「俺もからマフィン貰いたかった」
そう言った涼くんはひどく不機嫌そうに眉間に皺を寄せていて、それを見ている限り、とても現役モデルとは思えない。リビングのソファにごろんと横になりながらまるで子どもように不貞腐れている彼にどう返したらいいのか分からなくて、カウンターキッチンを挟みつつ思わず苦笑いしてしまった。すると涼くんは口を尖らせながら「なのに、なんで紫っちにあげちゃうんスか、もー」と更に追い打ちをかけるように言ってくるものだから、こちらも思わず口籠る。
「いやあの、あれはあげたっていうか、その場の流れっていうか…」
気まずさからどこを見たらいいのか分からなくなってふと視線を下げると、調理台の隅に、ネットで調べプリントアウトしたレシピが目に入ってきた。その白い紙に載る焼き菓子の写真のチョイスは、昨日彼がどうしても食べたいとせがんできた結果である。つまり今まさに「貰いたかった」と言っていたマフィンを作ろうとしているところだというにも関わらず彼がこんなにも口を酸っぱくして言ってくるということは、別に涼くんはお菓子がほしかったからではなくて、成り行きとはいえ私が「むらさきっち」なる人にマフィンをあげてしまったことを不服としている──の、だろうか。いや、でも流石にこれは自分の都合のいいような願望という名のフィルターを掛けすぎているような気がする。
小さい頃から同じマンションに住んでいる涼くんはいわゆる幼馴染というやつで、だからか彼は私に不満があれば遠慮せず、嫌なことは「嫌です」と言わんばかりに眉間に皺を寄せて割とストレートにぶつけてくる傾向があった。例えばメールしたらせめてその日のうちに返信してとか、ハイザキという人は危ないから絶対話したり近寄ったりしちゃだめだとか、その他方面各種様々。…とはいえ、流石に今回の展開は予想外だった。まさか休日に涼くんの家にお邪魔してお菓子を作ることになろうとは。それに共働きで忙しい涼くんのおじさんやおばさんは不在でお姉ちゃんのやよちゃんもバイトで出ているらしいから、必然的にこの家には私達以外いないということになるのだけれど、どうしたことだろう。
「(…なんかそわそわする)」
どうも落ち着かない。意識したらますますくすぐったくなって、涼くんを見ることが出来なくなってしまった。紛らわすように秤で薄力粉を計量しながら「すぐ作るからね」としどろもどろしながら返してみるけれど、彼はなかなか機嫌を直してくれないようで、「うん」と返事を寄越しつつもその声は不服そうな音を含ませていた。…一体全体、どうしたらいいのだろう。頭をフル回転させてみるものの、そもそもなぜこんなに自分が責められているのかその理由も分からない私には、安易に「謝る」という選択をすることは出来なかった。まさか昨日のちょっとした出来事が、こんなにも根に持たれることになろうとは。
そもそも彼の言うマフィンというのは、私が所属している調理部で昨日作ったお菓子のことを指している。調理部は学校の1階調理室を借りて毎週金曜日に活動をしている、部員15名の小さなクラブだ。そしてまさに昨日はその活動日というやつで、私達は先週から計画していたマフィン作りを決行し、その後、同じグループでマフィンを作っためーちゃんが一生のお願いと言わんばかりの血相で「黄瀬くんに渡すの付き合って!」と頼み込んできた結果半ば引っ張られるように体育館に連れて行かれてしまったのだった。
