「……俺、マジかっこ悪い」
弱々しく呟かれた言葉を吐き出した涼くんは右手を顔の上に置いているせいで、どんな表情をしているのか全く見ることが出来ない。なんだか珍しく随分自虐的だなと思いつつ、「そんなことないよ」と答える。ベッドに横になった幼馴染は190センチ近くあるはずなのに、何故か随分小さく思えた。
彼の部屋の時計は午前7時20分を指しており、普段ならば涼くんは朝練で学校にいる時間だ。彼の通う海常高校は毎年当たり前のようにインターハイに出ているバスケの強豪校のため、朝練も水曜日以外は毎日行われている。勿論今日もその例外ではないと言うのにスタメンであるはずの涼くんがまだ家にいて、なおかつ横になっている理由は非常に単純明快だ。つまるところ、彼は8度4分という高熱を出して寝込んでしまったのだった。そういえば体調を崩すと弱気になると言うし、さっきの自虐的な発言もそのせいなのかもとぼんやりと考えながら、口元まですっぽり布団に覆われている涼くんに声を掛けた。
「最近急に冷え込んで来たし、季節の変わり目は体調崩しやすい人多いんだから。今日はゆっくりしてなきゃだめだよ」
まるで姉にでもなったようにそう声を掛けてみると、彼は腕の隙間から物言いたげな目を覗かせてしばらく無言でこちらを見やる。しかし熱が邪魔であまり多く話したくはないらしい、口にすることなくまた天井をぼんやりと見つめ始めてしまった。…うーん、これは結構重症かもしれない。ベッド横の床に座り込んだまま涼くんを観察するようにじっと見つめてみるけれど、いつもの覇気がなさすぎて逆にこちらの調子が狂ってしまう。
「…あのね。後で、お母さんがお粥作って持ってきてくれるって。食べれそう?」
出来るだけ柔らかい声で尋ねてみると、涼くんは小さく首を振った。「もしかして、うどんのほうがいい?涼くんうどんすきだもんね」再び質問してみても反応は全く同じものしか返っては来ないから、どうやらお粥が嫌というわけではなく、単純に食べる気がないらしい。…どうしよう。食欲がなくても、食べて栄養つけなきゃ治るものも治らないのに。そういえば涼くんは昔から、具合が悪くなると食も細くなる典型的なパターンだったことを思い出す。熱が出ても食べられる私とは真逆のタイプだった。あ、そもそも朝はあんまり食べない子だったっけ。…どうしよう、みかんの缶詰とかゼリーとか買ってきた方がいいのだろうかと考えていると、ふと小さな声で「…おれ」と呟くのが聞こえたものだから、慌てて身を乗り出して耳を傾ける。ベッドに手をついた拍子に、ギシリとスプリングの音がした。
「…おばさんじゃなくて、が作ったのがたべたい」
「えっ?わ、私、料理なんて出来ないよ」
なのにそんな突然無茶振りされても。そもそも専業主婦のお母さんが作ったもののほうが明らかに味も整っているし、料理に不慣れな私が今から作り始めたとしても色々手間取って、とてもじゃないけれど10分かそこらで作れるとは思えない。いや、きっと時間うんぬんの話ではない。私もお菓子こそ作れるけれど、あれは計量さえしっかりしてちゃんと混ぜてオーブンに突っ込めばどうにでもなるものだ。けれど主食となると話はまた別というやつで、包丁の手さばきだとか、何より火の加減というものは未知の領域すぎる。中学の時は一応調理部に在籍していたけれど、看病食なんて高度なものは作ったことがなかった。
「ごめんね、涼くん」
「えー…」
心底納得がいかないと言わんばかりの声なのに、随分と弱々しく、いつもより押しが弱い。やっぱり熱があるんだな、と変なところで実感してしまった。普段の涼くんは、主張はもっとはっきりするから。仰向けからごろんと寝返りを打って横向きになったままじっと私の顔を見つめる涼くんの大きな目はぼんやりとしていて、どこかふらふらしている。
