて泣きそうになる。ふいに彼が止まったのが分かった。

「ふあっ…!」

思わず声が漏れた。突然何の前触れもなくぐしゃぐしゃとかき混ぜるように髪を撫でられて、つい驚いてしまって。涼くんの大きな手は優しいけれど少し乱暴で、私は上からの勢いに耐えきれず俯いてしまった。遊ばれる私の髪はきっと今頃見るも無残な姿をしていることだろう。なのに私は、なんで昨日しっかりトリートメントしなかったんだと悔やんで仕方がない。着目点がずれていることは重々承知している。だけど早く手を離してほしいなんていうことは少しも考えない私の頭は、きっと撫でられていることを心のどこかで犬のように喜んでいた。とはいえそれを表に出すのはあまりにも恥ずかしいから必死になって抑えようと目を瞑りながら、気を抜けば緩んでしまう口元をぎゅっと結んだ。

──キスされるのかと、思った。

まだ緊張の余韻が残っているようで、心臓が騒がしい。それともこれは私の痛い妄想だったのかな。恥ずかしい。自分のことなのに、嬉しいのか悲しいのかよく分からないよ。

「…からかったみたいになってごめんね。びっくりしちゃったっスよね」

そう言って暫く自由に私の頭を掻きむしっていた涼くんは気が済んだのか飽きたのか、次第にその勢いが弱まってくる。そうして最後に優しく2回ぽんぽんと頭を撫でたら離れてしまった。…いやじゃ、なかったのにな。本当は驚いていただけで、パニックになっていただけで、無理にでもしてくれて良かったのに。もっと髪も触れてくれていて構わなかったのに。からかわれてショックだったはずなのに、心のどこかでされなかったことを残念がっている自分はどうもどっちつかずでいけない。しょんぼりそうになる顔を必死にひた隠しながら髪を手ぐしで直しながらそっと顔を上げてみる。

「あっ、ぐしゃぐしゃになっちゃったっスね」

そう言って笑いながら髪を直すのを手伝う彼の指がまた私に触れた。ほんとだよ、なんて小さく文句をぶつけてみるけれど、本心なんてひとつも乗っていない言葉に意味はない。高鳴る鼓動に気付いてほしいけど気付かれたくない矛盾だらけの私の心なんて言わなくていい。だから髪を直すふりをしていても、本当は撫でてくれた頭に触れたいだけだなんて、涼くんは気付かなくていい。…うそ。やっぱりほんとは知ってほしいよ。矛盾してるねって笑っていいから。

「…あ、前髪」

ふと何かに気付いたように涼くんが言った。しかも額を隠している髪に視線が注がれているところから見て、もしかして前髪までもぼさついてしまっていたのだろうか。私さっきからかっこわるいとこばっかりだ。恥ずかしくなって顔を隠すように直しを試みてみるも、鏡がないといまいち大丈夫なのか分からない。困り果てているとそれを察したらしい涼くんは「ちょっと待って」と声を掛けて、また髪に触れた。

「あ、ありがとう…」

俯きそうになりながら小さく礼を言う私に頷いた涼くんは、なんとも上機嫌に乱れた髪を直す。…うれしい。だけど改まって触れられると照れ臭くなって、こたつの中でこっそり身をよじった。テレビから溢れ出すバラエティ番組も、返信し終わっていない友人へのメールも、振り続けている雪も、まるで違う次元の出来事みたいに遠い。音はちゃんと聞こえているはずなのに、目の前の彼の何気ない動作しか見えなくて。

まるで壊れ物でも触るかのように優しい指とか、涼くんが話しかけるたびに動く喉仏とか、息をするたび上下する胸とか、そんな小さな仕草に目が逸らせなくて、でもなんだか見ちゃいけない気がして、ひょろひょろと不安定に視線が逃げてしまう。何か別のことを考えようと思えば思うほど、涼くんが私の頭を支配した。…どうしたら彼から逃げられるんだろう。

顔を熱くしながら解決策を必死に考えてみるけれど、そんなのあったら最初から苦労していない。もういい加減にしてくれと溜息をつきそうになる。犬のような人懐こさと猫のような気まぐれを兼ね揃えている彼は、長い付き合いである私ですら予測が出来ない。

…それにしても、まだ直らないのかな、髪。依然として前髪に触れているところから見て、そんなにひどく荒らされてしまっていたのかと泣きそうになりながら涼くんの名を呼んでみる。するとまるでそれを合図にしたかのようにふいに距離を縮めた彼は、油断していた私の額にキスをひとつ落とした。唇はすぐに離れたけれど一瞬何をされたのか理解できず力が抜けてしまった私は、彼の腕から手を離してしまう。呆気にとられぽかんと見上げる私に、涼くんはまるで子どもを叱りつけるような口調で言った。