そういった経緯があって彼女が涼くんを呼び出しお菓子を渡している様子を遠目で見ていたのだけれど、正直、面白くない。なんだか直視出来なくてぼんやりと何もない床を見つめながら、こんなことなら無理にでも断るんだったとこっそり溜息をついたまさにそのとき、ふと目の前に人影を感じて顔を上げ、そして硬直した。どうやら甘いマフィンの香りに誘われてやってきたらしい2メートル超えの巨人とも言うべき紫色の同級生が、「お菓子、いらないならちょーだい」。たった一言、そう言い放ったのだ。初対面の私に向かって。いや、頭ひとつ分どころか飛び抜けて高いその身長がとても目立つから彼の存在自体は知っていたけど、でもクラスも違うし、話したことすらなかったというのに。
呆気にとられつつ、しかしおそらく2メートルはあるであろう男子に見下ろされながらそんなことを言われたら、威圧感から素直にマフィンを差し出すしかない。慌てて彼──涼くんは紫っちと呼んでいるらしい。後から聞いた話だけれど、その紫原くんはかなりの甘党で、何かと言うとお菓子を頬張っているらしい──に、まだほのかに温かい焼き菓子を差し出したのだけれど、涼くんいわく、このことが不満らしい。まあ、紫の彼はちょうど練習の休憩中ということを良いことにその場でマフィンを口に放り込みぺろりと平らげてしまったものだから、私のマフィンはすぐに姿を消してしまったのだけれど。そういえばその後すぐに事態に気付いた涼くんは、「なんで食べちゃうんスか!紫っちのばかー!」と叫んでいたような気がする・と、砂糖の袋を手に取りながらぼんやりと思い出した。
「(…でも涼くんだって、めーちゃんから貰って喜んでたくせに)」
そんなことを考えながら、リビングのソファーで分かりやすいくらい不貞腐れている幼馴染をこっそり見やってはすぐ俯いて、また材料を計量する作業に没頭する素振りを見せて誤魔化した。
「(……私だって、ほんとは行きたくなかったもん)」
だって、何を好き好んで他の誰かがすきな人にお菓子を渡す様を見届けなければならないのか。ありがとうと笑いかける涼くんの声が、今でも耳にこびりついて離れない。きっと彼は持ち前の整った顔で優しく微笑みかけたんだろう。極力見ないように心掛けてずっと俯いて顔を逸らしていたから、そのときの彼の表情は分からなかったけれど。でもそのときの声を聞く限り、彼は喜んでいたとしか思えない素振りを見せていた。なのに、なんでこんなにも機嫌を損ねているのだろう。へそを曲げたいのはこっちのほうなのに。そもそもなんで昨日貰ったであろうマフィンを「また作って」と頼んで来たのか、正直私には理解出来ないでいた。彼は時々分からない。
「(…涼くんのばか)」
涼くんが甘いものをすきなことは昔から知っていたけれど、もしかしたらファンサービスというやつなのかもしれないけれど、それにしたってあんな、あんな優しい声でありがとうなんて言わなくたって。そんなことを考えてはどんどん広がっていくもやもやした黒い感情に溺れていると、リビングのソファーから「あーもー」と実にやる気のない声が聞こえてきた。
「珍しくが体育館来てくれたから俺めっちゃ期待してたのに、なんなんスかこのぬか喜び」
──しまった。思ってもみなかった発言に手元が狂って、袋からドバッと砂糖が出てしまった。秤の目盛りが大きく傾く。…70グラムでいいのに一気に150になってしまうだなんて。動揺しすぎだよ、なんて溜息をつく。こうなったらスプーンでせっせと袋に戻す作業に勤しむしかない。…それに。ちろりと盗み見るようにこっそり幼馴染に視線をやってみると、彼はソファーに横になったままいつの間にかクッションに顔を埋めていた。そのせいで涼くんの顔は見えないけれど、随分やる気のない様子だと言うことは分かる。や、やっぱり冗談、なんだな。あんまり見ちゃいけないと思いつつちらちらと視線を寄越さずにはいられない私は、思わぬ一言を貰ってどきどきしていることなど悟られないよう、なんでもない顔を必死に貼り付けながら、余分に出てしまった砂糖を袋へ戻す作業に没頭するしかない。…冗談だとでも思わないとやっていけない。だって、だって。