「ー…」
180センチをゆうに超えている長身の男の子だというのに、これじゃまるで耳を垂らす子犬みたいだ。甘えん坊の子どもに見えて、小さく笑う。「うん、なあに?」まるで弟を見守る姉のような気分で頷くと、涼くんはおぼろげな目で手を伸ばし、ベッドについていた私の右手をぎゅっと握った。
「えっ、りょ、涼くん!?」
突然の展開に動揺して思わず全身を沸騰させてあわあわしていると、ふと幼馴染が熱に苦しんでいる顔が目に入ってきた。何やらだるそうにしており、とてもじゃないけど振りきれない。やっぱり随分気弱になってしまったようで、心なしか心細そうな目をしていた。…さみしいのかな。おじさんは単身赴任だし、おばさんは私と入れ違いになるように仕事に行ってしまった。お姉ちゃんのやよちゃんも専門学校があるから昼間はいないし、もし今日バイトが入っていたら、帰ってくるのは遅くなるのかもしれない。つまり涼くんは、基本的に一人で過ごすことになるのだ。…一人は気楽で良いと以前は言っていたけれど、少なくとも今の彼の状況を見ている限り、とてもそうには思えない。ぎゅっと握る彼の手が、まるで「大丈夫じゃないです」と言っているように思えた。
「…。そばにいて」
普段ならそんなことを言われたら顔を真っ赤にしてしまうであろう私も、今回ばかりはどこか頼りない涼くんに胸が痛んでしまった。寝起きで少し掠れた声や熱で虚ろな瞳も、熱くて大きな手も、今日ばかりは妙に幼く映ってしまう。そんな姿を見ていたら、小学生のときまで毎年秋から冬の季節の変わり目になると必ず風邪を引いて寝込んでいた頃の涼くんを思い出した。
中学に上がってからはめっきりそれもなくなったし、身長も随分と伸びて大人っぽくなってモデルも始めてしまったからなんだか遠い人のように思っていたけれど、扁桃腺が弱くて背も低かったあの頃が嘘のようで少しさみしい気もしていたけれど、涼くんはやっぱり涼くんだったね。相変わらず人の目に敏感だけど、その分人一倍寂しがり屋で甘えん坊の末っ子のままだ。モデルという職業上いつも周りの目があるから少なからず気を張っているし、毎日部活の練習があるから疲れちゃったのかな。その癖変にプライドが高くて弱みを決して見せようとしない涼くんが、風邪を引いているからとはいえこんなに人に頼るだなんて。不謹慎かもしれないけど、私、ちょっと嬉しいよ。「…涼くん」繋がれた手をぎゅっと握り返すだけで、なんだか大胆なことをしている気分になってどきどきした。
「甘えていいからね」
私にだけなら甘えていいよ。私に出来ることがあったらなんでも言って。でも他の子にはそんなこと言っちゃやだからね・なんてことは流石に言えるはずもないのだけれど。…でも、どうしよう。やっぱり調子に乗りすぎてしまったかもしれない。自分で言ったくせに急に恥ずかしくなって顔を熱くして、ついつい俯いてしまいそうになる。涼くんの反応が返って来ないから余計に不安になってしまう。ど、どうしよう、もしかしてドン引きされちゃったとか。マイナスの方向でしか予想が出来ずおそるおそる顔を上げると、涼くんは「うん」と頷いて、くすぐったそうに目を細めて笑っていた。満更でもないように見えたのは、私の願望がフィルターを掛けてしまったんだろうか。
…やっぱり言うんじゃなかったかもしれない。いや、口にしたのは心からの本音だけれど。でも、でも。…恥ずかしい。いてもたってもいられなくてどうしたらいいのか分からず、目を泳がせながら「じゃ、じゃあ私、学校行ってくるね」と慌てて口を開くと、涼くんは驚いたように抗議の声を上げた。
「えっ!行っちゃうんスかー…!」