「今度ああいう思わせぶりなことしたらマジで口にするっスよ!分かった?」

どうしたことだろう、呆然としてうまく働かない頭はどうも事態を処理してくれない。しかしとりあえずここは頷くところらしいという最低限の情報が伝達されたお陰で、私は力なくこくりと相槌をうつことに成功した。それをみた涼くんも満足そうに頷く。

じわっと滲む視界。思い出したように溢れ出す体温。ぐるぐるぐるぐる涼くんのことばあかり回る私の脳はきっとパンク寸前だ。あまり刺激を与えないでほしい。誰かに突き飛ばされた訳でもなく、脱力して倒れ込んでしまいそうだ。そんな私の状況を知ってか知らずか涼くんは少し不貞腐れたような、はたまた照れ臭そうな顔をして口を開く。

「だからなんていうか、その…」

歯切れの悪い返事を寄越す涼くんはとても珍しい、首の後ろを掻いては目を泳がせている。…どうしたんだろう。どきどきしながら続きを待っていると彼は急に何かに気が付いたように、慌てて「ていうか調子に乗ってすんませんっス!」と突然の謝罪を寄越してきたものだから展開についていけない。どうやら涼くんは先程の行動を詫びているらしい。謝るくらいならやらないでほしいのにと思いつつ、あまりにもしょぼんとしている彼を見ていたらそれすら口にすることも出来ない。するとそれをどう誤解したのか、彼はやたら必死そうに弁解を始めた。

「髪触ってたらつい魔が差したというかなんていうか!マジ反省してるっス!あっ、勿論は何にも悪くないから!」
「りょ、涼くん落ち着いて…」
「もうしないから!」
「あの、」
「ていうかもうに触んない!触んないから!ほんとは触りたいけど!…あっごめん今のナシ!だから嫌いにならないで!ね!?」

…口を挟む暇すら与えないほど圧倒されてしまった。ぽかんと口を開きっぱなしで何の反応も寄越さない私に、涼くんはもはや土下座でもしそうな勢いでひたすら言葉を重ねていく。分かったからと口では言う私も、本当は最初の言葉がどうも引っかかって仕方がなかった。

「(……ま、魔が差したって)」

ということはつまり、似たような状況にあったら他の子にも手を出すということなのだろうか。そんな光景を想像したら急に体が重たくなって黙り込んでしまった。そういえば中学のとき、涼くんはいつも違う女の子と歩いていたような…。バスケを初めてからしなくなったみたいだけど、やっぱり涼くんは普通に街中にいるだけでも目立つし、モデルもやっているからきっと今だって女の子に不自由しないだろう。そんなことを考えたら途端に涙腺が緩んでいてもたってもいられず、気が付けば震える喉も構うことなく「…あの」と口を開いていた。涼くんは「何?」とどこか必死そうに答えてじっと続きを待っている。

「あの……ほ、ほかの子にもその、こういうこと……しちゃうの…?」

そう言って、はっとした。──しまった。完全に言葉を間違えてしまった。これじゃまるで、「私以外の子にそんなのしちゃやだ」と言っているようなものじゃないか。完全に心の声を暴露してしまった。自分は一体何を口走ってしまったのかと顔面蒼白になりながら全力で後悔するも時すでに遅しというやつで、慌てて弁解を試みた。いつの間にか立場が逆転してしまっている。

「ち、違う!違うのそうじゃなくてなんていうか!あの、えっと…!」

だめだ、頭の中がこんがらがってうまく言葉に出来ない。何を言いたいのかさっぱり分からないよ。いつの間にか涼くんは俯いて口元を抑えたまま何も言わない。も、もしかして「うわこいつ気持ち悪い」とか思われていたりするのだろうか。ドン引きされすぎて笑われているのだろうか。どうしよう、そんなことになったら今度こそ泣いてしまう。遂に俯いて黙り込んでしまう私に、涼くんは突然「──ああもう!」と大きな声を出したものだからびくりと肩を震わせて顔を上げた。

!」
「は、はい…っ!」

まっすぐな瞳に捕えられ、思わず敬語で返してしまったというのにそんなのお構いなしと言わんばかりの涼くんは、いつの間にかなっていたらしい正座状態のまま大真面目な顔をして言い放った。

「あの!抱きしめていいっスか!」
「えっ」




20130201 色んな意味で