「(だってそれじゃまるで、私が涼くんにお菓子を差し入れに行くのを楽しみに待ってくれていたみたいだ)」
そうだったらいいのにってずっと思っていたけれど、でも現実的にそんなことあるわけないってずっと打ち消し続けていたのに。だからこういうときいつも思う。…そんな思わせぶりなこと、言わないでほしい。思わずにやついてしまいそうになる唇を必死に噛んで隠そうとするけれど、どうもうまくいかないから。別に涼くんはそんなつもりで言ったんじゃないって、ちゃんと分かっているつもりなのに。冗談なんだよね、大丈夫、ちゃんと分かってるよ。だって涼くんは私のことなどなんとも思っていないのだから。つまるところ私が一方的にこっそり想っているだけなのだということは、重々承知している。
「りょ、涼くんてそんなにマフィン、すきだったっけ」
期待しちゃいけない。きっと涼くんは私が考えている以上にお菓子が好きで、だから昨日貰っただとかそんなことはなしにしても、貰えるものは貰いたいんだ。そういうことに違いない。だから自分の都合のいいように解釈しちゃいけないと言い聞かせながら必死に返答をしてみるけれど、はたしてうまく出来ただろうか。まるで劇でもするかのように、少し発音がわざとらしくなってしまったような気がする。そんな私にリビングから「もー!違うっスよー!」と何やらムキになった声が聞こえてきてふと顔を上げて左を見やると、いつの間にか起き上がったらしい涼くんが、先程まで埋もれていたクッションを膝上に乗っけたまま口を尖らせていた。
「俺は!の作ったお菓子が!手渡しで!欲しかったんスよ!昨日だって楽しみにしてたの!だから紫っちに取られてムカついたんスよ、もーっ!なんで分かんないんスか!」
「(えっ!)」
思わぬ展開にまた手元が狂って、袋の外に砂糖をぶちまけてしまったのは絶対に涼くんのせいだ、そうに違いない。しかし原因はともかく粗相をしてしまったのは間違いなく自分なわけで、キッチンの作業台にキラキラ光る甘味料を見ては、やってしまったと溜息をつくように「ああー…」と重い声が漏れてしまった。ささっと手を箒代わりに掃いて砂糖を集め、無駄にしてごめんなさいと念じながらゴミ箱に投下する。しかしそんなことになっているとは知らない涼くんは一向に反応のない私を不審がって、ずっと寝っころがっていたソファーから離れ、のろのろとキッチンに顔を出した。
「ねー。聞いてるっスかー?」
むーっと不機嫌そうな顔を張り付けたままやって来た涼くんは、まるで相手をされなくてつまらないと言わんばかりだ。私の左少し後ろで「ねえってばー」と少し甘えた声を出す。まるで母親に構ってほしい子どものようだった。溢した砂糖の後片付けが終わった後で良かったと心から思う。「う、うん」と少し動揺が垣間見る返事をしながら、バターが入ったボールを手元に持ってくる。材料の計量は全て終わっていた。けれど今の発言もあって、まともに涼くんの顔を見ることは出来ない。
「ごめんね。でも私、ひとつのことに集中すると他のことが見えなくなっちゃって…」
「でも俺、反応ないとつまんないっスよー。返事してほしいっス」
で、今何してんの?そう言わんばかりに私の左側の作業スペースに左手をつきひょこりと後ろから覗き込んでくる涼くんに、思わず肩を震わしてしまう。…び、び、びっくり、した。急にせわしなく走り出す心臓に手を焼きながらも、しかし表面上にはそれを出さないよう必死に顔を引き締めてみる。けれど自分が普段どんなふうにどんな顔をしていたのか分からなくなってしまったから、きっと今の私は変に引き攣った顔をしているに違いない。涼くんに気付かれませんようにと必死に念じながら、ボールの中に砂糖を入れた。…私が意識しすぎなのだろうか。彼は普段どおりけろりとしている。…それが逆に、ちょっともやもやした。意識してるの、私だけなの?そんなことを考えたらちょっと泣きそうになってしまった。