今にも泣きそうな顔をしながら涼くんが食いついてくる。「あまえていいって、今言ったじゃないスかー…!」そう言って、まるで待って待ってと言わんばかりに手をぐいぐい引っ張ってくる彼は、どうやら私を学校に行かせんとしているらしい。しかしそうは言ってもよくよく考えてみれば世間様は平日で、つまるところ私には授業がある。確かに涼くんを一人にしておくのは気が引けるけれど、しょせん幼馴染でしかない私はどうすることも出来ない。そもそも私はしっかり制服を着用しているし、もともと学校に行く前に様子を見に来ただけだったのだ。
「そのうちお母さん来てくれるし、お粥とかも作ってくれるから大丈夫だよ」
「俺がいいー」
この会話、さっきも似たようなものをしたような気がしないでもない。私が良いと言われて嬉しくないはずがなくてついにやけてしまいそうになるけれど、きっと涼くんはそういう意味で言ったんじゃなくて、同い年で気兼ねなく口にすることが出来るから気が楽って意味なんだ。そう分かってはいるつもりではいるんだけど、こんなストレートに私が良いなんて言われたら、どうしても過剰に反応してしまう。うまい返しが思いつかなくて、ついまた目を逸らしてしまった。
「…ねえ。俺、といっしょにいたいっス。がいい。…だめ…?」
「えっ?そ、そんなこと言われても、あの…!」
どうしよう、握られた右手が熱い。さっきまで「可愛い」なんて余裕の感想を持っていたのが嘘のようだ。涼くんの言う「一緒にいたい」っていうのは、別にそういう意味じゃないんだ、そういう意味じゃないんだよ。ちゃんと自覚しなきゃだめだよ。勘違いしたら恥ずかしいのは自分なんだから。そもそも涼くんは自分をどう使ったらいいのか熟知している人だから、きっと今頃小首傾げたような角度で上目づかいをしているんでしょう。全部全部分かってるんだから。そんなもの私には通用しないんだから。しちゃいけないんだから。…そう分かっているはずなのに。
私の中の何かが疼いて、遂に痺れを切らしてしまった。逸らした視線を戻しそっと彼を見やる。すると予想通り大きな瞳がじっと私を見つめていて、その姿はまるで口には言わずとも「お願い」と言われているように思えてならない。心なしか泣いてしまいそうな目を見ていたら私がいないとだめな気がしてしまったものだから、きっと私は負けていた。だから例え私のうぬぼれた勘違いだったとしても彼を放ってはおけなくて、気が付いたら「あ、あの…」と震える声で口を開いてしまっていたのだった。
「………か、帰ったら一番に、寄る、から……っ」
カラカラに乾いた喉の奥から必死に絞り出した声は随分と頼りない音となってしまった。涼くんの顔を見れないまま口にした台詞は、きちんと彼の耳まで届いてくれただろうか。暫く黙り込んでしまった涼くんに、私はもう何も言うことが出来なかった。意を決して弱々しく盗み見してみると、彼は少し不貞腐れた顔で「…ぜったいっスよ」と承諾する。渋々と言ったその目は、腑に落ちてはいないみたいだった。
「う、うん」
こくりと頷くと涼くんはやっと手の力を緩め、久しぶりに私の右手を解放した。…少し残念だなんて思っちゃいけない。「じゃあ私行くね。涼くん、ちゃんと寝てるんだよ」そう声を掛けて、今度こそ腰を上げて横に置いてあったスクールバッグを手に、出来るだけ音を立てないようにして部屋を後にする──のだけれど、涼くんまでもが私につられたようにふらりと上半身を起こしてベッドから降りてしまったのだから訳が分からない。緩いスエット姿の彼に、慌てて声を掛けた。
「涼くん!寝てなきゃだめだよ…!」
私の話、ちゃんと聞いていたのだろうか。そう疑わずにはいられない。ああもしかして、喉が渇いたのだろうか、それともお手洗いとか。どちらにせよまさかこのタイミングでのっそり起き上がるとは思ってもみなかった私は動揺してしまう。ふらふらとおぼつかない足で歩く涼くんはとても見ていられなくて、やっぱり安静にしていた方が良いとしか思えない。まさか学校に行くなんて言い出すんじゃ、なんて考えていた私の目の前にやってきた彼は、ゆっくりと口を開いた。
「げんかんまで、行く」
どうやらお見送りをしてくれる気らしい。嬉しいけれど、そこまで体調の悪い彼にそこまでさせるわけにもいかず、「だ、大丈夫だよ」と断るけれど、涼くんは一向に首を縦に振ろうとしない。彼は基本的に強情で、ここまでくるとこちらが折れるしかない。長居をするより私が早く学校に向かった方が確実に早く、かつ穏便に事が進めると悟った私は、「ちゃんとお布団戻ってね」と釘を刺した。…こくりと頷く涼くんがなんだか可愛い、なんて思っちゃいけない。
本心を隠すように「じゃあ、お言葉に甘えようかな。ありがとう」と言うと、彼は嬉しそうにほにゃっと笑った。少し幼い笑顔に、なんだか昔に戻ったみたいだなんて呑気に考えていると、涼くんは何を思ったのかまた私の手に触れてくる。びっくりして見上げると、「いっしょに行こ」なんて甘えてくるものだから私は思わず変な声を出してしまうところだった。
幼稚園生じゃないんだから、手を繋ぐ必要性なんて、えっと、ないと、お、思うんだけど。
まるで涼くんの熱が伝染するかのように熱くなってきた右手に視線は集中する。バックバックと走り始めた心臓もいつ力尽きてしまうか分からないほどに全力疾走し始めてしまった。…涼くん、やっぱりあざといにも程がある。いくらもともとが甘えん坊だからって、熱に溺れてるとはいえ、絶対これは確信的な行動だ。長い付き合い上分かる、間違いない。どれだけ1人になりたくないと言うのだろう。なのに目を泳がせながらも小さく頷いてしまう私って、一体。
「(だめだなあ。なんで私、こんな涼くんに甘いんだろう)」
いつもなんだかんだで丸め込まれている気がする。もっと自分を強く持とうと心に決めて、一緒に涼くんの部屋を出た。きっとこの手は、あれだ。涼くんは風邪を引いているから、私が先導する意味があったんだ。そういうことにしておこうと自分に言い聞かせ、必死に冷静さを装ってみる。
玄関まで一直線の廊下に出ると、彼はぺたぺたと足音を立てて後ろをついてきた。…ああそうか、フローリング。すっかり忘れていたけれど、ただでさえ具合が悪いんだから、せめて靴下を履かせておけば良かった。上はパーカーを羽織っているからまあいいとしても、足から冷えるって言うし、素足でフローリングはあんまりよくないよね。やっぱり無理矢理にでも寝かせておいたほうが良かったのかな。私が出て行った後も、ちゃんとベッドに戻って寝てくれるか心配だし…。
ちらりと後ろの様子を伺ってみるも、どうにも危なっかしくふらふらしていて見ていられない。どうやら熱のせいで頭が重いらしく、うまく重心を取れないでいるらしかった。歩幅もいつもより明らかに狭い。…どうしよう、見れば見るほど放っておけない気がしてきた。とはいえまさか私が学校を休むわけにはいかないし…。なんだか寝込む子どもを家に残して仕事に行く母親の気分だ。
…ほんとに大丈夫かなあ。お母さんが来るから大丈夫だなんて涼くんには言ったけど、どうも心配が尽きてくれない。マンションでさほど広くはない廊下はすぐに玄関に着いてしまったから、私はもうどうしようもないのだけれど。少しでも涼くんからそばを離れるのを先送りにしたくていつもよりゆっくりローファーを履きこんでみたけれど、しょせん数秒しか変わらない。すっかり身支度を整えて振り返ると、やっぱりいつもよりしょぼくれた幼馴染の姿があった。…そんな顔、しないでほしい。ほんとに行っちゃうの?と言われているようで。
「えっと、何かあったらケータイね」
こくんと頷いた彼は随分消沈しており、しかし決して私の手を離そうとはしなかった。返事を寄越してきた割に行動がそれに伴っていない。これじゃ私、学校に行けないよ。それに体を冷やしてしまう前に、彼もベッドに戻った方がいいのに。