「えっと…計量が終わったから、今から混ぜるところだよ。バターと砂糖を、白くなるまで混ぜるの」
「ふーん」
涼くんは私の手元を見ながら、関心があるのかないのか分からないぼんやりとした声を漏らす。たったそれだけなのに、どうしよう。どうしようもなくどきどきして、涼くんの声がやたら耳奥まで響いてくすぐったい。「りょ、涼くんも一緒に作る?」決して顔は彼に向けないまま尋ねてみると、涼くんは暫く考え込むような素振りを見せた後、「俺はいいっスわ。キッチン使いにくいし」と断りを入れてきた。
涼くんはとても背が高くて、だから油断をするとキッチンの作業台の上にある収納棚に頭をぶつけてしまう。だから普段料理はおろか、キッチンに立つことすらない。あっても電子レンジやトースターの電源を入れるくらいだった。どうやらバスケでは長所である高い身長も、日頃の生活を営む上ではマイナス要素を持ち合わせているらしい。だから普段コンビニで適当に買って済ましてしまうらしいから考え物だ。
しかしそれは本題から逸れるからひとまず置いておくとしても、どうしたことだろう、彼は一向にソファーに戻る気配を見せない。相変わらず左手を私の横について、後ろに立っているのだ。リラックスなんて出来やしない。いるならいるで、もう少し距離をとって作業を見守ってほしいのに、心臓に悪すぎる。…そんなこと、口が裂けても言えないけど。
「そ、そっか」
とりあえず相槌を打って、涼くん以外のことを考えようと調理を再開し、白く大きなボールを左手で押さえながら泡立て器で材料をすり混ぜ始めた。…バターを室温である程度戻しておいたから随分とやりやすいけれど、それにしたってやりにくい。勿論それは物理的にではなく精神的にと言う話で、つまり何が言いたいのかと言うと、涼くんからひしひしと感じる視線に妙な緊張を感じていた。私の気のせいかもしれないけれど、どうも彼はボールの中ではなく、私の顔をじっと見ている、ような気がする。そんなことを自覚したら、急に背中がじわっと熱くなった。
もしかして、寝癖とか直ってなかったかな。朝起きて必死になって鏡と睨めっこしていたと言うのに。それとも顔に何かついているとか。でも材料を計量しているとき、手で顔を擦ったりはしていなかったと思うんだけど。そ、それじゃあなんだろう。
ああ、ひょっとして、少しは化粧くらいしろって思ってるのかな。ど、どうしよう。私お化粧品なんてなんにも持ってないのに。せめてマスカラくらいは買った方がいいのかな。あと睫毛をくるんってさせるやつ──あいにく名前は分からない──とか。でも私、あれを器用に使いこなす自信なんてないし、そもそもあれはどういう仕組みで睫毛をカールさせるのかちっとも分からないというのに。あれって瞼も一緒に挟んだりしないのかな、ていうか痛くないのかな、怖くないのかな。睫毛とか抜けないのかな。
…だめだ、お菓子作りなんてそんな考え事をしながらするようなものじゃないよ。必死に頭をぐるぐる回しながら作ったって、きっとおいしいものなんて出来やしない。「りょ、りょうくん、なに…?」左の彼の様子をおそるおそる伺いながら意を決して尋ねてみると、彼は「んーん、なんでもないっスよ」と、先程までの機嫌の悪さが嘘のようにご機嫌な声を出した。
「作ってるところを見るのって、なかなかないじゃないスか。だから、なんか新鮮で楽しいなって思ってただけっスよ」
弾んだ声でそう答えられては、私はもう何も言えない。どうやら彼はお菓子が作られていく過程に興味を持ったようだった。…でもそれならそれで、私じゃなくてボールのほうを見たらいいのに。それともやっぱり私の勘違いだったのかな。自意識過剰ってやつだったのかも。緊張しすぎなのかなと思い直して「そ、そっか」と相槌を打って作業を再開すると、隣から先程の会話の続きと思われる台詞が追加された。