「(…でも……)」
色々思うところが合って、ちらちらと繋がれた手に目をやりながら「涼くん、あの…手…」と若干口ごもりながら遠回しに伝えてみると、その意味に気付いたらしい彼は、まるで名残惜しいと言わんばかりに一度だけぎゅっと強く握ったけれど、すぐに手を離した。久しぶりに解放された私達は向かい合ったまま、妙な沈黙を迎える。少し俯きながら、肩に掛けたスクールバックの持ち手をぎゅっと握った。
「(……涼くん、ほんとに離しちゃった)」
嫌だと駄々をこねてくれたら私、しょうがないなあって笑ったのに。手を繋いでくれたままでいてくれたなら1日中そばにいようって、ほんとは心の底で思っていたのに。でもそんな都合のいい賭け、あまりにも自分勝手すぎることくらい分かってる。自分から切り出せないから涼くんに言ってもらおうだなんて、虫の良すぎる話だよ。分かってるのにどうしよう、離れたくない。私別に涼くんの彼女じゃないけど、すきな人を放っておけない。でも、でも。私、そんな勇気ない。
「あ、えっと……」
心苦しさから彼を見られなくて、目を泳がせながら口を開いてみたものの、何を言ったらいいのか分からない。いや、言うことなんてもうひとつしか残されていないんだ。行ってくるねって一言しか。だけどそれすら躊躇してしまう私はやっぱり我儘なのかな。でも早く学校に行かなきゃ流石に遅刻してしまう。でも涼くんのそばにいたい。矛盾した感情が戦いを始めて、もうどちらを勝たせたらいいのか分からない。先程まで涼くんに触れられていた右手を自分でぎゅっと握ってみる。
「…えと、じゃあ…」
そう口を開いた刹那、目の前の黄色が揺れた。踏み込まれた拍子に思わず一歩後退しそうになってしまう私を捕まえて逆に強引に引き寄せた彼は、何を思ったかそのまま背中に腕を回してくる。一瞬息をするのを忘れてしまった私に、まるで子どもに言い聞かせるような優しい声で涼くんは言う。
「…いってらっしゃい」
頭の上から降ってきた彼の声はなんだか別人のように聞こえてしまった。胸元にすっぽり埋もれてしまった私を抱きとめる涼くんは、一体今何を考えているのだろう。熱のせいで随分熱い彼の体温に包まれて、私は一体どうしたらいいのだろう。力なく「は…、はい」と返事をするのに精いっぱいで、他に何も考えられないというのに。首や背中がやけに熱い。まだ朝だと言うのに変な汗を掻いてしまった。今日は一段と冷え込むでしょうって、天気予報のお姉さんが言っていたはずなのに。
するりと糸を解くように背中に回していた腕を緩めた涼くんはそのまま私の両肩に手を置いて距離を作っては「はやく帰ってきてね」と言うけれど、完全に頭をショートさせてしまった私には、火照る顔を誤魔化すようにこくこく頷くことしか出来ない。ど、どど、どうしよう。今私、涼くんに。涼くんに。意識したら先程とは違う意味で彼の顔を見れなくなって俯いてしまう私に、涼くんは少し上機嫌な声で「待ってるっス」と言う。ま、またそういう思わせぶりなこと、言っちゃうんだ。
「あの、じゃ、じゃあ、お、お大事、に」
ロボットのようにガチガチになりながら、見送る涼くんを背に黄瀬家を出る。バタンと閉まる鉄の扉が妙に響いた気がした。半ば放心状態のままエレベーターホールに行き、下行きのボタンを押す。冷静を装いたかった私の脳はやはり収集しきれず、オーバーヒートだったようだ。風邪をうつされてしまったかのように一気に急上昇して、特に熱い頬を両手で押さえていたら、私の中の何かが爆発した。早く帰って来てねって、待ってるって、そんな、抱きしめられながら言われちゃったら私、私。そもそもなんで抱きしめたりなんか。熱で訳が分からなかったのかな。いや、それにしたって!