「うん、可愛いし」
か、可愛い?思考回路が追いつかないほど斜め右を行く涼くんからの発言に、思わず首を傾げそうになってしまった。お菓子が作られていく過程が可愛いとは、一体。もしかしていつかのニュースで見た工場見学に訪れていた女性達のように、涼くんも流れ作業をする機械を「なんか一生懸命で可愛い」と称するタイプなのだろうか。そういうことなのだろうか。…あれ?でもそうなると、まるで私のことが可愛いと言っているようなことになるような。ち、ちがう。何度でも否定するけれどそれは絶対に違う。違うんだから。…どうせ、違うもん。きっとほら、泡立て器的な意味なんだ。だから私が耳まで熱くするのは勘違いもいいとこだというのに、どうも落ち着いてくれない。
「(お菓子を作るからって、ポニーテールなんてしなきゃよかった)」
そうしたら多少は髪で耳も顔も隠すことが出来たと言うのに。うわあやってしまったと今朝の自分を呪いながら八つ当たりするかのようにじゃかじゃか泡立て器を回していると、ふと涼くんが唐突に口を開いた。
「…ちっちゃい」
まるで独り言のようにぽつりと呟かれた言葉は、私に向けられたものだったのだろうか。今日の涼くんはよく分からない。突然何の前触れもなく小さいと一言言われても、何のことを指しているのか全く見当もつかないというのに。小さい、小さいとは。えっと、キッチンの話なのかな。…そ、それともまさか、私の胸が小さいとかそういうことを言われてるんじゃ!なんて全身を熱くしながら慌てて俯いて身を小さくしてみるけれど、相変わらず涼くんから注がれる視線は健在だった。この状態でお菓子なんて作れない。思わず材料を混ぜるペースが遅くなってしまう私に、彼はまたぽつりと呟いた。
「背、ちっちゃい」
え、あ。なんだ、そっちか。いつの間にか私は息を止めていたようで、安堵と共にゆっくり吐き出したそれは、まるで溜息のようになってしまった。
「や、それは涼くんが大きすぎるだけで、別に普通だと思うけど」
「でもほら、手もちっちゃい」
「えっ」
そう言って、涼くんは何を思ったかそっと右手を重ねてきたのだのだから訳が分からない。全く展開についていけず、しかし左には涼くんの手が置かれ、なおかつ背中に涼くんの体温を感じるあたり、わ、私もしかして、う、後ろから抱きしめられてるような体勢なのでは…!そんなことを考えたら爆発するかのように全身が沸騰した。悲しくなんてないはずなのになぜかじわっと滲んでくる視界に慌てて俯くと、涼くんの大きな手に包まれている自分の手が目に入ってきて、更に体温を上昇させてしまった。もう目のやり場が分からない。やっぱりこんな状況でお菓子なんて作れるはずもなかった。慌てて声を掛ける。
「あっ、りょ、涼く、な、なに…っ?」
「…うん」
答えになっていない返答を寄越す涼くんはそれきり何も言わず、相変わらずぴったりくっついてくる。背中越しに感じる彼の体温に、全身が硬直した。いやなわけじゃない、いやなわけじゃないんだけど、でも、どうしたらいいのか分からないんだ。からかっているんだろうか。私がちゃんと話を聞いてあげられなかったから、いじわるしているんだろうか。…どうしよう、ちゃんと頭が回らなくて、うまく考えられない。
「(涼くん…お願いだから、あんまりいじわるしないで…)」
本当はそう言ってしまいたかったけれど、今口を開けばきっと今にも泣きそうに絞り出された震える声になることは目に見えていたから、私は安易に彼に声を掛けることは出来ず、そのまましまいこむことしか出来なかった。だから体が爆発してしまうかのような大きな和太鼓の音が尋常ではないスピードで全身を駆け巡っていくこの状況は継続されるわけで、全く生きた心地がしない。重ねられた右手が急に熱くなった。手に力が入らないから泡立て器なんて本当は持っていられないというのに、涼くんの大きな手がその上からしっかり握ってくるものだからそれも出来そうにない。