「(………どうしよう)」
私、今日1日絶対涼くんのことしか考えられない。
★
「あっ、!おかえりっスー。来てくれたんスね!」
放課後、友人達からのクレープの誘いを断って一目散に帰宅した私は、黄瀬家に入った瞬間拍子抜けした。まるで何事もなかったかのように出迎えた涼くんはすっかり熱が下がったらしく、いつも通り飄々とした姿で待ち構えていたのだ。なんだろう、この差は。…朝のことが頭にこびり付いて意識して、授業中だってずっと上の空だったと言うのに。さっきチャイムを鳴らすときだって、「どうしようどうしよう」と葛藤してなかなか押せなかったというのに。…私の緊張、返してほしい。あまりに通常運行な涼くんに気が抜けて、スクールバックが肩からずり落ちた。
「えっと…も、もう大丈夫なんだ…?」
「うん、お陰様で。薬飲んで寝たらすっかり良くなったっス!おばさんのお粥もおいしかったしねー。林檎も剥いてもらったし。まあまだちょっと微熱があるらしいんスけど、もう大丈夫っしょ。だるくないし」
「そ、そっか。良かった…」
「どもっス!」
…なんだか腑に落ちない。あれだけ私が良いだとか、私が作ったものじゃなきゃ嫌だとか散々駄々をこねていたくせに。いや、熱が下がったのは良いことなの、良いことなんだけど。どうにも出来ないもやもやが気持ち悪くて、右手にぶらさげたコンビニの袋をぎゅっと握りしめた。気付かれないように、袋をそっと後ろに隠す。「…??」暗い顔をしている私に気付いたのか、涼くんはどうしたのと言わんばかりに声を掛けてくる。それに気付いて慌てて笑顔を繕おうとするけれど、どうも顔が引きつってうまく出来ない。原因は分かっている。多分嫉妬ってやつだ。…結局、私じゃなくても良かったんじゃないか。そんなドス黒い感情が駆け巡ってしまって。
「な、なんでもないよ」
目を逸らしたままそんなことを言ったって、ちっとも説得力がないことくらい分かっている。だけど今涼くんを見たら、柄にもなく泣いてしまいそうだ。…だめだ、早く帰ろう。もう私に残された選択肢はそれしかなかった。意を決して足早にベッドに近寄り、上半身を起こしている涼くんに白いコンビニ袋を差し出す。意味が分からずそれを凝視した彼は、「なんスか?」と不思議そうに尋ねた。
「お、お見舞い…」
そう答えると、涼くんはやっとそれを受け取り、がさがさと中を確認している。なんだか恥ずかしくなって顔を逸らしてしまう私は、スクールバックを無意味に肩に掛け直して誤魔化した。…だって、別に大したものじゃないんだ。それにきっと、もういらないものなんだ。熱も大分下がったと言っていたし、お粥も林檎も食べたらしいし、きっと食欲は戻っているに違いない。そういえば涼くんは風邪こそ引きやすい体質だったけれど、歳を重ねるに連れて回復も早くなったことを今更ながら思い出した。…余計なことをしてしまったかもしれない。
「じゃあ私、帰る」
何故だか泣きそうになってしまった声は、まるで私のものじゃないみたいだ。慌てて彼に背を向けて部屋を出て行こうとする私に、涼くんは待ってと言わんばかりに名前を呼ぶから、そのまま無言で去ることも出来ず立ち止まる。…どうしよう。どんな顔をしたらいいのか分からなくておそるおそる振り向くと、幼馴染は人懐こい笑顔を向けて、私が買ってきたみかんゼリーを手に口を開いた。
「これありがと。…ね、一緒に食べないっスか?半分個しよ?」
涼くんはいつだって人の目に敏感で、だから私の心なんてきっとすぐ見透かしてしまうのでしょう。じゃなきゃこんな優しく声を掛けたりしないことくらい分かってる。だから本当は知ってるんだよ。甘えているのは涼くんじゃない。…きっと私の方なんだ。こくんと小さく頷く私に、涼くんは嬉しそうに微笑んだ。
20121222 英語では緑の目で、比喩的に嫉妬を表すらしい