お菓子作りなんてどうでもよくなって、今だって嬉しいのか悲しいのかよく分からない色んな感情が混ざり合って、自分のことなのに、自分がどう感じているのかさっぱり見当がつかない。いや、多分悲しくはないんだ。でもなんでか目が潤んで、思わず悟られまいと俯いてしまうんだよ。だから何も言えないんだよ。
涼くん、今何を考えてるの?なんでこんなことするの?思わせぶりなことはやめてって、私いつも思っているのに。
なんだか随分長い時間が経過したかのような感覚さえ陥ってしまう。いくら小さい頃からの知り合いとはいえ、こんなこと今まで一度もなかった。だから免疫なんて、あるはずもない。一向に何も言おうとしない涼くんに痺れを切らして、私は半ば泣きそうになりながら口を開いた。
「りょ、りょうくん……、」
予想以上に震えた声はひどく掠れていて、そういえば急に喉がカラカラになったと自覚する。動揺していますと言わんばかりの情けない自分が恥ずかしい。またこっそり下唇を噛んでいると、またぎゅっと強く手を握られる。思わずびくりと肩を震わせると、頭の上から涼くんのけろりとした声が降ってきた。
「やっぱ俺、代わるっスよ」
「…は?」
何を?また展開が分からず素っ頓狂な声を出していると、彼は相変わらずの口調で「泡立て器。大変そうだから」とへらりと言ってのけた。どうやら彼は、別に私を抱きしめようとかからかってやろうとかそういうことじゃなく、純粋に手伝おうとしてくれていたらしい。時間を掛けてじわじわと状況を把握していった私はその結論を叩き出した際、数秒のタイムラグを生じた後ボンッと全身が熱くなった。
「(わ、私!私は!なんという勘違いを…!)」
なるほどそれなら納得が!手を重ねたわけじゃなくて、泡立て器を交代しようとしてくれていたということなんですね!そ、それならそうと、もっと早く言ってくれればいいのに…!なんだか先程とは違う意味で泣きそうになりながら、「う、ううう、うん!あ、ありがとう!お願いします…!」とどもりながら慌てて涼くんの拘束を潜り抜け、秤をしまうふりをして慌てて背を向けた。まだ心臓が余韻を残すかのようにばくばく言っている。
「(あ、熱い…)」
右手でそっと自分の頬に触れてみるけれど、随分落ち着きのない温度だ。どうしよう、どうすれば普段の私に戻れるんだろう。そもそもいつもの私ってどんなんだっけ。だめだ、分からない。また考え込んでいると、後ろから咳払いをする声が聞こえてきたものだから慌てて我に返った。こんなんじゃ涼くんに怪しまれる…!慌てて秤を元あった戸棚に仕舞い込み、とりあえず歯を見せるようにしようと意気込んで振り向いた。
「あの!涼、…く……」
どうしよう、本当は笑顔で話し掛ける計画だったというのに、右手の甲で口元を抑えていた涼くんの横顔を見た瞬間それが嘘のように打ち砕かれ、勢いをなくしてしまった。なんだか彼を見ちゃいけない気がして慌てて俯く。てっきり普段どおり飄々としているんだとばかり思っていたのに。…耳まで赤くしている涼くんなんて初めてで、だからか変に意識して、何を話したらいいのかすっかり分からなくなってしまって。…だから私は多分、今日はもうまともに涼くんの顔を見れない。意識せずにはいられなくなってしまった。
「(…どうしよう)」
初めて見る涼くんの姿に思わず自分の都合のいいように期待した妄想が膨らんで、うっかり口が滑ってしまいそうになってしまった。私、ずっと前から涼くんのことがだいすきなんだよ、って。
20121126